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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
楽章後
133/135

失物


新婚夫婦なテアとディルクの話です。

大変甘くなってしまいましたので、何か苦いものを用意された方がよいかもしれません……。




初夏のブランシュ領――。

テアとディルクが籍を入れ、ここブランシュ領に新居を構えてから少し。

落ち着かない様子のテアがローゼの元を訪れたのは、早朝のことだった。

太陽は早い時間から昇り始め、テアがやってきた時には十分に明るかったが、それでも訪いには早い。

稽古のために毎朝早起きするローゼは身体を動かした後で、突然の訪問に叩き起こされて不機嫌になるようなことはなかったが、何かとトラブルの絶えない親友のそれを、ひどく気遣わしげに迎えた。

「一体どうしたんですか?」

「すみません……、大したことではないのですが……」

テアはひどく恐縮してそう言うが、瞳には焦るような色がある。

テアの護衛を務めるアンネリースが後ろに控えていて、ローゼの問うような視線にはきはきと答えた。

「テア様は昨日から探し物をしておいでです。それがこちらにあるのではないかと」

「探し物、ですか」

「はい……」

肩を落として、テアは説明する。

「スクラップブックなんですが……、臙脂色の立派な装丁で、大きさは普通の本くらいの……。先日ライナルトに本をお返しした時に、混ざってしまったのかもしれないと思って……。もしくは、こちらの書庫に紛れてしまったか……」

「昨日から探している、ということは自宅になかったんですね。分かりました。ライナルトを呼びに行かせます」

「すみません……」

「そんなに気にしないでください、水臭い。それより、朝食はちゃんととりました? その様子では、まだですね。食べて行ってください。私も今からですから」

ローゼは使用人にライナルトを呼びに行かせ、三人で食堂へ入った。

急な訪問にも関わらず料理人は人数分の食事を用意してくれ、遠慮するアンネリースを無理矢理同じ食卓に座らせたところで、ライナルトがやってくる。

「おはよう。どうした?」

問いかけながら、ライナルトはローゼの隣に座った。

ローゼは簡潔に、テアがスクラップブックを探していると話す。

「返してもらった本の中に? いや、気付かなかったな……。確認してこよう」

だがまずは食事をきちんととることだとローゼが言ったので、全員大人しくフォークを手に取った。

「それにしてもスクラップブックですか……。音楽関係の新聞記事でも集めていたんですか?」

「いえ、その……」

テアは言葉に詰まる。

それでこんなに血相を変えてやってくることはないか、とローゼはすぐに考え直した。

「分かりました、ロベルトさんか、ディルクの記事ですね!」

テアは思わず噎せそうになり、アンネリースから差し出された水を、礼を言って受け取った。

「図星か……」

「うう……はい」

テアは赤くなって俯く。

「あのこれ、秘密にしておいてほしいんですが……」

「もちろん、テアがそう言うなら決して他言しません」

「ああ」

約束してくれた友人夫婦に、テアはそのスクラップブックがいかなるものか話した。

「……ローゼの言う通り、ディルクに関する記事を集めていたんですが……、実は、ディルクが皇子だった頃のものもあって……」

「えっ」

思わず声を上げて、ローゼはライナルトと顔を見合わせる。

「どうやって手に入れたんだ?」

ディルクとテアが出会ったのは、ディルクが皇族の身分を捨てて数年も経った後のことである。

最もな疑問だったが、テアは小さくなって小声で言った。

「エッダにもらったんです……」

それには二の句が告げなくなって、テーブルが沈黙に包まれる。

学生時代エッダがテアの命を狙った件についてこの時のローゼはとっくに知っていたし、それを聞かされていないライナルトとて、エッダとテアの不和は当然知るところであったから。

「何がどうなって受け取るにいたったんですか、テア……」

「フリッツと結婚の知らせを持ってきたんですよ……。それで、これからはフリッツを大切にするからと、その決意表明のような形だったので、受け取らないわけにもいかず……」

