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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第4楽章
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重奏 1



エンジュ・サイガのリサイタルから明けた、翌日。

学院祭まであと一月と学院中がどことなく浮き立つ中、授業は通常通り行われていた。

これまでリサイタルのことばかり考えていたテアは、それを終えてしまって日常に戻り、昨までのことがまるで夢だったかのように感じられたものである。

だから最初は、「それ」をリサイタルを終えた故の、当然あるであろう違和感だと思った。

その日は朝から、何かがいつもと違う、とテアは感じていたのだ。

気のせいかと思ったが、しかし、どうやらそうではないようである。

――そうだ、視線が……。

テアは無名ながら特別入試によってここシューレ音楽学院に入学し、世界的ピアニストエンジュ・サイガを師とした上、さらに生徒会長であるディルクのパートナーとなったことで、周りから猜疑や嫉妬の視線を向けられていた。

だが、今日はそんな冷たい視線ばかりでなく、戸惑うような、どうしたらいいのか分からないというような、今までにはないものが感じられるのだ。

昼休みの食堂では、数人の同級生に話しかけられもした。今までは、学院長に取り入っただとかディルクに取り入っただとか、そういった噂があってテアに近づきにくかったらしい。だが、リサイタルを聞き、噂はあくまで噂だったのではないかと、テアに声をかけてくれたのだ。

エンジュやディルクの話を聞きたかった、というのが主にあったようだが、それでもテアは大きな前進に嬉しくなった。

その後、レッスンの際にエンジュにそれを報告すれば、彼はふうん、と頷く。

「先生のおかげです。ありがとうございます」

「別に俺は何もしてねーよ」

だがエンジュは、こうした結果も考慮に入れてくれていたのだろう。

そっけないふりをする師に、テアはにこにこと笑いかけた。

「それから、お借りしていたドレスなのですが、クリーニングから戻ってきたらすぐにお返ししますね」

「ああ。別に急がなくてもいいけどな」

あのドレスを、本当にテアが着てしまって良かったのか。

聞いてみたい気持ちもあったが、テアは堪えた。

やがて、授業開始の鐘が鳴る。

「……じゃ、今日から一ヶ月は学院祭のコンサートに備えるってことで。お前ら、何やんの?」

「これです」

テアは「夜の灯火」の楽譜をエンジュに渡した。

ディルクには既に話をして、許可を得ている。

「これ、確かディルクが書いてたやつだろ」

「ご存じなのですか」

「たまに難しそうな顔で見てたからな。そうか、なるほどね……」

楽譜から目を離し、エンジュはテアを見つめた。

「二人での練習は、もう始めてんだろ」

「はい。……最近は、あまり時間をとれていませんでしたが……」

「学院祭は大物が昨日の比でなく集まってくるからな。また一ヶ月、気合い入れてけ」

「はい」

それから早速エンジュに促され、テアはピアノの前に座る。

テアの演奏に、容赦なくエンジュの厳しい言葉が降り注いだ。






――気に食わない、ですわね……。

エッダ・フォン・オイレンベルクは、不機嫌にそう思った。

彼女がいるのは、学院の食堂のテラスである。

彼女は一人ではなく、従者の他に、彼女の取り巻きである貴族の生徒たちが彼女を囲んでいた。

エッダの不機嫌の理由は、テア・ベーレンスだ。

一日でがらりとテア・ベーレンスへの印象が変わった、それが彼女の気に入らなかったのである。

テアにはこれまで負の噂が絶えなかった。

それなのに、昨日のリサイタルに行った何人かの生徒、教師によってテアの演奏の評判が広がり、ほとんどが「思わず引き込まれてしまった」などと唸ったのだ。

テアの演奏を聴いていない者たちは、本当かと疑いつつも、悪い噂は噂にすぎなかったのかと困惑し始めている。

エッダにとって、それは嬉しくない流れだった。

――あの平民を認めるだなんて、そんな馬鹿なこと……。

テアのピアノはそれなりのものなのかもしれない。エンジュ・サイガを師としているのだから、当然と言えば当然だ。だが、侮っていた分、予想以上に上手に聴こえた、その程度のものなのではないのか。

