重奏 8
学院祭二日目は、ますます盛り上がりを見せていた。
外に出された店も昨日に負けない売り上げを見せ、室内でのイベントも多くの人で溢れている。
しかし、やはり一番のメインは、学生たちのコンサートであった。
広いコンサートホールいっぱいに人がつめかけている。
これだけ人が集まるのは、現在活躍している学生・将来有望な学生による演奏と、聴きどころが満載だからである。それに加え、客席にちらほらと有名な演奏家、音楽家の姿を見ることができる、ということも関係しているかもしれない。
コンサートに参加するパートナーの数は毎年二十から多くて三十組程度で、午前の部と午後の部に分けて行われる。
演奏の順番はくじ引きで公平に決められ、テアとディルクは午後の後半、全体を通して二十一曲目に演奏することになっていた。
一方、ローゼとライナルトの二人は午前の部のラストを飾ることとなり、テアとディルクは二人の演奏を聴き逃さないよう、開場の時間から席に座っていた。
「楽しみですね」
「ああ。他の生徒たちの演奏も、勉強になるだろうしな」
かくして、音楽馬鹿な二人は、午前の部が終わるまでの二時間、演奏に夢中になることとなった。
注目度の高いコンサートだけあって、主観的にも客観的にも「できる」生徒たちが参加しているのだろうが、それにしてもやはりシューレ音楽学院のレベルは高いのだな、とテアは改めてしみじみ思ってしまったものだ。宮廷楽団を目指すことがほとんどなのだから、それはそうなのだろうが、実際に生徒たちの演奏を聴く機会はそうないから、実感に乏しかったのである。
また、コンサートホールの音響もよくできていた。聴く方もそうだが、演奏する方も良い音が出せれば出せただけ大きな快感となるだろう、と思えるくらいに。
そうして、時間はあっという間に過ぎ、午前の部もあと一曲で最後となった。
ライナルト、ローゼとピアノ伴奏者がステージ上に現れて、テアもディルクも大きく拍手を送る。
エルガーの「愛の挨拶」は、エルガーが妻に感謝と愛をこめて贈った曲で、その優美な旋律は有名だ。
それを、ライナルトとローゼはゆったりと、奏で始めた。
まずは、ライナルトのソロである。彼は、情感たっぷりにそのメロディを刻み、ふっと笑顔を見せて、ローゼに続きをたくす。
ローゼもライナルトの視線を受けて微笑み、メロディを引き継いだ。まるでその手をとるような、誘いかけるような、音。
やがて、二人の音が重なる。甘く甘く、絡み合い、睦み合う。
その素晴らしい演奏に感動してしまうのはもちろんだが、別の意味でもどきどきして目が、耳が離せない、そんな音楽だった。
しかしそれも、そっと終わっていく。恋人たちが、ただ二人だけの世界へ向かおうとするように。
テアは、そうして交じり合う音を、愛しみ合う者同士がまるで抱きしめあうかのようだと、思った。
そして、大きな、拍手。
自らを夢から現実の世界へ引き戻そうとするようなそれは、誰もの目が覚めるまでしばらくの間、響くことを止めなかった。
「あの二人らしい演奏だったな」
ホールから出て、ディルクは苦笑を覗かせながらそう言った。
「そうですね」
けれど、ライナルトがあそこまで情熱的……というのか、甘い音を出すというのは、テアには少し驚きであった。
リサイタルで初めてライナルトの演奏を耳にした時も、その音の響きに意外の念を抑えきれなかったものだが、それも今日の比ではない。
普段はクールに見えるライナルトだが、心の中はその分誰よりも熱いのかもしれなかった。
「……らしすぎて、伴奏者が気の毒だったがな」
付け加えられた一言に、テアは噴き出しそうになる。
演奏はもちろん素晴らしかったのだが、練習の時から二人の甘さを最も目の前にしなければならなかった伴奏者は確かに気の毒だったかもしれない。ローゼとライナルトとは対照に、もう慣れたと言わんばかりに極めて平然としてピアノの前に座っていた伴奏者の顔を思い出し、テアはディルクと顔を見合わせて笑う。
それから二人は出店で昼食を買い求め、学院祭中はずっと開放されている、構内食堂の空いている席に落ち着いた。
この後、二人は最後の確認練習をしてから、本番に臨むつもりである。
和やかに昼食をとりながら、ディルクは昨日の硬さがとれた、明るい表情のテアにそっと、安堵していた。
午前の部の演奏について話すテアの表情は輝いていて、ディルクも常より言葉を尽くしてテアと語り合ってしまったくらいだ。
「テアっ!」
その談笑のひとときを打ち破ったのは、鉄砲のようにやってきたローゼだった。
ローゼはステージに立っていた時の赤いドレス姿から既に白い制服に着替えていて、いまだ興奮冷めやらぬという様子でテアに勢いよく抱きつく。
「ローゼ、」
テアはローゼを受け止めて、親友を温かく抱擁した。
「お疲れ様です。とても良い演奏でしたよ」
「ええ、自分でも満足できる音が出せたと思います。だからか、何だか落ち着かなくって」
テアはくすりと微笑んだ。
ローゼは一度ぎゅっと腕に力を込めて、テアから離れる。
「でも、テアの顔を見てちょっと落ち着きました。ありがとうございます」
「私は何もしていませんけど」
テアとローゼが顔を見合わせて微笑み合っていると、こちらも制服に着替えたライナルトが優雅な足取りで近づいてきた。
「ローゼ、昼食を買ってきたぞ。……隣の席を借りる」
「ああ」
ライナルトがディルクの隣に座ると、ローゼも礼を言って昼食を受け取り、テアの隣に座った。
「どうだった、午前の部の演奏は」
「今年は例年と比べてもレベルが高いな。聴き応えがあった」
