学院 2
早速始まった授業は、テアにとって興味深いものだった。
本や、母や大人たちから何かを教えられることは多かったが、教師が一人教壇に立って、大勢の生徒がその話を聞く、というスタイルは初めてのことだ。その中に自分が混ざっているのは、何だか不思議な気がした。
最初の授業、というだけあって、話は本当に基本的なことだけで終わり、テアにとっても、内容的にはそう目新しいものはなかった。読書家でもある彼女は、ここに入学するまでに多くの本を読み知識を身につけていたから、自覚はないにしろ、他の生徒たちより知識量は実は多かったのである。
ひとまず授業の内容についていけそうだということに、テアは安堵を覚えた。
一方、周りの生徒の様子に、わずかばかり気落ちする。
広い講義室の中、決まった席はなく、生徒たちは皆思い思いの席に腰を落ち着けているが、テアはどうも遠巻きにされている。
コンクールの常連のような生徒たちはそうした者同士で既に交流があるようだし、専門学校を経て入学した生徒たちは、その時からの友人同士で集まって座っていたりするので、テアはどうしても孤立してしまっていた。
テアも人見知りする方なので、同級生たちに積極的に話しかけるのは躊躇われる。
テアの事情を知っている教師たちも、やや困惑している部分があるようだった。
ほとんどの生徒たちは今までも学校に行ったり家庭教師に習うなどして教育を受けてきているが、テアには基本的にはそれがない。
もちろん、試験を通っており必要な知識は身につけているのだが、他の生徒とすべて同様に扱って良いのか、迷うところがあるのだろう。
――まだ、一日目ですから……。
これからどうなるか分からない、とテアは前向きに考えるようにした。
頑張っていれば、認めてくれる人はきっといるだろう、と。
そうして――。
午前中最後の授業で、テアは困ったことになったと思った。
社交界での嗜みである、ダンスの授業である。
音楽とも関わりが深いというので必修科目になっているのだが、テアは、ダンスができないのだ。
しかも、ペアをつくって、という教師の言葉。
誰がテアとペアを組んでくれるだろうか。
話しかけようとしても男子生徒はさっさと他の女子生徒の方へ行ってしまい、相手など見つかりそうにない。
どうしよう、とテアが立ち尽くした時だ。
ダンスホールの隅で、あの、と控えめな声がかかった。
ふと視線を挙げると、柔和な顔立ちの青年がテアに近づいて来ている。
昨日の入学式で近くに座っていた男性だ、とテアは思い当たった。
声をかけられたのは自分で間違いないのだろうか、テアはきょろきょろしてしまう。
「あの、ペアいない……んだよね。僕と組んでもらえないかな」
それは間違いなくテアに向けられた言葉で、テアは驚いた。
「私――で、よろしいのですか?」
「うん。ペアが見つからなくて困っていたところだったんだ。組んでもらえると嬉しい」
「……ありがとうございます」
仕方ないなという諦めの顔での申し出ではなかった。それだけでテアは嬉しく感じる。
テアが微笑むと、目の前の彼は顔を赤くし、少しだけ視線をそらす。
「えっと……、僕はフリッツ。フリッツ・フォン・ベルナー。よろしく」
貴族なのか、とテアは少し意外に思った。
フリッツの様子が貴族に見えないというわけではなく、貴族ならばテアに対してもっと高圧的な態度でもおかしくはないのに、彼があまりにも優しげだからである。
「テア・ベーレンスと申します」
「ロベルト・ベーレンスと同じ姓なんだね」
「は、い」
少しだけ動悸が早くなる。
ロベルト・ベーレンス。
