決着 13
「……サイガ先生、」
意識が浮上して、テアは窓から差し込む光に目を細めながら、上半身を起こした。
病室のベッドの隣では、エンジュが備えつけの椅子に腰かけ、見舞いの品の林檎を遠慮なく頬張っている。
師の前で眠ったままの姿では、と身体を起こしたテアだったが、急に起き上がったせいで治りかけの傷が痛み、顔を顰めた。
「寝たままでいいぞ、病人」
「いえ、もう大分良いんです」
テアが入院してから、既に一週間が経つ。
事情が事情であるので最初は面会謝絶状態だったが、既にそれも解かれていた。
といっても、テアがここにいることを知っているのは、ほんの一握りの人間だけだ。
あの日学院で起こったことを知る者はほんの少数の関係者のみで、テアが怪我をして入院しているとは関係者以外誰も知らない。
現在学院の授業を欠席していることへは、もっともな理由を学院長が考えてくれていて、騒ぎになる様子もなかった。
ピアノが弾けないことへの憂鬱を溜め込みながらも、テアは静かな病院生活を送っており、その中でエンジュがここに訪れたのは、今日が初めてだ。
もしゃもしゃと林檎で頬を膨らませながら、エンジュは人の悪い笑みを浮かべる。
「その割には無防備に寝てたなぁ。お前の寝顔とか、初めてだったんだけど」
「……そうでしたか、」
未だに人がいるところではあまり眠ることができないのだが、今は薬を呑んでいるせいもあって、眠気に勝てないのだ。
何となくばつが悪い気分で、テアはエンジュから視線をそらせた。
「お前、いつ戻ってこれんの」
「一応退院の許可は下りているのですが、一つやらなければならないことが残っているので、それが済めば……」
「ああ、何か学院長がしばらく周囲が騒がしくなるだろうって言ってたな」
「はい……その、しばらく先生にも迷惑をおかけします……」
テアは今から頭の痛くなるような気分で、小さくなった。
「指はちゃんと動かせるんだよな」
「それは、もちろんです」
ベッドの上で、毎日のようにテアは指を動かしている。
ここにはピアノがないので、そうしなければ発狂してしまいそうだった。
「ならいいけど、」
そう言っておいて、エンジュが続けた言葉はこうだった。
「だから言ったんだぜ、止めとけって」
「はい……」
「バカ弟子が、このバカ弟子が、アホ弟子が」
「すみません……」
言いながら腹が立ってきたらしいエンジュは、食べ終えた林檎の芯をくずかごに放ると、テアにデコピンした。
「……先生」
「ったくよお。親より先に逝く不孝なし、っつうか、師より先に逝く不孝なしだぜ。お前、次のコンクールで入賞しなかったら、覚えてろよ」
すごまれて、テアは小さく呻いた。
これは、相当、根に持たれている。
それだけ心配をかけてしまったのだと思えば、テアには頷くより他に術はない。
「つうわけで、練習不足にならんようさっさと怪我治せよ。レッスン再開に関しては学院長とも話してこっちからお前に連絡つける。いいな」
「はい。……心配かけて、すみませんでした」
殊勝に謝れば、エンジュは溜め息を吐いた。
「お前、一応は反省して謝ってんだろうけどさ、また同じようなことがあったら同じように動くんだろ」
「……」
「お前は、何もかも分かってるくせにそれだ。俺はそこが気に食わんが、そのお前の音は嫌いじゃないから困る」
何とも返せず、テアは困ったように首を傾けた。
そんなテアを気に留めず、エンジュは病室の棚に置かれたハンカチを無造作に手に取る。
「あいつも来たのか」
「あ……はい。そうです、その時、返してほしいと頼まれていたんでした」
そのハンカチは、エンジュの物だった。
先日、テアの元を訪れたマリタ・ケーニヒが置いていったのだ。
その時もテアは上体を起こして指を動かしていて、『いらっしゃい』とマリタに何事もなかったように笑いかけたから、マリタは呆れたような表情を浮かべていた。
