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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第4楽章
28/135

重奏 11



「すみません、遅れました。まだ……時間、大丈夫です、よね」

息を荒くしながら、神妙に謝った後、テアは目の前に立つ友人たちに問いかけた。

「テア……!」

行方不明になっていたテアが目の前にいて、ローゼは安堵のあまりテアに抱きつこうとする。

だがそれは、テア本人に止められた。

「あ、駄目です、ローゼ。今の状態だとローゼにまで汚れがついてしまいます」

「え……」

言われて、ローゼたちはテアの白い制服が確かに汚れてしまっていることを認めた。

制服の生地が白いのであまり目立たないが、埃や細かい木屑が付着している。

一体何があったのかとローゼは詰め寄りそうになったが、それよりもディルクがテアに近付く方が早かった。

ライナルトが気を利かせて脇によけ、ディルクはテアの目の前に立つ。

ディルクの目には、ただテアしか映っていなかった。

「テア……」

「ディルク」

テアの背筋が伸びる。

「すみませんでした、こんな大切な時に遅れてしまって……。すぐに準備します。だから、あの……」

待ち望んでいたコンサートにこんな風に遅れてしまって、ディルクは怒っているかもしれない。テアに失望しているかもしれない。

それでもテアは、ディルクと演奏したかった。

だから彼女は頭を下げようとしたが、ディルクはそれをとどめる。

彼の心にはテアに対する憤りも失望もなく、ただテアを大事に思う気持ちがあるだけだった。

「いや、それより、怪我などはしていないか」

ディルクは間違いなくテアがそこにいることを確かめるように、その手をとる。

温もりは確かにそこにあって、ディルクは安堵を覚えた。

間違いなく彼女はここにいる。

ここに、いてくれているのだ。

「はい……」

心配をかけてしまったと、テアはディルクの手をそっと握り返す。

ディルクの眼差しに、いくら詫びても足りないような気が、した。

「良かった……」

見た限りテアの身体に異常はなく、彼女自身も大丈夫だと頷いたので、ディルクはほっとテアに微笑みかける。

その、どこまでも優しく、神々しいほどに美しい微笑は、あまりにも大きな破壊力を持っていた。

それを目の前にしたテアは、息を呑み言葉を失うしかない。

その上さらに、誰もが予想しなかったことを、ディルクは実行する。

「テア、」

ディルクはまるで壊れ物を扱うかのように大切そうに囁いて、そっとテアの腕を引く。

「ディル、ク……」

戸惑うままに引き寄せられたテアは、体温があまりにも近いことに声を揺らした。

ディルクの腕が、テアの背に回る。

ローゼの時のように、止めることもできずに。

テアは――、ディルクに、抱きしめられていた。






「きゃあ!」「なんてこと……」という悲鳴を、テアは聞いたと思った。

けれどそれよりも自分の心音の方がうるさい。

真っ白になる頭でテアにできたことは、ただディルクの存在を感じることだけだった。

「……良かった、本当に、お前が無事で……」

首筋にディルクの吐息を感じる。

囁く声がほんのわずか、震えているように思えたのは、錯覚だろうか。

やがてディルクは体を離し、気遣わしげに問いかけた。

「それで、一体、何があったんだ?」

意識せず首筋から顔を赤く染め上げたテアは、何とか持ち直して、平静を装おうとした。

「それが……」

「……ちょっと待て。入り口を塞ぐと迷惑になる。場所を移そう」

テアが言いかけたところで、それを遮ったのはライナルトだった。

さすがの彼もディルクの行動には驚かずにはいられなかったようで、若干呆れたような顔をしている。

ディルク一人が平然として、「そうだな」と頷いた。

ライナルトが先導して、ディルクはテアの背にそっと手を添えて促し、我に返ったローゼがその後に続いて、四人は注目を集めながら空いている部屋に入っていく。

「時間も迫っているので手短に……」

椅子に座りもせず、テアは心持ち早口で事情を説明する。

当初予定されていた控室を使えなくなったと言われ、五階の一室に閉じ込められてしまったのだと。

