婚約
結構な長さになってしまいました、番外編そのいちです。
糖度が増しておりますのでご注意ください…。
久しぶりだ。
そう思いながら、ディルク・アイゲンは一人、シューレ音楽学院の正門をくぐった。
春である。
まだ少し肌寒いが、それでも学院の至るところに植えられ世話されている花々が、色取り取りに咲き乱れている。
彼が卒業してから、二年足らず。
それから全くここに来なかった、というわけではない。
自身の楽団を持つ彼は、仕事の関係で何度かここに来ることがあった。
何より、彼の恋人がここに在籍しているから、彼女に会うために足を運んだ。
だがそれでも、ここに足を踏み入れる機会は多くはなかった。
ディルクは卒業生であるが、シューレ音楽学院は基本的に外部の人間の立ち入りを禁止しているし、恋人と会うにしろ、外で会うことの方が多かったから。
いつぶりかと思い返しながら、ディルクは久しぶりの、けれど何年も過ごして慣れた道を歩く。
この日、学院は外部にも開放されていた。
シューレ音楽学院コンクールの本選が行われており、それが外部にも公開されているのだ。
だが、学院が通常通り一般の立ち入りを禁止していても、ディルクのことを止める者はいなかったかもしれない。
数年前まで学院に在籍しており、かつ生徒会長であったディルクの顔を見知っている者は多く、誰かとすれ違う度挨拶の言葉が行き交う。
また、在学中の彼を知らずとも、ロベルト楽団に追い付くほどの楽団の創設者及び楽団長であるディルクの顔を知らない者は、この学院においては少数だろう。
楽団を束ね率いる彼は、在学中より貫録も増し、燦然と輝くようで、止める止めない以前に、そうした思考を奪って人を魅了してしまえそうでもあった。
――さて、どこにいるかな。
楽しそうな瞳で、彼は考える。
今回、彼がここに足を運んだのは、恋人に――テア・ベーレンスに会うためだ。
あらかじめ約束していたわけではなかったが、彼女が学院の外に出ることは少ないし、何より今日の本選はピアノ部門。
ピアニストである彼女だが、今回のコンクールには参加していない。けれど、彼女のことだから、参加者の演奏を聴きに行くのは間違いない。
それがなくとも、彼女の行動範囲は広くなく、学院内でも行くところは限られているので、心当たりの場所を探せばどこかで会えるはずだった。
驚くだろうなと、その表情を思い浮かべながら、ディルクはコンサートホールへ向かう。
今彼女がいるとすれば、可能性が最も高いのは、これからコンクールが行われるそこだ。
まだ少し時間があるが、彼女のことだから、もう席に着いているかもしれない。
もし違っていても、その時はその時で、コンクールの演奏を堪能するつもりだった。
早く会いたいと、思う。けれどディルクは無暗に焦るのではなく、会うまでの時間も楽しむような心持ちでいた。
もとより楽団の仕事の関係で、コンクールの表彰式及び入賞者の演奏会には足を運ぶ予定で、それがわずかであるが、早く来ることができたのだ。
少しでも彼女と過ごす時間を増やすことができたと、ディルクはそれだけで上機嫌だった。
彼女が春休みの間にも会う約束をしていたのだが、ディルクの仕事のせいで会えなかったから余計に、少しの時間でも喜べた。
彼の楽団は好スタートを切り、名が売れ始めているとはいえ、まだまだ駆け出しだ。人手は足りていないし、やることは山とある。仕事の依頼の選り好みも、してはいられない。あるだけでありがたかったし、余程のことがないかぎり、どこにでも演奏に赴いた。誰もに音楽を楽しんでもらうために創った楽団だから、やれることは全てやりたくて、そのせいで、ディルクはいつでも仕事に追われているような状況だ。
テアはテアで、あとわずかで卒業を迎える。卒業準備に余念がないし、幾多のコンクールで入賞した彼女も引く手数多のようで、忙しそうである。
それぞれ多忙な二人の会う時間が少ないのは至極当然のことだったし、予想していたことではあるのだが……。
もっと、と多くを望むのも、きっと当たり前のことだった。
――けれどそれは、自分に限ったことだったのだろうか。
コンサートホールの入り口からロビー部分に入ったところで、人々のざわめきの中、ディルクは立ち尽くした。
ロビーには開場前に待つ人などのために、多くの腰掛けが用意されている。
そのソファの一つに並んで座っている男女の片方が、テアだった。
彼女は、隣に座る男と、楽しげに談笑している。
誰だ、と思って、知った顔であるということにすぐに気付いた。
イェンス・グライリッヒ。
クンスト出身の若手ピアニストだ。
『ライバルの演奏と競う時ほど自分は良い演奏ができるのだ』と言い、とにかく数多くのコンクールに出場して名を残している男で、その演奏にはディルクも一目置いていた。
学院の生徒ではないが、知り合いなのかとディルクが顔を険しくさせた時。
テアが顔を上げ、すぐにディルクに気付いた。
その表情が驚きのものへと変わり、同時にその黄金の瞳がきらきらと輝いたので、ディルクの中で膨れ上がっていた嫉妬という名の感情は、それだけで少しおさまる。
「ディルク!」
衆目も、隣にいた人物のことも忘れたような様子でテアは立ち上がると、ディルクに向かって小走りに駆け寄った。
「テア」
色々なことが落ち着いて、気を緩ませるようになった彼女は、時々危なっかしい。
彼女が何もないところで躓いたりはしないかと、ディルクも大股に近付く。
