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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第4楽章
30/135

重奏 13



テアは、鍵盤から手を離し、ディルクは、弓を持った手を静かに下ろした。

束の間――静かに、二人は互いを見つめ合う。

――終わってしまった……?

それが二人とも、どこか信じられなくて。

けれど、やりきったのだという満足感はあって。

やがて音を立てずにテアは立ち上がり、ディルクと揃って、丁寧に礼をした。

拍手はない。

だが、それは気にならなかった。

聴いてくれた、そのことに感謝して下げた頭を、テアはゆっくりと上げていく。

テアが舞台袖に戻る背にディルクも続いて、二人はステージの上から姿を消した。

途端――。

割れんばかりの喝采が、二人の後ろを追いかけてきた。

二人の姿がなくなってようやく、客たちは我に返ったかのようだった。

舞台袖でも、茫然とした顔を晒す生徒たちが、客席の拍手につられるようにして手を叩き二人を迎える。

そんな周りの反応を意識するより先に――。

へたり、とテアは舞台袖に入って何歩か歩いて後、床にしゃがみこんでしまった。

「テア……!?」

曲の余韻を感じていたディルクもそれには驚いて、慌ててテアに駆け寄る。

「大丈夫か!?」

「はい……」

テアは弱々しく頷いて、わずかに潤んだ瞳で、顔を覗き込んでくるディルクに答えた。

「すみません、緊張の糸が切れたら何だか……、力が入らなくなってしまって……」

恥じ入るようにテアは俯く。

先ほどの事件の余波が今、と悪い方へと考えてしまったディルクはそれを否定されて安堵し、テアの細い肩を包むように、そっと大きな手のひらを置いた。

「……お前のピアノは素晴らしかった。今日のような演奏ができたのはお前のおかげだ。ありがとう」

「いいえ、そんな」

テアは首を振る。

「私の方こそ、あなたがいてくださったから……、心強くて、楽しくて――」

その言葉は、ディルクの胸を熱くするものだった。

「そう言ってもらえると、俺も嬉しい。……だがやはり、お前がいなければあの曲は演奏できなかった。お前が……、あの音を引き出してくれたんだ」

「ディルク……」

それは自分には過ぎた言葉だとテアは思った。

けれどディルクの瞳は真摯にテアを見つめてくれていて、テアは穏やかに微笑む。

「ありがとう、ございます……」

その控えめだが美しい微笑に、ディルクは心を奪われた。






テアとディルクの演奏が終わり、その後も順調にコンサートは進んでいった。

裏ではテアが閉じ込められた事件もあったわけだが、ほとんどの人間はそんなことがあったとは知らない。

学院祭コンサートはそうして今年も、無事に終わりを迎えようとしていた。

「……今年のコンサートはいつにも増してレベルが高かったな」

深く座席に凭れ、テアの「あしながおじさん」は呟いた。

その手にペンが握られているのは、先ほどまで彼がテアへの手紙をしたためていたからだ。

テアとディルクの演奏を聴き、彼はペンを走らせずにはいられなかったのである。

手紙も書き終え、コンサートも終わってしまって、彼が座席に深く凭れるのに、隣に座る学院長マテウスはからかうように笑う。

「その中でも自分の『娘』が一番だと言いたいんだろう」

「贔屓目でなく、な」

真面目に「あしながおじさん」は答えた。

「お前も、だからこそあの子の入学を許したんだろう」

「お前より人を見る目には自信があるからな」

学院長は意味深に微笑む。

「……今回のコンサート、どうしてここまで生徒が成長を見せたと思う」

「お前の教育成果が表れたとでも言いたいのか?」

「それもあるだろう」

いけしゃあしゃあと学院長は言ってのけた。

「だが大きかったのは彼らの力だ。テアとディルク……」

「……」

「多くのコンクールで賞を受賞し、誰よりも腕のあるヴァイオリニスト――ディルクが参加するということで、誰しもが彼と比べられることを考えただろう。自分が劣っているなどという評価を受けたくはない」