「……それで、仕方なくドアを壊して何とか脱出してきたんです」

「ドアを壊した?」

聞き間違いかと尋ねたのはライナルトだ。

テアはその言葉に身を小さくする。

「すみません、それしか考えつかなくて……」

「いや、どうやってドアを壊したんだ」

テアの細腕をまじまじと見つめ、ライナルトは聞かずにはいられなかったようである。

「部屋の中は倉庫として使われていたようで物がたくさんありましたので、その中から適当なものを選んで、こう……」

テアの繊細な見た目を裏切る所業に、ライナルトは何とも言えない顔をした。

そう言えばテアはローゼと共に育ったのだったなと、自身のパートナーを見て納得してしまい、ローゼはパートナーの考えを読み取って、軽く睨みつけてやる。

「腕は平気なのか?」

「はい。気をつけていましたから」

だから問題はない。大丈夫だ、と。

ディルクの心配そうな問いかけに、ピアニストの矜持をもって、テアは頷いた。

真っ直ぐにディルクを見つめてくるテアに、ディルクはその思いを読み取る。

彼は真摯にテアに頷いてみせると、力強く告げた。

「演奏の準備に入ろう」

「はい」

だが、テアが無理しがちである、と知っているローゼは心配な顔で、念を押さずにはいられなかったようだ。

「……本当に大丈夫なのですか? こんな事態の後で、普通に演奏するなんて……」

「こんなことがあったからこそ、余計に引けません。私なら大丈夫です」

テアはきっぱりと言い切り、ローゼはその決意の固さに納得するしかない。

そして、テアは、ローゼからディルクへと視線を戻した。

「……ピアノを弾きたいのです。少しでも来て下さった方に楽しんでもらいたい。……そして、あなたとの演奏を、楽しみたい――」

テアの思いに、ディルクは微笑んだ。

「ああ。俺も、お前と同じ気持ちだ」




「それじゃあ、テア、ドレスに着替えますか?」

予定通り演奏をすることを決めたテアに、ローゼは問いかけた。

テアは頷きかけたが、時間を確認したディルクがそれを止める。

「悪いが、今回はそのままでいこう。もうさほど時間がない」

「でも、あなたがそれでテアだけ制服じゃおかしいですよ」

ローゼは不服そうな顔で言う。

「ああ。だから俺が着替えてくる。俺が着替える分には五分もかからないからな」

「それに、テアから大分木屑をもらってしまったようだしな」

ライナルトがからかうように言って、テアは先ほどの抱擁を思い出し、耳を赤く染めた。

「テア、慌ただしくしてすまないが、制服を整えて準備をしておいてくれ。着替えたら舞台袖で集合しよう」

「はい」

ディルクは告げると、話をしていた部屋から出て行った。ライナルトもそれに続く。

「……ディルク、テアの言葉を参考に犯人を探す。いいか」

歩きながら、ライナルトは周りの人間に聞かれないよう小さく問いかけた。

「すまないが、頼む。……おそらく、難しいとは思うが」

忌々しいことに、とディルクは怒りの滲む呟きを零す。

テアに対する何者かの所業に、ディルクは大きな怒りを覚えていた。

だが、今はテアが無事であったことに対する安堵と、彼女の演奏に対するひたむきさに応えたいという思いの方が先に立つ。ディルクは何とか怒りを封じ込めていた。

「これだけの人出だからな。まあやるしかない。……ひとまず指示だけ出してお前たちの演奏を聴くことにしよう。期待している」

「ありがとう」

ディルクはそっと笑って、親友と別れた。

舞台袖の学院祭実行委員に参加に問題がなくなったことを連絡してから、再びディルクは控室に入っていく。

彼は未練もなく正装を脱ぎ去り、すぐにいつも通りの制服姿になった。

――今度こそ、本当に、

本番だ。




「テアにドレスを着せたかったんですけどね……」

一方、部屋に残されたローゼは残念そうに呟いていた。

テアにドレスを贈った「あしながおじさん」に不信はあるものの、ローゼは何だかんだとテアに似合っていた空色のドレスを彼女に着せて、美しく着飾らせたかったのである。

自分の親友はこんなにも素晴らしいのだと、誰もに自慢したかったのに。

「また機会はたくさんありますよ」

ドレスのことはテアも楽しみにしていたのではあるが、制服の方が着慣れており楽なので、当事者のテアの方がローゼより余程割り切るのが早い。

