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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第4楽章

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重奏 6



「す……ごいですね」

学院の広い敷地内に広がる店の数々を前に、テアは半ば茫然と立ち尽くしていた。

あっという間に時は過ぎ、既に学院祭当日である。

前日から準備の様子は見ていたが、やはり本番の活気とは比べ物にならない。

正門は堂々と開け放たれて、次から次に人がひっきりなしにやってくる。

そんな人々のざわめきと、客引きの声、そして演奏が学院中に満ちていた。

テアは国内をずっと旅してきた経験があるが、この学院祭の規模は国外でも有名なこの国のいくつかの祭にも劣らない。

学院祭の雰囲気に呑まれているテアを見て、ローゼは笑って声をかける。

「さ、テア、いつまでもぼーっとしていないで、行きましょう! 明日はコンサートで回る暇なんてないでしょうから」

学院祭は二日に渡って行われ、テアやローゼが参加するコンサートはその二日目を一日使うものである。

ローゼはだから、今のうちにめいいっぱい楽しんでおこうと、テアの手を引いた。

所狭しと並ぶ露店では、雑貨から食べ物までたくさんのものが売られている。工芸品やアクセサリーがあれば、神誕祭を一か月後に控えて、そのための品を置く店も多い。食べ物ではザッハトルテやシュトーレンなどの焼き菓子、ステーキサンド、ソーセージ、ジャガイモのパスタ、美味しそうな料理がその匂いで客を引き付けている。成人向けには、ビールやグリューワインを振舞うところもあった。

