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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第3楽章

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憎悪 4



一ヶ月はあっという間に過ぎていき、リサイタル当日は目前となっていた。

リサイタル前の最後の練習の日、エンジュはテアに次のように告げる。

「……予想よりも完成に近づいたな。それなら及第点だ」

演奏へのコメントについては厳しい、エンジュにしては優しい言葉に、テアはありがとうございますと微笑む。

「日曜日の外出届は出してあるな?」

「はい」

リサイタル後にささやかなパーティも開かれるというので、夜遅くまで外出していることになる。

寮には一応門限が設定されているので、それまでに帰れない場合は外出申請をしなければならないのだ。

「教会の場所はいっしょに行くから良いとして……、問題は服装だな」

「制服では駄目なのですか?」

てっきり制服で出るものだと思っていたテアは目を丸くした。

「悪くはないだろうが、やっぱそれなりのを着たいよな。お前の初リサイタルになるわけだし」

「私の……」

エンジュに便乗して弾かせてもらうことばかり考えていたが、そう、日曜日のリサイタルはテアの初リサイタルにもなるのだ。

「それなら、ローゼならドレスを貸してくれるかもしれません。身長もそう変わりませんし……」

「ローゼ・フォン・ブランシュね……。ドレスの色は?」

「ええと確か……、赤と、」

「却下」

ローゼとテアでは雰囲気が違いすぎる。似合わないということはないだろうが止めておいた方が無難だろうと、最後まで聞かずにエンジュはテアの案を切って捨てた。

「うーん、今から買うっていうのもなぁ……。うっかりしてたぜ……」

エンジュは首を捻る。

「お金の問題もありますしね……」

彼女の「あしながおじさん」は気前よくテアに金を送ってくれるので、貯金はあると言えばあるのだが、使い辛いテアだった。

「ん、そうだな。じゃあ、日曜日は俺がお前に合いそうなドレスを持ってくる。サイズも何とかなるだろ。とりあえず制服で集合しろ。着替えの手伝いにローゼを呼んでおけ」

「あ……、はい」

いいのだろうか、とテアは思ったがエンジュはそれで決めてしまったようだ。

「じゃ、日曜日に。練習のしすぎで急に体調崩さないように、ちゃんと食って寝ろよ」

「はい」

テアは素直に頷き、練習室を出ていくエンジュを見送った。

「……本番まであと少し、か」

この一ヶ月、ずっと向き合ってきた楽譜に目を向ける。

オイレンベルクに対する感情は、楽譜にのみ集中することで、整理されようとしていた。

あれから何度もエッダを見かけているが、衝動的な思いに駆られることはもはやなくなっている。

この昏い感情は、胸の中にどうしようもなく蟠っているけれど。

答えは、もう見えているから。

――ディルクのおかげ、ですね……。

テアは大事に楽譜をしまうと、静かに立ち上がって練習室を出た。






そうして――リサイタル本番の朝。

別の手段で教会へ行くディルクとライナルトに激励され、別れた後、ローゼとテアはエンジュが来るのを校門で待っていた。

「待たせたな」

時間より少し遅れて、クリーム色の小さな車が二人の前に停まる。

ハンドルを握っているのはエンジュだ。

まさか車で迎えに来られるとは思わず、テアとローゼは顔を見合わせていた。

この時代、この国では馬車が主な交通手段であるが、自動車というものもちらほら見かけるようになってきている。特に工業が盛んなこの国では、その傾向が高いようだ。

しかし、運転できる者も、高級な自動車を所有できる者も、限られてしまっているのが現状である。

しばらく二人は自動車を驚きの眼差しで見つめていたが、我に返って挨拶をした。

「おはようございます」

「おう。じゃ、後ろ乗れ」

「失礼します……」

テアは初めての車にどきどきしながら、ローゼは実を言うと初めて間近に見るエンジュにどきどきしながら、車に乗り込んだ。

「ローゼ・フォン・ブランシュだな。クッキー美味かったぜ」

テア経由でクッキーの相伴にあずかったエンジュは気さくに笑う。

「あ、ありがとうございます。テアがいつもお世話になっています」

「ローゼ、それは何だか違うような……」

母親が言うような台詞に、テアは苦笑した。

「はは、じゃあ早速行くぜ。舌噛まないように口閉じてろよ」

「え?」

「発進!」

舌を噛む? と首を傾げていたテアとローゼは、ぐんと踏み込まれたアクセルに、座席に背中を押しつけられ、その意味を悟った。

エンジュは――スピード狂らしかった。

ぐんぐんと周りの景色があっという間に遠ざかっていく。

自動車というものがこんなに恐ろしいものだったとは、とテアとローゼは顔をひきつらせながら思った。

どうやら速度を示しているらしい数字を見てみれば、恐ろしい数値を指していて、二人は卒倒しそうになる。

――別に急がなくても十分間に合う時間なのに……!

