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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第4楽章
20/135

重奏 3



『ディルク…』

微笑んでいる。

あの人が、微笑んでいる。

いつもの気丈な微笑みだ。

寂しさを辛さを押し隠す、綺麗な笑顔だ。

あなたはどうして俺に笑いかけてくれる?

俺はあなたを守れなかったのに。

どうしてそんな風に微笑むんだ?

屈託のないあなたの笑顔を見たいのに。


俺では駄目なのか。

俺は守れないのか。

俺は大切なものを――。




――テア……。






「……ディルク!」

肩を強く揺らされて、ディルクははっと目を覚ました。

目の前に、兄弟であり親友であるライナルトの心配そうな顔がある。

「大丈夫か。魘されていたぞ」

「すまない……」

ディルクはゆっくりと身を起こした。

「それに、ちゃんと髪を乾かさないと風邪をひく」

「ああ……」

その言葉に苦笑して、ディルクは肩に引っかかっていたタオルを頭にかぶせた。

夜である。

シャワーを浴び、ベッドに座ってからそのまま、ディルクは眠ってしまったようだった。

ディルクの次に浴室から出てきたライナルトも、髪に滴がついているのを無造作に拭っている。

思わずディルクが重い溜め息を吐くと、どうした、とライナルトは声をかけた。

「すまない、」

無意識だったディルクは謝り、

「……少し昔のことを思い出してな」

と呟いた。

夢を見ていた。

昔の夢と、それから、今の夢。

昔慕っていたあの人と、テアの微笑みが重なっていた。

あんな夢を見たのは――そう、テアへの陰湿な嫌がらせの一端を見てしまったからだろう。

あんな悪質で、残忍な、人の心をいたぶるような行為を、ディルクは心から疎んじていた。

犯人を探し出して止めさせることも容易ではないから、余計に鬱屈と苛立ちが募るのだ。

一方で、それを隠して微笑むテアがもどかしくてならない。

一線を引かれて遠ざけられているような、寂しさ。

守らせてはくれないのか、頼ってはくれないのかと詰りたくなる気持ちも確かにある。

だが、迷惑をかけたくない、心配をかけたくない、その気遣いが分かりすぎるほどに分かるから、ディルクには何も言えなかった。

結局、テアの隠し事をひとつ知ってしまっても、何もできずいつもと同じように振る舞っている。

何もできない自分が不甲斐なく、ディルクは自分を嘲笑う他ない。

ライナルトは自嘲気味のディルクを横目で見て、そうか、とだけ頷いた。

昔の様々な思い出や思いを、ディルクとライナルトは共有している。

だからこそ、二人に多くの言葉はいらなかった。

「……少し、疲れているのかな」

ディルクは誤魔化すように、そう呟く。

ライナルトは、翳りのある親友の顔を見つめ、事実を指摘した。

「確かに最近、お前は根を詰めすぎだ」

最近のディルクと言えば、日中は当然普通の生徒と同じように授業を受け、学院祭が迫ってきた放課後は生徒会長としてその準備に追われ、さらにその後でテアと学院祭のコンサートに向けた練習をし、寮に戻ってきたと思ったら授業の予習や課題のレポートを仕上げる、という息を吐く暇もないような毎日を過ごしているのだ。

少しは手を抜けば良いのだろうが、ディルクはそれができるような性格ではない。

「あまり一人で背負いこむな。もっと肩の力を抜いた方がいい」

親友の言葉に、ディルクは笑ってしまった。

それは、自分がテアに言いたいことだと。

「……分かってはいるんだが、な」

テアも、こんな思いをしているのかもしれない。

そう考えて少しだけ笑ったディルクに、ライナルトは思案するように首を傾けていた。






「乗馬に?」

テアとディルクの言葉が重なった。

朝の食堂である。

テアとローゼが隣同士で、その前にディルクとライナルトが座っている。

他の寮生たちも授業に間に合うようにと食事をするざわめきの中で、ローゼが元気良く頷いた。

「ええ。明日の休日、四人で行きましょうよ。最近、学院祭学院祭って、何だか切羽詰まったような雰囲気じゃないですか。今こそ、学院祭に備えて、余計な肩の力を抜くためにも、息抜きが必要だと思うんです」