「仕事、落ち着いたんですか? 来られるのは明日だと……」
「ああ、少し余裕ができたから」
「連絡してくだされば良かったのに……」
「お前の驚く顔が見たかったんだ」
「……人が悪いです」
テアは少し唇を尖らせた。
可愛い、とディルクは笑う。
唇とはいかずとも、その額にキスをしたいと思ったが、何とか堪えた。
付き合い始めたばかりの頃、少し調子に乗ったら、一週間ほど会う度にテアに逃げられることがあったのだ。
それ以来、ディルクは人前ではそれなりに自重している。
だがこういう時は、自分のものだと誇示したくもなる――。
テアの後ろから、先ほどまで彼女と話していたイェンスが、すたすたとこちらに近付いてきていた。
その彼の目は、鋭くディルクを見つめていて。
なるほどと、ディルクは不敵な笑みを浮かべ、テアの腰に手を回した。
テアはそれを拒まない。
それに、イェンスの瞳が、さらに鋭さを増した。
「置いてくなよ、テア。……お前がディルク・アイゲンのパートナーだったって、本当だったんだな」
「すみません、イェンス」
だが、イェンスが口を開いて、テアが慌てて振り向く時には、彼の顔から剣呑さは消えていた。
その代わり、ディルクはぶしつけなほど真っ直ぐな、強い目で見られる。
イェンスの方が身長が低いので、ディルクは彼を見下ろすような形になった。
「あの、」
「大丈夫だ」
テアは双方を紹介しようとしたが、ディルクはそれを遮る。
「顔は知っている。ピアニストのイェンス・グライリッヒ――。演奏を聴いて、一度会いたいと思っていた。そちらも俺のことは知っているようだ」
「そりゃあな。色んな意味で、あんたは有名人だ。ちなみに俺は、あんたの楽団の演奏を聴いたことはない。聴きたいと思ったこともない」
「それは残念だ」
「イェンス! あの、ディルク……」
おろおろとするテアに、ディルクは気にしていないと言うように笑いかけた。
次いで、イェンスに目を向ける。
ディルクは落ち着いた様子を崩さなかったが、その瞳には挑戦的な、冷ややかな色が宿っていて、イェンスは思わず、ほんのわずか、後ろに逃げた。
「友人同士の語らいの時間を邪魔してしまってすまなかったな。今日は本選に?」
友人、とディルクは強調する。それにイェンスは一瞬眉根を寄せ、続いた質問に当然と告げる目で返した。
それに少しばかり虚勢が含まれるのに、ディルクは余裕の笑みを浮かべる。
「では、そろそろ準備もあるだろう。邪魔をするのも本意ではない。今日はここで、外させてもらおう。――テア」
「は、はい」
「始まるまで少しだけ、いいか?」
「はい……」
柔らかいが、有無を言わさない調子で告げられたそれに、戸惑いながらテアは頷いた。
「では行こう」
「え、あ、イェンス、」
腰を抱かれたまま連れていかれそうになったテアは、踏みとどまって、イェンスに応援の言葉を告げる。
「演奏、楽しみにしていますから。頑張ってください」
「お前に言われなくても」
その返答に笑って、テアはディルクに従った。
その背中をずっと、熱い視線でイェンスが追いかけていたことに、彼女は気付かなかった。
ディルクがテアを少しばかり強引に連れていったのは、コンサートホール裏手側の木立の中だった。
人目につかず、すぐにコンサートホールに戻れる、と考えたからだ。
衆目から逃れたところで、おずおずとテアが口を開いた。
「あの……、ディルク、怒ってます?」
「怒ってはいないが――」
徐々に歩くスピードを緩めたディルクは、やがて立ち止まり、真っ直ぐにテアを見つめた。
「嫉妬は、している」
その台詞に目を丸くしたテアに、ディルクは顔を近付けた。
「ディ、」
軽いリップ音を立てて、口付ける。
離れて、テアの眼鏡を外した。
そして、もう一度、今度は、深く。
「……っ、ふ、」
テアの手が、ぎゅっとディルクの腕に縋りついて、行為を受け入れてくれるのに、ディルクは満たされた。
細い腰を、背を、強く抱きしめて、どこまでも距離を縮める行為に、没頭する。
長いキスを終えて、ディルクが恋人を見下ろせば、その耳元は真っ赤に染まっていた。
付き合って何年も経つが、会う機会が少ないせいで、こうした接触もそう回数を重ねているわけではない。
いまだに慣れない様子で気恥かしそうに目を伏せるテアに、ディルクの胸は掴まれるようだった。
彼女の美しい髪を一つに束ねるのは、相も変わらずディルクが贈った髪留めで、一層愛しさが募る。
うっかりディルクがその首筋に唇を寄せれば、驚いたのか、テアは腕を突っ張った。
ディルクもこれ以上のことをするつもりはなかったので、あっさりとその腕の動きに身体を引く。
「……すまないな」
「謝る、ことなんて」
「久しぶりに会ったお前が、他の男と親しげにしていたから、」
「イェンスは、そういうんじゃないですよ。友人……というか、ライバル、のような」
だが間違いなく、彼の方はテアをそれ以上の目で見ている。
テアのこういうところも変わらずで、相手からの好意にはとことん鈍いのだった。
だが、鋭くなられて相手のことを意識されても困る。
少しだけ呆れたような眼差しになりながらも、ディルクは言った。
「……お前は、そのままでいてくれ」
「そんな台詞を、前にも誰かに言われたような気がしますが……」
どういうことかと首を傾げるテアに答えず、ディルクはそっとその頭を撫でた。
「――会いたかった」