「レベルを引き上げた本人が平然と言うな……」
ライナルトが笑うと、ディルクは表情を硬くした。
「ライナルト、その話は全てが終わってからにしてくれ」
「ああ、分かっている」
ライナルトはそこで意味深にテアを見て微笑んだ。
テアは二人の会話の意味が良く分からずに首を傾げるが、ディルクが今はその話題を避けたそうにしているので追究はしない。
「……テア、そろそろ行こうか」
ディルクはさりげなく食堂に置かれた時計に目をやり、立ち上がるそぶりをみせた。
「はい」
テアは頷き、ディルクと共に立ち上がると、昼食をとりはじめた友人に頭を下げる。
「ではローゼ、すみませんが後でお願いします」
「ええ。本番前に控室、ですよね」
今回のコンサートでも、テアはローゼに着替えの手伝いを頼んでいた。
ローゼはこんな楽しい役を誰にやらせるものかと、テアが頼む前から立候補していたのであるが。
「では、後で」
ディルクは二人に短い別れを告げて、歩き出す。
テアも同じようにして、ディルクに続いた。
残された二人は、消えていく二人の背中を見送って、視線を交わす。
「ディルクがようやく学院のコンサートに参加、か……。二人はどんな演奏を聴かせてくれるのだろうな」
「楽しみ、ですね」
ローゼやライナルトだけではない、多くの人間が各々思惑を持ちながら、テアとディルクの演奏を心待ちにしていた。
テアとディルクは練習棟の練習室に一時間ほど籠り、指を温めると同時に最後の仕上げをした。
後は本番で練習の成果を出し切るのみ、と二人は練習室で頷き合う。
本番前、舞台袖に行かなければならない時間までまだかなり余裕はあったものの、最後の練習を終えた二人は練習室を出て別れ、それぞれコンサートホールの控室へと向かった。
コンサートホールはステージと客席それ自体もかなりの容積を持っているのだが、その裏にもかなりの広さがあって、控室の数も相当なものだ。
今回のコンサートに出場する生徒には小さい控室が一人一つずつ割り当てられていて、テアと別れたディルクは指定された控室でさっと着替えを済ませた。
上質の黒のテールコートは長身で均整のとれた体つきのディルクにぴたりと合って、彼のファンである女性陣が見ればまた卒倒するのではないかという様子である。
よどみなくディルクは格好を整えると、舞台袖へと向かった。
――コンサート本番、か……。
ディルクにとってそれは、待ちに待ったものである。
テアが彼の前に現れてくれなければ、今もまだステージに立つことはできず、他の生徒の演奏を聴くだけで終わっていたかもしれない。生徒会長として、学院祭を仕事だけで終わらせていたかもしれない。
けれど、待つ時間は終わったのだ。ディルクはテアというパートナーを得て動き出すことができた。
テアは失敗できないと緊張していたようだったけれど、本心から、ディルクはテアがもし大きなミスをしても、彼女とならばそれも楽しめるのではないかと思っている。もちろん観客により楽しんでもらうために失敗はしない方が良いし、テアも気に病むだろうから、練習通りに演奏できるのが一番良い。だがディルクは、テアの音があれば、何があっても二人で聴衆に感動を与えられるような音楽ができるのではないか、と思うのである。
テアとならば、とディルクはヴァイオリンを強く握りしめた。
ディルクの胸に光を灯してくれた、あの音を奏でることのできる彼女がいれば、どんな奇跡も起こせるのではないか……。
ずっと焦がれ続けてきた音。その音に出会って尚、光のような音の輝きに焦がれている自分にディルクは気付かされる。
何度でも、あの音と最高の音楽を奏でたい。
けれど、このコンサートが終わってしまったら……。
そう考えると、ずっと待っていたステージだというのに、そのステージをもっと先延ばしにしてしまいたいような気すらする。
すれ違う人々の視線を釘付けにしながら、ディルクは演奏者が集まる舞台袖へと入っていった。
入ってきたディルクに、一瞬で視線が集まる。
ほとんどの女性はディルクを見て固まるか瞳を輝かせるかし、男性ですら彼の姿に見とれた。
ちょうどそこで生徒会副会長として学院祭委員に指示を出していたライナルトは、さすがにディルクとよく似た美貌の持ち主だけあって一人平然としていたが、委員が固まってしまったのを一瞥し、やれやれと肩を竦める。そして、現在行われているステージに響かない程度に手を打ち鳴らした。
「準備の続きを」
はっと我に返った人々は、これは仕方のないことなのだと顔を見合わせて動き出す。
それでもなかなかディルクから視線を外せないところに、ディルクのカリスマ性が現れていた。
ただ外見が美しいだけならば、これほどまでに人を引き付けることはないだろう。ディルクがディルクたればこその、人々の反応なのである。
指示を出して少々手の空いたライナルトは、苦笑を向けてディルクに近づいた。
「早かったな。もう少し遅くなると思っていた」
「ああ。テアの着替えのこともあるから、ぎりぎりになるよりは余裕があった方がいいだろうと思ってな」
「ギリギリの方が、テアは余計なことを考えずに済むかもしれないぞ」
「それはもう、昨日までで終えている」
テアを信頼する瞳で、ディルクは答えた。ライナルトの目に笑みが宿ったが、ディルクはそれに気付かずに生徒会長として副会長に尋ねる。
「……問題は、今のところ起こっていないようだな?」
「ああ。皆、よくやってくれている。気は抜けないが、このままいけば無事に成功させられるだろう」
――しかし、そんな風に誰もが学院祭を楽しんでいる中、ひそやかに悪意は蠢いていたのである。




