憎悪 5
「ライナルト、ディルク」
リハーサルも終わって本番前、ローゼは到着していたライナルトの右手の席に滑り込んだ。
「良かった。少し遅かったから心配していた」
「すみません。……でもその代わり、テアの出来はすごいですからね。存分に驚いてください」
「楽しみだ」
ローゼが悪戯っぽく笑うのにライナルトは答え、客席をちらりと見渡した。
「見覚えのある顔がやはり、多いな」
「ああ」
ライナルトの隣でディルクは頷く。
学院で良く見かける顔がそこかしこにあった。
とはいえ、大半は見知らぬ顔である。
けれど、三人の――特にディルクとライナルトの――容貌には誰もが目を引かれるものがあり、彼らは多くの視線を集めていた。それはやはり、いつものことで、三人は全く気にかけていないのだが。
さきほどからずっと見ているリーフレットに、ディルクはまた目を落とす。
――「クープランの墓」……。これを、テアが演奏するのか……。
テアの練習を漏れ聞くことはあったが、全てを通してゆっくりと聴いたことはまだない。
彼女がこの曲をどう表現するのか、ディルクは非常に楽しみにしていた。
練習を開始してずっと思い悩む様子を見せていたテアが、どんな演奏をしてくれるのか……。
「そろそろ始まるようだ」
司祭が客席前に現れて、開始の言葉を告げる。
「皆さん、本日はこのピアノリサイタルにお越しいただき、まことにありがとうございます。今日はピアニストのエンジュ・サイガ殿とその弟子であるテア・ベーレンス殿をお招きしております。どうか最後まで、ゆっくりとお楽しみください……」
エンジュ・サイガの前に、テアが「クープランの墓」を演奏することになっている。
早速、司祭の紹介でテアが前方に設置されている扉から出てきた。
眼鏡を外し、髪はアップにして、ドレスを身に着けたテアは、教会のステンドグラスの下で、美しく輝いている。
ローゼが誇らしげに胸を張っていたのがよく分かった。
いつもは眼鏡をかけて控え目に佇むテアが美しいことは知っていたのに……、改めてそれを思い知らされた気がする。
一瞬息を詰め、ディルクはその姿に見入ってしまった。
彼女は堂々とした態度で客の前に立ち、深く丁寧に一礼する。
その姿に緊張は無縁に見えた。
そして、テアは静かに、ピアノの前に座る。
誰もが彼女の演奏を、エンジュの前菜と感じながら、好奇心半分で見守った。
エンジュの弟子とはいえテアは無名であるし、「クープランの墓」の難易度は高い。
エンジュのリサイタルといって、大きな期待をかければ裏切られるだろう、と多くの者がこの時まで、思っていた。
そんな大勢の客の思惑を他所に、リサイタルは、始まる。
懐かしい、とテアは客の前に立ってそう思った。
こんなドレスを着て、こんなに大勢の人々の前で演奏したことは、今までになかったけれど。
でも「同じ」だ、とテアは思う。
『テア――』
思い出の中の母が笑った。
テアは知らず、微笑む。
――私は、ただ――
ピアノを弾きたいから、弾くだけ。
母が笑ってくれるように。
聴いてくれる人が、楽しんでくれればと、思って。
テアは、ピアノに触れた。
思いの行方を、その旋律に、乗せて。
「クープランの墓」、「プレリュード」。
それは、明るくも聴こえる旋律から始まる。
流れるように音が零れ出す。
――速い……!