率直に気持ちを伝えれば、テアはますます頬を紅潮させた。
眼鏡越しではない、黄金の瞳がディルクを見上げ、束の間ディルクはそれに見とれる。
やがて、テアは俯いて、
「……私もです」
小さい声で、同じ気持ちを返した。
久しぶりの再会だったが、この日は結局、コンクール本選の演奏を聴く、という予定を変えることはなく、ディルクとテアはコンサートホールへ向かった。
実にこの二人らしい選択だと、ローゼがいれば呆れると同時に微笑ましく思ったかもしれない。
「……そう言えば、アンネは今日はどうしたんだ?」
ホールへ入りながら、ディルクは尋ねた。
アンネ――アンネリース・トーレスは、ローゼが選んでつけたテアの護衛である。
ライナルトを追うように、ローゼも学院を三年目で退学した。
もともとローゼが学院に入学した一番の理由はテアであったから、テアの抱えていた問題が色々と片付いて、テア自身がもう大丈夫だからとローゼの背中を押したのだ。
だが、オイレンベルク家とロベルト・ベーレンスとの間の子であるテアを一人きりで行動させてはやはり何があるか分からないと、ローゼは信頼できる人間を残していった。
テアが一年目の夏にも、師との演奏旅行で同行した女性だ。
彼女のローゼへの尊敬の念は並々ならぬもので、ローゼの妹とも言える存在であるテアへの扱いもそれに準ずる。
かといって、テアに唯々諾々と従ったり、テアを壊れ物のように扱ったりということはなく、テアの意思を尊重してくれると同時に、きちんと自分の意見を持って行動できる、しっかりとした人物だ。
仰々しく不自由なイメージから護衛がつくことにあまり気の進まないテアだが、彼女のことは好意的に受け入れている。
ローゼがブランシュ領へ戻っても、アンネリースがいてくれるならばと、ディルクも彼女を頼みにしていた。
「コンクールの間は学院の警備も手厚くなりますし、お休みしてもらっているんです。本当に毎日私についていてくれて、滅多に休みもあげられませんから、この機会に」
そうか、とディルクは頷いた。
わずかといえども早めにここに来ることができて良かった、とそれを聞いてつくづく思う。
アンネリースがいてくれたならば、テアに近付く余計な虫も上手く追い払ってくれただろうが、それがない今、ディルクがいなければ――。
挑戦的なイェンスの顔を思い出して、ディルクは苦々しく思った。
「ディルクの方は、ずっと人手が足りないと仰ってましたけど、本当に大丈夫ですか?」
忙しいのを無理しているのではないか、と心配するテアに、気持ちを切り替えてディルクは微笑む。
「ああ、補佐してくれる人間を新しく雇ったんだ。随分助かっているよ」
「それは良かったです。どんな方ですか?」
「一見したところは軽薄そうに見えるな。とにかく女性を見ると声をかけたがる困った男なんだが、仕事の面では有能だ」
「……前からいた補佐の方、すごく真面目そうな方でしたけど……」
頑固そう、とか、融通が利かない、という形容詞を出さないようにして見上げてくるテアに、ディルクは苦笑した。
「最初はどうなることかと思ったが、まあ、何とか上手くやっている。二人を足して割ると、ライナルトになるなと思えてしまって、俺は結構楽しいよ」
ディルクの言葉に、テアは思わずふきだしそうになった。
「お前に会う時間も増やせるようになったしな」
それが人員を増やした一番の理由であるとはしかし、ディルクは口にしない。
テアが恐縮しそうだ、と思ったからだ。
ホールの席に座り、ディルクはテアの指に指を絡めた。
「ディルク、」
「駄目か?」
「……駄目じゃ、ないですけど……」
照明の照度は落とされているが、近くに座っている人間からは丸見えだ。
何よりディルク自身が、ただ在るだけで人目を引く。
有名人と形容して全く問題のない彼が、こういう恋人らしい振る舞いを人前でしてしまってもいいのかと、テアは思っているのだった。
この関係を特に秘そうと考えているわけではないが、公になってディルクの名に傷をつけるようなことがあったらと、テアが恐れているのはそれだ。
だが、ディルクがただ嬉しそうに笑うので、テアは許されたような気持ちになって、自分から絡められた指に少しだけ力を込めた。
ディルクはそれに機嫌良く、椅子に凭れる。
テアとコンクール演奏の開始を待ちながら、あの女好きの新人に、こんなに綺麗で可愛い恋人を紹介したくないなと、そんなことを考えた。
日が地平線に沈む頃――。
イェンス・グライリッヒは、学内の者に道を尋ね、学院寮へと足を向けていた。
整えられた道を行きながら、イェンスは思い出す。
『お前みたいなのがエンジュ・サイガの弟子!?』
彼がテア・ベーレンスに出会った時、最初に投げつけた台詞が、それだった、と。
三年前の夏。国際コンクールに出場した際のことだ。
彼の師はエンジュ・サイガと知り合いで、それぞれ互いを紹介された。
正直、彼女の第一印象は地味、だった。
あのエンジュ・サイガの弟子だと、認めたくなかった。
イェンスの師も素晴らしい演奏家だ。
だが実を言えば、今の師を師と仰ぐ以前、この人しかいないと、エンジュの弟子に志願したことがあった。
しかし、『お前と俺じゃ合わん』ときっぱり断られてしまったのである。
それなのに。
イェンスは駄目で、彼女は良かったのか。
イェンスは勝手にテアに対し敵愾心を燃やした。
けれど、彼女の演奏を聴いて、ステージ上での彼女を見て、地味などという印象はどこかへ行ってしまった。