「それで生徒たちは普段に増して力を入れて練習に取り組んだと」

「その上、テアの存在があった。ディルクに負けるならまだ当然と諦めがつくかもしれない。だが、不正入学したやら色々と噂の飛び交っているテアには誰もが負けたくない。彼女を侮る向きもあるが、エンジュ・サイガのリサイタルの件もあるからな」

むっ、と「あしながおじさん」は顔を顰めた。

テアは手紙に書いてくれないものの、初めての学校生活で彼女が苦労していることを、彼は学院長から聞いて知っていた。

彼もこの学院の出身者だ。テアが一体どういう目で見られるのか、予想はつけていたのであるが、だからといって大切に思う被後見人が冷たい目で見られているのを、寛容に受け止められるはずがない。

「今回のコンサートの演奏の水準が高かったのは、そういう理由から生徒たちがより一層練習に熱意を込めたからだろう。……しかし、テアはこれからまた苦労するな」

「生徒たちはあの子の実力を認めさらに妬むか」

「それより何より……、今日の演奏を聴いた人々は彼女の素性を明らかにしようとするだろう。記者もいたようだしな」

「それが最も厄介なことだな……」

彼は嘆息した。

「情報が漏れることはほとんどないだろうがな。アウグストは周到だ」

「それでも、人々の好奇がどう動くのか、俺は心配だ」

難しい顔で彼は呟く。

「……時折思う。全てを世間に晒した方が良いのではないかと……。そうすれば、あの子も張り詰めた生活を送らずに済む……」

「それには同意するが、問題はどのような形でそれを成すかだな」

「実を言うと少々考えていることがある。彼女とも少し話はした……。だが、実行に移す機会が難しい。何より、それをした後の騒動が厄介だ。一番辛い思いをしてきたのは彼女なのに、また大きな困難に立ち向かわなければならないとは……」

彼は深刻に眉を寄せたが、やがてそっと溜め息を吐いた。

「いや、今はそれについて深く考えるのは止めにしておこう。とにもかくにも、今日は彼女の演奏を聴くことができて良かった。大変なことは多かったのだろうが、元気そうでとても安心したよ」

