重奏 4
しばらくの間、馬上で他愛もない話をして笑い合いながら、テアとディルクはゆったりとした時間を過ごしていた。
毎日時間に追われていた二人には、本当に良い息抜きになったようである。
この乗馬クラブは広く、ほとんどまっすぐやってきた彼らだったが、まだその終わりには辿りつかないようだ。
時折、他の客が馬を走らせたり、ジャンプするのを眺めながら、リズミカルに進んでいくカイザーの足並みを二人は楽しんでいた。
しかし、しばらくしてふと会話が止み、テアが寄りかかってきたので、ディルクは首を傾げた。
「……テア?」
心地良さゆえか、テアはうとうととしていた。
これは珍しい、とディルクは思う。
テアは生真面目な性質で、普段から居眠りをしているところなど見たことがないし、ローゼも「テアは警戒心が強い」とよく口にしているから。
ローゼの言葉を、最初はそうだろうかと、ディルクは疑問に思ったものだったが――。
今では、ローゼのその言葉がよく理解できる。
テアは時折抜けたところも見せてくれるが、基本的にはとても慎重な性格だ。言葉の選び方や、行動の端々から、ディルクはそれを感じ取っていた。
謙虚すぎる言動も、もちろんテアがもともと控えめということもあるのだろうが、引くことで相手から離れ、相手のことをよく見て、判断するための一つの手段でもあるのではないかとディルクは思う。
ローゼや親しい人間といる時にはそういった警戒の態度は薄れるものの、テアはとても堅い鎧や盾のようなものを、その心にしっかりと持っているようだと。
しかし、テアがこうしてディルクの前で気を緩めてくれるということは、彼女はディルクに少しでも気を許してくれているということだろう。
ディルクは、無防備なテアの様子が嬉しかった。
カイザーの背に彼女が乗った時もそうだ。
初めてのことで少し怖そうな顔はしていたが、ディルクに対する不信は全くなかった。
むしろ頼るように手を握られ、ディルクは本当に嬉しかったのだ。
けれど、それと同時に、少々動揺を覚えたのも事実である。
まるでディルクがテアを抱きしめるかのような格好で、これまでになかった接触に、ディルクの心臓は早くなっていた。
触れることに躊躇いも嫌悪もない。
それなのに、どうしてこんなに落ち着かなくなるのだろうか……。
ディルクはそのことに戸惑いを覚えていた。
テアの前では、そんなことはおくびもださなかったけれど。
学院では、音楽に関することばかりで、テアと接してきた。いつもとは違う状況だから、こんなにも落ち着かないのか――。
「カイザー」
ディルクは馬を止めた。
意識のないテアをこのまま乗せて歩くと、彼女が滑り落ちてしまう危険性もある。
ディルクは力強くテアを支えながらカイザーから降り、テアを抱き上げて下ろした。
テアが起きるだろうか、と心配したが、驚くほどにテアは無防備にディルクに体重を委ねるばかりだ。
ディルクは少し迷ったが、近くの木陰に入り、腰を下ろして自分の足を枕にテアを寝かせてやった。
カイザーは自由になってもどこへ行くこともなく、忠実にディルクについていく。
そして座りこんだディルクに、そっと頭を撫でつけた。
「すまないな、しばらく休憩だ。あとで少しでも、思い切り走れる時間をつくろう」
気にするな、と告げるようにカイザーは静かに瞬きをした。
ディルクから少し離れて、彼は気を遣うようにその木の側から少々離れた位置で草を食む。
ディルクは主人のことを良く分かってくれる愛馬に感謝して、テアに視線を向けた。
木漏れ日の下のテアは、普段の理知的な瞳を瞼の下にしまっていて、ややあどけなく見える。
「疲れが溜まっていたのだろうか……」
何故か胸を掴まれるような思いがして、ディルクは誤魔化すように小さく呟いた。
目の前のテアは、ディルクの側で安らいでくれている。
それは、ディルクもそうだった。
その存在に癒されている自分を感じる。
テアのピアノが魅力的で、パートナーになった。彼女のピアノが好きだった。
だが、テアのピアノだけではない、彼女の存在、それ自体に惹かれている。
とても、大切な存在だ。
ディルクはそれを実感していた。
馬を走らせ、ローゼとライナルトはそろそろディルクたちと合流しようと、来た道を戻っていた。
「あの二人、少しは進展したでしょうか……」
「やはりそれが狙いか、ローゼ」
「だって、傍から見てると丸わかりですけど、本人たちがどうにも鈍感すぎて……。余計なお世話だと分かっていても、もどかしくてやっちゃうんです」
テアとディルクに相乗りを進めたのは、初心者のテアにとってディルクがいてくた方が頼もしいだろうし、よりパートナーの絆を深められると考えたからなのだが、やはりそういう理由もあったローゼである。
「ディルクは、宮殿にいた頃からそういった類のことははね退けていたからな……。権力を笠に着て女性を思い通りにしようとする馬鹿もいるが、大きな権力があればある程、些細な行動にも気をつけなくてはならない。ほんの小さなことが、多くの人の人生を変えてしまうことに繋がりかねない……。恋愛も個人の自由になるものではなかった……」