――俺よりも"上"かもしれない。
そんなことまで思わされた。
彼女は彼のライバルになった。
最初の彼女に対する彼の発言は失礼極まりないものであったが、彼女の方はそう気にしないでいてくれたのか、コンクールなどで顔を合わせる度、言葉を交わし、次第に距離は近付いた。
彼女の方も彼の演奏を認めてくれ、互いにライバルと呼べるような関係になった。
だが、イェンスは、彼女をライバルとする一方で、自身の感情の変化に気付いていた。
出会えば穏やかに微笑んでくれる彼女に。
イェンスの演奏を認めてくれる彼女に。
ステージ上で、多彩な音を奏でる彼女に。
いつしか、イェンスは、恋をしていた。
だから、気に食わなかった。
ディルク・アイゲン――。
彼を見た時、テアが他の何者も目に入る様子ではなかったこと。
彼があまりにも自然に、テアに触れていたこと。
テアがそれを受け入れていたこと。
全て、気に食わない。
彼女に想いを寄せる男は少なくないと、イェンスも分かっていた。
だが、彼女が既に誰かのものであるとは、考えたことがなかった。
考えたくもなかったし、テアもまずそういう話をすることがなかったから。
それなのに。
コンクールの演奏では気持ちを切り替えたが――というより、ディルクによって闘志を煽られいつも以上の演奏をしてきたのだが、イェンスはいまだ気持ちをかき乱されたまま、寮周辺でテアを待った。
自分でも引かれる行動かもしれないと分かっていたが、彼はもやもやとした気持ちを抱えてじっとしていられるような性質ではなかったのだ。
実際、実を言えばテアにも一度、告白済みであった。
しかし――。
『はい、私も好きですよ。あなたの演奏は、私とは全く違っていて……、だからこそ、憧れなんです。これからもいいライバルでいましょうね!』
笑顔で、お友達ならぬ良いライバル宣言をされてしまったのである。
テアはイェンスの本当の想いに全く気付かないまま。
相手として見られていない、ということにイェンスは傷つき落ち込んだが、諦めることはできなかった。
今回のコンクールで、一位をとったら。
今度こそ、ちゃんと想いを伝えて彼女と、と決めていた。
だからこそ、その前にあの男のことを確認しておかなければ。
宵闇の中、イェンスは覚悟の眼差しでいた。
やがて――。
向こうから、テアがやってくる。
その隣に、当然のように、ディルク・アイゲンはいた。
この時間まで一緒だったのか、とイェンスは眉間に皺を寄せる。
ディルクがいては、彼女と二人きりで話すのは無理だろう。
かといって、ディルクもいる場でそういう話をしても、先ほどのようにテアを困らせるだけだ。
賢明にもそう考えて、イェンスは木陰に身を隠した。
こんな風にこそこそしているのは自分らしくない、と思って苛々が募る。
イェンスが影から見つめる先、二人は寮の玄関の前、いくつか言葉を交わした。
あまり長く話し込むことはせず、テアは寮へ姿を消し、ディルクは来た道を戻り始める。
意を決して、イェンスはディルクの行く先を塞ぐように、彼の前に出た。
眉を顰めたディルクの唇が、イェンスの名を呼ぶように動く。
余計なことは言わず、イェンスは告げた。
「ディルク・アイゲン。あんたに話がある」
「……そうか」
イェンスの不遜な物言いに苛立った様子も見せず、ディルクはただ恬淡に頷いた。
テアのことで、というのは、言わずとも分かりきったことで、ディルクに断る選択肢はなかったのだ。
それに、イェンスがテアに向ける感情は当然おもしろくないと感じているが、ディルクに対しここまでの口をきく相手はそういないので、ストレートな感情をぶつけてくる彼の気性を、実を言えばディルクはそれなりに気に入っていた。
「ここでは他の者に聞かれる。場所を移そう」
言って、さっさとディルクは歩き出す。
それが主導権を握られるようでイェンスは嫌だったが、ここに詳しいのはディルクの方なので仕方がない。
彼は黙ってディルクの後に続いた。
ディルクはそう遠くの場所を選ばず、構内にいくつもある木立の中の一つへ入っていく。
「……それで、話とは」
「あんた、テアとどういう関係だ。元パートナーってだけじゃねえんだろ」
回りくどいことが嫌いなイェンスは、ずばりと単刀直入に切り出した。
ディルクはそれを悪くはないと思い、薄らと笑う。
挑戦的な、笑みだった。
「彼女とは、今もパートナーだ」
こいつは何を言っているんだ、とイェンスは思った。
ディルクはシューレを卒業しているし、現在テアにパートナーがいないことを、イェンスは知っている。彼女の素性が明らかにされて後、混乱がひどかったために特例措置が出されたのだとテア自身から聞いていた。
怪訝と不機嫌を露わにして睨みつけるイェンスに、ディルクは続ける。
「パートナーという言い回しは、この学院に限ったものではないだろう。俺と彼女は、生涯を通じてのパートナーだ。もっと分かりやすく言えば、今現在俺と彼女は恋人同士の関係にある」
やはり、とイェンスは奥歯を強く噛みしめた。
だが、気にかかるフレーズに、低く問う。
「今現在?」
「近い将来には、彼女は俺の伴侶となっているだろう」
抜け抜けと言い放ったディルクに、イェンスは口元を引き攣らせた。
「……へえ。あんたみたいなのが、本当にあいつをそうしたいと思ってんのか」
「俺みたいとは?」
