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爽やかな朝だった。
日課のジョギングを、いつもより少しばかり遅い時間帯に行うディルクの姿を見ると、顔見知りとなったブランシュ領の領民たちはすれ違いながらにこやかに挨拶をしてくれる。
ブランシュ領にいる時間は決して長くはないのに、彼らが当然のようにディルクの存在を受け入れてくれていることが、彼には嬉しかった。
ディルクとテアがこのブランシュ領に家を購入したのは、二人が結婚した時のことだ。
結婚するまでテアは領主の別邸で生活しており、結婚してからも二人で使ってくれれば良いとモーリッツもローゼも言ってくれたが、さすがに気兼ねした。
普通の結婚生活、というものに憧れた、ということもある。
二人で話し合い建てられた家を、ディルクは気に入っていた。
残念なのは、二人とも仕事が忙しく、なかなか帰って来られない、ということだろうか。
二人がいない間は臨時の清掃人に掃除をしてもらっているので綺麗に保たれているが、本当ならなるべく自分でそういうこともやりたいと思うのだ。
自分たちの、家だから。
だが、ディルクがここに返ってくるのは実際、一ヶ月に一度帰れればいい、という頻度だった。
普段は楽団事務所を設置したすぐ側に建物を持っているので、そこの一室で寝泊まりしている。おそらくここで夜を過ごすことが一番多い。ちなみに建物内の他の個室は安く団員等に貸している。
演奏会に赴く時はホテルを使うことがほとんどで、もしかすると家のベッドを使うよりホテルのベッドを使うことの方が多いような気もするディルクだった。
テアはもう少し日数としては多いかもしれないが、長い間帰れないこともある。
だが最近は、仕事のペースもお互いに掴んで、なるべく同じ時に家に帰れるように、予定は合わせやすくなっていた。
ディルクがここに帰ってきたのは一昨日のこと。一方のテアは、昨日の夕方に到着している。
ディルクのジョギングが普段よりゆっくりなのは、だから、だった。
二人でゆっくりと起床し、一緒に朝食をとってから、出てきたのだ。
当然というべきか否か、朝食の作り手はディルクである。
テアへの料理禁止令は、ローゼから出されていまだに撤回されていないのだ。ディルクとしても、なるべく撤回しないでほしいところである。テアはいつもディルクを手伝いたそうにしているが、料理の上達までに何度でも指に怪我をしそうだと思えば、恐ろしくてキッチンに立ち入らせることなどできない。ディルクがいない時は、護衛という任務を超えてアンネリースがあれこれとやってくれているようである。
それに、昨日は少し無理をさせてしまったから――、などと考えそうになって、ディルクは首を振った。
少しずつペースを緩め、家に戻る。
汗を流して居間へと足を運べば、テアはソファに腰掛けて留守の間に届いた手紙を読んでいるところだった。
ちょうどロベルトからの手紙を読み終えたところのようで、テアは戻ってきたディルクに苦笑を向ける。
それだけで、何となく言いたいことは伝わった。
「また、か?」
「愛想を尽かしたらうちに来なさい、はもう定型文ですね」
「まだまだ大丈夫かな、俺は?」
「尽かしていたら、まず昨日ここに帰ってきていません」
「そうだな。良かったよ。ありがとう」
柔らかに告げて額に口付けを落とせば、軽く上目遣いに睨まれた。
怯むどころか、耳元が赤く染まっていて、煽られそうな構図である。
さすがに昨日の今日で、こんな朝からはまずいという判断が働いた。
不自然でない程度に目を逸らし、テアが座るソファの背凭れに、後ろから寄り掛かる。
行儀があまり良くないかな、と思ったが、テアはそれについては何も言わなかった。
「……フリッツからの手紙は、もう読んだのか?」
「ええ。おめでたいですね」
シューレ音楽学院を卒業後、二人の共通の友人であるフリッツ・フォン・ベルナーは、ずっと目標としていた宮廷楽団に無事迎えられた。
驚くべきは、彼と共に宮廷楽団に入団したメンバーの中に、エッダ・フォン・オイレンベルクがいたことだろう。