客席のディルクは強く拳を握った。
ただでさえ技巧的に難しい曲を、さらにこんなに速く弾くのか。
感情を溢れさせるように。
――美しい、のに……、何なんだ、これは……。胸が、締め付けられるようだ――
普段のテアの穏やかさを知っている人間には信じられないような、激情にも似たものを感じさせる。
演奏前の思いも忘れ、誰もがテアの紡ぎ出す音の渦に巻き込まれていた。
「クープランの墓」、「フーガ」。
「プレリュード」とは一転して、緩やかな曲調になる。
「プレリュード」でその音の奔流に圧倒されていた聴衆はほっと息を吐き、けれど耳を離せなかった。
旋律は暗いものではない。
しかしどこか物悲しさを感じさせる……。
切ない音に胸を掴まれる……。
「クープランの墓」、「フォルラーヌ」。
音が重くなる。
タッチはいっそ軽やかにも見えるのに、強く求めるような、責めるような、その音。
聴衆は完全にテアの音に集中している。
「クープランの墓」、「リゴードン」。
目まぐるしく旋律は展開していく。
強い憎しみと、大切な人を亡くした悲しみはどこへ行きつくのか……。
次第に「迷い」が見え始める。
心が揺らぎ、旋律が一転二転する。
「クープランの墓」、「メヌエット」。
ラヴェルのメヌエット作品での中の最高傑作と目される曲だ。
テアはこのメヌエットに、一番力を注いでいた。
自分の中の「憎しみ」にどう向き合うのか、その答えを出すために……。
音は強く弱く、彼女の心を表現する。
光が明滅するように。
「クープランの墓」、「トッカータ」。
最後の曲である。
設定速度と比べ、ゆっくりとテアは弾き始めた。
まるで何かを懐かしむようだ。
時折不安になるような旋律が表れながら、曲は壮大に盛り上がっていき、速度も速さを増していく。
どうして母があんなにも早く死ななければならなかったのだろう――。
テアはずっと思っていた。
優しく温かい人だった。
母が死ななくてはならない理由など、どこにもなかったのに。
許さない……、母を殺した原因を、母を奪った者たちを、決して許しはしない。
その決意は、今も胸から消えることはない……。
母といた日々は、とても幸せだった。
ずっと追われ続け、貧しかったけれど、満たされていた。
母がいつだって笑顔で、テアに愛情をくれていたから。
けれど、母はもういない。
もう一度会いたいのに、笑顔が見たいのに、もう会えない。
戻ってきて、くれない……。
――憎しみが、燃え上がる。
憎い、憎い、憎い……、体の内側から焼かれるようにその思いが溢れてくる。
母を奪ったすべてのものが、憎くて憎くてたまらない。
この憎しみをどこにぶつければ良いのだろう。
許せない相手全てに、この憎しみを分からせてやりたい……。
復讐を、果たしたい――。
けれど、けれど。
憎い、悲しい、辛い、苦しい……。
こうして憎み続けて一体どうなるというのだろう。
溢れてくる負の感情をしっかりと自覚しながらも、テアはそう自問せずにはいられなかった。
このどろどろとした感情に身を焦がすテアを見て、母は一体どう思うだろう。
笑いかけてくれるだろうか。
喪失感を抱え、憎悪だけを胸に抱くテアを見て、きっと彼女は……悲しい顔をするだろう。
そんな母の表情を思い浮かべて、テアは我に返らずにはいられなかった。
自分の思いをもう一度、見つめなおす。
憎かったのは、テアから母を奪った彼ら。
けれどそれだけではなく、テアを置いていってしまった母に対しても、恨みを向けずにはいられないことに気付く。
だが、それ以上に何より許せなかったのは、全ての元凶であり母を救えなかった自分自身、だった。
最も憎くて、殺してやりたいのは、むしろ、自分だ――。
けれど、「彼ら」のいない世界に母の存在はありえず。
テアという存在に優しく笑いかけてくれた母は、テアなしには存在しなかった。
この憎悪は、母が私を慈しんでくれた証。
この憎悪は、私が母を愛している証。
だから……。
心の中に大切に抱えておこう、とテアは決めた。