「しかも今となっては貴重な記事が多々あったわけだな」

「欲望に負けたことは否定しません……」

テアは握り潰しそうなほど力を込めてグラスを握った。

「そう、あのスクラップブックを失くしてしまうのは私にとって大きな損失です……。ですが問題は失くしてしまうことより何より、もし万一ディルクに見られてしまった時どうなるかなんです……」

ひどく深刻そうに言うテアに、ローゼはディルクの反応を予想してみた。

「寛容に笑って済ませてくれそうな気がしますけど……、皇子時代のものを見たら気分を害しますかね?」

「今となってはそう気にしないと思うが……。ただ、テアが危ないと言えば危ないだろうな」

「ああ……」

ひどく納得してローゼは頷いてしまったが、何をどう誤解したのかテアは真っ青になる。

「わ、私離婚されてしまいますか……」

「いえ、それは絶対にありえません」

どきっぱりとアンネリースが断言するのに、ローゼたちも心から同意した。

「テアは自分が嫌だから、それを相手にしていると思ってずっと罪悪感を覚えていたんでしょうが……、それくらいで離婚までしたいと思いますか?」

「いえ、絶対しません」

テアははっきりと首を振った。

単に惚気られているだけのような気もして、ローゼはそうでしょうと苦笑する。

「だから、そんなに青くならなくても大丈夫だと思いますよ」

「はい……」

「ともかく今日は、気の済むまで探していってください」

「ありがとうございます、ローゼ」

テアは微笑んで丁寧に礼を言う。

けれど、もし見つからなかったと考えてしまえば憂鬱で、食事はなかなか進まなかった。




朝食を終えて、テアはアンネリースと共に書庫へ向かった。

『私も手伝いたいところですが、』とローゼは申し訳さなそうな顔で仕事へ行き、ライナルトは書斎を見てきてくれているので、二人だけだ。

ローゼは誰かを手伝いに、と言ってくれたが、さすがに遠慮した。彼らの仕事の邪魔をしたくないし、スクラップブックのことを知る人は少ない方がよいのである。

ブランシュ邸で働く人々は顔馴染みで信用もしているが、以前からの癖でついつい秘密主義になってしまうテアだった。

「一体どこに行ってしまったのか……」

望み薄と感じつつ、書庫に並ぶ本の背表紙を目で追いながら、テアは呟く。

ブランシュ領の書庫はさして大きくない。蔵書はおよそ一万冊あまり、といったところだろうが、それでも二人で確認していくには骨の折れる量だった。

「あの時、ピアノの側に置きっぱなしにしてしまったんだろうとは思うのですが……」

「ああ、」

ひとりごちるようなテアの言葉に心当たりがあって、アンネリースは頷いた。

「前回の演奏会前ですね。テア様にしてはギリギリの出発だと思っていました。ディルク様の記事を見ていらしたのですね」

「……はい」

テアはぎくりと肩を揺らし、頬を染めつつ正直に肯定した。

三日前まで彼女は演奏会で、新居を離れていた。

それが結婚後初の長期に渡る仕事だったので、ついつい出かける直前まで見返していたのだ。

ディルクはその数日前から同様に家を離れていた。彼はテアのいない間に一度帰宅し、また仕事に出て行ったはずである。

婚約期間は長かったけれども新婚で、そんな風にすれ違う日々なので、夫のことが書かれた古い記事をテアが心の糧にしてもおかしくない。

普段テアは寂しいなどと口にしないが、こういうところを見てしまうと、見つけて差し上げなくては、とアンネリースは思うのだった。

「テア」

二人が地道に探し始めてしばらく、ライナルトがやってきた。

「やはり、私のところにはないようだ」

開口一番に言われ、テアは絶望の表情を浮かべる。

「そうですか……」

「自宅とここ以外に心当たりは?」

「それが、基本家に置いておくようにしているんですよね……。演奏会前に家にあったのは確実で、持ち出したとすれば帰ってきてからですが、本を持って外出したのはライナルトに本を返却しようとここに来た、一昨日だけなんです」