コンサートの司会者が終わりの言葉を述べて後、今は客の大半がコンサートホールから出て行ってしまっている。

その中で彼は緞帳の下りたステージを見つめて微笑み、手紙の入った封筒を学院長に差し出した。

「すまないが、また彼女に渡してもらえないか。素晴らしい演奏をありがとう、と」

「本当に、会っていかなくていいのか?」

「会いたいが……、ここで目立った真似をするわけにもいかないからな。仕方がない」

心から残念そうに彼は言った。

「頼むよ」

「ああ」

立ち上がり背を向けたその背を見送り、学院長は受け取った手紙に目を向けた。

――おそらく彼女も、諦めたように笑うのだろうな。仕方がない、と……。






――どうして、

エッダ・フォン・オイレンベルクは、コンサートホールの裏手で一人、顔を蒼くしていた。

テア・ベーレンスはコンサートに出ずに終わる――。

そうなる、はずだった。

何故ならエッダこそが、テアをディルクと並び立たせないよう、計画したのだから。

取り巻きの貴族に計画を吹き込み、テアを一室に閉じ込めさせた。

そして、テアとディルクの演奏の順番が訪れる頃合いを見計らって彼女を解放する。

テアがいなければ、ディルクは次の演奏者にステージを譲るだろう。

次の演奏者の演奏が始まる頃、ようやく姿を現したテアを見て、ディルクが、周りの人間が何と思うか――。

テアには悪い噂がいくつもある。多くの人間が、彼女はステージに立つことに尻込みして逃げたのだと、悪い方に捉えるだろう。

客席には有名な音楽家が何人も見られた。エンジュ・サイガのリサイタルで演奏したとはいえ、他に経験のないテアが臆病風に吹かれて逃げたとしてもおかしくはない。

生徒たちはテアがステージに立つことを拒み姿を隠したのだと思い、彼女はやはりディルクにはふさわしくなかったと、声高に言うだろう。

そうすれば、ディルクも考えを改めてくれるかもしれない……。

エッダはそう考えていた。

実際のところ、この思いつきを実行に移すべきか否か、彼女も迷ったのだ。

この計画は、成功すれば、ディルクがコンサートで演奏することを邪魔してしまう。彼に恥をかかせてしまうものである。

また成功しても失敗しても、学院祭実行委員は容疑者として怪しまれることになる。

逃げたのだろうと周りが噂するにしろ、テアは閉じ込められたことを主張するだろうし、同時に彼女を閉じ込めた人間が実行委員の腕章をしていたことを証言するはずだ。

実際には実行犯は外部の者であるから、実行委員を全員調べても犯人まで辿り着くのは容易ではない。

だが、このためにコンサートホールの一室の鍵を周到に用意しておく必要があった。これは学内の人間にしかできないことだ。当然のこととして、実行委員ではない誰かに実行犯をやらせた、共犯者もしくは黒幕が学内にいるという推理が成り立つ。

この時、最も鍵を手に入れやすく、腕章の入手も容易であり、そのように用意周到に計画を準備できる人間として、筆頭に挙げられるのは実行委員である。

不安は大きかったが、それでもエッダはディルクからテアを引き離したく、計画実行の後押しをした。

エッダは直接命じたわけではなく、近しい貴族をほんの少し唆しただけだ。だから、テアを閉じ込めたのはお前だろうと、指を差されることはおそらくない。

テアを疑う生徒たちが多ければ、テアが閉じ込められたことを主張しても、調べられることすらないかもしれない。貴族も多く在籍するこの学院で、彼らも容疑者に含めた犯人捜しなど、学院側もやりたくないだろう。

そういった考えから、計画は実行された。

だが……、テア・ベーレンスは自力で脱出を果たし、間に合う時刻に舞台袖に現れた。

外側から鍵がかけられ、うち破られたドアの残骸を見て、彼女が遅れた理由をわざわざ疑う人間はいないだろう。

計画は失敗に終わってしまったのだ。

そして、脱出したテアに、ディルクは――。

ステージ裏で起こった出来事を思い出してしまい、エッダは片手で口を覆った。

彼女にとってあの一連の出来事は、あまりにも直視したくないものだった。

――ディルク様があのように声を上げて……、しかもあの平民を……、抱きしめる、だなんて……。

ディルクの優しさは誰もが認めるところである。

テアでなくとも、ディルクのパートナーでなくとも、誰かがあのような状況に陥ることがあれば、ディルクは心配し、手を尽くすだろう。

しかし、それでも、彼が誰に対してもあそこまでの焦りを見せることがあるのだろうか。

ディルクがあのように鋭い眼をして声を荒げたところなど、エッダは初めて見た。

学院祭の準備中、実行委員の失敗にもピリピリしたところを見せなかったのに。

学院祭で起こった揉め事にも、感情的にならずいつも冷静に対処していたのに。

それなのに彼は、テアが消えたと聞いた途端に顔色を大きく変えた。

何より、テアが現れた時に浮かべた、ディルクの笑顔は、あまりにも……あまりにも、眩しく、優しすぎて。

――まさか、ディルク様……?

彼女にとっては、どうしても認めたくない考えが頭に浮かぶ。

もしその推量が当たっているのなら。

――ますます、テア・ベーレンスをこのままにしておくわけにはいかない……。

先ほどの演奏も、そうだ。

確かに彼女のピアノが一定のレベルであるということは、認めざるを得なかった。

しかし、それはディルクがいたからではないか。

ディルクがいたから、あそこまでの演奏ができたのだ。

それは彼女の力ではない。

誤った認識で、彼女がディルクのパートナーにふさわしいなどと思う輩が増えるかもしれないが、そんなことは断じて許されない。

――ディルク様にふさわしいのは、この私。

ディルクの隣、あの場所に本来いるはずだったのは、このエッダ・フォン・オイレンベルクだ。

エッダは強く、拳を握って、思う。

過ちを、早く正さなくては――。




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