醜聞
ディルク・アイゲンは、その日、焦燥感を露わにしてブランシュ領へ戻った。
彼の婚約者であるテア・ベーレンスに会うためである。
シューレ音楽学院を卒業して後、彼女は領主の別邸に滞在しているのだ。
少し前にもディルクは彼女に会うためにブランシュ領を訪れていて、少なくとも一ヶ月は再訪できない予定だったが、何とか一日予定を空けてやってきた。
少なくともディルクには、そうするだけの理由があったのだ。
別邸を訪ねれば、突然の訪問に使用人たちは驚いた顔をしたが、ディルクを応接室に案内してくれる。
「テア様はピアノの練習中ですので、呼んで参ります。少々お待ち下さい」
「ああ……いや、手が離せないようなら練習が終わってからでもいいと伝えてくれ」
ディルクが言えば、彼をここまで案内した女性――テアの護衛であるアンネリース・トーレスは笑った。
「ディルク様が来たと言えば、すぐにいらっしゃいますよ」
テアが待たせると思っているのか、ディルクともあろう人が謙虚なものだ、と眼差しで寄こされて、ディルクは軽く肩を竦めた。
「それに、本当はお急ぎなのでしょう」
見透かしたような言葉を置いて、颯爽とアンネリースはテアを呼ぶために去っていく。
ここに来た理由ももしかすると分かっているのだろうか、と思えばディルクは暗澹とした気持ちになった。
そうだとすると、逆に変わらない気安い態度が不可解でもあるのだが――。
ディルクが手持無沙汰に――というより用件以外のことを考えられずにソファに腰掛けてテアを待っていると、アンネリースの言葉通り、すぐにテアはやって来た。
「ディルク! どうしたんです? 演奏会の予定は……」
顔を合わせて早々、心配そうに尋ねられる。
かけ込むようにやって来てくれたテアの姿にディルクは立ち上がり、宥めるように言った。
「移動の日程を余裕を持って設定してあったから、一日何とか空けたんだ」
「それでも大変なスケジュールでしょうに……」
「いや――」
首を振るディルクに、テアはまた座るように促した。
彼が無理をしているのではないか、という疑いは、本人が否定したところで打ち消されず、少しでも休んだ方が良いと思ったのだ。
ディルクは素直にソファに腰を下ろし、テアもその隣に座る。
そのタイミングをはかったようにアンネリースが紅茶を持ってきて、「どうぞごゆっくり」と笑顔で言い置いて去っていった。
「……急にすまなかったな。練習の邪魔をした」
「そんなこと」
用件をすぐに切り出せず、ディルクは茶を一口含んでそう告げた。
テアは首を振り――、ディルクにとっての爆弾を、落とす。
「私より、そちらの方が大変でしょう。特に今は、周囲が騒がしいのではないですか?」
ディルクはその意味を一瞬、掴みかねた。
だが、理解してしまえば思わず噎せてしまいそうになり、何とか堪える。
「やはり……、お前も、あれを、読んだのか……」
「ええ」
唸るような問いかけにテアは頷いた。
ディルクは頭痛を堪えるように、こめかみを指で押さえる。
テアの顔を見ることはできなかった。
「……こちらにも迷惑をかけてしまったか?」
「いいえ。いつもと変わりません。こちらのことは、何か書かれたわけではありませんでしたので……」
穏やかな口調で、テアは答える。
「それで、わざわざ来てくださったんですね。ありがとうございます」
「いや……」
礼を言われてはっと顔を上げれば、テアはディルクがほっとするような笑みを浮かべていた。
どうして、と思いながらも、眩しいものを見たかのようにディルクは目を細める。
「どちらかと言えば、ただの俺のわがままだ。お前が気を悪くしていないか、誤解されていないか、それが気になって……、」
「疑ってなんて、いませんよ」
微笑んで言われるのに、安堵する半面、何となくディルクは複雑な気持ちになった。
ディルクが慌ててここにやって来たのは、数日前に三流紙に載ったゴシップ記事が原因だ。
それは、ディルクと、有名な舞台女優との熱愛を報じるものであった。
もちろん事実無根のことである。
ディルクとその舞台女優とは、何かのパーティでちらりと顔を合わせた程度の接点しかない。
それだというのに、その記事には腕を組んで密着していたとか、その他のこともまるで本当に見てきたかのように書かれていた。
よくもまあこれだけの捏造記事を厚顔無恥にも載せられたものだと、呆れるやら腹が立つやら、忍耐を試される内容だった。
その三流新聞社はほとんど潰れかけのようなので、最後に華々しく散ろうとしてディルクの名を勝手に使ったのかもしれない。
だが、そんな事情はディルクの知ったことではなかった。
彼らの捏造記事のせいで、楽団の事務所も他の記者等々に囲まれて大変な騒ぎになり、団員たちは記事を否定するのに大忙しだ。
迫る演奏会も、純粋に演奏を楽しみたいという客以上に野次馬根性剥き出しの人間が大勢押し掛けてくるだろうと思うと、今からうんざりしてくる。
そんな中、楽団長でもありゴシップの当事者であるディルクが一人抜け出してくるのに罪悪感はあったが、メンバーたちのもとに留まって騒ぎが収まるのを待つだけというのは、耐えきれなかった。