「それは確かに良い考えだとは思うが……、俺たちが付いていってはお前たちの邪魔なのではないか」

力説するローゼに、ディルクはずばりと口にした。

「何を言うんですか」

「何を言うんだ」

赤くなるのはローゼ、平然としているのはライナルトである。

「ダブルデートと言う言葉を知らないのか」

「だっ……」

今度赤くなって絶句したのはテアだった。ディルクも何とも言えない様子である。

しばらく妙な空気が流れたが、持ち直したローゼが話を元に戻した。

「……ともかくですね、皆で行きませんか? 特にテア、入学してからレポートだリサイタルだコンサートだって、ずっと学校に引きこもりったままじゃないですか。せっかく学生の身分になったんです、学生らしくぱーっと遊ぶってこともしなくちゃ損ですよ絶対!」

「そ、そうですね……」

熱意のこもった言葉に、テアは頷くしかなかった。

入学してからずっと学校にいるばかりで、あまり外に目を向けない日々だったことも確かだ。

モーリッツのところにいる時ですら、「逃亡者」であることに変わりなかったテアはそう遠くへは行けなかったし、それ以前はずっと逃げ続ける生活で、純粋に楽しむためにどこかに行くということはしたことがない。

「行ってみたい……、かも、しれません」

ローゼに押されつつも、自分の気持ちとして、テアは言った。

テアが頷けば、あとはもう決まったようなものである。

「ディルクも行きますよね?」

「ああ」

肩を竦め、苦笑を浮かべつつディルクは頷いた。

別に行きたくないというわけではないのだ。

親友たちのデートを邪魔したくないという思いもあるし、休日に予定していた仕事や勉強もあるけれど。

パートナーとして、テアとの絆を深めるために、よりよい演奏をするためにも、ローゼの言う通り息抜きは必要だ。

楽しそうにローゼと笑い合うテアを見て、ディルクはふと微笑した。

「仕事はおあずけだな」

ディルクの微笑みを見て、ライナルトがしてやったりと笑う。

親友とそのパートナーの共謀に、ディルクは潔く乗せられることにした。






そして、約束の休日、四人は学院から少し離れた乗馬クラブにやってきていた。

ローゼやライナルト、ディルクが会員として利用しているクラブだ。

予め約束があったわけではない彼らが顔を出しても、スタッフは笑顔で迎えてくれた。

入って受付をする四人の若者たちの美貌に、他の客たちは手を止めて見惚れてしまっている。テアは他の三人と自身を比べてしまって、少し肩身が狭いような気もしたが、それはいつものことながら、謙遜というものだった。

今日の四人の服装は、乗馬にふさわしいものだ。

上から、ポロシャツに、キュロットに、ブーツ。

普段の制服と比べれば身体の線が分かりやすい服装で、ほどよく筋肉のついた、均整のとれた体つきのディルクとライナルトはそれが強調されて見えた。

ローゼも、長い髪を高いところでまとめて凛々しい装いとなっている。

普段と一番ギャップがあるのはテアだった。ローゼのようにポニーテールにはしていないものの、髪をひとつにまとめ、眼鏡を外し、綺麗なプロポーションが明らかになっている。

制服やドレスとはまた違った、爽やかな姿がディルクの目に眩しかった。

スタッフに案内されて、四人は厩舎に入っていく。

迷わず、ディルクは身体の大きな黒馬のもとへ、ライナルトは白馬のもとへ、まっすぐに向かった。

実は二人が目の前にする黒馬と白馬は、二人が宮殿を出る際に連れてきた、幼い頃からの二人の愛馬なのである。二人で馬小屋を所有管理することはできなかったので、この乗馬クラブに預けてあるのだ。名は、黒馬の方をカイザー、白馬の方をユリウス、という。二頭は、久しぶりに会う主に親しみをこめて頭を寄せていた。

