重奏 14
学院祭における全てのイベント・出店が終わり、後夜祭が始まった。
空は闇を纏い、星々がその闇の中で瞬いている。
管弦楽サークルが最後を賑わす曲を奏で、人々は後夜祭会場である広場でくるくると楽しそうに、祭りの名残を惜しむように、舞っていた。
テアは一人、その踊りの輪に入っていくでもなく、楽しそうな人々を眺め目を細める。
――本当に、終わってしまうのだ……。
学院祭のコンサートのため、ディルクとこれまでずっと練習を重ねてきた。
けれどこれからはそれもなくなってしまう。
きっとまた新しいことが始まるだろう――、と思うのだが、名残惜しさは尽きなかった。
――あのような演奏を、またできるだろうか……。あの方と過ごす時間は……、
そんなことを思って、テアは首を振った。
――いえ、これまで私はあの方の隣にいすぎた……。あの方を慕う人は多くいるのだから、例えパートナーといえどこれ以上私がディルクと多くの時間を過ごしたいと思うのは、欲張りというものでしょう。ですが、せめてパートナーでいられる期間だけは、共に演奏をしていたい……。
ディルクとの演奏は、まるできらきらとした、温かい何かに包まれているかのようで。
感情は高ぶり、それでいていつになく穏やかで、満たされて。
だから何度でも、いつでも、いつまででも、ディルクと演奏していたいのだ。
「テア」
テアがそんなことを考えてぼんやりしていると、横から声をかけられた。
知った声に、彼女はゆっくりと身体の向きを声のした方へ向ける。
「学院長……先生」
学院長は、穏やかな微笑みを浮かべ、テアを見ている。
「踊らないのか?」
「あまりダンスは……、得意ではなくて」
「それは残念だ。私も、もう少し時間があって、もう少し若ければ君を誘いたいところなんだが……」
一瞬、にやりとして見せて学院長はそう嘯き、続ける。
「……今日の演奏は、リサイタルとはまた違っていてとても良かった。テア、君には、感謝しなければならないな」
「感謝?」
テアはきょとんとする。
「君の存在は生徒たちの実力の底上げに一役買っていた。ディルクもそうだが……。君にとっては苦労も多く、今日のようなことがあった後でこんな風に言っては文句の一つや二つ甘んじて受けなければならないだろうが、一教師として本当にありがたいと思っている」
「……もしかして、」
テアは昼のディルクとライナルトのやりとりを思い出し、その意味が分かって瞠目した。
「いえ、でも、そんな、私なんて、何も……」
「謙遜することはない。良い意味でも悪い意味でも君が注目されているのは事実だ。何より、今日のコンサートも、聴衆を満足させたのは君の実力以外の何者でもない」
「注目……、ですか」
それは、以前のテアにとっては遠慮どころか拒否したい言葉であり、今のテアにとっても戸惑うしかないような言葉だった。
事情を知っている学院長は、テアの困惑が分かって苦笑する。
「そう、それで、君の演奏に甚く感動した男からファン・レターを預かってきた」
「え……」
「受け取ってくれ」
テアは差し出された封筒を見つめ、受け取ろうとして先に、周りをきょろきょろと見渡した。
「……こんな中だ、誰も気にすまい。コンサートで気に入った生徒に音楽家たちが手紙を送るのはそうないことでもないし、名前を出さなければ問題ないだろう」
「……すみません、気にし過ぎてしまうようで……。ありがとうございます」
テアは大切そうにその手紙を受け取った。
学院長は誰からの手紙だとはっきり言わなかったが、テアにはその送り主が誰か、分かりすぎるほどに分かっていた。
「あいつも、会って自分の口から伝えたかっただろうが……」
「いいえ」
テアは首を振った。
「万一のことを考えれば……、私とおじさんのことは、書類上のことだけということにしておかなければなりませんから……、仕方ありません」
きっぱりと言うテアの瞳は強い。
――全く、お前たちときたら……。
学院長は会いたい思いを我慢する後見人と被後見人の健気さに、切なさを覚える。
「……では、私もそろそろ仕事に戻ろう。お偉方に挨拶をして回らないといけない。全く、私もあいつについていければ、いっそ楽だと思うよ」
テアはそのぼやきにくすりと笑って、もう一度感謝の言葉を告げた。
「本当にありがとうございました。わざわざ来て下さって……」
「いや。君もしばらく忙しく、疲れも溜まっているだろう。今夜はゆっくり休みなさい」
「はい」
気安く手を振って去っていく学院長を見送り、テアは手の中に残された手紙を見つめた。
「あしながおじさん」からの手紙を。
約束してくれた通り、彼はテアの演奏を聴きに来てくれたのだ。
テアは広場の隅に設置されたベンチまで移動し、腰かけた。
音楽から遠ざかり、人のざわめきもまた、遠くなる。
部屋でゆっくり開封しても良かったが、何となく帰る気にもなれず、テアはそっとその場で封を開けた。
丁寧に、読みなれた字を辿っていく。
そして、ある箇所で、テアは唇を震わせた。