それはライナルトもそうであったのだろう。
ローゼは気遣わしげに自分のパートナーを見つめた。
「それに、皇族や貴族というものには正妻を持ちながら愛妾を側に置くことが慣習としてある。父を……、いや、皇帝やその皇妃たちを見ていれば、無意識にでも意識的にでも遠ざけたくなる気持ちは分かるさ」
淡々と、父や母のことをまるで他人のように、ライナルトは言った。
「――でも、今のあなた方は、ただの『ライナルト』と『ディルク』ですよ。身分にも縛られない、自由な……」
フォン・シーレを捨てても、皇族の一員であったという過去が消えるわけではないし、流れる血は間違いなく皇族のものだ。言葉にしたように、簡単なものではない。
それを分かりながらも、ローゼはきっぱりと言った。
ライナルトはだから、微笑む。
「ああ。私たちは自由だ。そうでなければお前ともこうしていられなかった。……だから私も、あいつのことを応援したいと思っている。お前がテアを応援したいのと同じに」
「そうですよね!」
俄然、ローゼは張り切った。
そうしているうちに、二人はふと視界の隅に立派な黒馬を認めて、スピードを落とす。
「カイザー、ですよね?」
「ディルクたちはどこへ……」
言いかけて、ライナルトは口を噤み、ローゼもすぐに探す二人の影に気付いた。
一本の木の陰、ディルクがその幹に凭れて座り、その膝を枕にしているテアの姿がある。
どうやら、二人ともまどろみの中にいるようだった。
「作戦が少しは功を奏したようじゃないか、あんな風に二人で……、」
「……テアが、あんな風に眠るなんて……」
ローゼの言葉に、隠しきれない喜びと驚きとショックの響きがあって、ライナルトはローゼを見つめた。
「どうした」
「いえ……その、テアは、眠れないはずなんです。こんなに近くに人がいるところでは……」
その言葉に、ライナルトは怪訝そうな顔になる。
「だが、お前たちは今までも共に暮らしてきたのだろう? 今もルームメイトじゃないか」
「ええ、そうなんですけど……」
今は、テアはローゼの側でも眠ってくれるようになった。
だが、出会ってから随分と長い間、テアは近づけばすぐに起きてしまうほど、ローゼすら強く警戒していたのだ。
地面に耳をつけて、人が近付けばすぐに起き上がれるようにして、あの頃のテアは眠っていた。ベッドの上では眠らなかった。
テアが唯一心を許していたのはカティアだけだったが、そのカティアも床に伏すことが多く、テアはカティアを守れるようにいつも身を固くしていた。
ローゼは根気よくテアと過ごす中で、テアの心を解きほぐしていったのである。
テアがああしてディルクの傍で眠りについているということは、テアのディルクへの想いはますます明白なように思われた。
ローゼが、親友の想いを応援したいというのは、本音である。
少しでも、テアが心を開く人間が増えたということは喜ばしい。
しかし、出会ってからそう経っていないはずのディルクが、そこまでテアに信頼されていると思うと、ずっとテアの側にいたローゼとしては、複雑な気持ちにもなるのだった。
一方、そんなローゼを見つめるライナルトは、テアには一体どういった「秘密」があるのだろうかと考える。
テアのことが二人の間で話題にのぼる時、時折こうしてローゼは言葉を濁すことがある。エッダ・フォン・オイレンベルクのことが最初に話題になった時もそうだった。挙げようと思えば、気にかかることは多い。
テア自身はディルクのパートナーとして申し分ないが、もしテアに関わる「秘密」がディルクに何かしらの害となるならば、前言を撤回してでも、ライナルトは親友を守るためにテアを彼から引き離すだろう。
ディルクのためにもテアの「秘密」をはっきりさせたいとライナルトは思っていたが、しかし無理強いはしたくない。
今は、テアを見そめたディルクの目を、自分の人を見る目を、テア自身を信じたいと思っていた。
何よりライナルトはローゼを泣かせたくないので、結局のところ、ディルクとテアの味方につくより他にないのだが。
ローゼとライナルトが、それぞれ親友たちについて心を巡らせていると、木陰の下の気配が揺らいだ。
「ん……? …お前たち、戻ってきたのか」
目覚めたのはディルクのようだった。
起きたばかりではあるがはっきりした声で、彼は首を馬上の二人に向ける。
「え、ええ。もう大分遅くなってしまいましたけど、皆でランチでもと思いまして」
ローゼは、背負っていたバッグを指して言った。
彼女ははりきって、朝からサンドイッチを作ってきたのである。
「ああ、それなら、テアを起こさなければならないか」
ディルクは少し迷うような、躊躇うような仕草を一瞬見せたが、優しくテアの肩を揺さぶった。
「テア……、テア」
テアは、すぐに目を開けた。