テアと同じ、前歴がほとんど不明でありながら初めて特別入学でシューレ音楽学院に入学し、卒業した男だ。その音楽の才は誰をも凌ぐものがあり、宮廷楽団は彼の音楽を欲しがったが、ロベルトはその誘いを蹴って、今は自分で楽団をつくり世界中を回っている。彼は宮廷楽団の、貴族にのみ演奏し、皇帝に仕えるという姿勢が気に食わなかったのだという。彼は音楽を楽しむのに階級は関係ないとして、平民、貴族問わず、求められればそこに赴いて音楽を提供し続けているのだ。平民の中でロベルトは英雄のごとき語られ方をすることもある。一方で、誰かれ構わず尻を振る犬だと貴族に蔑視されることもある。だが、彼の音楽が人の感性に訴えかける素晴らしいものであることを疑うものは誰一人としていない。この学院の者は、宮廷楽団からの誘いを断った彼を愚かだと思いながら、それでも彼の音楽を尊敬していた。
「彼に妻子はいないはずだけど……。もしかして遠縁、とか?」
「いえ――まさか」
フリッツは少しだけ首を傾げたが、納得したようである。
教師の合図に伴って、彼はテアの手を取り、テアもぎこちなく手を回した。
「あの、すみません。私、ダンスをほとんどしたことがないので……」
「うん、実は僕もあんまり得意じゃないんだ」
二人は言葉を交わしながら、手本を見せる教師を眺めた。
他の生徒たちは、ダンスをこれまでにもやってきているのだろう。ほとんど教師のことなど無視している。
やがて早速、踊ってみましょう、という教師の声がかかった。
教師の方もかなりの生徒がダンスをできると分かっているのだろう。生徒たちの顔を見もせずに、号令をかける。
テアは顔を強張らせながら、一、二、三、と自分の足元を凝視してしまった。
フリッツは、必死な彼女の様子にかすかな苦笑を浮かべる。
苦手とはいえ、フリッツもそれなりにパーティなどで踊って来ているので、彼女ほど必死ではないのだ。
そんなテアのぎこちない様子を見て、周りの生徒たちが失笑する。
テアは羞恥に顔を赤くしながらも、覚えることをやめようとはしなかった。
「……すみません、私のせいであなたまで悪く言われてしまいますね」
「ううん。僕は……、最初からあなどられているから」
「え――」
思わずテアは顔を上げて、フリッツの足を踏んでしまった。
「あっ、ごめんなさい」
「大丈夫。それより、あんまり難しく考えないで、音楽を感じてみて」
今はまだ、曲はかかっていない。
テアは戸惑うような顔をした。
「僕も苦手だから、上手く言えないんだけど。昔、ダンスの先生に言われたことがあって……。音楽を楽しんで、旋律にのせて身体を動かせば、それでいいんだって。だからその、今は音楽がかかってると思って。力を、抜いて」
「は、はい……」
テアはフリッツの助言に従ってみた。
音楽がある、と思うとそれだけで少し身体が軽くなった気がする。
「……でも、どうして、あなどられているなんて」
聞いてもいいのだろうか、と思いながらも、テアは口を開いていた。
「……うん。僕は次男なんだけど、兄さんと違って、剣も駄目だったし、勉強もそうできる方じゃない。積極的にもなれなくて、気の利いたことひとつも言えなくて……。社交的じゃなくて、とろくって、ダンスは下手でいつも笑われて……、そういう風なんだ。だから、今もこうして、君以外の人は僕とペアになってくれなかった」
言う度に、彼の顔は笑っているのに曇っていく。
彼はこうして、ずっと自分を卑下してきたのだろうか。
出会ったばかりのテアは、かける言葉を多くは持たなかった。
「……ですが、この学院に入るために、努力してきたんですよね?」
「それは、もちろん。……僕は、宮廷楽団に入りたいんだ。駄目な僕でも、誰かを楽しませる演奏をしたいと、思って……」
「それなら、そんなに自分を貶めるようなことは言わなくても良いのではないでしょうか。少なくともあなたは、立派な志を持ち、そのために頑張っているのですから。その他の欠点を誰に貶されたとしても……、その思いと努力を誇りに思っていいと、私は思います」
「そう、かな……」
フリッツはまだ自信がなさそうに、けれど少しだけ嬉しそうに呟いた。
彼は自分を卑下するが、優しげで親しみやすさを持つ彼の雰囲気が好きだとテアは思う。
積極的ではないなどと彼は言ったが、テアを誘ってくれたのは彼自身の積極性によるものだ。
