重奏 12
学院祭二日目、パートナーたちによるコンサートは、終盤に差し掛かろうとしていた。
「もう少しでテアとディルクの二人だな」
コンサートホール、その最も良い席に座る一人は、シューレ音楽学院の学院長その人である。
話しかけた相手以外には聞こえないくらいの小声で、どこか悪戯っぽく隣に座る人物に笑いかけた学院長は、まるで子どものようにも見えた。
「ああ……。何だか、俺の方が緊張してきた。自分の演奏前より胃が縮む」
「なんだ、お前、案外自分の『娘』を信頼していないんだな」
「そういう意味じゃない、マテウス。ただ……、あの子の初めてのコンサートだし……、色々心配してしまうのはしょうがないだろう!?」
「既に彼女はエンジュ・サイガのリサイタルで演奏しているんだがな」
「それを言わないでくれ……! どうして聴きにいけなかったのか、ずっと後悔しているんだ……」
がっくりとうなだれる横で、マテウスと呼ばれた学院長――本名をマテウス・キルヒナーという――は笑う。
「仕事では仕方がない。しかし……、テアも聴きに来てほしかっただろうがな――『あしながおじさん』に」
「……全くお前は昔から意地が悪い」
「お前には昔から迷惑をかけられるばかりだ。少しの意地悪くらい許されるというものだろう」
マテウスが当然とばかり返せば、隣の人物は言葉に詰まった。
そう――マテウスの隣に座る人物こそ、テアの「あしながおじさん」なのである。
仕事に都合をつけ、何とか学院祭コンサートに足を運ぶことのできた彼は、ずっとマテウスの隣でそわそわとしていた。
彼は被後見人であるテアの姿を一刻も早く見たくて仕方なく、何より彼女の演奏が楽しみなのだ。
一方で、テアが失敗してしまって落ち込むようなことがないようにと、ついつい余計な心配までしてしまっているようである。
テアが事件に巻き込まれていたことなどこの時知るべくもない「あしながおじさん」が、待ち遠しく首を長くしていると、一組のパートナーがまたステージ上に立った。
「もどかしいな」
呟くが、一度演奏が始まると、音楽家でもある彼は、何だかんだと生徒たちの演奏に集中するのだった。
「ディルク」
テアが舞台袖へ入ると、すぐにディルクも後ろから姿を見せた。
制服姿で並ぶ二人に驚きの視線が集まるが、テアもディルクも平然とそれを受け流す。
「テア、」
テアの気持ちが分かっても、案じる思いがなくなるわけではない。再びテアを見つめ、ディルクはわずかに逡巡を覚えた。
ローゼの言った通り、あんな事件があった後なのだ。
だが、テアは演奏をすることを強く望み、ディルクはそれを分かってしまった。
何より、ディルクこそが、最も強くその演奏を望んでいたから。
結局、何も言えなくなってしまう。
テアもディルクが案じてくれていると分かったが、直接それを言葉にはせず、ただ微笑んだ。
「いきなり昨日のような演奏をする、なんて言わないでくださいね」
普段のような他愛ない言葉。けれどその瞳には、強い意志が垣間見えて。
ディルクは、今この時、案じる気持ちを心の隅にしまった。
「……俺も、お前ほどピアノが弾ける自信はないからな」
そして、ディルクもいつものように返すのだ。
「あれだけ弾いていらしたのに……。サイガ先生のリサイタルの時も……」
「いや、やはり毎日練習を重ねているお前や先生とは比べ物にならない。昨日は色々誤魔化して弾いていたし、リサイタルの時は先生の助けがあったからな。……気付いていただろう?」
テアはそれに、曖昧に笑う。それでも、テアは素敵だと思ったのだが――。
その時、二人は学院祭実行委員が二人に手で合図するのを目に留めた。
「……さて、出番だな」
ディルクはテアを促して、いつでもステージに上がれるよう準備する。
「入退場は、リハーサルの通りにやればいい」
「はい」
緊張と高揚を抑えるように、神妙にテアは頷いた。
「あとは――」
ディルクはテアを見つめ、ふっと微笑んだ。
その眼差しの温かさに、テアはどきりとさせられる。
