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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第4楽章
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重奏 9



心配げに眉を寄せてディルクは時計を確認した。

「遅いな……」

舞台袖で順番を待つ間、ディルクは委員たちの仕事ぶりを見たり、他の演奏者と言葉を交わしたりしていたのだが、そろそろ着替えも終わる頃なのではないかという時刻になっても、テアが現れないのである。

演奏までまだ時間はあるが、それにしても先ほど練習室で別れてから時間が経ち過ぎているように感じる。ローゼが張り切っていたからそのせいかもしれないが、ローゼもこのコンサートの重要性は分かっているから、そうそうテアを控室に長くずっと留めておきはしないだろう。

「誰かに呼びに行かせるか」

ライナルトも少し気になっていたのだろう、ディルクの様子に近づいてきて聞いた。

「そう、だな……。彼女たちのことだから大丈夫だとは思うのだが、誰か女生徒に確認を――」

まだ時間に余裕はあるから待っていてもよいのだが、ディルクは嫌な予感を覚えてそう言った。

何故か、テアへの嫌がらせの一端が頭にふと思い出される。

その時だ。

誰かが、舞台袖へ入ってきた。

その人影を認め、ディルクはずんずんと裏手の入り口に近づいていく。

入り口に立ってきょろきょろと誰かを探すようにしているのは、ローゼだった。

「ローゼ、どうしたんだ」

「ディルク! ……その、テア、ここにいませんよね」

尋ねるローゼの言葉は、心配と不安に揺れていた。

「テアが……どうか、したのか。ここにはまだ来ていないが、俺はてっきりまだお前と――」

ローゼの様子に感化されたように、ディルクの声も掠れたようになる。

まだローゼからはっきりと何かを告げられたわけでもないのに、ディルクはぐらりと視界が揺れるような錯覚を覚えた。

「いないんです、どこにも――」

ローゼの声が、涙の気配を帯びる。

「練習棟も、コンサートホールも探しました。寮の部屋も……。でも、いないんです……!」

その言葉がしっかりと認識されない内から、ディルクは頭が真っ白になるような衝撃を感じた。

そうして、ディルクはただ、立ち尽くした。






コンサート本番前、ディルクと最後の確認を終えたテアは、用意された控室に向かった。

ドレスはローゼに頼んでいるから、テアは手ぶらだ。

いよいよ本番前となって、テアの心臓はとくとくとその存在を主張していたが、それは嫌な緊張ではなく、演奏前につきものの快い緊張というものだった。

「控室の番号は、三〇五……」

呟いて、階段を三階まで昇りきったところで、テアは廊下に立っていた女性と目があった。

「……すみません、演奏番号二十一の方でしょうか?」

「はい」

学院祭実行委員の腕章をつけたその女性に確認され、テアは頷く。

それに、女性は申し訳なさそうに続けた。

「その……、指定させていただいた控室なのですが、問題がありまして。大変申し訳ないのですが、他の控室を使っていただいてもよろしいでしょうか。ただ今、急ぎ委員が部屋を整えているところなのですが、まだ……」

この学院の学生が、テアにここまで低姿勢というのは珍しい。

驚きつつ、テアは答えた。

「控室を変わるのは構いません。ただ、私の連れが先に来ていたと思うのですが、彼女は……」

「はい、先にご案内しております」

それなら良かったとテアはほっとし、女性に新しい控室まで案内してもらうことにした。

女性は階段を上り、五階の廊下を歩いていく。

階を上がるほどに人の気配がなくなって、祭の喧騒も遠ざかり、テアは何だか妙な予感を覚えていた。

何かがおかしい――と彼女の鍛えられた勘が告げる。

――どうして彼女は、こんなにも……、「怯えている」のだろう……。

前を行く女性の後ろ姿に、テアはそれを感じ取った。

だが確証があるわけではなく、闇雲に相手を疑うのも昔とは状況が違うため気が引ける。

――もしかして、先ほどの言葉は嘘で……、誰かが何かをしようとしている……?

テアをディルクと同じステージに立たせたくない、と彼のファンが考えてもおかしくはない。

だが、その考えはディルクにも大きな迷惑をかけることになるものだ。

警戒のしすぎだとテアは思うことにした。

――まだ、昨日の硬さが残っているのかもしれない……。

やがて、女性は立ち止まった。

「こちらです」

女性は五階の奥の部屋のドアノブに手をかけ、外側にドアを開くと、テアに入室を促す。

「ありがとうございます……」

テアはドアをくぐろうとして、一瞬戸惑い立ち尽くした。

部屋の中が暗かったのだ。

太陽はまだ高い位置にあり、ローゼも先に来ているはずだから、部屋の中を窺えずに目を凝らすという状況は、本来起こり得るはずもない。

誰かが待ち伏せているのか、それとも何かが部屋の中にしかけてあるのかとテアは警戒を強くしたが、それが逆に仇となった。

「あ……っ」

後ろから突き飛ばされ、テアは部屋の中によろめく。

素早くドアが閉められ、暗闇の中にテアは閉じ込められた。

「……っ」

部屋の中には誰もいないようで、テアに話しかける者も襲い掛かる者もなかった。

――まさか……!