「そうですけど……」

ローゼは唇を尖らせつつも、テアの制服からごみを払っていった。

テアは制服の汚れがとれるのか心配していたのだが、ローゼはテアの心配を杞憂に変えるように、制服を綺麗に整えていく。

それが終わると、ローゼはテアを椅子に座らせ、持っていた櫛で丁寧にその髪を梳いた。

髪だけでもちゃんと結ってやりたかったが、道具もそれを取りに行く時間もない。今できることで、最上のことを、とローゼはせっせと手を動かす。

「……それにしても、ディルクがあんなに取り乱すなんて、驚きでした」

テアの触り心地の良い髪の質感を堪能しながらも、先ほどまでのことが怒涛のように思い返されて、思わずローゼは呟いた。

「取り乱す……?」

テアは不思議そうにローゼを見上げる。

テアはライナルト相手に迫力を抑えきれずにいたディルクを知らないので、その言葉が彼にそぐわないように感じられたのだ。

ディルクは生徒会長という地位にあることもあって、常に人の前に立つことを意識している。その彼が、ローゼが言うほど取り乱したとは、どういうことだろうかと。

テアの尋ねる視線に、ローゼはかいつまんでテアが閉じ込められていた間のことを話した。

「いつも肩を並べあっている二人がそんな風だったので、心臓に悪かったんですよ」

「そんなことが……」

実際のところを見ていないテアには、俄かに信じられないことであった。

これまで、ディルクとライナルトが言い争うところなど、議論する時ならともかく、見たことがなかったからだ。人の上に立つ存在であるディルクをライナルトは誰よりも支えているし、ディルクもライナルトを頼っている。生徒会長や副会長といった肩書きがなくとも、二人は互いを尊敬し尊重しあっていると、それを知っていたから。

「……その後ディルクがテアを抱きしめたのにも、相当驚かされましたけどね」

テアが気に病まないよう口に出す言葉に配慮していたローゼだが、テアの表情が曇ったのを悟って、軽い口調でそう言った。

途端に、先ほどの抱擁を思い出してしまったテアの首筋が、耳が、真っ赤に染まる。

――本当に、ディルクときたら罪つくりなのですから……。

だが、テアはローゼがそのように思っていることなど知らず、照れくささを追いやると、次のように言うのだった。

「……ディルクはずっとこの時を待っていたんです。ここであの曲を演奏することを……。だから、そんな風に取り乱してしまったのだと、思います」

「え、」

「本当にあの方には、心配や、迷惑をおかけするばかりで……。だからこそ私は、あの方の役に立ちたい。喜んでもらいたいと思うんです。まずは、今からのコンサートで、少しでも……」

テアの言葉は凛としていて、その決然とした横顔は美しかった。

しかしローゼは、釈然としない思いにとらわれる。

――あの時のディルクは、コンサートのことなど二の次でした……。彼は、ただただテアの身を案じていた……。だからあんなに取り乱して、テアが現れた時には、あんな風に……。

テアは誤解している。――というより、気付いていないのだ。

謙虚に過ぎる性格のせいで、ディルクがそんなにも自分を想っているなどと、考えつきもしないのだろう。

ローゼはテアの髪を梳く手を止めて、テアには気付かれないようにごく小さく嘆息した。

――テアはこのままでいいと、私は思っていますが……、けれど、いいんでしょうかね、本当に……。

「さ、テア、できましたよ」

だが今はとにかく、まず目前に迫ったコンサートに向けて、できることをするのみだ。

ローゼは自分の手鏡を見せて、テアに姿を確認させた。

「髪はどうでしょう。結った方がよさそうなら、簡単に結いますけれど……。随分伸びましたものね」

「そう、ですね……。本番には差し支えないと思いますので、このままで。――ありがとうございました、ローゼ」

テアは振り向き、ローゼに微笑みかける。

ローゼも微笑みを返して、テアを促した。

「いいえ。では、行きましょうか」

「はい」

テアはしっかりと頷き、立ち上がると、ローゼと共に部屋を出た。

パートナーとのステージへと向かって。




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