「せ、先生、スピードをもっと落として――」

「ああん、何だって?」

曲がり角で、ぐいとハンドルが切られる。

テアは遠心力でローゼに凭れかかった。

――テア、大人しくしていた方がよさそうですよ。目でも瞑って……。

――そ、そうですね……。

リサイタルが始まる前に心臓が止まる、と二人は思った。

事故を起こさなかったのが不思議なくらいだったが、やがて地獄の時間は終わり、教会の土地にエンジュは駐車する。

ふらふらと二人は車の後部座席から出て、ぼやいた。

「帰りは絶対、ライナルトたちと一緒に帰ります、私……」

「私も、そうしたいです……」

初めてのドライブは二人にトラウマを植え付けてしまったらしい。

「ん、何だって? ほら、テア、トランクにドレス入ってっから出せよ」

二人とは対照的に晴れやかな表情のエンジュに急かされ、テアはよろよろしながらもローゼとトランクを開けた。

そこには、大きめの、茶色く古びたケースが無造作に置かれている。

ローゼが好奇心を抑えずにケースを引き寄せて開けると、紺青の清楚なロングドレスが納まっていた。

「綺麗なドレスですね。色も落ち着いていて、テアにきっと似合いますよ」

「そ、そうですか……?」

テアは、ドレスを着たことなどそうないので、自信がない様子である。

「先生、このドレスどうしたんですか?」

「ん、俺の前の弟子が使ってたやつなんだけどな、ちょっと」

前の弟子、と聞いてディルクしか思い浮かばなかったテアは、思いつくままに口にする。

「……ディルクですか?」

「ばっ、んなわけあるか!」

真面目にぼけたテアにエンジュは気持ち悪そうな顔をした。

「想像しちまったじゃねーか……。とにかく、それ持って行くぞ」

「は、はい」

さっさと歩いていくエンジュに、テアとローゼは従った。

教会の裏口となっているらしい大きな扉をノックすると、司祭がにこやかに出迎えてくれる。

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

案内された小さな部屋に、とりあえず着替えろと、テアとローゼは詰め込まれる。

「テアの話には聞いていましたけど……、サイガ先生って、何と言うか本当に……ざっくばらんな感じの方ですね……」

形容し難そうなローゼに、テアは苦笑した。

「おかげで、こういう時でもあまり緊張せずにすんでいます」

「もともとテアは、こういう場ではそう緊張する方ではないじゃないですか。まぁ、とにかく着替えましょう」

「はい、お願いします」

テアは理知的で落ち着いた雰囲気のせいか、何でも器用にこなしそうに見えるのだが、意外に不器用だ。

ローゼの手を借り、おそるおそるという様子で、ドレスに着替える。靴も、ドレスに合ったものに履き替えた。

「綺麗ですよ、テア」

ローゼの声は嬉しそうに弾んでいる。

一方で、眼鏡を外した、鏡の中のテアは戸惑ったような顔をしていた。

「じゃあ、次はメイクをしましょうね。髪もアップにした方が似合います、きっと」

「えっ……」

テアは抗議しかけたが、楽しそうにローゼに椅子に座らされ、何も言えなくなった。

ローゼは鼻歌交じりに、ファンデーションやチークに手を伸ばしていく。

「ずっとこうしてテアにお化粧してみたいと思っていたんですよ。でも、テアはいつも嫌だって言うから……」

「勉強するのに化粧は必要ないじゃないですか」

「お化粧するのも勉強のうちですよ。今後絶対必要なんですから」

「それは、そうですが……」

ローゼはテアを言いくるめ、化粧を終えると、今度はその髪に手を伸ばした。

「テアは本当に綺麗な髪をしていますよね……。羨ましいです」

「ローゼの方が、長くてさらさらのきらきらじゃないですか」

「テアは手入れとかに無頓着なのにこれだから羨ましいんですよ。それなのに一定の長さになるとばっさり切ってしまうし……」

「それは……」

テアは言いかけて、口ごもった。

ディルクがくれた言葉が、脳裏によみがえって、顔が熱くなる。

「それは?」

「……もう、切らないことに決めましたから……」

ローゼは目を丸くした。自分が何度言っても髪を売り払ってしまっていたテアが、髪を切らないと言うなんて、と。

――もしかして……?

嬉しいような、親友が離れて行ってしまうような、何となく複雑な気分になってしまったローゼだった。

さらりと指の間から零れ落ちてしまう髪を器用にまとめ終え、できましたよ、とローゼはテアから一歩離れて鏡を覗き込む。

「……何だか、不思議な感じです」

「綺麗ですよ、テア。客もディルクもイチコロです」

「い、イチコロ、って……」

「さ、早速サイガ先生に見せに行きましょう。待ってらっしゃるでしょうから」

「え、ローゼ、待ってください、もう少し心の準備を……! それに眼鏡……!」

抵抗するテアの背を押し、ローゼはエンジュの元へ向かう。

「先生、支度できました」

「おー」

椅子に座り待っていたエンジュは、振り返って目を見開いた。

「あ、あの、変、ですか?」

「いやいや、すっげーな。変わるもんだなー女はやっぱ」

「もともとテアは綺麗ですからね。そのままでもいけますが、メイクをすれば美しさをもっと強調できるというもの」

「そうだな。よくやった、ローゼ」

「お褒めにあずかり光栄です」

――な、何なんでしょう、このノリは……。

「だが、眼鏡はなしで大丈夫なのか?」

「大丈夫ですよ。テア、そこまで視力は悪くありませんから。ね」

念を押されて、事実であるので、テアは頷くしかなかった。

できれば眼鏡をかけていた方が、顔が隠れている感じがして、安心していられるのだが。

「よし、じゃあそれで行こう。で、早速だがリハーサルすっぞ。ローゼ、本番前にもう一回化粧直しに来てくれ」

「分かりました。じゃあテア、頑張ってくださいね」

「は、はい。ローゼ、ありがとうございました」

ローゼに見送られて、テアはエンジュと二人、リハーサルに向かう。

いつもと異なる衣装が落ち着かないと感じながらも、テアの足は前へとだけ進んだ。




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