あなどられている、と彼は言うが、本当はそうでもないのではないだろうか。
「……ありがとう」
フリッツは素直に浮かんだ言葉を口にした。
「いえ……、偉そうなことを言ってしまいました。申し訳ありません」
テアは恐縮してしまい、また俯く。
さらり、とテアの長い空色の髪が揺れた。
ちらりと覗き見えた項に、フリッツはどきりとする。
テアを綺麗だと、フリッツは思う。性格も控え目で、優しそうだ。皆、彼女のことを警戒しているようだが、もし彼女が貴族で今までに何かを成し遂げていたなら、多くの男性が彼女にダンスの申し込みをしただろう。パートナーの申し込みをしただろう。
平民だとか貴族だとか、そういう色んなことは関係ない、とフリッツは強く思った。
――彼女は僕を認めてくれた。こんな僕を……。
「……だいぶ、身体が自然に動くようになってきたね」
「そ、そうですか?」
まだ幾分かぎこちないが、先ほどよりは足がすんなり動くようになっている。
「そう言えば君は……、専攻は何を?」
「私はピアノです」
「僕はオーボエなんだ」
「そうなのですね。今度、よろしければ聴かせていただけませんか?」
「――喜んで」
その言葉が嬉しくて、フリッツは笑った。心から。
苦痛になるはずだったダンスの授業で、学院での初めての友人ができたテアは、昼食を食堂で済ませると、午後最初の授業がある部屋に、逸る気持ちを抑えながら向かった。
昼休みを挟んでの授業。
それは、教師と生徒一対一で行われるピアノのレッスンだった。
一体一のレッスンなら、教師もテアも疑問や意見を交わしあうことができる。
大きな教室で講義を受けることと同じにはならないだろう。
良い先生であればいいと、テアは思う。
だが、何よりもピアノを弾けるということがテアにとって嬉しいことだった。
掲示板を確認して、指定された練習室に入る。
まだ教師は来ていない……、と思って部屋に踏み込んだテアは、床の上でのびている人影を見つけて、ぎょっと身を引いていた。
――人が、倒れて……!?
「ううーん……」
しかし倒れていると思われた人は、うつぶせの状態から仰向けの状態に、ごろっと寝返りを打った。
窓から射す日差しのもと、健やかな寝息を立てている。
寝ているだけだと分かって、テアはほっとした。
だが、この気持ちよさそうに眠っている男性は何者であろうか。
制服でないところを見ると、生徒の付き人として来ている人間か、それとも教師か。もしくは調律師か何かかもしれない。
授業が始まるまでは、もしくは教師が来るまでは寝かせておこう、とテアは思った。
何しろ、あまりにも幸せそうに眠っているのだ。
だが彼を起こしてしまいそうで、ピアノは弾けない。
テアは大人しくその辺にあった椅子に座り、授業が始まるまでのしばらくの間本を読んでいることにした。
読書は、ピアノに次いでテアが好きなものだった。
教師という存在を幼い頃から持たなかったテアに様々な知識を授けてくれたもの。小説であれば、見知らぬ世界へテアを連れて行ってくれた。
先日まで過ごしていたモーリッツの邸でも、手伝い以外はほとんどピアノか読書で彼女の時間は占められていたくらいである。それ程には、テアはその双方を愛していた。
しかしすぐにチャイムが鳴って、授業の始まりを知らせる。
「にょわっ」
鳴り響くチャイムに、男性はがばりと身を起こした。
それがあまりにも急で、テアはまた吃驚する。
「やっべー、寝ちまってたか……」
寝ぼけ眼の男性は、黒髪黒瞳の持ち主だった。その目はくりっとしていて、顔立ちは幼さを感じさせる。どこかのっぺりとしているその容貌に、テアは異国の香りを感じ、同時に既視感を覚えた。
「あの……」
テアは何と声をかけるべきか迷う。
「あ、テア・ベーレンスか?」
何故名前を知っているのか、テアは思って、答えはすぐに相手から提示された。
「来てたなら起こしてくれよ。ま、いっけどな。俺はエンジュ・サイガ。サイガって呼んでくれ。とりあえず、お前の担当になった。よろしくな」