――そう、あんな平民より私の方が上のはず……。

容姿も、家柄も、ピアノでも。全てにおいて。

エッダは、四大貴族の一、オイレンベルク家の長女として、それにふさわしい教養を身につけ、ふさわしい品格を身に纏っていた。

それが平民に劣ることがあるなど、ありえない。

しかしディルクが選んだのは、平民であるテア。

それゆえ、エッダはテアを、憎悪せずにはいられなかった。それは、テアがオイレンベルクを憎むのと同様に。

幼い頃から、エッダは皇子だったディルクに憧れてきた。

彼がまだフォン・シーレを名乗っていた頃、エッダは彼の婚約者候補の筆頭として名が挙がっており、いつか彼の隣に立つのは自分だと、そう思っていた。

だから、いつか彼の隣に立つ、それを目指して女を磨き、努力してきたのだ。

ピアノも、始めたきっかけは教養のひとつであったからだが、ディルクが同じようにピアノを、しかも相当に打ち込んでいると知り、熱心に練習に取り組むようになった。

シューレ音楽学院に入学したのも、ディルクに追いつくため。

オイレンベルク家は難色を示したのだが、それを押し切ってここに入学した。

――それなのに、私ではなくあのような女が選ばれるなんて、許されることではない……。

学院祭実行委員に立候補したのも、少しでもディルクに近付くためだ。

ディルクは昔と変わらず優しかった。

学院祭の仕事でも、困ったことがあればすぐに手を差し伸べてくれた。

だが、それは誰にでも同じ。

平民であっても貴族であっても、エッダでも、他の人間でも……、ディルクの態度は変わらない。

それでは、駄目なのだ。

エッダはディルクの特別になりたかった。

彼が皇族であった頃も、今も。

エッダはディルクを慕ってやまない。

だからテアが許せない。

彼とパートナーとなり、より近しい存在になったテアが。

幼い頃からディルクを慕ってきたエッダを差し置いて、突然に現れたただの小娘がディルクと肩を並べているなど、許されることではない。

テア・ベーレンスという存在は、エッダにとって邪魔なものでしかなかった。

それゆえに、あの女をどうすれば排除できるのかと、エッダは考える。

この前期、ディルクとテアがパートナーを組んでしまったのは、最早どうしようもない。

だが後期には、今度こそ間違いなくエッダを選んでもらわなくてはならなかった。

ディルクにとっても、よりふさわしい自分が隣に立つ方がきっと有意義なはずだ、とエッダは思う。

学院祭実行委員となり、ディルクとの距離は詰められた。

ディルクに更に近付くための努力を惜しむつもりはない。

そうすれば最後にディルクが選ぶのは自分のはずだ――。

しかし、万が一にでもディルクがテアを再びパートナーに選ばないように、今から何とか仕向けられないか。

――どうしたら良いのでしょうね。嫌がらせは続けていますがあの平民よほど神経が図太いと見えて、落ち込む様子もなし……。自分から退学するように追い込んでしまうのが一番早いと思ったのですが……。

一方、エッダを囲む取り巻きたちは、真剣に考え込むエッダに話しかけることもできず、一体彼女は何を考えているのだろうと顔を見合わせていた。

オイレンベルク家に生まれたエッダだが、彼女の周囲に集まるのは家柄の良さに引かれた者たちだけではない。

家柄によらずエッダの美貌や才能に憧れる男女はいつでも絶えることがなく、こうして集まってくるのだ。彼女はそうしたカリスマ性をも持ち合わせていた。

エッダはそんな自身の人望をよく理解しており、それを利用することに躊躇いを持たない。

実を言えば、テアに対する嫌がらせの大半は、エッダが取り巻きを唆してやらせたものだった。

エッダは学院に使用人を数人連れてきているが、使用人をそのまま使って何かをやらせると、いざとなった時にエッダの責任が問われる。

それを考えた時、エッダに近づいてくる者たちは非常に都合の良い存在だった。

テアを快く思わず、かつエッダを崇拝する者に、そっと唆すだけで、直接言葉にせずとも思うように動いてくれるのだ。

やがて、取り巻きに見守られながら思案していたエッダは、ふと思いつくことがあって微笑む。

エッダの微笑みは咲き誇る薔薇のようで、周りにいた者は思わずどきりとさせられた。

エッダはおもむろにテーブルを囲む者たちをぐるりと見回すと、その一人に目をつけて、さらに艶やかに笑う。

そして、取り巻きたちが聞き惚れるような美しい声で、そっと「お願い」を口にした。




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