「二人で音楽を楽しもう。そうすれば最高の演奏ができる」
「……はい」
テアも小さく微笑み返して、ディルクの横に並んだ。
――いよいよ、待ちに待ったその時が迫っていた。
テアの身支度を整え、激励をしてテアと別れたローゼは、コンサートホールの客席に向かった。
席はもう全て埋まってしまっていて、客席の一番後ろに立つことになってしまったが、テアたちの演奏が聴ければそれでいいと、ローゼはテアとディルクの出番を待つ。
「ローゼ」
テアたちの一組前の演奏が終わって、ローゼが拍手を送っていると、聞き慣れた声に後ろから呼びかけられた。
振り向くとそこには、声を聞いてローゼが思い浮かべた通り、ライナルトが立っている。
「ライナルト……、こちらに来てしまって大丈夫なんですか?」
「ああ。ここでの裏方の仕事は学院祭実行委員だけで何とかなるだろう。私も二人の演奏を正面から聴きたいからな」
その言葉に同意を示したローゼは、すぐに声を潜めて尋ねる。
「テアを閉じ込めた犯人は……」
「それについては信頼できる人間に任せてきた。だが、この人の多さだ。外部の出入りも容易だからな。既に逃げられてしまっている可能性が高いと思う」
「そうですよね……」
ローゼの瞳が翳る。
ライナルトはそんなローゼの腰にそっと手を回して、自分の方へ引き寄せた。
「大丈夫だ。テアの行動力のおかげで犯人の目的は妨げられた。二人がこのコンサートで演奏を成功させたなら……、今まで以上にテアを認める者が増えて、手は出しにくくなるだろう。今回のことを伝えれば、学院側もテアを守ろうと動くはずだ。今すぐに犯人を捕まえられなくとも……、いつかは必ず、あのようなことをした人間には報いがある。あまり気に病むな」
「ええ……。ですが、私がちゃんとテアを守れていたら、こんなことにはならなかったと思うと――」
「馬鹿だな」
ライナルトはローゼが暗い考えに行きつくのを遮るように、優しい眼差しで告げた。
「お前に非はなにもない。テアもそんなことは露と考えていないさ。何もかもから守ることが、本当にテアのためになることなのか、分かっているのだろう? お前はちゃんとテアを守り、支えているよ。お前はお前らしくテアの側にいてやればいい。それが一番だ」
その言葉に、ローゼの瞳は潤んだ。
「……はい。ありがとうございます……」
「今は二人の演奏を堪能しよう」
「そうですね」
憂いを払拭し、ローゼは明るく笑う。
テアとディルクが間もなく姿を現すのを、二人は待った。
フロアディレクター役の生徒の指示を受け、テアとディルクはステージへと一歩を踏み出す。
――いよいよだ。
そう、二人の思いは一致していた。
光溢れるステージ。
ここで演奏することを、ずっと目指してきた。
――最善を尽くそう。自分のために、パートナーのために、聴いてくれる人たちのために……。
ディルクは後ろにテアの気配を感じながら、テアはディルクの背中を見つめて、ただ強くそう思った。
そうして、ステージに登場した二人に、惜しみない拍手が送られる。
だが、同時に客席はざわついた。
ディルク、テアの容姿のせいもあるが――、何より二人が制服姿だったからである。
制服でステージに立つことはマナー違反ではない。学院指定の制服は、礼服として認められるものである。
しかし、ドレスアップすることが慣習として当然となっているため、どうして二人が制服なのかと、客たちは顔を見合わせていた。
そんな客席の戸惑いに気を留める様子も見せず、ディルクとテアは所定の位置で立ち止まると、タイミングを合わせて礼をする。
そして、テアはピアノの前に座り、ディルクはヴァイオリンを構えた。
拍手はぴたりと止まって、コンサートホールは大勢の人間がいるにもかかわらずしんと静まる。
大勢の客たちの視線の先で、二人は目を合わせて頷き合い――。
先んじてテアが、指を鍵盤に落とした。
曲の始まりは、Allegro――速く、楽しげに――。
心が浮き立つような旋律。
たくさんの音が紡ぎ出される。賑やかに、盛り上げるように。