「ありがとうございました、と伝言を預かっています」
テアが言えば、エンジュは虚を突かれたように無防備な表情を見せ、それから苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
「……嫌味か」
「違いますよ。……先生は、本当に彼女のことが嫌いですね」
「好意を持つ方がどうにかしてる。まあでも、礼を言ってくるってことは、多少マシな顔になってたか」
「はい」
テアは頷き、マリタがここを訪れた時のことを思い出す。
怖かったのだと、彼女は言った。
『私はあなたが怖かった』
学院ではその理由は分からなかったけれど、今なら何となくその理由が分かると。
『母親を亡くしたって、聞きました』
『ええ、』
声を落として、テアは応じた。
『私には考えられないです……、あの子を失うこと。考えたくないし、きっと受け入れられない。それなのにあなたがあんなピアノを弾くから』
まるで責めるような言葉。
だが、マリタの瞳は静かで、落ち着いていた。
『どうして、あなたはそんな風に笑えるのですか』
『……私の答えを、今わざわざ聞くことはありません』
そんな風にとマリタが言った、柔らかな微笑でもって、テアは答える。
『あなたは、何も失いはしないのだから』
マリタはそれに、どこか拗ねたような、複雑な表情を見せた。
彼女の素の顔に、テアは笑いを堪える。
それは悪い意味でのものではなかったけれど、マリタがますます気分を損ねるだろうことは分かっていたので。
『……お金、働いて、返します。一生かかっても、絶対に』
『はい』
その意思を、テアは拒まなかった。
『妹さんに、ピアノを弾いてあげていたのでしょう』
『そうです、けど』
『それなら、妹さんが治った時、一緒にピアノを聞かせてください。マリタ、あなたのピアノを。その代わり利子はとりませんから』
『あなたは……』
その申し出に、マリタは困惑したようだったが、やがて頷いた。
『変な人ですね。私のこと、全部知ってるのに……。いつから、知っていたんですか』
『最初に、あなたのピアノを聴いた時から、でしょうか』
思い詰めたような音だと、思ったのだ。
媚びるようでいて、テアの中に響いた音は、追い詰められたような切迫したような、泣き声のような、それだった。
まるで昔の自分の心を覗きこむようだった。
だから、だろう。
『変……と言うか、あなた、馬鹿ですよ。こんな、怪我までして』
『そうですか?』
『はい』
泣きたいのか笑いたいのか、分からない。
そんな顔で、マリタは続けた。
『でも……感謝、しています。妹のことも。私のこと、庇ってくれたことも。あんな計画が、成功しなくて、良かった。あなたを大切に思う人たちから、あなたを奪う結果にならなくて……良かった』
そう言って、彼女はエンジュから借りたままだったハンカチを取り出したのだ。
感謝の言葉と共に、直接会うことは許されないだろうから、返しておいてほしいと。
『……今から、帰るんですね』
『はい。妹には、寂しい思いをさせてしまいましたから……。早く帰って、これからはずっと、一緒に生きていこうって、思います』
もう逃げないと、マリタは真っ直ぐにテアを見て、告げた。
『私が言えたことじゃありませんけど、どうかお大事に』
『はい。いつか……、ご家族で私の演奏も、聞きに来てください』
テアが他意なく微笑めば、マリタは複雑な表情で、それでも肯定を示して、去っていった。
「で、あいつ、退学すんのか。すっきりすんな」
「先生、言い過ぎですよ」
からりと毒舌を吐く師に、テアは苦言を呈した。
気にせず、エンジュは口を開く。
「お前、そうするとパートナーどうすんの」
エンジュが首を傾げる仕草は子どものようで、可愛らしくもある。
