学院 1
鳥のさえずりが聴こえてくる――。
まだ外はうっすらと暗い。
そんな中、シューレ音楽学院の女子寮の一室で、テアは目を覚ました。
昨日、入学式を終えた後、入寮式にも出席し、彼女はこの部屋にやって来た。
学生寮、ではあるが、備品にも金が掛けられたそれなりの部屋である。
一年生であり、平民であり、そうお金もかけられない――と思っているテアは二人部屋を希望し、希望通りの部屋があてがわれていた。
ルームメイトは、親友であるローゼである。
貴族だということを前面に押し出すことを好まないローゼだが、今回彼女はテアと同室となることを権力をもって強く希望した。
テアに、見ず知らずの人間がいるようなところでゆっくり眠れない、という潔癖さがあることを知っていたからだ。その点ローゼであれば、もう何年も共に過ごしているから問題ない。
本当なら同級生と同室になって新しい友人を作るほうがいいのでしょうけれど――、と言いつつも、ローゼはテアの身を案じて配慮してくれたのだった。
ローゼとしても、姉妹のように親しんでいるテアと同室である方が気が楽でいられるということがあるのだろう。
いずれにせよ、テアはローゼの気遣いに感謝していた。
上半身だけ起こしたテアは、部屋の真ん中にあるローテーブルを隔て、向かいのベッドで眠るローゼに目を向ける。
ローゼはまだ眠りの中にあるようだ。
幼い頃に戻ったような気がして、少しだけテアは微笑んだ。
ローゼと出会ったのは、八年ほど前のことになる。
テアと、テアの母カティアは、とある理由から一所に落ち着かない生活を送っていた。
安定しない暮らしから親子を救ってくれたのが、ローゼと、彼女の父親であるモーリッツ・フォン・ブランシュだ。モーリッツは長く続く騎士の家系であるブランシュ家の主で、「クンストの剣」と畏怖の名で呼ばれるほどの貴族であるが、貴賎を問うような性格ではなく、自身の所有する邸にテアたち親子を置いてくれた。
彼はあまり愛想の良い方ではなかったが親子に惜しみなく手を差し伸べてくれ、その娘であるローゼも屈託がなかった。
ローゼはテアにとって本当の姉妹のようなものであり、初めての親友でもあるのだ。
ローゼがテアより一年先に学院に入学してしまったので、同じ部屋で眠るという機会も減ってしまったが、こうしてまた同じ部屋で過ごせることが嬉しかった。
まだ起床時間には早い。
テアはローゼを起こさないようにそっとベッドから離れると、さっと身支度を整えた。
静かに、部屋を出ていく。
九月の朝は、わずかに秋を感じさせる風情で、空気が冷たさを纏っていた。
明かりのない廊下は薄暗く、まだまだ静かだ。
昨日ローゼに案内された寮内を、道を思い出すようにゆっくりと、テアは足音を立てず歩いていく。
テアの向かう先は、男女共同棟にある練習室だ。
シューレ音楽学院の学生寮は基本的に男女で隔てられているが、食堂と練習室は同じ建物内にあり、共用となっている。
テアは共同棟に立ち入ろうとドアに手をかけて、鍵がかけてあることに気づいた。
「やはり、施錠されていますよね……」
落胆の溜め息を吐く。
――もう丸一日、ピアノを弾いていない……。
テアの目当てはピアノであった。
彼女は、この学院に音楽を、ピアノを学ぶために入って来たのだ。
ここに入学する前まで暮らしていたモーリッツの邸にはグランドピアノが一台あって、テアはそれを毎日のように弾かせてもらっていた。
環境の変化ゆえに仕方のないことだが、一日でもピアノを弾けない日があって、テアは落ち着かない。
練習室には防音設備が整っていると聞いていたので、この早朝から弾いても少しなら迷惑にならないのではないかと思って来たのだが……。
「仕方ありません、ね」
テアは焦がれるような目をして、けれどあと何時間かの我慢だ、と思う。
今日から早速授業が始まる。そこでピアノを弾けるはずだと。
そう言い聞かせながらも、何となく立ち去りがたい気分でいると、後ろから声をかけられた。
「――何をしている?」
図らずも――昨日も同じような声で同じような台詞を聞いた気がする、と思いながらテアは振り向く。
「あ……」
そこに立っていたのは、ディルク・アイゲンだった。
その美貌を再び目の当たりにして、テアはかすかに頬を紅潮させる。