誰にぶつけることなどせずに、誰を責めるというのではなく……。
母がいてくれた証として、持ち続けよう、と。
そう思えばその思いは、「憎悪」であって「憎悪」でなく――。
そうして迷いの霧は晴れて――。
静謐な悲しみと、愛しさがテアの胸の中でたゆたっている……。
母がいてくれたころ、テアは幸せだった。
そして、母がつくってくれた未来で生きている今のテアも、幸せだ。
――あなたの娘であることが私の誇りです、お母さん……。
これからも、その思いを胸に、生きていけるとテアは思う。
たくさんの困難や苦痛があるだろうけれど。
また迷うこともたくさんあるだろうけれど。
それでも、母との思い出がテアの糧となってくれるから。
母がつくってくれた出会いが、テアの支えとなってくれるから。
母はここにはいないけれど、すぐ側に、そうやって「いて」くれているから。
だから、母のように、力強く、私は生きていく……。
そして――フィナーレ。
ジャン、とテアは最後の音を弾き終えると、ゆっくりと指を鍵盤から離していった。
わぁ、と拍手がわきおこる。
最初の思惑など忘れて、誰もが盛大に手を叩いていた。それこそ、学院でテアを侮っていた生徒たちも含めて、誰もが。
まだ夢見心地にいるような様子のテアは、ゆるりと椅子から立ち上がると、笑顔を浮かべ、また礼をする。
拍手が止まない中、彼女は扉の向こうに姿を消した。
「お疲れさん」
「先生……」
エンジュは温かい微笑みでテアを迎えた。
「上出来だ。初リサイタルにしては、な」
「ありがとうございます……」
それ以上は言葉にできなくなる。
肩にエンジュの手のひらの温度を感じ、ようやくテアは現実に返ってきた心地がした。
そしてその途端、テアの中で何かがどっと溢れてくる。
手足が震え出したテアを、エンジュは椅子に座らせてやった。
「悩みは晴れたみたいだな」
「はい……」
「じゃ、しばらくそこで身体落ち着けてろ。お前の次の出番はパーティだ」
「はい」
エンジュが扉の向こうに消えていくのを見送り、テアは椅子に凭れた。
演奏しきったのだ。
震える指先を、テアは見つめて、苦笑した。
恐れも、憎悪も、そう簡単に消えはしない。
――けれど、私はもう、大丈夫だ……。
テアは瞳を閉じる。
『テア、良かったわよ。やっぱりあの人の娘ね』
懐かしい声がよみがえり、私はやり遂げた、とテアは頬笑みを零す。
それと同時に、一筋の涙が彼女の頬を伝った。
「――お母さん」
テアは自分にも聞こえないほど小さく呟き、
「……ローゼに怒られますね、お化粧が落ちてしまって……、」
誤魔化すように、苦笑した。
やがて扉の向こうから聞こえてくるエンジュの演奏に、テアは身を委ねた。
「テア…」
ローゼは泣いていた。
幼い頃からテアと共に在る彼女は、誰よりもテアが曲に込めた思いが伝わったのだろう。
そんなローゼの髪を宥めるように撫でながら、ライナルトは感嘆を隠せなかった。
――驚いたな、まさかここまでとは……。
一ヶ月で、超絶技巧の曲を、表現もしっかりと固めて、こんな演奏をされるとはさすがに予想していなかった。
ここまで曲を完成させることのできるだけの技量を持ったテアと。
その才能を信じ育て上げたエンジュ。
どちらにも感心と驚きを禁じ得ない。
そして、そんなテアを見逃さなかったディルク――。
エンジュが聴衆の前に現れて、拍手がおさまっていく中で、ディルクはテアの音を思い返すように瞳を閉じ、椅子に深く沈んでいた。
テアの音が、ディルクの中に染み込んでいる。
切なくも優しいテアの音楽の世界……。
まだその音楽を感じていたかった。
同時にその世界に自分も入っていきたかった。
音楽を奏でたい――。
不意にこみ上げる衝動を、ディルクは抑えなければならなかった。
しかしやがて、エンジュの演奏が始まり、ディルクはその演奏に集中して、少しずつ心を落ち着けていく。
エンジュは普段の彼からは予想もつかない繊細な音の持ち主だ。それでいてダイナミックでもあって、彼の演奏は聴く者を飽きさせない。