そんな感想を抱きながら、言葉にすればデコピンでは済まないので、テアは普通に答えを返した。
「少なくとも前期はフリーで構わないそうです。事情が事情なので、学院長が取り計らってくださると」
「ふーん」
聞いておきながらエンジュは適当な返事をする。
「で、お前と同じフリーで元パートナーのディルクは学院で忙しそうにしてるようだが、お前んとこ来てないわけ?」
「え、はい、まあ」
「ふーん」
つい、テアは曖昧に返してしまい、それにエンジュはにやりと嫌な笑いを浮かべる。
「……学院祭が、迫っていますからね」
「そうだな、楽しみだな」
誤魔化すように言うテアに、エンジュはにやにやと笑ったまま、立ち上がった。
「じゃ、そろそろ行くぜ」
「ありがとうございました。お忙しいのに、」
「それほどでもあるけど、気にすんなら早く戻って来い」
ハンカチをひらひら振りながら、エンジュは背を向ける。
「待ってるからな」
ローゼがテアの病室を訪ねたのは、その後のことである。
「テア、入りますよ」
「はい」
颯爽と、ローゼは入室してきた。
テアがここに来た当初のローゼの顔色はひどいものであったが、今は血色も良く、機嫌も良さそうである。
テアの傷の回復が順調なのに加え、事の解決を得てライナルトとも自由に会えるのが喜ばしいのだろう。
ずっと根を詰めて事態の処理に当たっていたのに、ようやく目処がついた、ということもあるようだ。
「具合はどうですか? 大丈夫そうならその……、宮殿にと言われて来たのですが」
「当主が到着したのですね」
「ええ、ですがしばらくはこちらに滞在とのことですので、無理はしなくてもいいと」
「いえ、行きます。早く出たくて出たくて。ここではピアノも弾けませんから」
テアはゆっくりとベッドから降り、着替えをした。
その間にローゼは病室を片付ける。
すぐに出ていけるように準備はしてあったので、二人は間もなく病室を出た。
医者や看護師に礼を言い、病院を出て、馬車に乗る。
「傷が痛んだり、具合が悪くなったらすぐに言ってくださいね」
「大丈夫ですよ」
「いーえ。テアは我慢し過ぎることがありますから。ちょっとのことでも、無理だと判断したらすぐに休ませます」
ローゼが若干過保護気味なのは以前からだが、今はそれがもう少し進んでいる。
それもこれも自分の無茶のせいなので強く出られず、テアは神妙に頷いた。
しかし、ローゼなどまだましで、昨日訪れたロベルト・ベーレンスはもっとひどかったのだ。
思い出すと申し訳ないやら照れくさいやらで、テアは泣いて喚いて抱きしめられた記憶を頭の隅に追いやった。
「第三皇妃――元ですけど――は、どうなりましたか」
「半狂乱で、ろくに話もできない状態でしたが……、他が証言してくれたので、ルーデンドルフの管理下、蟄居という名の幽閉に処されました。外向きには、賊の侵入に心身の健康を乱したと説明しています」
ローゼは毎日のように顔を見せに来てくれたが、あまり長く話せず、テアはなかなかその後の進展を聞けないままでいたのだ。この機会に治療に専念していた間のことを知っておこうと、テアはローゼの言葉に熱心に耳を傾けた。
レティーツィアの失脚に、彼女の手足となっていた者たちは口々に証言を始め、それに伴い十分な証拠も集められたようである。
レティーツィアを始めその手足となって働いた者たちには、それ相応の罰が下されることとなり、現在はその手続きを一つ一つ済ませているところらしかった。
レティーツィアは相手の弱みを握り逆らえなくするやり方で手駒を増やしており、それぞれの事情を斟酌して臨機応変に対処しているので、時間がかかりそうだということだ。
マリタもその中の一人で、テアの擁護もあり、寛大な措置が取られて、いち早く故郷に戻ることを許されたのだった。
「宮殿や学院では、何か話題に上ったりしていますか?」