今回のことで何よりも彼が気にしたのは、彼の本当の婚約者のことだったから。
テアはいつもと同じように優しく微笑みかけてくれるが、どんな思いであの文章を読んだのだろうか。
自分だったら、とディルクは考える。
とてもこんな風には、笑っていられないだろう……。
「――もしかして、」
わずかのディルクの沈黙を何と受け取ったのか、テアは紅茶で喉を潤すと、小首を傾げて尋ねた。
「ディルク自身は、あの記事を読んでいないのですか?」
「一読は、したが……」
「……見逃しても仕方ない箇所でしたしね」
思い出して気分を害するディルクの顔色を見て、テアは察して、気遣うように言った。
そんなテアの言葉に、ディルクは困惑の色を見せる。
「テア?」
「あの記事……」
と、苦笑を浮かべながらテアは続ける。
「目撃の日付が結構具体的に書かれていたんですけど、それがちょうど、あなたがここに滞在していた期間だったんです」
「……は、」
ディルクは唖然とした。
「一応、記事はまだ残っていると思いますよ。持って来ましょうか」
「いや、いい……」
あんなものはもう二度と見たくないし、テアの言葉を疑っているわけではない。
そういうことならば、テアが変わらないのも腑に落ちる。
ただ、気付かなかった自分が間抜けで、ディルクは肩を落とした。
励ましを込めて、テアはそんなディルクの肩に優しく触れる。
「何と言うか……、すまないな」
「あなたが謝ることはありません。ディルクの方こそ、お疲れさまでした」
「ああ……、ありがとう」
甘えるように、ディルクは額をテアの肩口に寄せた。
甘やかすように、テアはディルクの頭を撫でてくれて、癒される。
「……俺には、お前だけだというのに、」
溜め息交じりにディルクの漏らした言葉は、甘やかにテアを満たす。
今でこそ落ち着いてディルクといられるが、テアとて、使用人経由であの記事のことを知らされた時、平静ではいられなかった。
『でも、この日時おかしいですよ。ディルク様がこの時あっちにいられたはずありません』
冷静に突っ込まれて、テアも該当の部分に気付いたのだ。
少しでも疑ってしまったことを、テアは後ろめたく思った。
それがなくともその記事に怪しい箇所はいくつもあって、捏造とは明らかであったのだが、それでもやはり、恋人と他人とのことが嘘でも赤裸々に書かれているのに、動揺せずにいられるはずがない。
だが、指摘を受けて何とか冷静さを取り戻せば、自分よりも現在のディルクの苦労を思った。
――お父さんがこちらに飛んできたことも、今は言わない方が良いですよね……。
婚約破棄だ、と怒りを露わにしてやって来た父の顔を、テアは思い浮かべる。
見損なった、とテアに代わるように怒ったり泣いたりしていたが、明らかな捏造記事であることを告げれば途端に大人しくなって帰っていったので、問題はない。
ディルクもその内ロベルトの存在を思い出して頭を痛めるかもしれないが、今はまだ余裕がない様子であるし、わざわざ口にしてこれ以上追い詰めるようなことをしなくてもいいだろう。
本邸と別邸を行ったり来たりしているローゼ・ライナルト夫妻も、記事のことを知るとすぐテアのことを気にかけてくれた。
彼らはディルクが浮気をするはずがない、という確信を持って記事を読み、すぐに複数の矛盾点に気付いたので取り乱すようなことは全くなかったようである。
むしろ捏造記事の馬鹿馬鹿しさに、呆れを通り越して二人して爆笑を堪える気配だった。
ロベルトとローゼたちに共通していたのは『クソ新聞社、ぼろぼろに潰してやるか』という意見だ。
テアの心を乱した、という時点で三流新聞社に対する彼らの心象は地よりも低い位置に落ちてしまったようである。
テアはそこまでしなくてもいいと首を振ったが、彼らの気持ちは大事に思われている証と、正直なところ嬉しかった。
例え捏造でも気分は悪かったし、今にも潰れてしまいそうならさっさと潰れてしまえばいいと思ったのも本当だ。
だが、彼らが手を出さなくともその内勝手に新聞社は自滅する、とテアは判断した。
そうでなければ、当事者であるディルクがただでは済まさないだろうし、報復の権利は彼にある。
――それにしても、本当に、嫌なものを見せつけてくれた……。
自覚が全くなかったわけではない。
というより、あまり認識しないようにしていたのに。
あの記事は、テアの醜い感情を彼女自身に知らしめた。
嫉妬というもの。独占欲というもの。
今までもその感情は当然あった。何しろ恋人はそれなりの地位も財産もあれば容姿も優れていて何より優しい、ローゼの言うところの優良物件であるディルクである。彼に近づきたいと願い行動する女性など数えればきりがない。
それでも、ディルクは少なくともテアの前で、彼女以外の女性が一定以上の距離を超えようとしてくるのを上手にかわしていたし、他の女性の話をするような時にも誤解を与えるような言動は絶対にしなかった。