昨日の入学式では、彼が生徒会長として新入生たちの前に現れ、テアは驚きに目を見張り、そして納得してしまったものだった。
堂々としたたち振る舞いは、確かにリーダーにふさわしい。
入学式でディルクは歓迎の辞を述べ、学校のカリキュラムやシステムについて説明を行った。その間に、なぜかばたばたと倒れる新入生及び在校生が続出したのは、ここ数年恒例のことらしい。
さらに、入寮式でも、ディルクは男子寮の寮長らしく、リーダーシップを発揮していた。
一方、テアに近づきながら、もしやと思っていたディルクは、彼女を正面から見とめて、やはりかと思いつつ目を見張っていた。
「テア・ベーレンス、か……。おはよう。また会ったな」
「はい……、おはようございます」
丁寧にテアは頭を下げた。
「こんな朝早くから、どうした? 食堂が開くのは、七時半からだと――」
「いえ、用があるのは食堂ではなくて、練習室の方です。その……もしできることならピアノを弾きたいと思って……」
「ああ…」
ディルクは顔を綻ばせた。
「練習熱心なのだな」
「いえ、そんな――ただ、ピアノを弾くのが好きなだけで、」
控え目でいて、ピアノを好きだという本心が伝わるようなテアの風情が、ディルクには好ましいものに映った。
「そうか……。ここの鍵はいつも食堂が開く時に開けられるんだ」
「そう……なのですか」
テアは、分かってはいたが肩を落とした。
「だが、頼めば開けてもらえるぞ。規則で解錠時間は決まっているが、管理者も結構臨機応変に季節に応じて開ける時間を変えてくれる。いつもは食堂と同時にこの鍵をあけるが、コンクール前となると寮生の希望でもっと早くなる。よければ、俺の方から管理者に鍵を開けてもらうように頼もう」
「よろしいのですか?」
「ああ」
「……お願いします!」
厚かましいかとは思ったが、テアは自分の欲望に素直に従うことにした。
明るくなったテアの表情に、ディルクは不意を打たれ、そしてかすかな苦笑を浮かべる。
「では、もう少しここで待っていてもらえるか?」
「はい」
テアが頷いたのを見届けて、ディルクは踵を返して管理者の部屋に向かった。
そう言えばディルクはどうしてこんな早朝から、とテアは少し疑問に思ったが、寮長の仕事か何かかもしれないと思い追究するのは止めておく。
数分後、テアはやってきた管理者とディルクに礼を述べて、一人、いくつも並ぶ練習室の一つに入った。
据え置かれたピアノの黒い輝きに、テアは目を細める。
丁寧な仕草で蓋を開け、そっと鍵盤に触れると、ポーン、と澄んだ音が響いた。
当然であるが、きちんと調律がされている。
上質な音に、テアは嬉しくなって、早速椅子に腰掛けると鍵盤に両方の手のひらを置いた。
――お母さん……。
練習室にはテア一人だけなのに、背中に優しい眼差しを感じる気がする。
テアは温かい気持ちで、想いのままにピアノを奏で始めた。
「テア!」
ローゼが怒鳴り込むように練習室に入ってきて、テアは驚いて手を止めた。
「ローゼ……、おはようございます」
「おはようございます、じゃありません! もう朝食の時間ですよ。何にも言わないで先に出てっちゃうんですから……。でも食堂にはいないし、探したんですよ」
「えっ――」
慌ててテアは、ポケットから懐中時計を出すと時刻を確認した。
時計は、八時前を指している。
「もうこんな時間に……」
「テアは全く、ピアノを弾きはじめたら時間なんて飛んじゃうんですから……」
「すみません……」
「それより早く、朝食にしましょう。授業に間に合わなくなっちゃいます」
「はい」
テアはローゼに続くように、食堂に入って行った。
入寮している男女が使う食堂は、広い。
食堂はビュッフェ形式になっていて、豪華な食事にテアは気圧される。
入学式の時に出た食事も、入寮式の時に出た食事も贅沢なもので、こんなものを自分が食べていいのだろうかとテアは躊躇したものだ。
特別な式が終わればもう少し質素になるかと思っていたのに、普通の朝食ですらテアにとっては贅沢なものだった。
別にモーリッツの家で出る食事が貧しかったわけではなく、ここの水準が高いのだ。
学院には運営資金が国から与えられる他に、貴族などからの寄付も多額で、食事にも金額を割けるのだろう。
「そんなに気にしないで、せっかくだから食べつくしてやる勢いでいればいいんですよ」
と、ローゼは悩むテアの盆にひょいひょいと皿をのせていく。