在学中から、もしかしたらそうなるのだろうか、とテアもディルクも思っていたが、やがてフリッツとエッダは結婚に至った。二人とも貴族出身であったが、片や落ちぶれ貴族の次男坊、片や四大貴族の長女とあって、それなりに困難もあったようである。
が、今回届いていた手紙に書かれていたのだが、そんな二人に第一子ができるらしい。
手紙の文面からは幸せそうなフリッツの笑顔が浮かんでくるようで、テアは良かったと思った。
フリッツの選んだ相手がエッダである、ということに、テアは複雑な思いを未だに捨てきれないが、エッダが入学当初と比べて随分と変わったことは、ちゃんと分かっている。
あの時と同じであれば、エッダが宮廷楽団という道を選ぶはずはなく、エッダがフリッツを大切にしていることは、見ていれば分かった。
それでもいまだにテアの中でオイレンベルク家へのわだかまりは根強く、エッダへの反感も消せない。それは、ベルナー家再興中のフリッツの兄も同じ理由でそうかもしれないと、テアはちらりと思ったが――。
ただ、この時テアは、心から二人の幸せを祈った。
「その手紙を読んで、考えたんだが――」
「はい、」
フリッツの手紙は、ディルクとテア、二人宛になっていて、先に到着したディルクが先に開封していた。
読みながら浮かべたのはおそらく、テアと同じフリッツの明るい表情であったろう。
そして読み終えて、ディルクはさらに思った。
――そろそろ、
と。
けれど、こういう時はどう伝えていいものだろうか。
言葉を探して、ディルクはまっすぐに流れているテアの髪を一房指に絡めた。
何かを言いあぐねる様子であるディルクを、不思議そうにテアは見つめる。
けれど、言葉を急かしはしなかったし、その行動を止めることもしなかった。
学生時代からディルクはテアの髪がお気に入りのようで、そういうことは何度か口にしていたし、こうして触れるのが好きらしく、結婚してからは特に気まぐれに腕を伸ばされる頻度が高くなっている。
既にそれに慣れてしまったテアは、大人しくディルクが続きを口にしてくれるのを待った。
さらりとした手触りを堪能し終えた、わけではないだろうが、あまり待たない内に、ディルクは再び口を開く。
膝をつき、テアと目の高さを合わせるようにして告げた彼の言葉は、結局とても分かりやすいものだった。
「俺たちもそろそろ、つくらないか」
何を、というのは言わずとも話の流れとしてすぐに汲み取れた。
テアは不意をつかれた様子で目を丸くし、そして。
どんどんどん、という音がした。
玄関のノッカーだ。
テア、と呼ぶ声は、ローゼのもの。
「あ……、」
テアは慌てて立ち上がった。
「あの、ディルク、その話は後でまたゆっくり」
「あ、ああ」
「私、出てきますね」
ディルクが動くより早く、テアが玄関へ向かう。
その背が逃げるように見えてしまったのは、ディルクの思い込みが見せたものなのか、どうか。
何というタイミングだ、と、玄関から聞こえてくる賑やかな声に、ディルクは頭を抱えた。
テアはその夜から、熱を出した。
昼間は訪ねてきたローゼと楽しそうに過ごしていたのだが、夕刻に顔色が悪いのをローゼに指摘され、ベッドに入れられて、そのまま寝込むことになった。夜になる前に医者を呼んでくれたのもローゼだ。
明らかな風邪の症状に、本人は『風邪なんて初めてです』とむしろはしゃぐ様子だったので、看病をローゼに命じられたディルクは苦笑を禁じ得なかった。
その、翌日のこと。
「どうだ、テアの具合は」
「薬を飲んで落ち着いているが、しばらくは安静だな。今は眠っている」
アンネリースを伴い見舞いの品を持ってやってきたのは、ライナルトだ。
ローゼも当然来たかったようだが、来客があって抜け出せないらしい。
その代わり、女手があった方が良いだろうとアンネリースを寄こしてくれた。
ディルクがいる間、アンネリースは気を遣って大抵ブランシュ邸に行くのだ。その間彼女は、いつも以上に鍛錬に励むようである。
それを今回休んで来てくれたアンネリースは、ディルクも疲れているだろうしせっかくの休みなのだからと、ライナルトと一緒にディルクも居間のソファに座らせた。テアが寝ていると聞くと、起こすのも悪いとキッチンに入り、早速二人に紅茶を出してくれる。と思えば、次いで昼食の用意を始めてくれ、ディルクはありがたいと思いつつも苦笑を抑えきれなかった。