「あんた、女なんかよりどりみどりだろ。なんであいつなんだ。本気であいつのことが好きなのかよ」
「愚問だな」
ディルクは揺らがず動じず、切って捨てるように答えた。
「遊びの気持ちなら、彼女は俺が側にいることを許してはくれなかっただろう。その言葉は彼女を軽んじる、愚弄するものだ。そちらが言いたいのは、そういうことではないだろう」
ディルクの返しに、イェンスは自身の言葉を少し反省し、少しだけディルクを認めた。
「……そうだな。俺は――、あんたたちの関係をはっきりさせときたかっただけだ。ま、どうだろうと俺がやることはひとつなんだけどな」
イェンスは不敵に笑う。
「俺はテアを手に入れるぜ。あんたがいようが、奪ってやる」
「……万に一つも、それが叶うことはないがな」
冷ややかに、ディルクは返した。
鋭利な刃物のような、声だった。
「俺は何があろうと絶対にテアを失わない。そしてテアも、俺を失うことはない。俺たちは互いを奪われないし、もし奪われそうになったなら、俺たちはどんな手段でも用いてそれをさせない」
「――あんた、」
不敵な笑みは、あっと言う間に剥ぎ取られてしまっていた。
いつものイェンスなら、ディルクの言葉に強気で反論していただろう。
だがこの時、奪おうと手を伸ばしても決して届きはしないと、事実を突きつけるディルクの迫力に、彼は呑まれた。
ディルクは淡々と落ち着いているように見えたが、その白藍の瞳には、激しい感情が宿っていて。
イェンスは、奪うどころか、逆に奪われるようだった。
「俺たちは失わないことを決めている。テアがそちらを選ぶことは決してない。だからこそ俺は、彼女に想いを告げることすら許さない」
「……は、」
「断りを口にする彼女の気持ちを考えろ。好敵手と認める相手を傷つけたと、傷つく彼女は容易に想像できるだろう」
その言葉に、イェンスは腹立った。
同時に、弱いところを突かれたとも、思った。
「今の距離で満足するのが、そちらにとっても一番幸せなことだ」
言い置いて、ディルクはこれ以上言うべきことはないとばかりに歩き出す。
すれ違うようにして帰り路へ戻っていくディルクを、イェンスは今度は引き止めなかった。
いや、引き止められなかった、の方が正しいかもしれない。
――なんつうのと付き合ってんだ、テア……。
ディルクの気配が去って、イェンスは木の幹に凭れかかった。
"俺たち"と、口にした、ディルク。
彼女も同じなのかと、イェンスは思った。
いつも穏やかでいて、けれど、胸を掴むような演奏をしてみせた、彼女の姿を脳裏に浮かべる。
あの音は。
あの男を想って、弾いていたのか……。
――触れられない。
触れられないと、思ってしまった。
あの二人の間にある絆。
それでも……。
それでも、とイェンスはきつく拳を握る。
やがて彼も、宵闇の中、足を踏み出していった。
五日間にも及ぶシューレ音楽学院コンクールは、四日に渡って行われた本選を終え、五日目の表彰式、入賞者の演奏会まで滞りなく行われた。
その、五日目の夜。
コンクール最後を飾る、華やかなパーティが始まっている。
高名な音楽家や、音楽を愛する数々の資産家なども多く出席するパーティは、演奏家を目指す若者たちにとってチャンスの場だ。逆に、それぞれの様々な理由で音楽家・演奏家と縁を持ちたいと考えている者たちにとっても良き場となっている。
ピアノ部門で見事一位入賞したイェンスはしかし、集まってくる人々に苛々としながら、それを上手くさばいてその群れから抜け出していた。
イェンスの場合、コンクールの出場理由は、入賞したいというより、ライバルたちと競争することで自分の最上の音に辿り着きたい、というものであったから、演奏が終わった時点で彼の目的は達している。結果はそれについてきたものに過ぎず、見知らぬ人間に次から次へと「おめでとう」と声を掛けられても、鬱陶しいばかりであったのだ。
何より、今の彼には心に決めたことがあったから。
集まってきた人々を散らして、イェンスはテアの姿を探した。
数日前の会話によれば、テアもこのパーティには参加しているはずだ。
このパーティには彼女の父親も参加するようで、彼女が嬉しそうに笑っていたのを、イェンスは鮮明に思い出せる。
会場ではディルクも見かけたがテアと一緒ではなく、何やら仕事の話をしている様子だったので、彼女に話をするなら今のうちだった。
そうかからずに、テアの姿はパーティ会場の端の方で見つかった。
少し歳のいった男と、エンジュ・サイガ、三人で言葉を交わしている。
彼女は彼女で仕事の話の最中だと、雰囲気ですぐに分かった。
テアももうすぐで卒業だ。その後のことかもしれない、と考えてしまえば迂闊に声をかけられなくなった。
今日のテアは、眼鏡を外し、その美貌を隠さずにいて、その上でドレスアップしているものだから、イェンスは声をかけられないものの、その姿に見とれてしまう。
その時、不意に――。
『断りを口にする彼女の気持ちを考えろ。好敵手と認める相手を傷つけたと、傷つく彼女は容易に想像できるだろう』……。
ディルクの言葉が、イェンスの中でこだました。
迷いが生じる。
あの彼女の瞳を、曇らせると分かっていて、それをするのか……。
その時、イェンスはどん、と衝撃を感じた。
後ろからぶつかられたのだ。
「すまない、すまない」
少し顔を険しくして振り返れば、ぶつかってきた人物は見覚えのある顔で、イェンスは息を呑む。
――ロベルト・ベーレンス!