「学院は、まあ平和なものです。マリタのことが少し言われていますが、気にすることはないでしょう。宮殿の方は、やっぱりどこからか漏れていますね。密やかにですが、話が広がっています」
「そのまま話が広がって悪い方向へ行く前に、手を打たなくてはならない、ということですね」
「……そうですけど、ここまで急ぐ必要がありますか? せめてもう少し怪我を治してからの方が……」
「いいんですよ、早い方が。私もそろそろ、ちゃんと呼びたいです。父のことを、父と」
ようやくそう呼ぶことを許されるのだと、テアは顔を綻ばせた。
ローゼはそれに、溜め息一つで心配をしまう。
病院から宮殿まで、遠くない。
そう話している内に、二人を乗せた馬車は宮殿の中へ進んでいった。
馬車を降りてからも、広い宮殿の中、結構な距離をテアはローゼと並んで歩いていく。
案内の者について行きながら、テアはそっと宮殿の中を見回した。
皇帝の住まう宮殿ともなると至るところが豪華絢爛で、落ち着かない気分になる。
シューレ音楽学院も美しい建築群であるが、学び舎ということで落ち着いた佇まいであるし、ブランシュ家の邸もここまで煌びやかではないから、目がちかちかするような気がする。
こんなところで育ったディルクがよく市井に馴染んでいるものだと、テアは妙な感心をした。
やがて、目的の部屋へ辿り着く。
「こちらにお揃いです」
「ありがとうございます」
開かれた扉から、一歩部屋の中へ足を踏み入れれば、そこは比較的、落ち着いた室内空間だった。
部屋の中には円卓が置かれ、美しい調度品が壁に沿って並べられている。
そこには既に六名が顔を揃えていたが、テアたちがそこに加わっても十分すぎるほど部屋は広々としていた。
「ご苦労だったな。テア、怪我の治りはどうだ」
「順調です。お気遣い有り難う存じます」
部屋にいた面々が顔を上げ、テアたちを認めた反応は様々なものだったが、最初に声を発したのは、皇帝であった。
その後ろに、彼の側近が控えている。
ロベルト・ベーレンスとその付き人アロイス・フューラーが皇帝の右隣に立ち、前者は挙動不審になり、後者は小さく微笑んで会釈してきた。
左隣が、新聞社ヴァイス・フェーダーの記者、ロルフ・ディボルトだ。彼が茶目っ気を出してウィンクを寄こしてきたので、テアは苦笑する。
そして、さらにその隣。
強張ったような表情で見つめられ、テアは冷たい視線を返した。
その先にいるのは、オイレンベルク家当主、コルネリウス・フォン・オイレンベルク――。
一瞬、テアの中で憎悪が膨れ上がる。
部屋にいた者は全て、それにぞくりとしたものを感じたが、本当に一瞬のことで、テアはすぐにその殺気をその華奢な身体の中に閉じ込めた。
後ろで静かに扉が閉まり、テアは部屋の中央へ歩み寄る。
オイレンベルク家当主の物言いたげな視線はその際無視した。
あくまでもローゼはこの場では護衛という立場であると弁えて、テアの後ろに従う。
どうしてこの面々が揃っているのか――。
それは、いよいよ公表の時が来たからである。
テアがカティア・フォン・オイレンベルクとロベルト・ベーレンスの子である。
そのことを――。
「既にこちらでの話は終わっている。後はお前にこの原稿で問題がないかどうか、見てもらうだけだ」
「それは……、お任せするばかりで申し訳ありませんでした。では、閣下もこの記事の掲載を認めてくださったのですね」
テアはオイレンベルク当主を見据えた。
彼は渋々と見える様子で頷く。
オイレンベルクは弱みを握られているから頷かざるを得なかった、というのも彼の中ではあるのだろう。
けれど、今回のことはオイレンベルク家にも決してマイナスなことばかりではないはずであった。
打ち明ける記事には、オイレンベルクがテアを殺そうとしたことなど一切書かれない。
カティアの病を理由に騒がれないように内密にしていたことにし、彼女の死とテアの活躍に伴い公表したと説明する。
