重奏 10
コンサートホール五階の一室に閉じ込められたテアは、しばらく茫然としていたが、やがて我に返った。
――油断した……!
テアは悔しさに拳を握る。
少なくとも母といた頃の彼女であれば、こんな失態は犯さなかっただろう。
あの頃は相手の敵意や害意に対して敏感だった。危険と察すればそれを避け、大人しく捕まることを許しはしなかったのだ。
やはり、虫の知らせが告げていた予感に、従うべきだった。
テアをここに連れてきた女性の態度、様子をテアは頭の中で思い返す。彼女は自分がしていることへおそれを抱いていたのか、ディルクにかかる負担を考えて罪悪感を覚えていたのか、もしくは誰かに脅されたかしていたのかもしれない。実行犯ではあるが、主犯ではない、という印象だったが、それでも、目的のためにテアをここに導く術しか選べなかったのだろう。
いずれにせよ、姑息なことをする、とテアはドアを強く叩いた。
テア一人でステージに立つという予定だったのならまだいい。
だが、テアは一人で演奏するのではなく、ディルクと共に立つのだ。
このコンサートで演奏することを誰よりも待ち望んでいたのはディルクなのに、そんな彼に失望を与えられるものか。
何よりテアが、ディルクと音楽を奏でたいのだ。
テアをここに閉じ込めた人間が、テア自身を疎んでこうしたのか、ディルクとテアを共に立たせたくない妬心で実行したのか、それとも他に理由があるのか、それは分からない。
だが、「敵」がいずれの目的を持つにせよ、テアはここで大人しくしているわけにはいかなかった。
いつまでも後悔をしていても仕方がない。
テアは、暗闇に慣れてきた目で部屋を見回した。
部屋は四十人程度が入る教室くらいの大きさのようであるが、机や椅子、多くの箱や楽器が所狭しと置かれていて、かなり狭く見える。どうやら倉庫の用途で使われているようだ。
部屋が暗いのは、窓に黒いカーテンが引かれ、物が窓際から詰めて置いてあるかららしい。
この荷物の山を越えて窓から出る手段をテアは検討したが、やがて首を振った。この荷物の置かれ方を見るに、かなりの時間がかかると予想できる。何よりここは五階だ。テアは自身の運動能力にそこそこの自信があるが、さすがに五階の窓から脱出を図って成功する自信は持てなかった。
外側に面した窓と、テアをこの部屋に閉じ込めたドア以外に、外に通じるものはない。通気口はあるが、とても人間が通れる大きさではなかった。
どうする、とテアは自問する。
いつもポケットに入れている時計を確認すれば、まだ時間に余裕はあるものの、そうそうのんびりと構えていられない時刻だ。
R.Bとイニシャルの刻まれた時計をぎゅっと握りしめ、テアはプレッシャーに耐えた。
――お母さん……、お父さん……。
時計をポケットにしまい、テアはくるりともう一度ドアに向き合うと、そのドアを何度も強く叩く。
「誰か!」
もしかしたら誰かが気付いてくれるかもしれないと考えたが、しばらくしても何の反応もない。
今の状況を仕組んだ誰かはおそらく、第三者がこの辺りに近付かないようにしているのだろう。テアがこれを仕組むならそうする。
もともと、そうそう誰かの助けを求めるようにはできていないから、テアに落胆はなかった。誰かを呼ぶよりも先に、自分で解決できるよう、自身の力をまず尽くす。それが彼女の在り方だ。
テアは強い意志の宿る瞳で、もう一度部屋を見渡す。
そして彼女の目に留まったのは、ピアノとセットでよく見るタイプの、黒い椅子であった。
テアはここから出るための一番簡単な方法を実践することにして、今度は探るように木製のドアのあちこちを叩き、その音を確かめた。
――ありがたい、これならいけそうですね……。
テアは一人頷き、積まれた箱からはみ出していた布を引っ張りだすと、両手にしっかりと巻きつけた。手を傷つけないための措置である。
次いで彼女は、目をつけた黒い椅子に手を伸ばす。
――では、いざ――
やおら、テアは椅子を高く振り上げた。
腕だけに負担がかからないよう、彼女は体全体を使って、強く、力いっぱい、ドアの弱い部分にめがけて、椅子を叩きつけた。
ドンドン、とドアが強く内側から叩かれて、テアを閉じ込めた張本人である女性はびくりと身を竦めた。
いつまでもこの音が続くのだろうかと顔を強張らせたが、すぐに音が止んでほっとする。
彼女は学院祭実行委員の腕章をつけていたが、実際には委員の人間ではなかった。その上、学院の生徒でもない。
彼女はさる貴族に仕えるメイドなのである。
普段は邸で仕える彼女だが、この日初めて、学院へと足を踏み入れた。
それはひとえに、主からの命令を受けたからである。
テア・ベーレンスという少女を誰にも知られずにコンサート演奏前に閉じ込める。そして、彼女の演奏開始時間直前もしくは直後に解放するようにと。
ずっと閉じ込めておくのではなく、ぎりぎりの時間を選ぶことが重要なのだと主は言ったが、彼女は最初その意図が分からなかった。
主はその少女を目の敵にしているようだった。それならば、ずっと閉じ込めておけばよいではないか。
だが、それではいけないのだと言う。それではただテア・ベーレンスを被害者にするだけになってしまう。必要なことは、彼女を「加害者」に仕立て上げることなのだ、と。