テアと比べると、当然であるが彼の音の方がずっと完成されている。
かつての師の演奏を聴きつつ、ディルクはふと彼に学んでいた頃のことを思い出した。
ディルクがエンジュと初めて出会ったのは、テアと同じように、彼のレッスンを初めて受けるという時だ。
彼を見てディルクは驚き、そして喜んだ。
あのエンジュ・サイガが自分の師に、と。
『……お前、ヴァイオリンもやるんだって?』
『はい』
そんな曖昧にもとれる行動を彼は許さないのだろうか。
ディルクは思いながらも頷いた。
『じゃ、まずお前の好きな曲を弾いてみろ。気にいればこれからお前を見てやる。だが駄目なら、諦めてヴァイオリンだけにしろ』
その条件にディルクは目を見開いたが、受けて立った。
そして、ディルクのピアノを聴いたエンジュはこう言ったのだ。
『若いな』
『……それは当然、俺は先生より若いですが』
『ちげえよ! 真顔で突っ込むな! 青いっつう意味だよ!』
『青い?』
『デカいって言ってやっても良いけどな。お前の目指すモンはデカくてピアノだけじゃ追いつかねーよ』
『それ、は……』
エンジュの言葉の意味は、その時のディルクにとっては不可解なものだった。
『途中までは、俺が見てやるよ。お前が気付くまでは……』
意味深な言葉。
最初は分からなかったその意味を、やがてディルクは理解する。
それが、ディルクがエンジュのレッスンを受けた最後になった。
――エンジュ・サイガ、やはりすごい人だ……。
ディルクは演奏に聴き入りながら、感慨深くそう思った。
そんなエンジュのステージも、終わりに近付いていく。
最後の曲は、誰でも知っているだろう、「別れの曲」とも呼ばれることで有名な曲。
これ以上はないと言われる綺麗過ぎる旋律を、エンジュは感動的に響き渡らせる。
鍵盤から指が離れ、余韻を残し、彼は堂々と立ち上がった。
拍手がわきおこる中で、彼は一度、扉の向こうに消えてしまうが、鳴りやまない拍手喝采の中もう一度彼は姿を現す。
アンコールだ。
最後に彼が何を弾いてくれるのだろうかと、彼の音楽が再び始まるのを待っていると――。
「最後にもう一人、ゲストを呼ぶぜ」
にやり、とエンジュは笑って告げた。
「ディルク・アイゲン!」
え、とローゼが目を丸くする。
ディルクを知る周りの人間も、彼女と同じ反応だった。
「ディルク」
ライナルトは苦笑を向けた。
「あの人は、全く、やってくれる……」
逃げるに逃げられない。
逃げるつもりもないのだが。
ディルクは静かに立ち上がると、衆目の中エンジュに近づいて行った。
「演奏したくてうずうずしてんだろ。『亡き王女のためのパヴァーヌ』だ。連弾で、行けるな?」
「相変わらず、無茶を言いますね」
「姉弟子の弔いだ。無茶も許されるってもんだろ」
「……ええ」
ディルクは一瞬神妙な顔になって頷いた。
二人が揃って礼をすると、あっけにとられていた聴衆も、ディルクの美貌に期待の眼差しをよこす。
ディルクを知らない者たちは、さすがに彼を元皇子だとは分からないようだった。それは、ディルクにとってもライナルトにとっても幸いなことである。
エンジュとディルクは並んで椅子に座り、戸惑う空気もなく、静かに曲が始まった。
テアは扉一枚隔てた向こうで呼ばれたディルクの名前に、思わず壁際に駆け寄る。
――ディルクの、ピアノ……。
テアの前でディルクはヴァイオリンしか弾いたことがなかったから、テアはまだ彼のピアノを知らなかった。
ディルクとエンジュは揃って練習をしていないはずなのに、二人の息は合って、演奏は滑らかだ。
――優雅に舞っているよう……、けれど、この悲しい響き……。
テアは、扉に耳をつけるようにして聴き入っていた。
聴衆も、ほぅ、と感嘆の溜め息を漏らしている。
けれどやがて、その曲も終わってしまう。
「ブラボー!」
と、客は総立ちでエンジュとその弟子たちに温かい拍手を送った。
リサイタルは、成功に終わったのだ。