聖夜 2
「テア、おはよう」
振替休日も終わり、授業が再開するその朝。
授業前、講義室の一席に座って本を開いていたテアは、友人の声に顔を上げた。
「おはようございます、フリッツ」
微笑むテアを意識しながら、フリッツはその隣の席に腰を下ろす。
「学院祭、あっという間だったね。もう普通に授業なんて……。あ、コンサートでのディルクさんとの演奏、聴いたよ! すごかった!」
「ありがとうございます……」
興奮気味に感想をくれるフリッツに、テアははにかんだ。
「新聞にもディルクさんのこととか書いてあったしね。もう読んだ?」
「ええ」
学院祭のことが記事になっていたのをテアが読んだのは、昨日のことだ。
昨日の午前中、仲間たちと和気藹藹と過ごした後、ディルクと二人で図書館に行った際に目にしたのである。
皇族であることを放棄したとはいえ、いや、もしかしたらその事実があるからこそ、ディルクやライナルトはマスコミのかっこうのネタのようで、二人の名は記事の中で大きく取り上げられていた。学院祭の目玉であるコンサートでの演奏は特に絶賛されており、テアは嬉しいような複雑な気持ちになったものだ。
「もしかしたら、ディルクさんのパートナーだし、テアの名前も載るんじゃないかと思ってたんだけど……」
「そんな」
フリッツの言葉にテアは苦笑して首を振った。
しかし、フリッツは続ける。
「記事に載るってことはすごいチャンスなんだよ。多くの人の目に留まるようにしなきゃ、これから生き残っていけない……。ディルクさんのことが取り上げられているんだから、テアもなんで載ってないんだくらいの気持ちでいないと」
「はぁ……」
それは確かにそうだ。テアはフリッツの忠告に複雑な気持ちで頷いた。
これからピアノを続けて、ピアノで生きていこうとするのなら、記事に名前がなかったことに対し安堵していてはいけないのだろう。
だが、これまで逃げ隠れる生活を送ってきたテアだから、目立つことは歓迎する気になれないのだった。
しかし、特にマスコミというものは、ゴシップやスキャンダルに飢えている。
今回のことで、ディルクのパートナーであるテアは、彼らに調べられているかもしれない……。
――けれど、今回ディルクのことはあれだけ書いてありながらパートナーについてほとんど何も言及がなかったのは、学院長や……あの方が動いてくれたのでしょうね……。
束の間、瞳に硬い色を見せ、テアは考える。
――このまま、ずっと守ってもらうわけにはいかない。これからのことを、よく考えておかなくては……。
「……と言っても、僕も人のことは言えないけど……。来年は僕ももっと腕を上げて参加したいよ。それで、たくさんの人や……、ロベルト・ベーレンスみたいな人に僕の演奏を聴いてもらいたい」
そんなフリッツの切望の言葉に、テアは一瞬の物思いを思考の端に沈めて微笑んだ。
「フリッツはその思いでずっと努力を続けていますから……、遠からずきっと叶いますよ」
「そうだといいんだけど……。この間も僕は演奏しないのに、コンサートの客席で憧れのあの人とか、あの人とか見つけちゃって、それだけで緊張しちゃったんだ。おかげでサインももらえなかった」
ぼやくフリッツは、本人が聞いたら気を悪くするだろうから口には出さないが、何だか可愛い感じがして、テアはくすりと笑った。
「ロベルトとか、結構近くの席に座ってたんだけどなぁ……」
その言葉に、テアはわずかにどきりとした。
「それは……、良かったですね。直に見るロベルト・ベーレンスはどうでしたか?」
「笑うと気さくな感じで、でも演奏はすごく真剣な顔で聴いてたよ。今回、彼がスカウトしたいっていうような生徒がいたのかな、学院長と話したりしてた。テアは何か声をかけられたりしなかった?」
テアはゆっくりと首を振る。
「そっか……。それにしても、やっぱり、かっこよかったなぁ……。あの人が学院で色んなことをしたのは伝説みたいになってるけど、本当の話なのか本人に聞きたくなったよ」
「それはローゼも確かめたいと言っていました。私が詳しい話を聞いたのはつい最近のことですけど、すごかったようですね」