テアの言葉に、ライナルトはひょいと片方の眉を上げて見せた。

「ということは、ここに紛れている可能性は低く、自宅にも私のところにもないとなると、最悪の可能性しか残らないわけか」

「何かのはずみでゴミになってしまったか、ディルクが持っているか、ですね……」

ディルクが持っているかどうかはともかく、見つかってしまった可能性は非常に高いとテアは声を暗くする。

ピアノの側に出しっぱなしにしてあれば、ふと手にとって中身を確かめて全くおかしくない。

どうしていつもの場所にきちんと戻していかなかったのか……、テアは自分を責めた。

記事を見返していたら、時間を忘れてしまっていたのだ。アンネリースに声をかけられ確かめた時刻に慌て、とにかく急がなければと荷物を引っ掴んだ。スクラップブックを置いて。

「テア様、とにかくここを探してみましょう。可能性がゼロというわけではないのですから」

「そうですね……」

テアを励まそうと、アンネリースは力強く言った。

悄然としているテアに、ライナルトも微笑む。

「私も手伝おう」

「ですが……、ライナルトも仕事があるのでは?」

「少しくらい問題ない。それよりその代わりと言ってはなんだが、探し終えたらテオに顔を見せてやってくれ」

「それは、もちろん」

それでは代わりにもならないと思いながら、テアは頷いた。

テオバルトは、一年前に生まれたばかりのローゼとライナルトの一人息子である。

先ほどは眠っていたので、少し顔を見るだけで用事を優先させたのだが、テアは彼を両親と同じくらい可愛がっていた。

仕事のためにしょっちゅう会いにくるわけでないテアに、テオバルトも何故かとても懐いてくれているので、余計に可愛いのだ。

「お前が来たのにちゃんと会いに行かせないでは、後で拗ねるからな」

冗談のような台詞だったが、事実テオバルトは眠っている間にテアが来て、直に会わないまま帰ってしまった時、不機嫌そうに泣くのである。

彼は滅多に泣かない大人しい赤ん坊で両親たちに苦労をかけず、むしろ大人しすぎて心配されるくらいなのだが、その時だけは本当に大音量で泣き喚くのだ。

ゼロ歳児にして初恋か、と両親たちはその泣き声に困りつつ、微笑ましく感じていた。

そして、いつかディルクが、『可愛いんだが……、だからこそ大いなる脅威を持った敵のように感じる……』と呟いたのを、ライナルトだけが知っている。

子ども相手に大人げない親友にライナルトは気を悪くせず、平和になったと笑ったが、その言葉が将来現実になろうとは、さすがの彼も現時点では分かりようもないのだった。

「では、後で」

テオバルトのくりっとした瞳を思い出して少し気分が浮上したテアは、無理なく微笑んだ。

「ああ。では、取り掛かるとするか」

「お願いします」

三人は書棚に向き合った。

一人増えるだけで、探索時間はかなり短縮できたが――。

しばらくの後、書庫には肩を落とすテアの姿があった。

スクラップブックは、結局見つからなかったのである。





その後、テアはテオバルトとしばし戯れ、昼食も馳走になってから帰宅した。

もう一度自宅を探したがやはり見つからず、彼女はひどくがっかりしたが、こうなっては諦めざるを得ない。

――ディルクが帰ってきたら……。

率直に尋ねてみようかと考えるけれども、どうにも本人に言うのは恥ずかしすぎる。

それに、本当にディルクが持っていたとして、彼が一体どんな反応を見せてくるか。

すっぱり忘れようとしてもそう簡単にはいかず、ディルクの手に臙脂色のスクラップブックが握られているのを想像しては戦々恐々となる。

そんな数日を過ごして、ディルクが帰ってくる日になった。

ディルクの帰ってくる列車の時刻に合わせ、その日の午後、テアはアンネリースと共に駅へ向かう。

ちょうどよい頃合いに辿り着き、待っていると間もなくディルクが駅から姿を見せた。

彼はすぐにテアを見つけて、笑顔になる。

「テア、ただいま」

「おかえりなさい」

このやりとりが、嬉しいのと同じくらい、照れくさくも感じる。

変わらないディルクの姿にほっとしつつ、テアはわずかに頬を紅潮させた。

「わざわざありがとう。アンネも」

「いえ。それでは私は、先に邸へ行きます」

アンネリースは二人の再会を見届けると、すぐにそう背を向けた。

ディルクがいる間は護衛の必要もないだろうと、彼女は気をつかって夫婦が揃う時はいつもブランシュ邸に滞在するのだった。

それをテアは、何となく申し訳なく見送る。

アンネリースにしてみれば、夫婦の熱々ぶりに常時あてられるよりはブランシュ邸で稽古する方が気が楽なので、むしろ別行動の方が有り難いのではあるが。

アンネリースは早足できびきびと行ってしまい、その背はすぐに見えなくなった。

テアとディルクはそれを見送りつつ、ゆっくりと家路を辿る。

どちらからともなく、手を繋いで歩いた。

「公演、大変ではなかったですか?」

「……と言うと、お前の方も?」

二人が目を見交わせて苦笑したのは、結婚後すぐの演奏会というので、それに好奇心を掻き立てられた記者や客が多かったからだった。

婚約発表の際にも結構な騒ぎになったので、想定していたことではある。

「何より、ユスティーネ様が父と来られていてな。もちろんお忍びで、だが」

「え……」

それには驚いて、テアは目を丸くした。

「楽団があちこちから求められているのは良いことだが、新婚なのにあまり家を離れるのはどうなんだと叱られてしまったよ。父も耳が痛そうだったな」

ディルクは思い出したのか笑って、

「……もう少し、二人でいられるようにスケジュールを考えようと思ったんだが、いいだろうか」

尋ねる言葉は甘やかだ。

「あなたに無理がかからないのであれば、」

顔が火照るのを感じ、テアは俯きがちに答えた。

「その、嬉しいです……」

「……お前も、無理はしない範囲で、な」

「私はあなたほどは忙しくありませんから」

「何を言う。公演に来た人たちから演奏会の感想をよく聞くが、大絶賛で、また聴きに行きたいと言われるぞ。仕事の依頼も増えているじゃないか」

「それはあなたの前だからですよ。最近よく声をかけていただけるのは、サイガ先生が長く世界を回っておられるから、その代わりのようなものですし」

ディルクは軽く肩を竦めた。

テアのこういうところは相変わらずで、本気でこう言っているのである。

ディルクに対し、テアの演奏を熱く讃えるだけ讃えていった人々がこれを聞いたら、ひどくがっかりするか憤慨するだろうと思った。

「まあ……お前のピアノの負担にならないのならいいんだ。実のところ、やはり少しくらいお前とゆっくりしたいと思っていた。ずっと忙しくしていたからうっかり忙しいままにしてしまったが、旅行にでも行きたいな」