一方、ローゼには、その希望にかなった鹿毛の馬をスタッフが選んで引き渡している。

問題は、初心者であるテアだった。

「こちらでしたら、特に優しい気性ですし、初心者の方にも気軽に乗っていただけると思いますが……」

そうスタッフが薦めてくれ、少し不安に思いながら、テアは親友にどうだろうかと目で尋ねた。

「そうですね……。一人で乗ってみるのもいいかと思いますけど……」

ローゼは考えるような顔で、

「とりあえず今日は、ディルクと相乗りしてみる、というのはどうですか? せっかくパートナー同士で来たのですし」

一人で挑戦してみるならば、初心者であるテアにはスタッフがついてくれることになるだろうが、そうなると慣れているディルクといっしょに、ということにはならない。ディルクもテアに乗馬を教えることはできるが、彼もカイザーを走らせたいだろうし、そうすると相乗りという手段が最も良いようにローゼには思えた。

「カイザーなら、相乗りしても大丈夫ですよね。どうです、ディルク?」

「ああ、俺は構わない」

ローゼはにっこりと笑って、

「そういうことで、テア」

「え、え、え、えっと……?」

思わぬ事態に、テアはうろたえた。

「じゃあ、私とライナルトは先に行ってますから。二人は二人でゆっくり楽しんでくださいね」

「ローゼ、」

ローゼは馬を引いて外に出ると、ひらり、と馬にまたがり、苦笑するライナルトと共に駆けて行ってしまった。

颯爽と駆けていく二人は凛々しく見惚れてしまうものがあったが、残されたテアはこれからディルクと相乗りするという状況で置いていかれて、茫然としてしまう。

「それでは、お二人で行ってらっしゃいませ」

スタッフも何事もなかったかのようにディルクとテアに頭を下げて見送ろうとし、ぎくしゃくとテアはディルクを見上げた。

「とりあえず、外に出ようか」

「は、はい……」

慣れぬテアは、もうディルクに従うしかない。

二人と黒馬は、広く広がる草原の一隅に佇んだ。

固くなっているテアに、ディルクは微笑みかける。

「そんなに緊張するな」

「すみません……。何分、初めてのことなので……」

しかも相乗りと言うことは、普段よりもずっとディルクの近くにいることになるのではないだろうか。

テアは自分でもよく分からない焦りのようなものを覚えた。

「大丈夫だ。俺も幼い頃から乗り慣れているし、カイザーは利口なやつだから」

「はい……」

テアが少し視線を上げると、カイザーの、大きな黒々とした瞳が、テアをじっと見つめていた。

まるでテアが主人と言葉を交わすのにふさわしい人間かどうか、確かめるかのように。

「……よろしくお願いします」

腹をくくって、テアはディルクとカイザーに向かって頭を下げた。

カイザーはテアを認めてくれたのかどうか、テアの方に頭を寄せてくる。テアは少し戸惑ったが、ディルクが頷いてくれたので、その首筋を優しく撫でてやった。

「それじゃ、早速行こうか。帽子をかぶって」

「はい」

ディルクの言うとおり、テアが乗馬用の帽子をつけ、手袋をしっかりとはめている間に、ディルクはカイザーにまたがる。

「テア、手を……」

ディルクに支えられ、テアはカイザーの背に乗った。

ディルクがテアの後ろで手綱を握り、テアがディルクに凭れるような形で、ディルクはしっかりとテアの身体を支える。

「どうだ?」

近いです、という言葉をテアは呑み込んだ。

体温が、伝わる距離だ。

顔がほのかに赤くなるのを、この体勢ならば見られなくて済むとテアは思いながら、他の感想を口にした。

「思ったよりも、視界が高いですね……」

「そうだな。では、いつもとは違う高さから景色を楽しんでみるか?」

ディルクは、ゆっくりとカイザーを歩かせ始めた。

カイザーが歩き出して、テアは身体を固くしたが、少しずつ身体の安定のさせ方が分かってくる。

