重奏 7
ピアノを弾けば少しは気が晴れるのではないかと思ったテアだったが、少しだけピアノに触れて、それは間違いだったと悟った。
音が固い。思い通りにピアノが鳴らない。
テアは早々に諦めて、鍵盤から指を離したのである。
学院祭である今日は、さすがに練習室の予約がどうこうという問題は起きなかった。
だが、そんな時に不調とは、しかも明日が本番なのに、とテアは溜め息を吐くしかない。
外はまだざわめきに満ちていて、テアはピアノから目を背け、そちらに目をやる。
陽は沈もうとしているのに、外は光で満ちていた。
温かく光る、オレンジ色の灯り。
それに何故か、昔を思い出させられて、テアは目を細めた。
こんな賑やかな祭りを、母と楽しんだこともあった、と。
――私は、なんて遠くに来てしまったのだろう……。
母が隣にいてくれた時、テアはそこにピアノがあって、ピアノに触れられるだけで幸せだった。
母が笑ってくれたから、いつだってピアノを弾くのは楽しいことだった。
けれど、母がいなくなってしまった、今。
楽しいだけではいられない自分がいる。
怖い、と思うのは、魔の手がすぐそばに伸びてきた時ばかりだったのに。
――私は、変わってしまったのだろうか……。
明日の演奏も楽しみたいのに、心が委縮してしまっている。
どうしたらいいのだろう。
テアは途方に暮れた。
その時。
コンコン、とノックの音がした後で、静かにドアが開く音がして、テアは振り返る。
「……ディ、ルク?」
そこにいたのが、思いがけない人物で、思わずテアは立ち上がっていた。
「どうしてここに?」
「ここだけ明かりがついていたから、気になってな」
ディルクはテアの方へ近づきながら、気さくに答えた。
「それは……すみませんでした」
テアは恐縮したが、ディルクは笑って首を振った。
「謝る必要はない。こちらこそ、邪魔をしたか?」
「いいえ。少し驚いただけです」
「俺も少し驚いたな。お前がピアノを目の前にして弾いていないというのは珍しい」
「そんなことは……、」
ない、こともない……。
テアは否定できずに黙る。
ディルクの口調が重くないのがテアにとっては幸いで、ディルクはそれを見越してわざと軽く言ったのだ。
「……何か、あったのか?」
テアが返答できないでいると、ディルクは一歩、踏み込んできた。
それは絶妙なタイミングだった。
テアは静かにディルクを見上げる。
テアを見つめてくるディルクは、もう笑っていなかった。
ただ、優しく、真摯な眼差しをテアに向けてくれていた。
彼は、とテアは悟った。
テアのことを心配して、今ここにいてくれるのだ、と。
「その……」
テアはぎゅっと手を握った。
彼女は、自分の屈託を他人にすぐに打ち明けられるようには、できていないのだ。
ディルクはそれを分かっていたから、ただじっとテアの言葉の続きを待った。
「明日のことを考えたら……」
テアは躊躇いながらも、口を開く。
ただ、ディルクの目を見返すことはできなくて、外の賑わいをその瞳に移しながら。
「失敗できないと思って、緊張してしまって……」
言ってしまえばそれだけのことで、ディルクに呆れられてしまうのではないかと、テアは何だか恥ずかしくなって俯いた。
しかしディルクは、そんなテアに真っ直ぐな言葉を返してくる。
「何故、失敗できないと?」
「それは……」
何と言えばよいのだろうか。
「おじさん」が聴きに来てくれるから。それもある。
だが、おそらくテアが一番「怖い」のは、ディルクに失望されてしまうことだ。失望感を、彼に与えてしまうことだ。
ディルクは、ずっと「夜の灯火」を演奏したかったのだと言った。
理想とするピアノを得て。
テアは、その音を持っているのだと、ディルクは言う。
だからテアは、自分なりの演奏をすればいいのだとそう思っていた。
けれど、本番でミスをしてしまったら。
ディルクの今までの期待を壊してしまうことになるかもしれない。
ディルクはテアが失敗しても責めるようなことはないだろうけれど、テアがその期待を裏切るようなことをしたくないのだ。
また、失敗すればテアに反感を持つ者はここぞとばかり彼女に厳しい非難を集中させるだろう。それは自業自得だから、テア自身が何を言われても仕方がない。けれど、ディルクの隣に立つにやはりふさわしくなかったと、その言葉は言われたくなかった。それは、ディルクの目が曇っていたと、彼を非難する言葉だからだ。
だからテアは、失敗したくないと思う。
ディルクの期待に応えたい。
尊敬するディルクの隣に、堂々と立ちたいのだ。
だが、本人の前でそんなことを全て曝け出せはしない。
テアは口ごもってしまったが、ディルクがフォローするように言葉をくれた。
「……まあ、確かに、明日のコンサートはサイガ先生のリサイタルよりも大きいものだし、場慣れしていても、やはりどうしてもかたく考えてしまうな。大御所も多く訪れるし」
テアは否定もできず、曖昧に頷いた。
「だが、テア、俺たちには他にはない強みがある」
「強み、ですか?」
「ああ」
ディルクははっきりと頷いた。
「俺たちがやるのはオリジナル曲だ。譜面をちゃんと見たことがあるのは俺たちの他にサイガ先生くらいだろう。つまり……」
「はい」
「もし間違っても、自分は間違っていないという顔をしていれば、誰も気付かないということだ。少しくらい不審に思われても、正しいと言い張れば良い。だから、失敗を恐れるな」
「は……、」
真剣にディルクの言葉を聞いていたテアは頷きかけて、それでいいのか、と思った。