紅茶を一口含んで、ディルクはそう言えば随分と久しぶりだと思いつつ、親友に向かって口を開く。
「テアが、テオバルトにうつしはしなかったかと心配していたが……」
「多分、大丈夫だろう。それに、風邪の一つや二つ罹って丈夫になるというものだ」
テオバルトは、二年前に生まれたばかりの、ローゼとライナルトの一人息子である。
髪と瞳の色をローゼから受け継ぎ、眩いばかりの美貌は赤子の頃から父親そっくりという、容貌だけでも成長が楽しみに思える子どもだが、最も興味を示すのが剣だというから、余計に今から期待は大きい。
昨日ローゼが訪れてきた際、そのテオバルトも一緒だったのだ。テアの心配は最もだったが、子どもの父親は大らかに笑う。
そして、その言葉に、ディルクはテアの育った環境を思った。
風邪が初めてだと、テアは言った。
確かに、おちおち風邪などひいていられない日々だったろう。もしくは、ささいな体調不良など気にしていていられないような毎日だったのか――。
ふ、と小さく吐息を零したディルクに、ライナルトは言った。
「テアのことはもちろんだが、ローゼはお前のことをむしろ心配していたぞ」
「何故」
意外な台詞に目を瞬かせる。
「テアが寝込むのは、例の件以来初めてだろう」
「ああ……、」
納得した。あの時のことを思い出したのも、確かだ。
「そう、だな。いや、だが、あの時ほど深刻なわけではない、」
「深刻なわけではないが、何かあるんだな」
ディルクは少し沈黙したが、またゆっくりと口を開いた。
「……もしかすると、追い詰めてしまったかもしれないと、思っている。病は気からと言うし……」
たかが風邪でここまで深刻になれるとは、さすが似た者同士の夫婦、とライナルトはつい感心してしまった。
「喧嘩でもしたのか?」
「いや。……子どもをつくらないかと言った」
「……ほう」
ディルクは素直に白状する。
予想外の打ち明け話に、ライナルトは紅茶を零しそうになってカップをテーブルに置き直した。
「それで、テアは何と?」
「返事を聞こうとした時に、ちょうどローゼがやって来たんだ」
「……それは、何と言うか、すまなかったな。だが、テアはそんなに、……拒絶を示したわけではないだろう?」
「ああ。だが、圧倒的に負担がかかるのは彼女の方だし、仕事のことも考えてから提案したつもりではあるんだが、やはりこれまでと同じようにはできないだろう。……それなのに、やはり、ちょっと唐突すぎたかもしれない。言葉ももっと選んでおけば良かった……」
頭を抱え出したディルクに、ライナルトは呆れる。
ディルクがテアへの想いを抑えずともよくなってからもう随分な年数を数えるが、彼女と想いを交わして以降、テアのことに関してディルクのネジは緩むばかりだ、と思った。想いを表に出せない間余程我慢していたのか、今では若干暴走気味だ。なかなか会えないのもそれに拍車をかけているのかもしれない。それでも生来の真面目で思慮深い性格が、あまりな暴走に至るのを防いではいるようだが。
「……結婚してから一年は経つだろう。テアも全く考えていなかったわけではないと思うぞ。そしてお前は少し考えすぎだ。風邪はただどこかからもらってきただけだろう。子どものことは、テアの風邪が治ってから二人でちゃんと話し合えばいい」
全く真っ当な意見であった。
冷静なライナルトの意見に、ディルクは神妙に頷く。
早くテアの風邪が治るようにと、ディルクは思った。
話をしたい。
何よりも、これ以上テアが苦しむのは嫌だから。
一度目覚め、アンネリースの作ってくれたスープを口にして、テアはまた横になった。
身体がだるい。
母はずっとこんな身体を抱えていたのか、と今更ながらにそんなことを思った。
多分、テアが今きついと思っているよりずっと、母は辛かったはずだ……。
それでも、なるべくそれをテアに見せずに母は笑っていた。
ずっと分かっていたことだけれど、やはり凄い人だったのだと、テアは実感する。
あんな風に、なれるだろうか。
母のように。
なりたい。
そう思ったから風邪をひいたわけではないだろうがと、テアは一人かすかな微笑を浮かべる。
昨晩からずっと寝るばかりで、なかなかまた眠る気になれない。
かといって読み途中の書物に手を出す気にもならず、ぼんやりとテアは考えた。