「うん。とある音楽家に喧嘩を吹っ掛けてどれくらい演奏が続けられるかの耐久レースをしたとか……、寮に動物を連れ込んで歌を教えようとしていたとか……、信じられないような話がいくつもいくつも……。一方で、音楽に関しては誰にも負けない、誰とも一線を画した才能を持っていたんだ」
憧れの眼差しでフリッツは言った。
自分の周りにロベルト・ベーレンスを悪く言う人間がいないことに、テアは安堵を覚える。
この学院において彼は複雑な存在だ。自分の楽団をつくり、現在活躍している点を見れば大きな功績者であるが、宮廷楽団の誘いを断ったという事実が一方ではある。
この学院設立の第一の目的は、宮廷楽団で活躍できるような人材を育成することであるから、その目的からすれば彼は裏切り者であり、異端者だ。
だが、宮廷楽団を目指しているはずのフリッツであっても、ロベルト・ベーレンスに対する憧れは篤いようで、テアにはそのことが誇らしく感じられるのだった。
「……フリッツ、実を言うと私、今度のロベルト・ベーレンス楽団の演奏会のチケットをいただいたんです。ローゼたちと皆で一緒に行きませんか? 十二月二十三日なんですが、都合がよろしければ……」
「えっ!」
フリッツは目を丸くした。
「ロベルトの? コンサート?」
「はい」
「ほんとに!? ほんとのほんとのほんとに!?」
「はい」
出会ってから今までで最も興奮しているであろう、フリッツの反応だった。
意外そうに、ちらちらとこちらを見てくる生徒たちまでいる。
「すごいね。ロベルトのチケットって言ったら、売りに出した途端にソールドアウトしてしまうようなものだっていうのに! 僕もまだ一度しか聴きに行けたことがないんだ!」
フリッツはまるで奇跡と言わんばかりで、少々大げさだとテアは思ったが苦笑に止めた。
「ちょっと待って、今予定を確認するから……」
フリッツは鞄をごそごそ言わせて手帳を取り出し、じっと眺めているうちに、絶望的な顔つきになった。
「何か予定がありましたか?」
「うん……。二十四日が神誕祭だから、その関係で家に戻ってこいって言われてたんだ…。……テア、ちょっと予定がずらせないか聞いてみるから、返事は保留にしてもらっていいかな」
「はい。私の方は、返事はいつでも構いませんよ。他に誘いたい人は特にはいませんし…」
「ごめん……」
「謝らないでください。それに、もし今回は駄目になっても、また次の機会にチケットをいただけるかもしれませんから」
肩を落とすフリッツにテアはそう言って慰めた。
「うん、ありがとう……。それにしても、ロベルトの演奏会のチケットをくれるなんて、誰か知らないけどすごいね。一枚買うのも大変なのに……」
その言葉に、テアが返事をしようとした時だった。
講義の始まりを告げる鐘が鳴る。
講義室に教師が入って来て、テアもフリッツも口を閉じ、前を向いたのだった。
「ようテア」
「あの……、」
レッスンの時間である。
早めに練習室に入りエンジュが来るのを待っていたテアだが、後から練習室にやってきた彼に頭をぐりぐりと撫でられ、閉口した。
「なんなんですか……」
「……労い?」
「疑問形なのはどうしてですか……」
ははっ、と軽くエンジュは笑って、テアの頭を撫でるのを止める。
「いや、お前らの演奏、教師陣の間でも評判でなー。俺も鼻が高いっていうもんだ」
「それなら良かったです……」
今日はどんなお叱りを受けるだろうかと心構えしてきたテアは、少し拍子抜けしたような気分を味わった。もちろん、満足できる演奏はしたが――それでも課題が残っていることは分かっている。
「まあ今回は、お前らだけじゃなく全体としていつもより聴き応えがあったがな。学院長も生徒たちが成長したって泣いて喜んでたぜ。とはいえ、院長先生の功績っつうよりは……」
意味深にエンジュは笑い、テアはそれに曖昧な笑みを返すしかない。
「ま、いいもん聴けんなら理由はどうでもいいけどな。うん、お前らの演奏、良かったぜ。敢えて問題点を言うならな――」
と、エンジュはつらつらと批評し始める。
延々と続くそれを真面目に聞きつつ、テアは真剣に疑問に思った。
――ほ、本当に良かったと思って聴いていただけたのでしょうか……?