その上で、オイレンベルク家はテア及びロベルト・ベーレンスを応援する、といった内容となる予定であった。
多少なりとも貴族から顔を顰められることはあるかもしれないが、民衆の支持を増すことは間違いない。
逆にロベルト・ベーレンスの方が、貴族に媚びを売ったなどとマイナスイメージで語られるようになるかもしれなかった。
そして、テアも。ロベルトの娘と、オイレンベルクの娘と、贔屓されたりごまをすられたり、逆に嫉妬や謂われなき中傷を受けるかもしれない。
それでも、テアは、ロベルトは、隠し続けることではなく、真実を晒すことを望んだ。
当たり前のように親子でいられることを望んだのだった。
国内を騒がせることを憂慮する皇帝も、それに賛同した。
レティーツィアが流布させた流言を吹き飛ばし、レティーツィアの行方から人々の視線を逸らすために。
彼にとっては、オイレンベルク家とロベルト・ベーレンスが手を取り合うことで国中が賑やかになる方がまだ好ましかったのだ。
もちろん、この親子を個人的に気に入っている、という理由もあるのだけれども。
もしくは、コルネリウスは、渋っているというより戸惑っているのかもしれなかった。
これまで、彼にもロベルトがテアの父であることは秘密にしていたから。
カティアは彼にとっては妹で、その妹が選んだ相手がロベルトであったとは、想像もしていなかったであろうから、受け入れ難い表情になるのも無理はない。
「では早速ですが、お願いします」
ロルフ・ディボルトはこの面子の中で、緊張した様子もなく、テアに原稿を差し出した。
礼を言ってテアはそれを受け取り、じっくりと文章を目で追う。
静かな時間が、流れた。
そう長い記事ではない。
テアは二三度読み返し、顔を上げる。
「……さすがですね」
「OKですか」
「はい、これなら問題ないと思います」
場の空気が緩んだ。
「ま、昨日からロベルト氏やアロイスさんとも一緒になって何度も作り直してますからね」
「そう、だったんですか。ありがとうございます。ハインツ卿の件でも、ろくにお礼も言えないままで、すみません。夏にお会いした時も、ばたばたばたしてしまって」
「いえいえ、この報酬をちゃんといただいてましたから、お気になさらず。で、いつ載せますか。明日でも、今からなら間に合いますよ」
「明後日だ。もう一度確認するからな」
明後日と口を挟んだのは皇帝である。
「明後日ですね。分かりました。いやー、楽しみですね。すごい反響でしょうねえ」
にこにことロルフは言う。
コルネリウスは何とも嫌そうな視線を向けたが、気付いていないのか気にしていないのか、ロルフは平然としていた。
「では確認はこれで終わりだな。ロルフ、原稿を持って別室へ。もう一度確認した後、新聞社に送らせる。編集長にはこちらから話を通す」
「御意」
芝居がかった仕草で礼をし、ロルフは皇帝の側近と出て行った。
「コルネリウス、お前もこちらに来たばかりで疲れているだろう。明後日からまた忙しくなる。少し休むといい」
「は。それでは、お言葉に甘えまして……」
彼はやはり何かテアに言葉をかけようとしたようだったが、テアの拒む態度に諦めて、潔く部屋を去る。
「……少しくらい態度を和らげてやれ」
それを見届けて、皇帝は――アウグストは苦笑を浮かべた。
「カティアの顔だから余計に、そっけなくされると傷つくものだ」
「……善処します」
そう言われても、母そっくりに生まれたのはテアのせいではないし、まだどうしても蟠りが溶けないのだ。
「まあ、いいがな。さて、改めて、レティーツィアの件では世話になったな」
「いいえ、それは、こちらこそ」
「いや、こちらだけで決着をつけるべきことだった。お前のおかげだ。ありがとう」
アロイスとローゼが、ありがとうの言葉に固まった。