「いいですね」

「この休みの内にその計画を立てようか」

「はい」

まだどこへ行くかの話も出ていないが楽しみで、テアは笑った。

そんな風に話していれば家まであっという間で、二人は玄関をくぐる。

ディルクが部屋へ荷物を置きに行く間に、テアは家の窓を開けて回った。

午後の日差しは強いが、窓を開ければ涼しい風が入ってきて、心地よい気候である。

それから、キッチンに立って紅茶を淹れた。

料理は禁止されているが、これくらいならばテアも怪我をせずにできるのである。

リビングへ二つのカップを運んで、テアはソファに腰を下ろした。

ディルクを待つ間、読みかけの本を手に取る。

その表紙の色が褪せたような赤で、失くしてしまったものを思い出し、テアはわずかに顔を歪めた。

「――テア」

「っ、はい」

ディルクがリビングへ入ってくる。

呼ばれて顔を上げ、一瞬の後、テアは言葉を失った。

「これなんだが、お前のものか?」

ディルクがその手に軽く掲げたのは、臙脂色の表紙の、本。

間違いなかった。

テアの探し物が、そこにあった。

一番、あってほしくない人の手の中に。





「そ、それ……、中、見ました、か?」

しばし凍り付いてしまったテアだが、何とかそう言った。

けれどそれは、ディルクの言葉に是と返すものである。

「すまない、見た」

申し訳なさそうに、しかし率直にディルクは告げ、テアの隣に座った。

「前回帰宅した時ピアノのところにあったんだが、俺が置きっぱなしにしていたかと思って。お前はいつも、ちゃんとしているからな。似たような本を持っていくつもりだったから、確認せず荷物に入れてしまったんだ」