「……ゆ、揺れますね」

「酔いそうか?」

「いえ、何だか、メトロノームみたいで面白いかもしれません……」

「それは良かった」

テアの返答に、楽しそうにディルクは笑った。

――あ……。

テアはふと気付く。

最近のディルクは、こんな風に屈託なく笑うことがなかった、と。

ずっと忙しそうだったディルク。練習を一日くらい休みにした方がと、テアは言い出そうとしたけれど、何事も一生懸命な様子のディルクに、結局何も言えなかったのだ。

まだ今のテアには遠慮がある。パートナーとなって既に一月は経っているが、「まだ」一月しか経っていないのだ。

――やはり、こうした時間が必要だったのだ……。

テアはディルクの体温を感じながら思う。

空は穏やかに晴れていて、肌寒いけれど風は心地良い。

ぽっかぽっかと、馬が規則正しい足音で進んでいく。

これほどまでに穏やかな時間が過ごせるとは、ほんの一年前には想像もできないことだった。

母以外の誰かといっしょにいて、こんなにも警戒を解いてしまえるなんて……。

「不思議です、ね……」

「何がだ?」

「ああ、いえ……、ここに入学するまでは、こんな風に時間を過ごすことなど考えたこともなくて……。とても不思議な気がします」

感慨深げにテアは呟く。

ディルクは迷いながらも、少しだけ踏み込んだ質問をした。

「……出会う前のお前は、一体どんな風に過ごしてきたのか、聞いてもいいだろうか」

「……ええ、」

テアは躊躇いつつ頷き、続けた。

「そうですね……、幼い頃に母と旅をしていたことはお話ししていたと思うのですが、その後母が体調を崩して、それがきっかけでローゼのところに居候するようになったんです」

静かな口調でテアは語る。

「母は私にとって唯一の家族でしたから、私はずっと母の側にいました。モーリッツさんのお手伝いをしながら、……あ、モーリッツさんのことはご存知でしょうか、ローゼの――」

「大丈夫だ。分かる。何度か顔も合わせたことがあるからな」

「そうなのですね。そう、モーリッツさんのところで今までにないくらい安心できる生活を送らせてもらって……。母が私のピアノを好きだと、聴きたいと言ってくれたから、私は毎日のようにピアノを弾いていたんです。……今と同じですね」

テアはそう言って苦笑した。

「すみません、大して面白い話はできそうにないです」

「面白いかどうかは、構わないさ。俺は……、もっとお前のことが知れたらと、そう思っているから」

「え……」

テアはディルクを見上げた。

ディルクは前を向いたまま、真摯に口を開く。

「お前が話したいことなら、何でもいい。色々なことを聞かせてほしい。お前が自分のことを語ってくれるのが嬉しいと思うよ」

テアは束の間、心を揺らして口を閉じた。

テアには、誰にも言えないことがある。

大切な人たちを守るために、テアはずっと黙秘しなければならないのだ。

だからテアは、ディルクが知りたいと思ってくれたことを怖いと感じ、けれどそれ以上に、そのことが嬉しかった。

嬉しかったから、彼女は小さい声で、「ありがとうございます」と呟く。

本当は、そんな風に感じるべきではなかったのかもしれないけれど。

「……ディルクも、たくさんのことを話してくださいますか? 何でもいいんです。私もその、知りたい、ですから……」

口にしてしまってから、テアは恥ずかしくなって顔を伏せた。

ディルクが、ふ、と微笑む気配が伝わる。

「では、お互い言葉をなるべく惜しまないでいようか」

「はい……」

カイザーはゆっくりとそんな二人を乗せていく。

二人の呼吸に合わせるように。




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