「ろ、ローゼ……」
「テアは小食ですからね。この機会にちょっとくらい太った方がいいんです」
「いえでも、これは多すぎでは……」
そんなやりとりの後、二人は空いている席を探し、ある人が片手を上げて示してくれたので、そちらに向かった。
「ライナルト――おはようございます」
ローゼは嬉しそうに挨拶する。
そう、二人に空席を示してくれたのは、副会長のライナルト・アイゲンだった。
「おはよう、ローゼ、テア。それから、昨日は言えなかったが――、テア、入学おめでとう」
「ありがとうございます」
テアは少し照れくさそうに言うと、ライナルトの右前の席に腰を下ろす。
ローゼはライナルトの隣、テアの正面に座った。
ローゼとライナルトは、パートナー制度上での、パートナーなのである。
ローゼが入学した去年から変わることなく二人はパートナーとしてやってきており、その関係でテアはライナルトを入学以前に紹介されて、知っていた。
二人は共にこの学院でフルートを専攻しており、それもあってパートナーとなったのだという。
それ以上に、お互いに惹かれるところがあったというのが、大きいのだろう。
ライナルトといる時のローゼは本当に嬉しそうで、家族や友人に見せる者とはまた違った表情でいる。それがテアにも嬉しかった。
しかし、自分がこのようなパートナーを見つけることができるのか、テアは不安に感じる。
この学院特有のパートナー制度は、生徒同士、二人一組のパートナーを組んで、勉強や行事に参加するというもの。孤立するような生徒が出てこないように、協調性が学べるように、また社交界での人脈を今からつくっておけるようにと考えられ、始められた制度だという。
パートナーの登録は、前期と後期に一度ずつ行わなければならない。前期と後期で異なる相手を選んでも良いし、年間通して同じ相手をパートナーとしても良い。毎回違う相手をパートナーとする者がいれば、入学してから卒業するまで同じ相手をパートナーとする者もおり、様々だ。
パートナーを組む相手は、生徒同士であれば誰でも良い。同性でも異性でも、先輩後輩も特に制約はない。最も多いパターンは同学年で同性の友人同士で組むというものだ。一番気兼ねなくやれるという理由からだろう。下級生は上級生と組んだ方が助言を得られやすいなどの利点があるが、上級生からすれば下級生と組むことはその相手の成績・演奏の腕にもよるがメリットは少なく、学年に差のあるパートナーはやや少数派だった。
また、現在社会では男女の役割の差ははっきりしており、男女でパートナーになるという例もあまり多くはないようだ。しかし一方で、音楽をやるのに男女は関係ないという音楽学院の姿勢から、社交界などと比べればこの学院での男女の関係はいささか緩いものがある。このパートナー制度によって出会い、恋人となり、卒業後結婚する男女も少なくはないと言い、それを狙ってここに入学してくる者までいるという。
もし登録期間内にパートナーを見つけることができず、登録しなかった場合は、登録できなかった者の中からランダムで学校側がパートナーをつくることとなっているので、万が一パートナーを見つけることができなくとも大丈夫なようになってはいるのだが。
やはり、できればお互いに認め合ってパートナーを組みたい、とテアは思う。
けれど、それは難しいかもしれない。
テアはあまり好意的ではない視線をひしひしと感じながら、思った。
今までの功績も特になく、特別入学してきたテアに対しては、その実力を疑う者などが多くいるらしかった。専門学校の出というわけでもなく、見覚えのない顔であることも、不審に拍車をかけているのだろう。ある事情から、後ろ盾を明確にしていないのも、良くないのかもしれない。
万が一、気の合うパートナーが見つからず、テアを嫌悪するような人物とパートナーを組むことになったら――。そう思うと、憂鬱だった。
――登録締め切りは一ヶ月後……。それまでに、見つかると良いのですが……。
ローゼは、もし良かったら慣れない最初は自分とパートナーに、と言ってくれていたが、ライナルトとローゼの邪魔はしたくなかったので、テアは首を振っていた。
「そう言えば、今日はディルクは?」
ローゼの口からディルクの名を聞いて、テアははっとした。
「あいつなら、やることがあるからと先に行ったよ」