テアは急いでドアに飛びついた。

ドアノブを回し、ドアを開こうとして――愕然とする。

ドアには外側から鍵がかけられていた。内側には鍵がなく、開けることができないようになっている。

がちゃがちゃとテアはドアノブを動かしてみたが、やはりドアは開かない。

テアは、閉じ込められたのだ。






テアの現在の状況を分かるはずもないディルクは、ローゼの言葉をもう一度確かめるしか術を持たなかった。

「最初から……説明してくれ、ローゼ。つまり、テアが控室に来ず、お前は今までテアを探していたと、そういうわけなのか」

「そうです……。そろそろ来る時間なのにおかしいと思って、もしかしたらまだ練習室にいるかもしれないと、委員の方に呼びに行ってもらったんです。二人ともしっかりしてますけど、練習ともなると時間を忘れてしまいますから……。行き違いにならないように私は控室に残って、けれど二人ともいなかったと委員の方が戻って来てたんです。すれ違ったか何かかもしれないし、もう少し待てば来るだろうと思っていたのですがやはりテアは来なくて……。だから今度は私が探しに出たんです。練習棟を除けば、今テアがいるとすれば、寮かコンサートホール、もしくは泉の館でしょうから、そこに行くと委員の方に伝言をお願いして、もしテアが戻ってきたら、先に着替えておいてもらえるように……。ですが、心当たりの場所を探してみて、もう一度控室に戻ってもテアは来ていなくて……。あと考えられるのはここくらいで、それなのに……!」

最後にテアがいるとすればここだけだったのに、とローゼは声を抑えながらも悲痛に声を上げた。

おそらくローゼも、ディルクと同じ心配をしているのだ。

テアがこんな時に理由もなく、何も言わず姿を消すはずがない。

リハーサルの時にここには一度来ているから、迷っているということもあり得ない。万が一入学式の時のように迷子になってしまったとしても、学院祭の真っ最中であちらこちらに人はたくさんいるのだから、適当な人間に尋ねればいいだけの話である。

それならば他に考えられるのは、何か事件に巻き込まれたのではないかということだ。

エンジュのリサイタル以後彼女への風当たりは弱くなったとはいえ、嫌がらせは続いていた。

テアに悪意を向ける人間が、彼女をコンサートに参加させたくないと考えても不思議ではない。

テアは彼らの悪意のためにここに来られない状況が生じているのではないか。

ディルクは強く拳を握った。

脳裏にはっきりと蘇るのは、切り刻まれた鼠の死体。

それをおそらく送りつけられたのであろうテア。

何事もなかったかのように、彼女は笑っていたのに……。

彼女があの小さな動物のような目にあっているとしたら――?

ローゼとディルクの小さな、けれど深刻そうなやりとりは、舞台袖にいた人々の顔も曇らせ、周りの声は先ほどよりもずっと小さな囁きとなっていた。

しかし、周りの声がいくら大きくても、今のディルクには聞こえていなかっただろう。

彼の心には、ただテアの安否を思う気持ちしかなかったから。

「……練習棟でテアと別れてから、もう一時間近くになる」

ディルクは誰に言うでもなく呟いた。

「俺が探しに行く。ローゼ、テアが万が一ここに来たら準備を。控室にも誰かを置いて、彼女が来次第連絡をとらせるように。それから、信頼できる役員で手の空いている者にも捜索を頼んでみてくれ」

「え……っ、ディルク!」

言い置いて、ディルクは何より大切にしているはずのヴァイオリンを目の前にいたローゼに預けると、舞台袖から出ていこうとした。

いつもとは様子の違うディルクに、ローゼはますます不安を強くする。彼の鋭い表情が、嫌な予感を裏付けているように思えたのだ。

しかし、今にも駆け出してしまいそうに大股で歩き出したディルクを止めた声があった。

「ディルク、待て」

ディルクの後ろから、二人のやりとりを聞いていたライナルトだった。

「お前はここに残った方がいい」

剣呑な表情で、足を止めたディルクは振り返る。

ここにいる誰もが先ほどとは違う意味で凍りついてしまいそうな迫力が、今のディルクにはあった。

「……止めるな。今はお前の言葉を聞いている暇はない」

「落ち着け。何も分かっていない状況で、お前が行ったところでどうなる。頭に血が昇っていては守れるものも守れないぞ」

ディルクとライナルトの物言いに、ローゼははらはらした。

普段の気の置けない二人の仲を知っているだけに、張り詰めた今の空気は余計に恐ろしいものがある。

ディルクはライナルトに何も言い返さず、険しい眼差しで親友を睨むと、忠告に従わずまた舞台袖から出ていこうとした。こうしている間にもテアが危険なことになっているのではないかと、気が気ではないのだ。