敏捷に彼女は身体を起こすと、警戒するように辺りを見回す。
その様子にディルクとライナルトは少し驚いたが、やがて状況を思い出したらしいテアは、蒼くなり赤くなり、一言。
「す、すみません……!!」
土下座でもしそうな勢いのテアを宥め、四人はローゼお手製の昼食に舌鼓をうった。
食べながらも、テアは身を縮めている。
眠ってしまった上、ディルクの足を枕代わりにさせてしまったことが、非常に申し訳なくて堪らないのだ。いくら心地良かったからと言って、せっかく乗せてくれていたディルクとカイザーに謝っても謝りきれない。
ディルクは、あれだけ寛いでくれて、カイザーも自分も嬉しかったと、笑っていたのだが。
「昨日の夜、なかなか寝付かれないみたいでしたからね」
からかうように、ローゼは言った。
図星のテアは反論できない。ディルクと初めて遊びに出かけるというのがやはり嬉しく、その上ライナルトが「ダブルデート」などというから、どうにも寝付けなかったのだ。
テアが一人、初めての居眠りの失態に小さくなっていると、ライナルトが言った。
「さて、この後はどうする? 帰りの時間までもうしばらく、ここにいられるが……」
「そうだな。四人で湖の方でも見に行くか? 今ならあの辺りは紅葉が綺麗だろう」
「それはいいですね。湖の方には、私たちもまだ行ってませんし」
ディルクが提案し、すぐにローゼが頷いた。
「テアはどうです? ここには他にも色々な場所がありますけど……、」
「そうですね……」
行く時に説明された、乗馬クラブでの見どころを思い出しながら、テアはふとあることを思いつく。しかし、何となくそれを言いあぐねた。
「希望があるなら何でも言うと良い。俺たちはよく来ているが、お前は初めてなのだし……」
テア以外の三人は、その通りだという様子で、テアを見つめた。
う、とテアは躊躇い――しかしやがて、口を開いた。
「……それなら、是非湖の方にも行ってみたいのですが、もうひとつ――」
黒馬にまたがったディルクが、颯爽とテアの前を横切っていく。
綺麗だ、とテアは良く見えるように眼鏡をかけて、それをじっと見守っていた。
四人でゆっくりと湖の近くを散策し、戻ってきた後である。
テアが述べた希望は、こうだった。
一日、ディルクはテアのためにペースを合わせてくれた。
だから、ディルクの思うままに駆けてほしい、と。
それを見てみたいのだと、テアは言った。
だからディルクは、風を切って、心のままに駆けている。
凛と伸びた背筋、まっすぐに前を見つめる眼差し。
あの、たくましい腕の中に、先ほどまで自分はいたのだ。
そう思うと、自然と顔が熱くなった。
ローゼやライナルトのように、ディルクも走って行きたかったのではないか、テアは遠慮した方がいいのかと、最初は少しだけ、思ったのだ。
けれど、あまりにもディルクが優しく微笑むので、楽しそうにしてくれるので、テアはその遠慮を封印した。
だから、ディルクとカイザーが走る姿を見たいと言ったのは、テアの純粋な思いだ。
こうして見つめていられるだけで、幸せだと、テアは思う。
それなのに、それだけでなく、ディルクは、テアに笑いかけてくれ、手を差し伸べてくれる。
幸せすぎて、胸が苦しいような気が、テアはするのだった。
出会ってから、様々なことがあった。
それでも、まだ長い月日が経ったわけではない。知らないことも多くある。
それなのに、こんなにも引き寄せられている自分を、テアは不思議に感じる。
さきほど彼の前でうっかり眠ってしまったことも、自身のことながら、テアは驚いていた。
多少寝不足だったとはいえ、母やローゼ以外の人の前で自分が眠ることができるなど、考えてもみなかったことだ。
小さい頃から追われる生活で、それでなくても女の二人旅だったから、危険なことはたくさんあった。自分を守るために、母を守るために、いつだって神経を研ぎ澄ませていなければならなかった。だから、眠っている時も、何かあればすぐにでも起きられるように……、テアの身体にはその習慣が染み付いてしまっているのだ。
それなのに……。
急速に、ディルクに心を開いていっている自分を、テアは自覚した。
――それ自体は、きっと悪いことではないはず……。私はもう追われる身ではないのだから。もっと、多くの人とこれから関わっていけるのだから……。
けれど、同時に身の竦むような恐怖も感じるのだ。
信頼すること、自分を他人に預けること……。
ずっと追っ手から狙われてきたテアは、母以外の人を信頼するということを知らなかった。
今ではローゼやモーリッツがいてくれるが、やはり信頼できるのは彼らくらいだ。
いつ誰が自分を襲ってくるのか分からない、そんな風に生きてきたテアには、他人を信頼するということは、とても困難で、恐ろしいことのように思えるのだった。
それでも――。
今ある絆を離さず、大切にしたい、とテアは髪を風になびかせ、その瞳にパートナーの姿を映し出していた。