「そんな感じで、今回はあんまり厳しいことは言わないでおいてやる。ディルクとも反省はしてるだろうしな」
確かにいつもより厳しくなかったが、それはもっと厳しいことを言いたいのに我慢しているということだろうか。
テアは自信を喪失しそうになりながら、何とか「ありがとうございます……」と言った。
「で、これからのレッスンだが……、正直ちょっと迷ってるんだよな」
「え……」
エンジュは顎に手を当て、思案するそぶりで続ける。
「一月に試験があるから、その対策はしないとまずいだろ。けどそれだけじゃつまらんから、春にあるコンクールにでも参加してみるのもいいかと思ってな」
「コンクール、ですか」
「やっぱ俺の弟子っつうなら、賞の一つや二つは当然とっといてもらわないとな。お前のことなめくさってる奴らも、今回のことで考えを変えたかもしれんが、一度の成功だけじゃまだ弱いだろうし、ディルクもいたからな」
「はぁ……」
「お前としてはどうよ。コンクールに出たいと思うか?」
「それは、出られるのなら、出たいです、けど」
正直なところを述べて、テアは逡巡した。
もし万が一コンクールに出場して、賞をとれるようなことがあったとする。
その時には、おそらく、余計な詮索を受けることになるだろう――。
フリッツにも指摘され、考えなければならないと思っていたことが、早くもまた姿を現した。
難しく考えすぎかとも思う。おそらく秘められた事実に辿り着くことは困難なはずだ。
しかし……。
そんなテアの様子を見、エンジュは言った。
「ま、今すぐに決めろとは言わない。でもお前、これからずっとピアノを続けていくつもりなんだろ」
「はい……」
「それなら、いつかは腹をくくらなきゃならない。コンクールは大きなチャンスだからな。俺が待つのは、夏までだ。夏には絶対コンクールに出ることになるから、それは今から覚悟しとけ」
「は、はい」
夏には、コンクール、とテアは心に刻みつけた。
「じゃあコンクールについては保留として……。実を言うとな、学院祭に来てたやつらからお前のことを紹介しろって言われててな」
「え?」
「しばらくそいつらに来てもらって、皆に見てもらうことにしたから。いいな」
いいか、と尋ねるのではなく、いいな、という決定事項の確認である。テアに拒否権はないらしい。
「俺も演奏会があって、少しの間来られなくなる。自主練させとくかと思ってたんだが、タイミング良く名乗り上げてくれたからな、ちょうどいい」
利用できるものは利用してやろうと言わんばかりの、人の悪い笑みが師の口元に浮かぶのを、テアは目撃した。
しかしそれも一瞬のことで、エンジュは真面目くさった顔で続ける。
「他の奴に見てもらえるのも良い勉強になるだろうさ。癪だが、俺が逃してることもあるだろうしな。色んなこと言われ過ぎて逆に混乱するかもしれんが、基本的には俺の方針で進めるから、安心しろ。ついでに、学院長の許可はもうもらってる」
「……分かりました……」
唖然としつつ、テアは頷くしかない。
「学院祭の時にな、お前らの弟子の何倍も美人で見込みがあるだろうと言いまくってたら、まぐれかもしれんからもう一度聴かせろとかお前だけに良い思いさせるかとか言われちまってなー。ま、頑張れ」
「……」
他人事のようにからりと笑うエンジュに、テアは返す言葉が見つからなかった。