聖夜 4
学院祭が終わってからの時間は、殊の外ゆっくりと過ぎているように、ディルクには感じられた。
――学院祭までは毎日のようにテアと練習をして……、あっと言う間に時間が過ぎていたというのにな……。
学院祭が終わってから、一週間が過ぎている。
生徒たちの間にも学院祭の名残はなく、通常の空気が戻ってきていた。
ディルクの生徒会長としての仕事も、学院祭関連のものから、これから行われる生徒会選挙関連のものへと移行している。
シューレ音楽学院生徒会役員選挙は、毎年、一月末の試験前に行われる。
十二月中旬から冬休みが始まる前までに役員立候補者は立候補届を出し、届が認められれば、冬休みが明けてから宣伝活動を行うのだ。
シューレ音楽学院は生徒の自治を重んじており、選ばれた役員によって学院の雰囲気、過ごしやすさががらりと変わるので、生徒たちも立候補者の推薦や応援には力を入れる。
過去、階級を重んじる貴族出身の生徒が生徒会長になった際には、貴族は優遇され平民は冷遇されたというような例もあった。学院側は身分平等を掲げているが、教員もほとんどが平民であるから、貴族の生徒の主張に毅然と対応するのは容易いことではなかったのだ。とはいえ結局、学院全体の雰囲気が悪くなり、その生徒会は途中で解散となったのだが。
そんな例もある中で、多数の生徒からの支持・推薦を受けて立候補し、入学してすぐに生徒会長となったのが、ディルクである。生徒会長を務めるのは四年生である、というのが慣例だが、一年目前期の時点で他生徒の注目を集め、ディルクは立候補するにいたった。さらに、彼の場合はその次の年も多くの生徒の推薦を受け、現在にいたるまで生徒会長を続けている。学院の歴史の中でも、二年連続で生徒会長に選出されたのは、ディルクが初めてだ。
生まれ持った階級で人を差別せず、誰に対しても平等で、生徒たちの意見を疎かにしない、ディルクはそんなリーダーだった。音楽の才能も誰もが認めるところであったし、真面目で成績が良く教師からの信任も厚い。ただ真面目すぎるということもなく、ユーモアも持ち合わせていて、気さくで親しみやすい。だから、誰もが彼ならばと考えたのである。彼についていきたい、と。
そのため、次の年もまたディルクを生徒会長に、という声は多い。
しかし、ディルク自身は生徒会長を辞め、新しい人間に任せることを決めていた。支持は嬉しいのだが、卒業に向けてディルクには専念したいことがあったのだ。
なので現在の彼は、新たな生徒会役員のための引き継ぎ資料の作成を主に仕事として行っている。
その日の放課後も、ディルクは泉の館で資料の整理をすると、一人寮の部屋へ帰った。
ライナルトも同じように引き継ぎ資料を作っていたが、ディルクは仕事に一段落ついたところで、ヴァイオリンの練習をしようと思ったのである。
ちなみにライナルトもディルクと同じく入学した年に副会長に就任し、同じように二年連続で副会長を務めたが、ディルクと同様に今年は選挙には出馬しない予定だった。ディルクが生徒会長にならないのならば、ライナルトが――という声もあるのだが、彼は自身に関して、ディルクのようにリーダーには向いていないと評し首を振ったのである。元々ライナルトはディルクのサポートをするため役員になったので、ディルクが辞めるというのならばそれに続くだけだった。
ライナルトはライナルトで良いリーダーになるだろうとディルクも思っていたが、ライナルトの意思に苦笑しただけで無理強いはせず、頼りになる親友がついてきてくれることを頼もしく嬉しく思うのだ。
ディルクが泉の館から外に出ると、風は冷たく手指に絡みついて、吐く息は白く変わった。
学院祭が終わると、季節は一気に冬へと移り変わったようだ。
いや、日に日に寒さは増して、冬はすぐそこに来ていたのだろうが、学院祭までの日々はどんな時よりも音楽に熱中していたから、気付いていなかっただけなのかもしれない。
ディルクは沈むのがずっと早くなった太陽を見つめながら、季節の移ろいを感じた。
寮の玄関の扉をくぐると、建物の中は冷たい風を遮断して温かく感じられる。
ディルクは部屋にヴァイオリンを取りに行こうとして、その前にとメールボックスの中身を確認した。
メールボックスの中には、封筒が一つ、ぽつりと投函されてある。
それを見た瞬間に、ディルクの顔は強張った。
上質な紙でつくられているらしい、上等な手触りのそれをディルクは手に取り、蝋で封をされたその紋章を見、くるりと返して宛名を見つめる。
そこには、「ディルク・フォン・シーレ 様」と、流麗な文字で書かれていた。
ディルクはそれを認め、封を開けることもなく、手の中でその手紙を握りつぶす。
――あの人はまだ諦めていないのか……。まだ、分からないのか……。
ディルクの胸を、急速に暗いものが包み込んだ。
その手紙の中身を確認するまでもなく、宛名を見ただけでディルクにはその内容が手に取るように分かり、やりきれない思いがした。