テアはディルクに大切にされているのをちゃんと分かっていたし、彼が恋愛においてストイックすぎるほどに真面目で誠実であることも、理解している。
だからディルクと会えない時間が長くともそういう疑いはほとんど持たなかったし、多少なりとも考えることはあっても、ディルクを信じることで揺らがずにいられたのだ。
だが、今回のように嘘でもディルクと他の女性のことが語られたのは初めてであり――しかも生々しく、である――、強く胸の奥に渦巻いた暗い感情に、テアは眩暈すら覚えそうだった。
悪い感情は、昔から母の負担にならないよう、表に出さず心の中にしまいこむ事が多く、傍から見れば落ち着いて見えたかもしれないけれど。
他人はもちろん、自分でも見たくないと思うくらいには、多分心の中には醜いものが巣食っていた。
――この人は、私のものだ。
なんて、
そんなこと。
けれど、こんな風に触れて許されるのはきっとテアだけであろうし、こんな風に彼が寄り添うのも、きっとテアだけだ。
「近い内に、」
ディルクの髪に、指先で梳くように触れつつ、テアは囁くように言った。
「私たちの結婚のこと、公にしましょうか」
その言葉に、はっとディルクは少し身体を離し、テアの顔を見つめる。
婚約、ではなく、結婚、と彼女が告げたのを、間違うようなディルクではない。
「しかし、テア、」
ディルクとて、それを望まないわけはない。
だが、彼が機を待つのは、ピアニストとしてのテアの展望を考えるからこそであった。
師であるエンジュの名はともかくとしても、テアは父であるロベルトの名から逃れられない。
過剰な期待を寄せられることもあれば、演奏を聴きもせずに親の名を借りてと嘲られることもある。テアの演奏がどうであっても、ロベルトの娘だからどうこうという判断がされてしまう。
今は割り切って、テア自身の演奏を認めてもらえるよう、日々努力を続けているところなのだ。
もちろん、ロベルトとは関係なくテアの演奏を認めてくれる人も多いし、ロベルトが父であることをテアが煙たく思っているとか、そういうことは全くない。
彼女の父が「すごい人」であることは確かで、それをテア自身誇りに思っている。
ただ父とテアは、親子であっても別の人間なのだ。
それを今は、なるべくでも多くの人に分かってほしい。
ロベルトだけでなく、"テア"の演奏を、好きだと、聴きたいと思ってくれる人が増えてくれたら、と思いながら、テアはピアノを弾き続けている。
それなのに、ここでディルクと彼女の結婚を発表してしまったら、また彼女は振り出しに戻ってしまうようなものだ。
ロベルトに及ばずとも、ディルクは音楽界では既に有名人と呼んで過言ではないし、彼の生まれのこともあって、特に音楽に興味がなくともディルクに注目している人間は多い。
夫婦となり、結婚したことを公にすれば、テアの実力と関係がないところで、また様々に言われることだろう。
婚約すら、隠すということを徹底していないものの、公に発表していないのは、そうした理由があるからだった。
そうした事態が起こり得るのはいつになっても変わらないだろうが、まだテアが音楽界で年数を重ねて、それなりに認められていれば、揺らぐことは少ない。
だからディルクは、いつまででも待つつもりだった。
ディルクのそんな思いを、テアは分かっていたし、感謝もしていた。
だが。
「……すみません、わがままなのは、私の方、で、」
テアは左手にずっと着けている、婚約指輪を見つめながら、本心を吐露した。
「ピアノのことは、いいんです。どう言われても、結局、私はピアノから離れられないですし、死ぬまで、ただ好きなだけ、弾き続けるだけですから。そう思えるんです。でも、あなたとのことは、駄目なんです。嘘でも、あんなの、嫌なんです。だって……、あなたと約束を交わしたのは、私なのに。私だけ、なのに」
テアのそれは、殺し文句だった。
ディルクは思わずぎゅうとその細い体を抱きしめる。
「ディルク?」
「……そうだな。結婚して、見せつけてやろう」
何とか高まる気持ちを抑えながら、ディルクは答えた。
「いえ、そんなにその、見せつけるとか、そういうのは、いいんです、けど、」
「遠慮しなくていいぞ」
「遠慮じゃないです」
言いながらも、寄り添ってくれるのが嬉しい。
何よりも、テアが見せてくれた、その心が、嬉しかった。
「実を言えばな、」
「はい」
「これまで結構、我慢していたんだが、公然と見せつけることができるようになるというのは、いいな」
「いえあの、私は見せつけるのをむしろ遠慮したいのですが、」
彼女の反論は、笑顔のディルクに口付けられて、封じられた。
我慢していたとは、一体どういうことであろうかと、反射的に目を閉じながらテアは考える。
早まっただろうかと思ったのは一瞬で、結局のところ、テアとて同じような気持ちがないわけでもないのだ。
しょうがない、とテアはディルクにか自身にか、心の中で苦笑交じりにそう零した。
近く訪れる未来を待ち遠しく思いながら、今は――。
それしか知らない唇の感触に、幸福感で満たされた。