「彼は生徒会長と寮長を兼任していますし、大変ですね……」
そうか、と今さらながらテアは思い当たった。
ライナルトは生徒会役員で副会長なのだから、ディルクと知り合いで当然なのだ。
「……そう言えば」
さらにあることに気付いて、テアは口を開いていた。
「ライナルトと……、その、生徒会長は同じ姓なのですね。親戚……とか?」
テアが聞くと、ライナルトは目を見張り、ローゼを見た。
「話していないのか?」
「テアがディルクを見たのは昨日ですよ? わざわざ話しませんよ、そんな」
「いや……だが、つまりテアは、アイゲンという姓の意味を知らない……んだな」
「はい……、あの、すみません……」
知っていて当然の事柄なのか。ライナルトの驚きに、テアは身を小さくした。
「謝ることはない。そうだな……、とりあえず最初の質問に答えよう。私とディルクは、異母兄弟なんだ」
「そう……、なのですか」
さらりと告げられた事実に、テアはそう言うしかなかった。ぶしつけな質問をしてしまったか、と思う。
ディルクは現在四年生。ライナルトは三年生。しかしそれは、ディルクがライナルトより一年多くスキップしているからで、二人の年齢は同じである。つまりそれの意味するところは……。
テアの考えていることが分かったのだろう、ライナルトはふっと笑ってみせた。
「どちらかというと、親友だと私は思っているがな」
「たまに妬けるくらい仲が良いんですから」
ローゼがそう言うので、ライナルトは苦笑する。
「それで、アイゲンの意味だが――」
意味深に、ライナルトは言葉を切り、食堂にある時計を見やった。
「……そろそろ授業に行く時間だな。行こうか」
「え――」
立ち上がるライナルトをテアは見上げる。
「多分、すぐに分かる。知らなくても良いくらい、大したことのない話だから、あまり気にするな」
「はい……」
腑に落ちないながら、テアも立ち上がった。
ローゼの方を見ると、ライナルトがそう言うのなら話さないという顔をしている。
ライナルトが先導するように歩き出すと、生徒たちが道を開けるように退いた。
入学式、入寮式を通して、ディルクとライナルトの二人がとても生徒たちに慕われているのはよく分かったと思っていたが、本当にすごいものだとテアは思う。
生徒たちに慕われるライナルトのパートナーであるローゼも、堂々としたものだ。
ブランシュ家は「クンストの剣」とも呼ばれ、貴族に多くの門弟を抱えて国をその剣で守っており、ローゼはその跡取りだから、当然のことかもしれないが。
――それに比べて、私は……。
自分が場違いだということをテアは感じる。
尊敬の眼差しを集めるライナルトやローゼのような輝かしい二人にくっついているあの少女は一体何者だと、多くの視線は不審そうな不快そうな色を宿している。
その視線は痛く、怖くも感じる。
それでも……音楽を学びたいという気持ちに変わりはなく、学院を辞めたいとは思わない。
だが、こうしてローゼとライナルトは自分に親切に接してくれて、それでいいのだろうかとテアは思った。自分といることで、ローゼとライナルトが悪く言われたら。二人の足を引っ張ることになってしまったら……。
食器を返して歩き出す。
俯きがちなテアに気づき、ローゼが気遣わしげに声をかけた。
「テア、どうかしました?」
「いえ……」
だが、構わないでくれと言っても、この優しい友人を傷つけ、余計に心配をかけてしまうだけだろう。
だからテアは何事もないように、笑う。
せめてなるべく負担をかけないように。
「初めての授業があると思うと、何だか緊張してしまって」
「そうですね。テアにとっては本当に何もかも初めてですものね。でも、あれだけ本を読んで勉強してきたのですし、授業もきっと楽しいものになると思いますよ。困ったこととか分からないことがあったら、何でも助けになりますから」
「……だが、お前、勉強について聞かれて、一年前習ったことをちゃんと覚えているのか?」
からかうようにライナルトが言う。
「お……、覚えていますとも!」
むきになるローゼに、ライナルトとテアは笑った。
「だが、そうだな。何かあれば何でも言ってくれ。できる限りの援助は惜しまない」
「ありがとうございます」
頑張ろう、とテアは微笑む。
こうして自分を助けようとしてくれる優しい人たちに応えるためにも――。