そんなピアノの音に、やがてヴァイオリンの音が重なって、二つの音が弾むように響く。
そう、この曲の主人公は――「彼」は、そうしてその明るい場所へ、足を運んでいったのだ。
しかし、ふと、周りの音がかき消える。
いや、消えたわけではない。
「彼」の耳に届く音が、たったひとつになったのだ。
Adagio――ピアノの旋律は、心地良い緩やかなメロディに変わっていく。
それに共鳴するかのように、ヴァイオリンも変化を見せる。
あまりにも美しいピアノの旋律に出会い、「彼」は胸を打たれたのだ。
その音に驚きと喜びと切望を覚える「彼」は、音を掴もうと手を伸ばす。
だがその手は届かず、するりとピアノの音は彼の手をすり抜けていってしまう。
ピアノの音が、消える。
「彼」はそうして悲嘆にくれた。
嘆きの音は、深く悲しく、ヴァイオリンはその感情を紡ぎ、誰もが胸を締め付けられるようだった。
あの音を、手にしたい――。
「彼」は強く強く思い、思う音を手にするために、立ち上がるのだ。
Presto――急速に、速度が高まる。
それは「彼」の焦り、成長を表すかのように。
ピアノの音が常に「彼」の前を行く。先行していく。
追いつこうとして「彼」は走るのに、どうしても届かない。
どこまでもどこまでも先を行くピアノの音。それを追いかけるようにヴァイオリンの音が続く。
ピアノの旋律はヴァイオリンを近づけさせず、撥ねつける。
けれどヴァイオリンは必死でそれに近づこうとして、くじかれて……。
激しい音の追いかけっこだ。
テアとディルクの視線は、合わない。
「彼」が目指す音と出会えていない、それを象徴するかのように、二人の間には明確に線があった。
「彼」は苦悩し、ヴァイオリンはそれを反映して悩ましげに響く。
追い付きたいのに追い付けず。どれだけ思っても、何をやっても、伸ばした手は届かない。
「彼」は強く深く焦がれていた。
ただ一度だけ遭遇したその音に。
真に迫る「彼」の心情を表した音に、誰もが拳を握った。
何かを求めてやまないのは人間としての性。
彼の音は、人の心に訴えかけるのだ。
諦めたくない、諦めてなるものかと――。
だんだんとピアノとヴァイオリンの旋律が重なりを見せ始める。
徐々に、徐々に、「彼」は音に近づいていたのだ。
速さは、Ritardando――徐々にゆったりとしたものになっていく。
やがて、ぴたりとピアノの音とヴァイオリンの音が重なって――。
テアはディルクを見上げた。
二人の視線が交わり――同時に、柔らかに微笑んだ。
優しく音が絡まり合った。
目指す音に再び出会えた歓喜が、「彼」を満たす。
ずっと会いたかったのだと、「彼」は笑う。
出会えた音は、驚いたように少し、跳ねて。
ありがとうと、「彼」とその音は微笑み合うのだ。
重なり合った二人の音は、出会った時以上の音に、変わっていく……。
そして、ピアノとヴァイオリンは喜びと希望の音楽を紡ぎ出す。
「彼」が、強く思う音をつかまえられたように。
誰もがきっと、大切なものを手にできるはずだと……。
苦しいことや悲しいこと辛いことはいくらでもある。
それでも希望は消えはしない。
いくつもの夜が心を覆っても。
そこに輝く光はある。
そう伝えるように。
「彼」は、その音が離れていかないよう、しっかりと抱きしめる。
だが、「彼」の歩んでいく道はそれだけで終わりはしない。
出会えた音を抱き、まだまだ長く続く道を「彼」は行く。
大切な音と共に、「彼」は進み続けるのだ。
Abmarsch――新たなる出発。
そして、曲は、感動的に終わる――。
あしながおじさん、初登場の回でした。
一人称が手紙と異なっていますが、
学院長が彼の悪友なので砕けた口調になってしまうのです。
その辺は今後本文にも出てくるはず…。
そして今更ですが学院長の本名も初公開。
…この時初めて考えました…。
すまない学院長…。
ともかくも、学院祭編、ようやくテアとディルクの演奏でした。
学院祭編も残すところあと少し…。