――もういいんだ、と。
ここまできて、ようやくそう思えたんだろうなと、自分のことを分析する。
風邪が初めてだとつい口にしてしまった、あの言葉は誇張ではない。
幼い頃は、病気どころではなかった。もしかしたら体調を崩したこともあったかもしれないけれど、それに気付かないくらい必死だった。
ずっとずっと、気を張り詰めさせて。
ここまでやってきて、ようやく。
『俺たちもそろそろ、つくらないか』
その言葉を聞いて。
子どもを、つくってもいい、というくらいに。
落ち着いたのだと、分かって。
きっと、生まれて初めてというくらい、気が緩んだ。
だから、急に、こんな風邪。
けれどそれは、何と幸せなことだろう。
そんなことを今更口にしたら、ディルクは呆れるだろうか。怒るだろうか。
――違うんです、
心の中のディルクに、テアは心の中で弁明する。
今までだって幸せだった。とても、とても。
けれど、きっと、これから訪れる未来はもっと幸せだと、そう確信できる。
ディルクと幸せな未来の話をしたい。
たくさん、たくさん。
一緒に、もっともっと、幸せになりたい。
――家族みんなで、幸せで、いたい……。
思いながら、テアはいつの間にか目を閉じていた。
優しい夢が、彼女を包み込んだ。
夕刻、明日はローゼも一緒に見舞いに来ると告げて、アンネリースとライナルトは帰っていった。
礼を言って二人を見送り、ディルクはテアの寝室へ向かう。
家を建てる時、夫婦の寝室とは別にテアの寝室も用意したのは、他人の気配があると眠りにくいテアの性質を考えての配慮だった。
だが、これまでテアはディルクがいる時も同じベッドで寝起きしてきたし、アンネリースが耳打ちしてくれたところによると、ディルク不在の時も夫婦の寝室を使っていることがほとんどらしい。
それを聞いた時のディルクの表情の崩れ具合は、とてもではないがテアには見せられないものだったと、ディルクは自分で思う。
そんなことを何となく思い出しながら、静かに声をかけて、ディルクはテアの寝室に入った。
「……ディルク」
テアは直前までうとうとしていたのか寝ぼけ眼だ。
ディルクを認めて笑った顔は無邪気な子どものようで、可愛らしい。
さらに、何かを求めるように布団の中から手を差し出された。
握ってほしいということかな、とディルクはベッドに近付き、その手を取る。
手を握れば、さらにテアは笑みを深くした。
顔色から察するに熱は大分引いたようだが、それでもまだその手のひらは名残のためか熱い。
明日にはもっとよくなっているといいが、とディルクが思っていると、テアはにこにことしたまま掠れた声で言った。
「あのですね、もし子どもが女の子だったら、私、カティアって名前をつけてあげたいです」
「……、」
急にそんなことを言い出すので、ディルクは聞き間違いか幻聴か夢かと一瞬自分を疑った。
ぎょっとするディルクに気付いていないのか、テアは続ける。
「ティー、って愛称で呼んであげるんです。可愛いですよね、ティー」
「あ、ああ……」
「男の子だったら、ディルクが名前をつけてあげてください。かっこいい名前がいいです。ディルクみたいな」
ふふ、とテアは笑う。
ディルクの不安や、悩みなど、吹っ飛ばしてしまうような、笑顔で。
恐ろしかったのは、テアの反応だけではなくて。
息子を道具とするような母親と、親としての情を向けることの難しい立場だった父親の子であった自分が、ちゃんと人の親になれるのかと、それが、不安だった。
それでも、貪欲なまでに、もっともっとと、幸せを求めた。
一方で、本当にそうしていいのか、迷ってもいた。
けれど、テアがこうしてディルクの手を取ってくれるから。
嬉しそうに、笑いかけてくれるから。
「テア、」
「はい」
何かを告げようと思った。告げたい想いはいくらでもあった。
溢れすぎて、言葉にできなくなった。
だから、代わりに。
ディルクは、握った手の指先にそっと、口付けを落とした。
優しい眼差しが応えてくれて、伝わったと、分かった。
――ずっとずっと、このまま、ゆこう。
手を繋いで、微笑みを交わし合って。
彼ら家族が、幸せである道を。
――二人だった家族の家に、もうひとつ、子どもの笑い声が聞こえるようになるのは、もう少しだけ、先の話。