テアも、皇帝からの直接の言葉に、少しうろたえてしまう。
「おかげで心残りなく退位できるというものだ」
「……本当に、」
「ああ。しばらくしたら表明する。そうすれば、お前たちへの注目も一気に減るだろう」
「ですが……そのため、ではないですよね」
「理由の一つだが、まあ、一番は、もっとユスティーネときちんと夫婦をやりたくてな」
「え、」
アウグストの理由に、テアは目を丸くする。
「テア、お前にも会いたがっていたから、できれば学院に戻る前に会っていってほしい」
「どうして、皇妃殿下が?」
「カティアの侍女だったんだ」
アウグストの答えは単純明快だった。
「カティアを今でも随分と慕っている。正直妬けるくらいだ」
「知りませんでした……」
茫然とするテアに、アウグストは楽しそうに笑った。
「お前がディルクと結婚したらカティアの娘が自分の娘にもなるのだと今からうずうずしているぞ」
「え、……は、え!?」
「"俺"も少し楽しみにしている」
俺、とアウグストは言った。
それにつられるように、
「は、アウグストお前何言ってんだ、テアは"俺"の娘だ……!」
先ほどからテアの怪我を心配してそわそわ落ち着きなくしていたロベルトが、この時ようやく違う動きを見せて、アウグストの胸倉を掴んだ。
「わーっ! さすがにそれはまずいですってあんた! 不敬罪不敬罪!」
アロイスが慌ててロベルトをアウグストから引きはがす。
だが、アウグストはくつくつと笑って、怒る様子も見せなかった。
「では、そろそろ親子でちゃんと絆を深めることだな。ようやく胸を張ってそう言えるようになるんだ。テア、ちゃんと呼んでやれ」
「……はい」
自分の娘だと、躊躇いなく言ってくれたことに、テアは心を揺らしながら頷いた。
「そろそろ私は行こう。テア、ローゼ、部屋は用意してあるから、好きなだけ泊まっていくといい。学院に戻るタイミングは任せる。ロベルト、お前は勝手にしろ」
そして、四人が残された。
皇帝が去るとロベルトは大人しくなり、またそわそわし始める。
テアもなんだか落ち着かず、親子揃ってそわそわしているのを、ローゼとアロイスは何とも微笑ましいようなおかしいような気持ちで見守った。
「ほら、テア、さっき呼びたいって言ってたじゃないですか。私たち出て行きますから、陛下の言う通り、ちゃんと呼んであげなさい」
「ろ、ローゼ……」
テアは縋るような眼差しをローゼに注いだが、ローゼはテアの背をそっと押すだけで、アロイスと共に部屋を出て行ってしまった。
「……、」
取り残されて、テアはゆっくりとロベルトに向き直った。
ロベルトは、優しい、慈愛に満ちた微笑みでテアを見つめていて、ああ、と、テアは、思う。
「……気を、遣わせてしまったね、皆に」
「はい……」
「まあ、急に親子らしくとか、無理はしなくていい、けど……。でも、今度から、人の目を気にせずに君に会えるのは、本当に……嬉しいよ」
温かな眼差しが注がれる。
私もです、とテアは言いたかった。
けれど、感情がせり上がって、言葉は喉に詰まった。
――お父さん、
そう、いつだって、呼びたかったのに、呼べなかった。
呼んではいけないと、言い聞かせて。
だって、それで、もし失うことになってしまったら。
それが、怖くて。
でも、もう、失う可能性に怯えることはない。
この人は、私の、お父さんで。
私は、この人の、娘で。
それが、許されるのだ。
ぽろりと、テアの瞳から涙の粒が落ちた。
ぎょっとして、それから心配そうにロベルトが腕を伸ばしてくる。
テアはその腕を拒まず、自分から父の胸に額を寄せた。
「――お、とうさん……!」
お父さん、と呼んだ。
今まで呼べなかった分も、補うように。
お父さん、と呼ばれて。
ロベルトは潤む瞳を隠すように、瞳を閉じた。
背中の傷に障らぬよう、そっと、愛娘を抱いて。
ああ、と彼は答えたのだった。