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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第12楽章
125/135

決着 11



冷たい夜の中、ディルクはひとりきりだった。

暗闇の向こう、木々が時折ざわりと音を立てて揺れる。

背後の建物も闇に包まれて、ただひっそりと佇み、中に多くの人がいるようには感じられない。

夜のしじまは、そのまま永に続くかのように思われた。

その時。

こつり、と無機質な音が近付いてきた。

ディルクは顔を上げ、その音を見据える。

「……こんな時間に、このような場所へ、お一人ですか」

「まあな」

「護衛もつけないとは、不用心に過ぎる」

「真夜中に付き合わせるのも悪かろう。何より今、私を狙ったところで何も変わらん」

声は常時より潜めたものであったが、静寂の中に大きく響いて聞こえた。

足音がディルクの横で止まる。

この時、本来ならベンチに腰掛けた状態のディルクは立ち上がるべきであった。

だが、今はこのままでいることを許されていると感じ、ディルクは立ち上がらない。

否、立ち上がりたくとも、この時彼は立ち上がれなかったのだ。

打ちのめされて、もう、一歩も動きたくなかった。

本当なら、他人の声も、自分も声すら、聞きたくない。

けれど、確かめなくてはならないと、彼は口を開く。

夜の闇の中、圧倒的な存在感を纏う、男に。

皇帝に。

「……作戦の成功を確かめに来られたのですか」

「……」

「彼女はあなたにとっても大事な人間だったはずだ。それを犠牲にして――さぞ、収穫があったことでしょう」

冷淡なまでの皮肉だった。

皇帝は表情も変えずに答える。

「大きな収穫はこれからだ。……それが為せば、お前はようやく解放される。嬉しくはないのか」

「俺のためだと? こんな犠牲を払うやり方が」

取り繕うことも億劫で、俺、と言う。

気にせず皇帝は、返した。

「では彼女にそう言うといい。今回のことは彼女の意思だ」

「……彼女は、何も知らないはずだ」

「お前は? 今回のこと、お前はどうして知ったのだ。彼女の怪我、それを許した『クンストの剣』、消えた見張り、病院の警護体制、そして今私がここにいるという事実」

「……」

「彼女は聡く、強い。お前もよく知っているだろう」

「……彼女は、俺に、言うなと?」

「怪我を負うことすら、お前に気付かれないよう配慮しようとした」

――何ということだ。

何ということだ!