音楽界の異端児であり天才児、そしてテア・ベーレンスの父親であるロベルトが、そこに立っていた。
「だが君もね、いけないと思うんだよ。……人の娘をそんなに熱っぽく見つめてくれやがって、一体どういうつもりかなぁ? 見る目があることはほめてあげるけど、ちょっとこっち来てもらおうか」
「いや、あの、」
じっとりと据わった目で見られ、イェンスはたじたじとなった。
普段であれば強気になれたかもしれないが、相手が相手だ。このまま演奏家としてやっていくならロベルト・ベーレンスを敵に回すわけにはいかないし、テアの父親である。
それにしても、噂通りの親馬鹿っぷりに、イェンスは唖然とするしかなかった。
指揮棒を持てば人が変わったように魅力的な音楽を生み出す人物であるのに、娘が関わるとどうしようもない、というのは既に音楽界での当然になりつつある。
ロベルトとテアのことが公表された後、貴族にすり寄ったなどと反感を持たれることも多かったロベルトだが、彼の娘へのあまりの溺愛っぷりに、貴族とどうこうと言う気も失せさせた、という逸話もあるくらいだ。
しかし、ただ見ていただけで睨まれるなど、正直釈然としない。
イェンスが対応に迷っていると、この場で唯一ロベルトを諌めることのできる人物が気付いてやって来てくれた。
テアである。
「お父さん!」
「テア!」
イェンスの窮状を察してくれたのか、テアはロベルトに咎めるような眼差しを向けたが、それも気にならない様子で、ロベルトは満面の笑みになった。
「会いたかったよ……!」
「それは私もですけど、ちょっと自重してください。イェンス、すみません」
こういうことは度々なのか、何があったのか全て分かっているような様子で、テアは申し訳なさそうな顔だった。
「いや、」
「ちゃんと言っておきますので……。それと、一位入賞、おめでとうございます」
「ありがとう」
柔らかな微笑を向けられ、イェンスは少し照れた。
顔も知らない連中に言われても嬉しくないが、テアからの一言は彼の心を熱くする。
そこに、テアに手を取られてすっかり先ほどのことなど忘れた様子のロベルトが、にこやかに割って入った。
「ああ、君はイェンス・グライリッヒか! 良い演奏だったよ。テアから時々話も聞いていたけど、素晴らしかった。失礼したが、改めて自己紹介しよう。ロベルト・ベーレンスだ」
「お会いできて、光栄です……」
百八十度変わった態度に面喰らいつつ、何とか無難にイェンスは返した。
「良ければ少し話をしないか。仕事の話だ」
「はい……!」
驚きつつ、イェンスは頷いた。
コンクールにばかり重きを置く彼だが、さすがにロベルト・ベーレンスの言う仕事には興味が湧く。
ベーレンス親子と歩き出す先に、先ほどまでテアが話していたエンジュ・サイガともう一人の男性の姿があった。
よくよく見ればあの男性は、音楽界でもそれなりに有名な人物ではないか、とイェンスは気付く。
音楽家ではないが、演奏家や演奏会の支援、後援で惜しみなく力を尽くしてくれている人だ。
「君にも演奏をお願いしたいが、ついでにテアも説得してくれないか。楽団にと誘っているんだが、なかなか頷いてくれなくてね」
「え、」
意外に思えて、イェンスはテアを見つめた。
彼女はいつも、父親のことを嬉しそうに誇らしそうに語る。その音楽を尊敬していることは確かであろうに、誘われながら、何故断るのか。
彼女の腕前なら、他の楽団員も渋い顔をすることはないだろうに。
疑問が顔に出ていたのか、テアは少し肩を竦めて、父親にちらりと視線を向けた。
「……仕事は仕事で、ちゃんとしてくださると分かっているのですが、それ以外で他の方たちに苦労をかけることになりそうで」
ものすごく納得できる理由だ。ああ、とイェンスは内心で頷いてしまった。
だが、ロベルトは唇を尖らせて拗ねている。とても大の大人がすることではないが、童顔というわけでもないのに何故か彼には似合っているから不思議だった。
「それじゃ――」
そして、その時、つい、その言葉はイェンスの口から零れ落ちていた。
「ディルク・アイゲンの方に行くのか?」
「えっ……」
テアの瞳が揺れる。
あ、とイェンスは思った。
――しまった。
あの男性を交えての仕事の話ということは、テアは――。
「それは許さん!」
だが、いち早くイェンスの言葉に否と声を上げたのは、ロベルトだった。
「うちを置いてよそにいくとか駄目! うち! うちにきなさい! 絶対うち!」
周囲からの視線が痛い。
テアは素早く近くのテーブルから果物をとって、父親の口に突っ込んだ。
妙に手慣れた仕草だった。
「その話はあちらでしましょう」
テアが凄むようににこりと笑えば、ロベルトは気圧されたように、大人しく頷いて、娘に手を引かれるままとなった。
飼い主に従順な犬みたいだ、と若干失礼だが的を射た感想を抱きつつ、イェンスはそれに続く。
この流れでは、少なくとも今日告白をするのは無理そうだ、と諦めに少し肩を落として。
その時、視線を感じて、イェンスはそちらに目を向ける。
離れた場所にいるディルクと目があった。
その口元の微笑は、イェンスをせせら笑うように見えて、彼は顔を引き攣らせる。
あの野郎、と思った。
――くそ、あの野郎……。
先ほど、瞳を揺らしてみせた、テアの表情を思い出して、もう一度口汚く彼を罵る。
簡単に引き下がれるほど、イェンスの想いとて軽くはない。
だからこそ。
だからこそ、と彼はひとり、奥歯を噛みしめる。
そうして、夜は更け――。
太陽も昇る前の、朝早くのこと。
常日頃から早起きのテアであるが、この日も彼女の目覚めは早かった。
ディルクやロベルトがこの地を離れるのを見送りに行く、という予定もある。いつもより早いくらいの時間に起きて、彼女は身支度を整えていた。
ローゼが学院を出て、学年も上がり、今ではテアも一人部屋を持つに至っている。