しかしライナルトは、そんなディルクの腕を掴んで引き止めた。

「ディルク」

「邪魔をするな、ライナルト!」

とうとうディルクは声を荒げた。

それは大きな声ではなかったが鋭く強く、その場はしんと静まり返る。

だがライナルトは、周りが蒼くなる中、眉一つ動かさなかった。

「彼女が逃げたと、そんな風に言われるのをお前は許すのか?」

淡々と彼は告げ、ディルクはそれに強く言い返す。

「テアは逃げたりなどしていない!」

「分かっているさ」

ふとライナルトは微笑み、ディルクは押し黙った。

「だが、先ほどローゼがテアがいないと言った時、周りが口にした言葉をお前は聞かなかったのか? お前と共にステージに立つプレッシャーに負けて逃げたのだと……、はっきりと言った連中がいたぞ。この様子では、口に出さなくともそう思っている者も多くいるだろう」

その台詞に、ディルクはようやくここに他の多くの人間がいたことを思い出した。

彼がその場を見渡すと、誰もが俯いて目を合わせようとしない。

ディルクはそれに、激昂を抑えなければならなかった。

エンジュ・サイガのリサイタルで見事な演奏をしてみせた彼女が逃げるなどと、どうしてそんなことが言えるのだろうか。

それがなくとも、テアはそんな少女ではないのに。

「それに加え、ステージを控えているはずのお前が学院中を走り回ったりしたら、口さがない連中がテアをどう言い出すと思う。お前が自ら動けば悪戯に根も葉もない悪評を増やすだけだ。それこそ、今の状況をつくった相手の思うつぼだぞ」

ライナルトは、ディルクがその言葉に耳を傾ける程度に落ち着いてきたことを分かって、掴んでいた腕を離した。

「何より、テアがもしここに来た時お前がいなかったら、彼女が困るだろう。動くのは私がやる。お前はここで指示を出しながら待てばいい」

ライナルトは言い終えて、ディルクが結論を出すのを待った。

ディルクはじっとライナルトの冷静な瞳を見つめていたが、やがて小さく溜め息を吐く。

「……すまない、お前の言うとおり頭に血が昇ってしまっていたようだ」

素直に自分の非を認めるディルクからは、既に先ほどの取り付く島もないような空気は消え失せていた。

こうした潔さは、ライナルトが尊敬するディルクの長所の一つである。

謝るディルクに、眼差しで気にしていないことをライナルトは告げた。

こういう時、自分のことを良く分かってくれる親友がいてくれることをディルクは非常にありがたいと思う。

闇雲に動き回ったところでテアが見つかるとは限らない。

ライナルトが言ったように、冷静になる必要がある、とディルクは反省した。

深呼吸をして一拍置いてから、ディルクは素早く頭を回転させる。

「だが、ローゼが探し回っても見つけきれなかったというのはやはり尋常の事態ではない。考えたくはないが、もしかしたら……」

「ああ。私もその可能性は大きいと思う。だから、協力してもらうならば実行委員ではなく……、役員たちだ」

ディルクは焦る気持ちを抑え、ライナルトとひそやかに言葉を交わした。

「目撃者を探す必要があるな。あとは、人目に付かないような場所の確認を」

「ああ。では行って来よう」

ライナルトは無駄口を叩かず頷く。

「すまない。……頼む」

「いや」

ライナルトは、ディルクの肩を軽く叩き、彼に背を向けた。

早速行動に移そうとするライナルトをディルクは見送る。

すっかり元通りの雰囲気となった二人に、ローゼを含め誰もがほっと息を吐いた。

自分にも手伝えることがあるだろうと、ローゼは何を言われずともライナルトに続き、ディルクもそれを止めたりはしない。親友としてテアを思うローゼは、ここではとても貴重で頼りがいのある存在だった。

ディルクは二人の背中を見つめながら、ローゼから返されたヴァイオリンを強く抱えた。

ライナルトの言葉に納得しているものの、どうしても動かずにいられない衝動はいまだにディルクの中にあって、彼はそれを抑えるのに苦心する。

――テア……!

何事もなく、彼女に目の前で笑っていてほしかった。

こんなにも、切実に誰かを思ったことが、今までにあっただろうか。

こんなにも、失う可能性を苦しいと感じたことが、これまでにあっただろうか。

――失うことなど考えられない……。まるで彼女は俺にとっての音楽そのものではないか……。




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