ディルクはそう言い訳して、テアにそれを差し出してくれた。

返してもらっていいのか、と思いつつテアはおずおずとそれを受け取る。

「実は、探していたんです。あの……気分を悪くされませんでしたか」

「いや、」

ディルクは苦笑を浮かべた。

彼はテアが罪悪感を抱えているだろうことを分かっていたのである。

「だが、驚いたよ。随分と古い記事もあったから」

「それは……」

テアは言葉を濁した。

「ちょっとした伝手で、いただいたものなんです」

エッダから、ディルクにだけは秘密にしてほしいと言われている。

それはそうだろう、とテアは秘密を約束した。

テアとて、このことは本人には知られたくなかった……。

ディルクに知られてしまった今、記事を集めるのは止めるべきだろうか。

テアは悩んだ。

「……あの、私、これからも記事を増やしていってもいいですか」

そして結局、本人の意思を問うことにした。

ディルクはそれに、躊躇いもなく頷く。

「ああ」

テアがその返事にほっと口元を緩ませたのも束の間、ディルクは笑顔でこう続けた。

「だが、二つ交換条件がある」

「なんですか……?」

ディルクの笑顔は清々しすぎて何やらあやしい。

テアは後ろめたさを捨てきれないながら、スクラップブックを抱きしめて警戒した。

「一つは、これだ」

その時ようやくテアは、ディルクがもう一冊本を抱えていることに気づいた。

臙脂色にばかり気を取られていて、見落としていたのだ。

空色の、美しい装丁のものだった。

差し出されて、テアはそれを受け取る。

中を確認して、彼女は再び言葉を失った。

それは、テアの記事を集めたスクラップブックだったのだ。

テアは信じられないという顔で、楽しげに微笑むディルクを見つめる。

「ディルク……、」

「俺にもこれを許してほしいんだが」

「……駄目なんて、言えるわけないじゃないですか」

「ありがとう」

テアは突き返すようにしたがディルクは笑みを崩さず、再びそれを手にする。

律儀にも、初めてテアがステージに立った、エンジュのリサイタルのパンフレットから収められているのが、何だかんだと嬉しく、悔しい。

その頃から大事に思われていたのだと、実感してしまって。

照れくさく、親ではないのだから、と内心で言葉にして、テアは笑えないことに気づいた。

ロベルトも全く同じものを作って持っているのでは、と考えたのだ。

少なくとも国内ではピアニストとしてとっくに有名になっているテアであるが、自分の痕跡があまりにも明らかであるといまだに落ち着かない。

しかもロベルトの場合他人に見せびらかしていそうで、それが余計に恐ろしい。

あまり考えないでおこう、とテアは小さく首を振り、再度警戒を表に出した。

「……もう一つの条件は、なんですか」

「そう警戒するな。難しいことじゃない」

ディルクは言って、テアの方へ腕を伸ばした。

「ディルク?」

「これは一旦脇において」

ディルクはテアがぎゅっと抱えているスクラップブックをすっと抜き取り、自分のものと一緒にテーブルの上に置く。

困惑の眼差しを寄こすテアとの距離を詰めて、彼は告げた。

「俺がいる時は、俺を見てくれ」

「そ……っ」

至近距離にあるディルクの瞳に、テアは耐え切れず俯いた。

この人が関わるとどうしても赤くなってばかりだと思いつつ、テアは何とか返す。

「そんなの……、いつも、そう、じゃないですか……」

ディルクは一瞬、虚を突かれたような顔になった。

テアはそれを見てから、自分の口にしてしまったことに気づく。

「ディルク、」

「――そうだな」