一人の部屋で、朝から彼女がてきぱきと動いていた、その途中。
こんこん、と小さな音がして、テアはふと顔を上げた。
それがカーテンの向こうの窓の方から聞こえる音だ、とすぐに気付き、警戒しながらそっとカーテンを開ける。
まだ暗い中、そこに恋人の姿を認めて、テアは驚きに目を丸くした。
「ディルク……」
周囲の部屋に気を遣って、静かに窓を開ける。
「おはよう」
と、ディルクは潜めた声で、爽やかに笑った。
「おはよう、ございます」
「早くにすまないな。少し、ゆっくり話をしたいと思って。出られるか?」
「は、はい」
「では、泉のところで待っている。焦らなくてもいいから……、」
「いえ、すぐに支度します」
テアの返答に軽く苦笑し、ディルクはひらりと手を振って、その場を去っていく。
それを見送り、テアは急ぎ支度を整えた。
小走りで、彼女は泉の館へ、その裏手の泉のもとへ向かう。
ディルクは泉の淵に腰かけて、待っていた。
テアの訪れに気付いて優しく微笑んだディルクは、隣にハンカチを敷き、テアに座るように促す。
テアは素直に従って、ディルクの隣に落ち着いた。
「すまないな」
「いえ、構いません。けど……、どうしてここに?」
学外者への学院の解放は、昨日の夜の時点で終わってしまったはずだった。
当然の疑問に、ディルクは悪戯っぽい笑みになる。
「男子寮に泊まらせてもらった」
「え、」
「生徒会長と、寮長と、続けてきたのが良かったかな。今でも信頼してもらえているようで、懐かしいと言えば警備にも管理人にも止められなかったよ」
「え……、と、では、ホテルは……」
「昨日の朝、チェックアウトは済ませてあったんだ。昨晩、ここを追い出されなくて良かった」
「もし泊まれなかったらどうするつもりだったんですか……」
「その時はその時だな。一晩くらい、どうにでもなる」
元皇族とは思えない台詞を、軽い調子で告げる。
「結果的にはちゃんと寮のベッドで眠れたのだし、そんな顔をするな」
驚きと呆れを隠せないテアに、ディルクは苦笑した。
「少しでも長く……、お前といる時間をつくりたかったんだ。わがままに付き合わせてすまない」
「わがまま、なんて」
首を振るテアに、ディルクはありがとう、と言った。
「今日はロベルトさんも同じ列車に乗ると聞いたから、見送りに来てくれるにしろ、二人でゆっくりとは話せないだろう……。そうなると次会えるのは、お前の卒業の時だ。そう考えたら、欲求不満に耐えられないような気がしてきてな」
「欲求不満、ですか」
その物言いがおかしくて、テアは笑った。
「笑いごとではないぞ」
真面目な声で、けれどディルクも笑って、言う。
「できることなら、毎日会いたいと思っている。テア不足は深刻だ」
ふふ、と控えめながらテアは笑い声を上げた。
ディルクの言い方がおかしいのと、半分は照れ笑いである。
彼女の赤くなった耳を隠すように、さらりと髪が後ろから前へ流れた。
急いで出てきたので、いつものように髪をまとめていないのだ。
ディルクはそっと、その耳元の髪に手を伸ばし、後ろに流してやった。
「だから本当は、俺もお前を楽団に誘いたかったんだが……」
距離が近付いたのと、ディルクの言葉が先ほどより真剣味を帯びたのに、テアはどきりとする。
「多分お前は……、頷かないだろうと思った。少なくとも、今の時点では」
「ディルク……」
テアはそっと目を伏せた。
「そういう、話を……、ちゃんと、しなければいけない、そう、思っていました」
「ああ」
「私――」
テアは、胸の内を整理しながら、訥々と語る。
「ここを卒業したら、しばらくは、サイガ先生のように、一人で色んなことをやってみるつもりです。たくさんの音に触れて、自分の音をもっと、追求して、高めたい。今はまだまだですけど、サイガ先生や、父や、そして、あなたと……、肩を並べるに相応しいピアニストになりたい。そのために、離れることが多くなってしまっても。それでも、支えられるばかりではなくて、隣で支え合えるように、胸を張って、隣に立てるように。まずは一人で、色々なことに挑戦して、成長したいと、思うんです。そして、いつか、あなたがタクトを振って、私が、ピアノを、弾けたらと……そう、思うんです」
今でも十分テアは立派にやっている。
けれどまだ、彼女がこの世界に足を踏み入れて間がないのも、事実だった。
側にいたいから、いてほしいと言うのは簡単だ。
けれど、ずっと側にいるためには、それでは駄目で。
彼女が追いついてきてくれるのを待つ必要があることを、ディルクも理解していた。
「そう、思っていても、いいですか?」
不安げに聞いてくるテアに、その不安を吹き飛ばすように、ディルクは柔らかに笑う。
「それは、俺もずっと望んでいることだ。だから、いつまでだって、待っているよ」
「いつまでもは……、かからないように、します、よ」
その言葉が揺れるのは、まだテアに自信が足りないせいだ。
それでも、彼女が揺れない意志を持って上を目指していることは、確かだった。
「俺の方も……、楽団創立から何年か経つとは言え、未熟な部分は多くある。いつかお前と共演する時失望されないように、より多くの人に楽しんで、喜んでもらえるように……、最上を目指そう」
離れていても、共に高みへ。
約束を交わし合って、二人は白み始めた空を見つめた。
「ただ……、やはり、会う時間はこれまで以上に少なくなるだろう」
「そう……ですね」
その事実に声のトーンを落としたテアの隣で、ディルクはポケットから大事そうに何かを取り出していた。
「だから、というだけではないのだが……。約束の証として、確かなものをと、思った。これを……、受け取って、もらえるだろうか」
「え……、」
テアはディルクの真摯な瞳を見つめ、それから、視線を落として彼の手元に瞳を向けた。