叫び出したいような衝動が胸に湧く。

けれどディルクは、ただ続きに耳を澄ませた。

「それでも、お前が知ってしまい、例えそれで憎まれても。それでも、やるのだと言った。偽りの証言すら口にする覚悟で」

「……残酷だ、とても」

皇帝の言葉に、ディルクは呟くように、言う。

「……どうして、そんなにまで、優しくなれるのでしょうね」

ひとりごちるようなそれに、答えはなかった。

問いを発したディルク自身が、その答えを知っていたから。

ディルクはようやく、立ち上がった。

「……陛下、現在の状況を詳しく教えていただけますか」

その問いに、一瞬、皇帝の唇が笑みの形をつくったように、見え。

けれどすぐにそれは消え、皇帝は学院の状況、宮殿でのそれを簡潔に説明した。

「……もし尋問で男が口を割っても、皇妃に白を切られ逃げられる可能性がある。しかし、彼女がつくってくれた好機を逃す手はありません。陛下、私に動く許可を」

「何をする気だ?」

ディルクは自分の考えを告げた。

皇帝はぴくりと眉を動かす。

「……やれるのか」

「やります」

「では、準備しよう」

「お願いいたします」

ディルクは頭を下げ、皇帝に手を差し出した。

「……これは、お返しいたします」

皇帝はしかし腕を上げない。

ディルクは言葉を連ねた。

「今から私がやることは、皇子としての最後の義務です。これはもう、私には必要ない。また、似つかわしくもありません」

「……ご苦労だったな」

「もったいなきお言葉です」

皇帝はようやく、ディルクの手の平からそれを受け取った。

国の印を持った、金のカフスを。

「……行くか」

「いえ、私は……、少しだけでも、彼女のところに。陛下は、」

「先に戻る」

彼女の顔は既に見てきたからと。

くるりと皇帝は踵を返し、歩き出す。

その背を見送るディルクは、口の中だけでそっと、「嘘がお上手だ」と、呟いた。

誰も彼も、ディルクに優しい、嘘つきだ。






夜通し病室の前に立ち、テアを守るために置かれた護衛は、何も言わずにディルクを通してくれた。

皇帝か誰かが言っておいてくれたのかもしれない。

入室を拒まれる可能性の方が高いと考えていたのでありがたく思いながら、ディルクは音を立てないよう、その部屋に一歩、足を踏み入れる。

ベッドの上の、テアの白い寝顔が、暗闇に慣れたディルクの目に映った。

あまりにも静謐なそれに、息をしていないのではないか、とディルクの心臓が悪い想像にはねる。

心臓を宥めながら、近付くことを恐れながら、ゆっくりとディルクは歩を進めた。

距離を開けて、立ち止まる。

テアの呼吸に合わせて布団が上下するのに、息を吐いた。

その顔に、苦痛の色はない。

生きている。

――テア、

音にならない声で、何度でも、ディルクはその名を呼ぶ。

多分彼女は、ディルクが出会った人々の中で、最も残酷なひとだった。

あの時。

ここに運びこまれる彼女に、白に滲む赤に、ディルクがどんな思いでいたか。

その思いを、彼女はよく知っているはずなのに。

その思いを人に与えると、彼女はよく分かっていたはずなのに。

それでも彼女は、心に決めて、動いた。

そんな彼女を、憎しみの目で見つめることができれば良かった。

厭うことができれば。

そうしたら、こんな風に傷つけることもなかったのに……。

だが――。

――生きている。

彼女は、生きて、ここにいてくれている。

そのことが、こんなにも……。

ひたむきに見つめる先で、ふとテアの瞼が震えた。

瞬きを何度か繰り返して、彼女は月を嵌め込んだかのような黄金の瞳でディルクを捉える。

「……ディルク、」

掠れた声が、彼の名を呼んだ。

胸に震えを覚え、ディルクはもう一歩だけ、踏み出していた。

ああ、とテアが吐息を漏らす。

「……知って、しまったのですね」

「テア」

「ごめんなさい、そんな顔を、させたくは、なかった……。ですが、それでも、私は」

「テア、」

「あなたの音を、ずっと聴いていたくて」

ゆっくりと、テアは言葉を紡ぐ。

「あなたの進む道の先を、知りたかったから」

「……それも、肝心のお前がいなくなってしまったら、何にもならないじゃないか!」

抑え込んだ糾弾の声には、悲痛の色が滲む。

テアは一度瞳を閉じてそれを受け止めて。

また目を開けた時、柔らかに、微笑んだ。

「……私は、いなくなったりしませんよ」

「そんなこと、」

「あなたが、約束してくださったのでしょう? ずっと一緒にいてくれると」

その約束を、ディルクは思い出す。

「今は、あの時と位置が逆ですね」

テアはおかしそうな笑みを見せて、続けた。

「ずっと側にいる、というのは、二人揃っていてこそ、でしょう。あの約束は、ディルクだけそうであるようにと、したものではなくて……、私も、同じです。あなたが許してくれる限り、私はあなたの側にいます。ずっと」

真摯で、最も世界で美しいと思える瞳が、ディルクに温かな眼差しをくれていた。

そう、彼女は、ディルクが知る中で最も残酷で。

最も、強く、優しいひとなのだった。

「テア」

それ以外に言葉を失うディルクに、テアは手を伸ばそうとして、躊躇った。

「ディルク……、その、触れても?」

それは、ディルクの方こそ、問いたいことであったかもしれない。

もう、触れることは許されないと思っていた。

それを、テアの方から、腕を、伸ばしてくれている。

ディルクはもう一歩近づいて、膝を折った。

テアが手を伸ばし、ディルクの頬に触れる。

ディルクはその時ようやく、気付いた。

自身の流す、涙に。

「ディルク……」

困ったような、気遣うような、悔やむような、罪悪感に囚われたような、そんな表情で、覗きこまれる。

そう。

思い知ればいい、とディルクは思った。

彼女は、思い知るべきなのだ。

こんなにも、苦しい。

こんなにも。

――愛しい。

どうして、こんなにも溢れて止まらないのか。

愛しい、愛しい、愛しい。

――愛している、

愛しているんだ。

「テア」

優しい手つきで涙を拭うテアの手を取り、ディルクはその指先へ、口付けを贈った。

「ディル、」

「俺の音を聴いていたいと、言ったな」

「は、い」

「俺の行く先に、ずっといてくれると」

「はい……」

「ではそのスタートの瞬間も、見届けてくれ。待っているから」

「はい」

しっかりと、テアは頷いた。

それを見て、ディルクはようやく、笑顔を取り戻す。

「最高の演奏を、お前に贈ろう」

今度は、その手の甲に口付けた。

ディルクはその手を持ち主に返すと、立ち上がる。

「……行かれるのですか」

どこへとは、テアは問わなかった。

ディルクはただ、首肯する。

「……全てが、終わったら、」

「はい」

「お前に、伝えたいことがあるんだ。それも、聞いてくれるか?」

「はい……」

テアは頷き、

「私も、あります」

と言った。

「あなたに、お話ししたい、ことが……。聞いて、いただけますか?」

「ああ」

もう一度、ディルクはしっかりと頷いた。

楽しみにしている、と言えばテアは曖昧に笑った。

起こしてすまなかったと、ゆっくり傷を癒すように告げ、ディルクはテアの元を去る。

幽鬼のように訪れた最初と異なる、力強い足取りで、彼は病院から離れて行く。

朝までは、まだ遠い。

けれど、行く道を照らす光に、ディルクは空を仰いだ。

皓々と月が照らしているのに、ディルクはその時ようやく、気付いた。




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