手紙を握りしめたまま、ディルクは部屋に戻る道ではなく、共用棟への道を選んで歩き出す。大股で足早に行くその様子は、怒りを堪えているような、そんな風に見えた。
決めていた通りにヴァイオリンを取りに行くような気分にはなれず、彼はそのまま、予約していた寮の練習室へ入っていこうとする。
防音設備の整った練習室で、叫んででもやりたい気分だった。
ディルクをそれだけ刺激するものを、この手紙は持っていたのだ。
しかし――。
「ディルク?」
その声に、はっとディルクは足を止めた。
ちょうど共用棟に足を踏み入れたところで彼が振り返ると、女子寮と共用棟を繋ぐ廊下に、テアが立っていた。
どこか気遣わしげな表情でいるテアに、ディルクは頭が冷やされていくのを感じる。
「テア……、」
「何かあったのですか? 随分と顔色が悪いような――」
「いや……」
小走りでやって来たテアの黄金の瞳に見つめられた。
胸に清々しい風が舞い込んでくるような感覚に、ディルクは深く息を吸い込んで。
「いや、何もないよ」
そう答える自分が、自然と微笑むのが分かる。
「……ですが、」
「大丈夫だ」
肩の力が抜けていくのを感じながら、ディルクはテアを安心させるように言った。
そんなにひどい顔をしてしまっていたのだろうか、とディルクはテアの心配げな顔を見て思う。
「それよりお前が今の時間にここにいるのは珍しいな。泉の館には来なかったようだし……」
「それは――」
テアはなおディルクを探るように見つめたが、追究はせず素直に答えた。
「実を言うと今の今まで、レッスンだったんです。少し疲れたので、一度部屋に戻ろうとした時にあなたを見かけて……」
「今の時間までレッスン?」
ディルクは軽く目を見張った。午後の最後の授業が終わる時間から、もう何時間か過ぎている。
エンジュはスパルタだが、今の時期にそこまでレッスンをするだろうか。
「コンクールに参加でもするのか? またリサイタルがあるとか……」
「いいえ、そうではなくて……。その、今日見てもらったのはサイガ先生ではなくて、他の先生だったんです。忙しい方で、いつものレッスンの時間では無理だったのと、……今だけ、ということで、その分やれることを詰め込むようにやっていたらこんな時間に」
それだけでは説明が不足していることは分かっていたので、テアは続けた。
「実は、学院祭がきっかけで、コンサートを聴いて下さったサイガ先生の知り合いのピアニストの方々にも少しですがレッスンをしてもらうことになったんです。サイガ先生が今演奏会中で留守にしていて、それもあって……」
「……なるほど」
異例のことに、ディルクは驚きながらも頷いた。
「それは確かに良い経験にも勉強にもなるだろうな――」
だが、これを他の生徒が知ればまたどんなことを言われるだろうかとディルクは思う。
テアだけ特別扱いではないか、と言われてもおかしくないところだ。だが、学院側はこれを許可したらしい。
「ちなみに、誰が来ているのかは、俺が聞いてもいいのか?」
「それは、もちろん。特に秘密の話というわけではないですから。……個人的には、あまり大々的にしてほしくはありませんが」
テアは耳打ちするように、数人の名をディルクに教えた。
その名に、ディルクは唸りたくなるような気持ちがする。
いずれもピアニストとして名を馳せている人たちだったからだ。
「相手方が、指導役を買って出た……のか」
テアは答えづらそうに、言葉を濁しながら答える。
「サイガ先生の話だと……、そういうことらしい、です……。どうも学院長先生が許可した……というより断れなかったのは、そのせいみたいで……。今後も学院に協力してもらえるようにということもあるんじゃないかと……」
テア自身、釈然としなかったり、いいのかと悩んでいる様子だ。
おそらく彼女は、どうして自分にと思っているのだろう、とディルクは推測する。
しかし、指導者に立候補したピアニストたちの気持ちは、ディルクには良く分かった。
テアは磨きたくなる原石なのだ。今でもその音色には驚かされるが、おそらく彼女はこれからも伸びていくだろう。テアはそんな可能性を感じさせるのだ。引き付けられずにはおれないのだ。
学院祭コンサートでテアの演奏を聴いた生徒たちも、彼女の実力に関して、今度こそ認めざるを得なくなったようである。
ディルクがいたからだ、エンジュが教師なのだから当然だ、あの時がたまたま良く聴こえただけだ、とそんな悔し紛れの台詞を吐く者たちもいるようだったが、素直に認められずとも、内心では彼らも本当は分かっているはずだ。
あの音は彼女の努力の結果であり、実力であると。
ディルクはそんなパートナーを見つめ、手の中にいまだ握ったままの手紙の存在を感じながら、切り出した。
「テア」
何となく改まったディルクを、テアは不思議そうに見上げる。
「疲れているとは分かっているのだが……、良ければ一曲何か聴かせてくれないか?」
ディルクが上の階の練習室を指すようにして頼むと、一瞬きょとんとした表情を見せて、次にテアは破顔した。
「はい、喜んで」