その視線の先。
ディルクの手のひらの中に、小さなケースがある。
そこに収められた指輪の姿に、テアは息を呑んだ。
さすがにその意味が分からないほどに、彼女も鈍感ではない。
「ディルク……」
「その、返事は今すぐでなくとも構わない。いや、早い方が嬉しいが……。テア、」
「は、い」
「俺は、多分お前が思っているよりもずっと、お前のことが好きだ」
「!」
「ずっと側にいたいと思う。遠くにいても、心は近くにありたいと思う。他の誰にも渡したくないし、こういうものででも、お前は俺のものだと、誰からでもはっきりと分かるように示しておきたい。こういう言い方は、不快かもしれないが」
テアは言葉もなく、ふるふると首を横に振った。
「昨晩も、お前のことを見ていた男は多かったよ」
「え……、」
「だから、かな。本当は、卒業後に言おうと思っていたんだが、焦ってしまった。だが、言おうとしていたことも、想いにも、違いはない。具体的なことは……、もっと、お前がお前の道を進んで、落ち着いた頃にと思っているが、」
逆らえない引力でもあるかのように、テアは真っ直ぐに見つめてくるディルクから、目をそらせない。
その黄金の眼差しの先で、ディルクは告げた。
「ずっと側にいるという約束を、形にしたい。テア……、結婚しよう」
鼓動が速くなるのが、分かった。
身体が熱くなる。
胸の底から、感情が、湧きあがってくるようで。
せり上がってくるそれに、テアは耐えた。
「ディルク……、ディルク、」
潤む瞳を隠すように目を瞑り、テアはディルクの胸に頭を寄せる。
縋るように名を呼ばれて、ディルクはそうっと、テアの頭を撫でた。
ディルクとて、絶対に肯定の返事がもらえると自信満々でいるわけではない。
傍から見れば落ち着いているようでもあったかもしれないが、彼の心臓とてばくばくと音を立てていた。
こうして近付くにいれば、互いの心音も聞きとれて、朝の静けさの中、ディルクはテアの音を聞きながら、彼女の言葉を待った。
「……良いんでしょうか、」
震える声で、小さく告げられた言葉を、ディルクは聞き逃さない。
「良いんでしょうか、私、こんなに幸せになってしまって。これ以上、幸せに、なってしまって……、」
それは、ディルクの申し出に対する、遠回しな答えだった。
その言葉に、ディルクの中で、彼女への想いが膨れ上がる。
「皆、それを願っているよ。お前の、両親も、ローゼも、友人たちも、皆だ。俺も、お前に幸せになって欲しい。幸せにしたい。俺にそれができるなら……、俺にとっても、それ以上の幸せはない」
テアを抱きしめて、ディルクはそう、断言した。
私なんかに、とテアは思う。
けれど、ディルクが望んでくれるのならば。
それが、彼の幸せだと、言ってくれるのならば。
躊躇っていた手を伸ばすことは、難しいことなどでは、なかった。
「……ありがとうございます」
テアは顔を上げて、微笑んだ。
ひっそりとしているようなのに、眩しく輝くような、笑み。
朝露に濡れた、可憐な花のような美しさに、ディルクはしばし、見とれた。
「その……、つけて、いただいても?」
「――ああ、」
恥じらいながらも頼みを口にしたテアに、ディルクは頷き、指輪を手にした。
難曲も弾きこなすその綺麗で長い指に、壊れ物を扱うように、触れる。
テアのその白い指に、ぴたりと指輪は嵌った。
細い指輪はシンプルなデザインで、銀色に光る輪に、一つだけ小さな宝石が埋め込まれている。
「……綺麗、ですね」
テアは感嘆を持って、指輪を見つめた。
「あなたの瞳と、同じ色です」
嬉しそうに宝石を見つめるテアに、ディルクの口元も綻ぶ。
「そう、か」
ディルクはテアの髪の色と同じだと思っていたのだが、その言葉の方が嬉しかった。
「……似合って、ます?」
「似合っているよ」
そう思ったから、選んだのだ。
大げさにはしゃぐようなことはないけれど、黄金の瞳がきらきらと輝いて指輪を見つめる様は、ディルクの心を満たしてくれた。
「ありがとう、ございます。大事に……、大事に、します」
「ああ。俺も、お前を大事にするよ。きっと、これまで以上に」
こういうことをさらりというのが、ディルクの性質の悪いところだと、テアは思う。
本当に、もう離れることなんてできなくなってしまう……。
「……籍、早く入れられるように、頑張ります」
「俺もそれは嬉しいが……、焦らなくてもいいぞ」
「いえ、そうしたいんです。私だって……、」
言葉を詰まらせたが、テアは続けた。
「あなたを、愛しているんですから……」
言った瞬間だった。
不意に強く、テアはディルクに抱きしめられていた。
甘やかな温度に、痛くも感じられる腕の強さに、テアは泣きそうなほどの愛しさと、かすかな罪悪感を覚える。
――お母さん、
母は、父と指輪の代わりに時計を交換して。テアを、授かって。
それだけだったのに、テアだけが、こんなにも幸せで、満たされてしまって、本当に、いいのだろうか。
けれど。
……お前の幸せを、皆願っている……。
ディルクの声が、母の笑顔が、心に浮かんで。
――私は、
ディルクの腕の中、テアは昇りくる太陽をその瞳に映した。
胸の翳りさえ温かく照らしてくれるようなその輝きに、背を押されるような気持ちになる。
テアは顔を上げた。
愛しく想う相手と、眼差しを交わす。
幸せだと思った。
言葉にならないほどのその思いを、どうしていいのか分からなくなって――。
テアはそっと、自らディルクに唇を寄せる。
優しく重なったそれに、なんて幸せなんだろうと、指輪にすら熱が伝わっていくようなのを感じながら、テアはまた、思った。
余談ではあるが――。
この後、間もなくテアと再会したイェンスが彼女の指輪に気付き、その時同席していたエンジュ・サイガが珍しく哀れむような顔をしたことだけ、ここに記しておく。