憎悪 3
リサイタルで演奏することを決めたその日から、テアは以前よりもさらにピアノの練習に打ち込むようになった。
身体を壊してしまうのではないかとローゼが心配するほどだった。
朝は早くから起き、寮の練習室で練習。
昼休みは自分の名義では練習室がとれないので、昼には練習をしないというローゼに名前を借りて練習。
放課後は、課題をこなし、ディルクとの練習をこなし、夜は部屋で楽譜と睨みあいを続ける。
本番まで間がない、ということが否が応にも緊張感を高めていた。
テアはごく一部の親しい友人たちにしかリサイタルの話をしていなかったのに、学院ではひそやかに彼女が公の場で演奏するということが話題になっている。
生徒たちの間にはやっかみと、どうせ恥をかくのだろうというあなどりがあったが、友人たちが、そして顔なじみになった教師らが応援してくれることがテアの励みになっていた。
「ですが、サイガ先生は一体何を考えているんでしょうね。まだ担当になって間もないテアをリサイタルにだなんて……。本番までの期間も短いですし……」
「あの人は飄々としているように見えて多くのことを考えているからな。考えがあってのことだろう」
夕食時、食堂で会したローゼとライナルト、ディルクは顔を突き合わせていた。
もう遅い時間であるが、ここにいないテアは泉の館で練習しているようだ。
ディルクはディルクで放課後ばたばたしていて、今日はまだテアと顔を合わせていない。
先に夕食の席に着いたが、食堂が閉まるまでにテアが戻ってこないようなら迎えに行こう、とディルクは思っていた。
「おそらく、噂を知る生徒たちはリサイタルを聴きに行く。そうすればテアへの認識は変わるだろう。それを狙っているのかもしれない」
ディルクは確信の口調で言った。
「そんなに簡単に変わるでしょうか……」
「変わるさ。ローゼはテアのピアノを知っているだろう」
「確かにテアのピアノは、素晴らしいものですけど」
「私はテアのピアノをきちんと聴いていないが、最近教師たちがテアへの態度を軟化させたおかげで、生徒たちの認識も徐々に変わりつつある。これにリサイタルの成功が加われば、多少なりともテアの評価は上がるさ。成功すると思っていなければ、サイガ先生とてテアをステージに上げようとは考えなかっただろうし」
ライナルトはそう、ローゼに微笑みかけた。
「そう……です、ね。テアが身体を壊しそうに見えて、つい先生を非難してしまいましたけれど……。結果的には良くなるはずですよね、きっと」
そんな二人を見て、ディルクは苦笑する。
「さて、それでは俺はそろそろテアを迎えに行こう」
「お願いしますね」
「ああ」
颯爽と食堂から出ていくディルクを、ローゼとライナルトは見送った。
「……エッダが寮生でなくて良かったです、本当に」
ディルクの隣にエッダを見る回数が増えていると、それを気にしていたローゼは小さく呟く。
テアはローゼの前でエッダ・フォン・オイレンベルクのことを口に出しはしないが、気にしているだろうと推察できたのである。
テアの過去に、エッダが関わっているにしろいないにしろ。
ディルクに接近する女性を、気にしないはずがない。
テアが自覚しているかしていないかはともかくとして……。
「ディルクは、どんな相手でもそうそう邪険には扱わないからな」
「……あなたは、どうなんです?」
「分かり切ったことを聞くな。私はお前がいてくれればそれでいい」
その答えが欲しかったのだが、直に耳にすると照れてしまう。
赤くなったローゼに、ライナルトは笑った。
ライナルトについつい視線を向けていた者たちは、その笑顔に悩殺された。
一方、テアを迎えに泉の館へ赴いたディルクは――。
部屋の外からピアノの前に座るテアの姿を見て、動けなくなっていた。
テアはピアノに触れてはいない。
窓からガラス越しに見える彼女は、ひどく思いつめたような、張りつめた表情で、じっとピアノを、楽譜を見つめているようだった。
それはリサイタルに向けて焦っている、というような表情ではなかった。
一歩間違えれば崩れ落ちてしまいそうな危うさを持ち、けれど決してそうはなるまいと踏み止まるような、強い眼差し。
一体彼女は何を見ているのか……。