思わずディルクを見返すと、彼の瞳は面白がるような色を湛えている。
「ディルク!」
からかわれたと思ってテアが声を上げると、ディルクは少し笑った。
「間違ったことは言っていないぞ?」
「そうかもしれませんけど、」
「それくらいの心意気でいい、ということだ。実際何かあればちゃんと俺がフォローする。もし俺が失敗した時は、お前にフォローしてもらうことになる。一人ではなく、二人で立つんだ。だから、失敗しても互いに補えばいい。それだけのことだよ」
ディルクは至極あっさりと大切なことを言ってのける。
ディルクとの言葉のやりとりで、テアの心は随分軽くなった。
けれどまだ彼女がどこか浮かない様子なので、ディルクはぽんとテアの肩を叩いた。
「では、本番失敗しても平然としていられるように、失敗する練習をしておこうか」
「え……?」
「そこに座って」
ディルクはテアをまたピアノの前に座らせた。
そして自分は、もうひとつこの部屋に設置されているアップライトピアノの方に座る。
「あの、ディルク……?」
「俺がこちらで弾くのに合わせてくれればいいから」
「あの、だから何を……」
戸惑うテアに構わず、ディルクは鍵盤に指を置いた。
――あ……、ディルクの、ピアノ……。
それを聴くのはリサイタルの時以来である。
あの時は扉越しだったので、直に聴くのはこれが初めてだ。
テアは一瞬戸惑いも忘れ、二小節ほど、ただただ聴き入ってしまった。
ディルクが弾き始めたのは、「夜の灯火」のピアノ譜……つまり、いつもテアが担当する部分である。
もしかして、とテアが思っていると、その箇所でディルクはテアを振り向いて合図した。
やはり、と思ってテアは焦りながら鍵盤に手を伸ばす。
ディルクは、テアにヴァイオリンのパートをやれと言っているのだ。
――やるしか、ない……!
テアは、初見が得意な方であるし、楽譜も暗譜しているし、毎日ディルクの演奏を聴いてきた。だが、さすがに突然ヴァイオリン部分を弾けと言われてすぐさま対応するのは難しい。
テアはいつも以上に集中して、ディルクのピアノに少しでも合わせられるように食いついていった。が、ところどころミスを重ねてしまう。表現のことなど考えている暇はない。ただディルクの音についていくばかりだ。
――だが、やはりすごいな、テアは……。
ディルクはそれでも、ちゃんと追いかけてくるテアに驚きを禁じ得ない。テアの実力は分かっていたが、もっと苦戦するだろうと思っていたのに、予想以上に形になっている。本番がこれでもいいかもしれないと思うくらいだ。
やがて、曲は最後の小節を迎え、最後まで何とか弾き切ったテアは、肩で荒く息を吐いた。
振り向いたディルクは、疲れているテアの様子に笑いを零す。
「どうだった?」
「……ハードでした……」
集中していた分、余計なことは考えずに済んだけれども。
「だが、あれだけ失敗しておけば、本番で少しくらい何かやらかしてもどうということはない、という気持ちになるだろう? 誤魔化し方も覚えただろうし」
本当にそれでいいのか、とアは思ったけれど、ディルクの笑顔を見ていると、少しくらい失敗してもいいかという気持ちになってきて、テアは破顔していた。
「そうかもしれません……、ね」
二人はそして、顔を合わせ声に出して笑い合った。
そうこうするうちに、外でも学院祭第一日目が終わろうとしていた。
ピアノを片付けていたテアは、ようやくそのことに思い当って、慌てて顔を上げる。
「そう言えばディルク、今更ですけど、お仕事は……!」
「ああ、それならちゃんと終わらせてあるから、大丈夫だ。どうやら、一日目は無事に終わりそうだな」
ディルクは安心させるようにテアに微笑みかけた。
邪魔をしていないのならば良かった、とテアは呟いて、
「明日も、恙無く進むと良いですね」
「ああ……」
ピアノを整えたテアは、また外に目を向けた。
その、輝く黄金の瞳に外の明かりが写り込んで、まるで本当の光のように美しい、とディルクはその揺らめきに見とれる。
そしてその瞳がディルクの方を向いて、今度は彼の姿を映し出した。見透かされるような気持ちになって、けれど目が離せずに、ディルクはその瞳に息を呑む。
「……ディルク?」
「……いや、そろそろ行こうか」
一瞬ディルクの様子に違和感を覚えたものの、テアはその言葉に頷いて、二人で練習室を出た。
暗い廊下を、外からの明かりを頼りに二人は歩いていく。
「今晩は、よく眠れそうか?」
「はい」
余計な肩の力は、ディルクのおかげで抜けていた。
テアの気負いがなくなっているのは、ディルクの目にも明らかで、少しでも彼女の不安が晴れたのならそれでいい、とディルクは思う。
「ディルクのおかげです。ありがとうございました」
「明日、今日と同じことをやってみるのも面白いかもしれないな」
「……それはお願いですから止めて下さい。ヴァイオリンで急にピアノ部分を弾き始めたりしないでください」
テアがぶるぶると首を振ったので、ディルクは笑った。
「では、明日に備えて今晩はゆっくり休め」
「はい」
男子寮と女子寮の別れ道で、二人は立ち止まる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
このまま別れたくないような気持ちに襲われたけれど、だからこそ振り向かずに二人は自分の部屋を目指した。
――明日は、ディルクと音楽を楽しみましょう……。先ほど、夢中になって、楽しんだように。
『おやすみ』、と何故か甘く感じられたディルクの言葉を反芻しながら、テアは学院祭一日目をそうして終えたのだった。