「こんなにお店があると、どれを買うか迷っちゃいますね」

「本当に」

ざわめきに声がかき消されないように、大きな声で会話しながら、ローゼとテアはたくさんの店を見て回った。今日ばかりは、テアもいつもより財布の紐を緩めている。

「あっ、テア!」

テアたちがアクセサリーの店から離れたところで、テアを呼ぶ声がして、彼女たちは声がした方を探した。

「フリッツ!」

そこに友人の姿を見つけて、テアとローゼは人波を縫う。

フリッツは焼き菓子を扱う店の売り子をしているようだ。パティシエ風に白いエプロンを身につけている。

「フリッツもお店を出していたんですね」

「うん、サークルの一年生で。どう、テアたちも買っていかない? 安くしておくよ」

「後でうちのお店にもお金を落としにきて下さるなら」

ローゼは笑ってそう言って、フリッツは苦笑した。

ローゼは調理部所属であるが、調理部の喫茶店は毎年かなりの人気なのである。

「何だか、自分たちの店に自信がなくなりそうなんだけど」

ふふ、とテアとローゼは笑って、ベルリーナ(ジャム入り揚げパン)を一つずつ買った。

まだ作りたてのそれはほくほくとして、その美味しさに笑みがこぼれる。

「とても美味しいです」

「それなら良かった」

テアの素直な言葉に、フリッツは少し頬を赤くしながら安堵した。

その様子を見て、ローゼはふと問いかける。

「フリッツは、いつまでここに?」

「今日は昼までで終わりだけど……」

「その後、他の友人と約束がなければ、いっしょに回りません?」

「えっ……」

フリッツはローゼを見、テアを見、何故か挙動不審になった。

「いいの、かな。僕なんかで……。その、ディルクさんやライナルトさんは?」

「二人なら学院祭の雑事に追われて、せっかくのお祭りでも遊ぶ暇なんてありませんよ」

ローゼが肩を竦めると、ローゼの提案に一瞬驚いたような顔を見せたテアも、深く頷いた。

「大勢の方が楽しいですし」

「三時からは私も店の手伝いがあるんです。その時、テアと一緒に来て下されば、サービスできますよ」

「それに、ローゼが店番に入った後私は他に回る人がいませんから、フリッツがいて下されば嬉しいです」

「ぼ、僕でよければ!」

テアの言葉に、フリッツは勢い込んで頷いた。

ローゼは満面の笑みで、

「それでは決定ですね。昼まで、ということは後一時間くらいでしょうから、その頃にまた寄ります」

「分かった」

「ではフリッツ、また後で」

「うん」

フリッツに手を振って、テアとローゼはまたメインの通りに戻っていく。

――ディルクのことは、分かっているのですが……、何だかフリッツを見ていると、こう、不毛だと分かっていても応援してしまいたくなるんですよね……。

ローゼは内心とても残酷なことを呟きながら、親友を見た。

楽しみですねと笑う彼女は、全くフリッツの想いには気づいておらず、良い友人だとばかり思っているようである。

「ローゼ、どうかしましたか?」

無言でローゼが見つめてくるのを不審に思ったテアが首を傾げると、ローゼは何でもないと首を振った。

「……テアは、できればそのままでいてくださいね」

「はい?」






賑やかで楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。

学院祭一日目がラストに向けてまた一段と賑わしくなる中、明日の準備があると言うフリッツと別れて、テアは誰よりも先にひっそりと静まる寮に戻ってきていた。

彼女も、明日に備えて早めに休もうと思ったのである。

寮の外に響く喧騒を聞き、祭りの余韻にぼんやりと浸りながら、テアは入り口から入ってすぐのところに設置されている自分のメールボックスを確認する。

今までこのメールボックスにまともな手紙が入っていたことは一度もない。

モーリッツからの手紙は来るがいつもローゼ宛のものに同封されているし、「あしながおじさん」の手紙は学院長の秘書がいつも渡しに来てくれるからだ。

では、まともでないどういった類の手紙をこのメールボックスが受け取っているのか、というと――。

――こんな日にまで、よくもわざわざやるものです……。

テアは呆れながら、一通の手紙をメールボックスから取り出した。

送り主の名がないそれは、もう飽きるほど毎日のように受け取り続けてきた、嫌がらせの手紙だった。

最初は、不幸の手紙だった。

しばらくそれが続いて、やがて中傷や罵詈雑言が混ざるようになっていった。

テアの名を書いた紙を引き裂いたものもあった。

他にもたくさんのレパートリーで送りつけられて、いっそ感心しているくらいである。

そして今は……。

「これはまた、少々値のはるものを……」

一見普通の手紙に見えるが、その中にどうやら薄い刃物を仕込んでいるらしい、とテアは慎重にそれを確認する。無防備に開ければ指を傷つけていただろうが、テアはその点人よりもずっと慎重で、色々な経験もあるから、問題はなかった。

これは、中身を売れば多少家計の足しになりそうだ。

今度街に出る時に持っていこう、とテアは手紙をバッグにしまって、ふと明日のことを思った。

嫌がらせの手紙の送り主が単数か複数かは分からないけれど、おそらく明日、「彼ら」はテアの演奏を聴くだろう。

テアがここにいても良い存在か、ディルクの隣に立つことを許されるべき存在か、それを確かめるために。

――だから、失敗は、許されない。

テアはそう思ってしまって、ぎくりと身体を強張らせた。

人前で演奏すること自体は、テアに大きな影響を与えない。

誰かに楽しんでもらい、そして自分も楽しんで演奏ができればそれでいい。

けれど、その演奏に他の要素が関わってくるのなら……。

エンジュのリサイタルでは、迷いを振り切るため、演奏だけに集中する、それで良かった。エンジュも、余計なことをテアに考えさせないようにしてくれた。

けれど明日のコンサートは違う。

ディルクと同じステージに立つのだ。ディルクの足を引っ張るわけにはいかない。

テアの実力をはかろうとする生徒たちが、テアを試している。

テアをこの学院に来させてくれた、「あしながおじさん」もテアの演奏を聴きにきてくれる。

失敗できないというプレッシャーが、ここにきてテアを襲った。

ディルクと練習を重ねていた時間はただ楽しくて、コンサートで演奏することの意味を、テアは多分、ずっと考えないようにしてきたのだ。

ここまで緊張するのは入学試験の時以来だと思うが、あの時はまだこんなに心が重くなることはなかった。この学院に入学できたら、と願っていたけれど、入学できない方が、ひっそりと、フォン・オイレンベルクから隠れて生きていけると、それが事実としてあったから。