演奏時間前後に解放されたテア・ベーレンスは閉じ込められたことを主張するだろう。しかし、信頼されていない彼女の言を一体どれだけの生徒が信じるだろうか。閉じ込められたならどうして姿を現すことができたのかと、誰もが不審に思うだろう。
そうやって、演奏をサボタージュした人間として、彼女を貶める必要があるのだと主は言う。そして、彼女のパートナーに、テア・ベーレンスを選んだことは間違いだったと、気付いてもらうのだと。
何としてもこの計画は成功させなければならないと主は厳しく告げた。
そう、だから、失敗は許されない。
もしも失態を犯したならば、主は容赦なく使用人である彼女を責め立てるだろう。それが、彼女にとっては大層恐ろしいことであった。だが、このように誰かを閉じ込めてしまうという行為も、後ろめたく恐ろしいことだった。
しかし、もう少し待てば命令された時間になる。時間になれば静かにそっと鍵を開けて、彼女はここから立ち去ってしまえばいい。
それまで誰もここに来ないようにと彼女は祈った。
テアの控室にローゼが入っていった時のことを思い出してしまい、ますます切実に予期せぬ出来事が起こらぬように願う。
主から告げられていた人物とは全く違う人間が控室に入っていった時、彼女の心臓は凍りついた。控室を聞き間違ったのか、主の指示が間違ったのかと思ったのである。
しかし周りの生徒たちがひそやかに交わす言葉を聞いて、控室は間違っておらず、ローゼ・フォン・ブランシュという貴族がテア・ベーレンスと親しい友人である、ということを知って、安堵したものだ。
『どうしてローゼ様のようなお方が……』
と、顔を顰めていた生徒たちの会話に、テア・ベーレンスという少女はそんなにもひどい人間なのかと、心臓に悪かったのではあるが。
だが、目の前に現れたテア・ベーレンスは大人しそうな印象の美しい少女だった。主が忌み嫌うほどの人間には見えなかった。
それでも使用人である彼女は主に従うほかなく、こうして計画を実行に移したのだ。
他の生徒に見咎められないか、ローゼ・フォン・ブランシュが今にも控室から出てきてしまうのではないか、それが心配だったが、何とか誰にも怪しまれずテア・ベーレンスを部屋に閉じ込めることができた。
早く時間がくればいい……、と主に渡されていた時計を確かめて彼女は嘆息する。
――ドン!!
その時、彼女の後ろでひときわ大きい音が鳴って、彼女はびくりと肩を揺らした。
怯えた表情を浮かべる彼女の前で、ドアが凶暴な音を立て続ける。
――何…!?
ドアの前で戦々恐々としている実行犯のことなど露知らず、テアは何度も黒いピアノ椅子をドアに叩きつけていた。
鍵の部分を壊すのが一番良いのかもしれないが、今使える道具とテアの力ではそれは少し難しい。
なので、ドアの装飾の関係で薄くなっている部分を彼女は攻める。
「……っ」
少しずつ木製のドアはへこみを見せてきたが、椅子の脚の方が先にぽきりと折れてしまった。
テアはすぐに振りかえって代用品を探す。
幸いなことに、山と積まれた箱の一つに金属製の棒のようなものがあって、テアは顔を輝かせた。
ピアノ椅子よりもずっと使えそうな道具だ。
体全体の力を使って金属棒をぶつけると、先ほどと比べあっさりとドアに穴が開いた。
これならばいける、とテアは確信を持ち、根気よくドアに穴を開けていく。
外からの光が入って来て、明るくなる度に出られる時が近付いてくるのを感じた。
ドアのあちこちに穴を開け、テアはそろそろいいかと乱暴にドアを足で何度か蹴りつける。
我ながら乱暴だと思いつつ、今更ながら心の中で破壊行為を学院長に謝った。
やがて、脆くなった板はぎしりと軋んで向こう側に吹っ飛ぶ。
人が通れるくらいの大きな穴ができて、テアは持っていた金属棒と手に巻いていた布を床に落とすと、ささくれ立った切り口で怪我をしないよう、慎重に部屋からの脱出を図った。
結構な音を立てたが、それも祭の音と勘違いされたのか、誰も来ないものだと思いながら部屋を出たテアの目に、廊下を走っていく女性の後ろ姿が映る。一瞬追いかけるべきかと体を動かしかけたが、テアは踏みとどまった。
再びポケットから時計を取り出して、時刻をまず確認する。
――間に合う……!
テアは時計をまたしまうと、破壊したドアはそのままに、女性を追いかけるためではなく走り出した。
ディルクと音楽を楽しむために。
ライナルトとローゼがテアを探すため、舞台袖を出ていこうとするその背を、ディルクは見つめていた。
ただ待つことしかできない己を悔やみ責めるディルクの表情には、苦悩と不安の翳りがある。
その視線の先で、ライナルトとローゼが入り口から姿を消そうとした瞬間。
彼らは同時に同じものを目にし、ぴたりと足を止めていた。
空気がざわりと驚きに揺れる。
「テア!」
一番に声を上げたのは、ローゼだった。
まさしく、今探しに行こうとしていた目的の人物であるテアが、廊下の向こうから人を避けながら走ってくる。
ディルクはローゼの声に反応して大きく足を動かし、二人の後ろから求めていた彼女の姿を認めた。
やがて、テアはローゼたちの元へ辿りつく。
荒い息を抑えながら、テアは大切な人たちの前で安堵したような表情を一瞬見せて――、
「すみません、遅れました」
テアは、本当に申し訳なさそうに、そう言ったのだった。