何より今日の演奏には……、
とても……、そう、とても、胸を熱くさせられました。
君を見つけることができて良かったと、何度となく、そう思っています。
君の母上も、君の近くで大層喜んでいるはずです。
こんな立派な娘に成長してくれたことを、
誰よりも嬉しく誇らしく思っているでしょう。
君を見つけた私がそれを強く実感しているのだから、間違いありません。
これからも、君の母上と共に、君を応援し続けています。
「……ぁ、」
不意にこみ上げるものがあって、テアは口元を覆った。
涙が一筋、頬を伝い落ちる。
温かい言葉が、テアの胸にそっと落ちて、彼女の心を満たした。
これほどまでに、テアの胸に響く言葉を選べるのは、おそらく「あしながおじさん」だけだろう。
――私の方こそ、あなたで良かった……。けれど、それも当然なのでしょうか……。何故なら、あなたは――
その時、胸の呟きさえかき消してしまうような大きな音が夜空に響いた。
夜空に大きく広がった光は、花火だ。
テアは涙が流れ落ちるのもそのまま、その次々と打ち上がる花火を見上げる。
その手に、何よりも大切な手紙を握りしめて。
後夜祭にて生徒会長挨拶を終えたディルクは、踊りの輪から少し離れ、テアを探していた。
挨拶を終え、広場に特設されたステージから降りてしばらくはその後の進行を見守っていたのだが、ダンスの音楽が本格的に流れ始めて、後は学院祭実行委員に全て任せておけばいいだろうとその場を離れたのである。
あれから結局、テアを閉じ込めた女性を見つけることはかなわなかった。どうやら学院の外に逃げてしまったようである。
教師及び生徒の誰かがいなくなったという報告もなく、学内に似たような人間も見つからなかったということはつまり、実行犯は学内の人間ではないのだろう。
だが目撃証言はいくつか得られており、地道な調査を進めていけば該当する人間を見つけることができるかもしれない。
一方、鍵の入手などは学内の人間でなければできないことである。つまり、犯人は複数いる、ということだ。
実行犯に関しては、おそらく今後学外者が学内に入ることは基本的に不可能であり、顔も分かっているので、再びテアにどうこうすることは難しい。
問題は学内に潜む共犯者である。共犯者が単数か複数かは分からないが、共犯者の正体も一向に分かっていないということは、テアに対する危険はいまだに去っていないということと同義。
今回は閉じ込められただけで済んだが、もっと悪いことになる可能性もある。
そのためディルクは早い内に犯人を捕らえたく、また犯人が捕まらぬ内はなるべくテアの側にいて、彼女を守りたかった。
だが、少なくともこんな風に人が多く集まっている場所で無体なことはできないだろう。警備の目もある。
それでも何となく落ち着かず、ディルクはテアを探した。
ディルクをダンスに誘いたい女性たちは、そんな彼を熱い視線で見つめていたのだが、ディルクはいつものことと、受け流す。
先ほどすれ違ったライナルトは、『テアならば近くで見ていると言っていたぞ』と伝えてくれたので、おそらく近くにいるはずなのだがと、ディルクは視線をあちこちに走らせて――。
ようやく、テアの姿をその瞳に映し出した。
ディルクはそれに、ほっとする。
次の瞬間、ディルクの背後で大きく花火の音がした。
打ち上げ花火だ。
ディルクは振り返るように空を見上げ、その光のきらめきに一瞬、見入る。
花火は、この学院祭の見どころの一つである。大きな花火が五十発近く打ち上げられるというのは、なかなか他でもないことなのだ。
しかし、今は、とディルクは視線を地上に下ろす。
もう一度、テアに目を向けて……、彼は言葉を失った。
テアの瞳に涙が浮かんでいるのを、間違いようもなく、彼は認めたのだ。
けれどそれは、悲しみの涙ではないようだった。
ディルクにそれが分かったのは、テアが微笑を浮かべていたからだ。
それは、とても美しい涙だった。
それは、とても美しい表情だった。
けれどそれは同時に、寂しげにも見え……。
その美しい光景に、ディルクは動けなかった。
そこに、誰一人として入り込んではならないような、錯覚。
それを覚えながらも、ディルクはテアに一人で泣いてほしくないと思った。
それが悲しみの涙であっても、喜びの涙であっても、分かち合いたい。
どうして泣いているのか、いや、それだけでなく、テアのことが知りたい。
彼女のそばへ、もっと近付いて、全てを、分かりあいたい。
誰にも奪われたくない。
失いたくない……。
「テア……」
――俺は、彼女のことが……。
ずっと胸にあった強い想いの正体を、ディルクはようやく自覚する。
――俺は、彼女のことが、これほどまでに好き……なのか。
その言葉は、想いは、花火の音にもかき消されないほど強く、ディルクの心に響いた。
――そうだ、俺は……、テアを……、愛して……。
ディルクは自覚してさらに溢れてくる想いに、ただひたすらテアを見つめ、そこに立ち尽くしていた。