ディルクは蕩けるような笑みで、その瞳に真っ赤になったテアを映していた。

「俺も、お前といる時はそうだよ」

「……っ」

「いられない時も、何度だって思い出している。だがそうすると、ひどく会いたくなってしまって……、このスクラップブックは、そういう時に見るようにしている。頑張るテアに負けない仕事をしなければと思って、何とか忙しいのを放り出すのを堪えるんだ」

「ディルク――」

「お前の方のを見つけた時、だから嬉しかった。お前も同じなのかもしれないと思って」

「……はい」

小さな声で、テアは肯定した。

かもしれない、ではなく、同じ、なのだと。

それがさらにディルクに喜びを与えて、彼は舞い上がるような心地のまま、テアの唇に触れるだけの口づけを落とす。

「……もう、何だかあなたには、一生敵わないような気がします」

彼があのスクラップブックを見たら。気分を害するのではと、そんな心配ばかりしていたのに。

こんな甘やかな反応ばかりなんて、想定の範囲外に過ぎる。

唇を尖らせるようにしてテアが零せば、「それはこちらの台詞だ」とディルクは返した。

「俺も同じことを思っている」

テアはひどく疑わしげな眼差しになった。

彼女はまだまだ分かっていないのだと、ディルクは思う。

彼女のスクラップブックを見てしまった時、彼がどれほどの驚きを持ったか。

同じ想いでいてくれるのだと、それがどれほどの幸福をディルクにもたらしたか。

気持ちを通わせて何年にもなるけれど、彼女の想いを実感する度嬉しくなることに代わりはなくて、それを言葉にしてはみるものの、すべてを伝えることは難しい。

今はそれでもいいと、疑いの色をその瞳に浮かべるテアを見つめ、ディルクは微笑む。

テアが零した言葉も、ディルクへの想いの一端。

それに募っていく愛しさは、これからいくらでも伝えていけばいいのだから。

「信じられないか?」

「いえ……その、」

「それなら今夜、じっくり信じてもらえるように努力しよう」

「え……え!?」

「今はまず、この紅茶をいただこうか。すまない、冷めてしまったな」

「それは別に……、あの、ディルク」

一転して青くなってテアは返そうとしたが、墓穴を掘るだけのような気がして口を閉じた。

「ん?」

「いえ、」

「そうか?」

ディルクは涼しい顔で、紅茶を飲んでしまうと、静かにソーサーにカップを置いた。

「そうだ、先ほどの話だが、旅行のパンフレットをもらってきたんだ」

スクラップブックと一緒に持ってきてあったらしい冊子を、ディルクはテーブルの上に並べた。

「……結構たくさんありますね」

「スクラップブックにばかり活躍されたくないから、つい張りきった」

ディルクは爽やかなまでの笑顔で言って、テアは持っていたカップの取っ手をぎゅうと握った。

赤くなったり青くなったり赤くなったり忙しい彼女は、心の中で一つの結論を叫ぶ。

――どう考えてもやっぱり私の方がやられっぱなしです……!







後日――。

テアは、ローゼとライナルトにスクラップブックが見つかったと報告へ行った。

その時、その夜ちゃんと眠れたかという話になり、テアは撃沈する。

『テアが危ないと言えば危ないだろうな』と言ったライナルトの台詞の意味を、ようやく彼女は理解したのだった。


そして、その少し先の未来で。

それぞれが作っていたスクラップブックは、テアと、ディルクと、その子ども、三人家族の記録をまとめるものとなるのだが――。

今はただ二人とも、大切な人の記録帳を、互いに大事に持ち続けるのだった。




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