エンジュ・サイガ――。
この時になるまで自分の担当教諭の名前を知らなかったテアは驚いた。
掲示板に掲示されていた用紙には、テアの学籍番号と場所のみ記されていて、教員の欄が空になっていたのだ。
この目の前に笑みを浮かべて佇むエンジュ・サイガは、諸国を飛び回る売れっ子のピアニストである。
雑誌記事でその評判はテアも知っていた。
よくよく見れば、雑誌の写真と同じ人物だと分かる。
だが、エンジュがこの学校の講師として招かれていたとは、知らなかった。
まさか有名なピアニストとこんな風に会うことができるなんて。
平民のテアの担当教諭ですらエンジュという大物ならば、他の生徒たちは一体どんな教師たちに教わっているのだろうか。
テアは半ば茫然としながら、差し出されたエンジュの手を握り、握手を交わした。
エンジュはクンスト出身ではない、外国の人間だ。身長はこの国の男子の平均より低く、雑誌に書かれていた年齢よりずっと若く見えるが、その手のひらは大きく、温かだった。
「テア・ベーレンスです。よろしくお願いします……」
「うし」
うーん、とエンジュは大きく伸びをした。
彼が心地よさそうに眠っていた時から思っていたが、猫のようだとテアは思う。
「じゃ、早速、何か弾いてみてくれ」
「えっ」
「別にそんな驚くとこじゃねーだろ。何でも良い。好きな曲を弾けよ」
それはそうだ。担当教諭の前で、これから何回でもピアノは弾くことになる。
だが、あのエンジュを前にして、今まで特に誰かに教わるということのなかった自分が弾くのか。
テアは緊張した。
緊張しすぎて、頭が真っ白になってくる。
それでも何とかピアノの前に座った。
落ち着け、と思うと余計にますます頭がぐらぐらしてくる。
何を弾けばいいのだったか、とテアは考え。
――好きな、曲……。
『テアのピアノが好きよ。テアのピアノなら何でも好き』
『でもやっぱり……、この曲は特別ね。あの人もこうやって弾いてくれたのよ、この曲を……。テアによく似て、とても優しい音色だった……』
母の言葉が脳裏に鮮明によみがえった。
――そう、母が笑ってくれたから。笑ってほしかったから。私はいつでも、あの曲を弾いていた……。
プレッシャーが消えた。
――今でも私は、あなたが幸せそうに笑ってくれることを、願っているから……。
ポーン、とテアは一音目を鳴らした。
静かな曲の始まり。
そして人々を――穏やかで優しい幻の景色に……、誘い込んでいく。
先ほどまで無邪気そうな様子だったエンジュは、テアの演奏が始まると共に表情を消していた。
――「月の光」か……。難しすぎるということはないが、弾き手の感性、表現力が「分かってしまう」曲だ。本当に"好きな曲"を持ってきたようだな……。
そうして曲は進んでいく。
哀しげに、楽しげに。
月光が淡く差し、その中に感情は消えていく。
光は感情をのみこんで、川のように流れていく。
やがて光は――旋律は、たどりつく。
人々の心の中に戻ってきて、温かい光を灯す。
かたり、と思わずエンジュが立ち上がったのにテアは気付かなかった。
余韻を残して、鍵盤から手を離す。
ほぅ、と弾き終えてから、演奏に集中していてすっかりその存在を意識の外にしていたテアは、エンジュに曲を聴いてもらっていたことを思い出した。
はっとエンジュの方に目をやると、彼は立ったままテアの方を凝視している。
「先生……?」
テアが声をかけると、彼はようやく動き出した。
大きく手を鳴らして拍手を送る。
「なるほどね」
と、彼はしかし演奏に対する評価は述べず、続けた。
「まあお前なら弟子にしてもいいかな」
「はい……?」
テアはその独白に首を傾げる。
「ん、何となくお前のことは掴んだ」
にっ、とエンジュはテアが置いていかれているのも気にせずマイペースに笑った。
「じゃ、今度はこっちの楽譜、初見で弾いてみてくれ」
「え」
差し出された楽譜を受け取ったテアは、また固くなってしまったのだった。