ディルクは確かめたいと思った。
けれど、それをしてしまえば、そこにいるテアが脆く崩れ去ってしまうような気がした。
それは何の根拠もないものだったけれど、ディルクはぐっと踏み込むのをこらえ、ただテアを見つめ、待った。
まるで激情を抑え込むようにも見えるテアの横顔を、ディルクが目撃したのは今回が初めてではない。
その憂いを取り払いたいとその度に思った。
けれど、ディルクはただ見守るにとどめている。
ライナルトから焦るなという助言を受けた、それもある。
だがそれだけではなく。
ディルクは最初、テアのことを大人しく控え目な、優しい少女だと思っていた。やがて、それだけではなく、他人に理不尽な悪意をぶつけられても、自然体で凛と微笑むことができる、強い人間なのだと知った。
そんなテアならば、彼女が今ぶつかっているであろう壁を、彼女自身の強さで乗り越えられるだろうと、ディルクは信じたのだ。
テアのひたむきな眼差しが、ディルクにそうさせた。
ディルクの視線の先で、彼女は一度その瞳を閉じる。
そのまま鍵盤に指が伸ばされるかとディルクは思ったが、テアは蓋を閉じてしまった。
そこでようやくテアは部屋の外にディルクがいることに気付き、慌てて立ち上がる。
そのうろたえようにディルクは苦笑し、部屋のドアを開けて声をかけた。
「そろそろ食堂に行かないと食いはぐれるぞ」
「えっ、もうそんな時間ですか!?」
テアは制服のポケットから懐中時計を取り出し、驚いたようだった。時を忘れていたのだろう。
ディルクは苦笑しつつ、ふとテアの手の中にある時計に目を向けた。
何度か見ているシンプルな銀の懐中時計だが、その二重蓋の外側にイニシャルが彫られているのを認めたのである。そこには、テア・ベーレンスのT.Bではなく、R.Bという文字が刻まれていて、彼は不思議に思った。
しかしテアはすぐに時計をしまってしまい、その文字が見えなくなってしまったので、ディルクの疑問は追究されないまま有耶無耶に消えてしまう。
テアは急いで楽譜を片付け、「すみません、わざわざ」 と丁寧に頭を下げた。
律儀なところは相変わらずなのだ。
「いや。少し急ごう。ライナルトたちがいるので大丈夫だとは思うが……」
「はい」
二人は並んで泉の館を出た。
夜の冷たい空気がテアの頬を打つ。
ふと空を仰ぐと、夜の帳の一隅で、月が皓々と宝石のように輝いていた。
「寒くはないか?」
「大丈夫です」
ディルクの気遣いがテアには嬉しかった。こうして迎えに来てくれたことも。
オイレンベルク家への憎悪を持て余す自分に、彼に優しくしてもらう資格があるのかと、そんな思いが胸中にはあるけれど。
微笑みながらも、ふと表情に翳りを見せたテアに、ディルクは心配そうな顔をした。
「手袋を持ってきたら良かったか……」
「いえ、本当に大丈夫で……」
テアの表情のわずかな曇りに、ディルクはそう誤解したらしい。
テアが焦って弁解しようとすると、不意にディルクはテアの手を包み込んだ。
その温もりにぎょっとして、テアはディルクを見上げる。
「次夜遅くなりそうなときは防寒具を持っていくように。今日はこれで我慢してくれ」
我慢どころか、何という贅沢、という気持ちでテアは頬を紅潮させた。
ディルクはテアの指先が思ったよりも冷えていたことに一瞬眉を寄せたが、ピアニストの指を冷やしたままにしておくのはやはり忍びない。こうして正解だと思った。
ディルクの手におさまってしまう、テアの手のひら。
この手がディルクを魅せる演奏をするのかと思うと、不思議な気持ちになる。
「行こう、テア」
手を繋いで、二人は友人たちの待つ食堂へと向かう。
ディルクに手を引かれ、その大きくて包み込むような手のひらに体温を上げながら、テアはふと懐かしい過去を思いだした。
『――行きましょう、テア』
そう告げて笑い、テアの手を引いてくれた母――。
「……ああ、」
ぽつりとテアは声を漏らした。
答えは、ここにあったのだ。
こんなに、近くに。
ディルクがふとテアを振り返る。
「テア?」
「……何でもありません。――ありがとう、ございます」
テアは暗闇の中で微笑んだ。
空に美しくたたずむ月のように、星たちを圧倒する輝きをまとって。