ふぅ、とテアは小さく溜め息を吐く。

彼女はこの時、早めに部屋に戻ってゆっくり休み、明日に備えようという考えを捨てた。

胸が塞いだまま部屋に戻っても、ゆっくり休むことなどできない。変に思い詰めてしまうだけだ。ローゼがいてくれるならまた違うだろうが、ローゼは調理部の出店で遅くまで戻れないだろうと言っていた。

「……きっと、今なら――」

テアは呟いて、部屋の方に行きかけていた足を反対方向に向けると、誰もいない静かな廊下を一人、真っ直ぐ歩いていった。






夕刻。

喧騒を背後に、ふ、と顔を上げたディルクは、怪訝そうな表情になった。

寮の共同棟の一室に明かりがともっている。

練習室の一室だけだが、誰かが練習しているのだろうか。

この、学院祭の最中に。

もしかしたら明かりの消し忘れかもしれないと、ディルクは寮に足を踏み入れていた。

新学期が始まってから学院祭の準備を進めてきたディルクたちだったが、やはり今日が一番忙しい日だったかもしれない。

朝からミスの調整をしたり、突然のハプニングに対処したり、揉め事をおさめたり、とにかく些細な問題から大きな問題まで、枚挙に暇がないのである。

しかし明日のコンサートに集中するために今日の仕事を詰め込んだところがあるので、文句も言っていられない。

先ほど最後の見回りを終えて、疲れた様子のディルクを気遣った後輩たちが少し早く今日の仕事から解放してくれ、ようやく肩の力を抜いたところだった。

まだ寮に帰っている生徒は少ないようで、人気が全くない階段をディルクは上がり、先ほど見咎めた部屋へ向かっていく。

明かりが零れる部屋にディルクは近づいて、足を止めた。

ドアのガラス越しに見える人影は、間違いなく彼のパートナーで、少し驚く。

彼女はピアノの前に座っているというのに、ピアノには背を向けて、その後ろの窓から外を眺めているようだった。

珍しい、とディルクは思う。ピアノを目の前にすれば触れずにはいられないようなところがあるテアなのに、そのピアノに背を向けているとは、と。

何かあったのだろうか。

昼頃にその姿を見かけた時は、とても楽しそうにしていたのに。

まだ太陽が空の真上にあった時分、ディルクは実行委員のエッダと共に会場の見回りをしていた。

テアを見たのはその時で、ローゼと、それからフリッツと三人で店を見て回りながら無邪気な様子で笑っていた。

他の客も、そうなのだけれど。テアがあんな風に笑って楽しんでくれるなら、こうして祭の最中も仕事を頑張る甲斐がある、とディルクは遠くからそう思っていたものである。

けれど、それと同時に思い出す感情があって、扉一枚隔ててテアを見つめるディルクは、小さく息を漏らしていた。

あの時、ディルクは確かに矛盾する思いを持ったのだ。

仕事がなければ、テアのすぐ隣で、あの笑顔をずっと見ていられたのだろうか、と。

そして、その時、何を馬鹿なと自分の思いを否定しようとして、ディルクは見た。

人込みに流されそうになったフリッツの手を、ローゼとテアが掴む、その瞬間を。

彼女たちは顔を見合わせて笑って、うろたえるフリッツの手をそのまま引いていた。

あの時に胸を覆った感情は、一体何だったのだろうか。

触れるなと、そんな言葉が喉に詰まったように感じたのは、錯覚だったのだろうか。

考えに沈みテアから視線をそらしたディルクだったが、すぐに視線を戻してテアを捉えた。

――いや、今は俺のことはどうでもいい……。

曖昧な形を見せて困惑させる自身の思いに蓋をして、ディルクはテアの後ろ姿を見つめた。

何か、違和感を覚える。

いつもよりもずっとその背中が小さいような、錯覚。

そう思えるだけなのか、分からない。

けれど、

――独りだ。

ディルクは確かにそう感じた。

ひとりでいたいのかもしれない。

けれど、そうさせたくない。

ディルクは、思ってすぐにそれを実行した。

扉をノックして、鍵の掛かっていなかったドアを、開いた。




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