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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第12楽章
124/135

決着 10



マリタはそのまま、教員棟の見知らぬ一室へと連れていかれた。

柔らかなソファに促されて座り、ぼんやりと手のひらについた赤い液体が固まっていくのを眺める。

――あの人は、死んでしまうのだろうか……。

その考えに、ぞっとした。

「これを」

濡らされた布を差し出され、反射的に受け取る。

その後で、その手を拭えということなのだと、気付いた。

「大丈夫、彼女の傷は命にかかわるほどのものではない」

マリタの心を読んだかのように、落ち着いた声で告げられる。

マリタはそれを聞いて、血の跡を拭った。

制服にも血がついていることにその時ようやく気付き、本当に大丈夫なのだろうかと疑念がもたげる。

――血が、あんなに、

思い出して、血の気が引く。

働かない頭は、どうしようもない不安でいっぱいになった。

そんなマリタの前に、温かい紅茶が出される。

「飲んで、落ち着きなさい」

正面に腰かけた学院長が、柔らかいが拒むことを許さない調子で告げる。

マリタは至って素直に腕を伸ばして、カップを手にした。

部屋にはマリタと学院長の他に、二人の男が控えている。

学院長の護衛、マリタの抑止、という彼らの役目は明らかであったが、敵意や殺意のようなものは感じられず、マリタはあまり気にしないでいられた。

温かいものを含めば、身体の硬直も心のそれも解けていくようで。

回転を始めた頭で、マリタは考えた。

考えて、不安の上に、動揺が襲ってくる。

あの人のこと、あの子のこと。

考えるべきは、あの子のことだ。

――どうしよう。

どうしようどうしようどうしよう。

失敗、してしまった。

これでは、あの子を、助けられない。

あの子を。

助けたかった、のに。

「……ころして、ください」

「何?」

「全て、分かってるんでしょう。私は彼女を陥れるつもりだった。そうしなくちゃいけなかったのに……!」

強い感情に肩を震わせるマリタに、学院長は穏やかに告げた。

「――そうすれば、妹を助けると言われた?」

マリタは肩を揺らし、学院長を見つめた。

「……そうです。でも、私、失敗してしまった」

「そうだな。だが、あちらに本当にその意思があったかは疑わしい。そう、気付いていたのではないかね」

「……それでも、可能性がゼロから有になった。助けてくれるって、それに縋る以外私に何ができたって言うの」

涙の溜まる瞳で睨みつけても、学院長は眉の一つも動かさなかった。

「……早まるな、とテアに言われただろう?」

「そんなの……、」

「妹さんのことだが、こちらで治療の手続きを進めている」

「は……、」

唐突に言われ、マリタはぽかんと口を開けた。

「え……、でも、だって、治療費、が。手術代に、大変なお金が、かかるって、」

「全てテアが負担する。とはいえ、彼女も学生の身だから全額となるといささか厳しい。彼女の後援者も、協力してくれることになっている」

「な……、んで、あの人が、」

信じられないまま、マリタは零す。

「馬鹿なの? 私のこと……、マリタって、呼んで、分かってたくせに、そんな……!」

馬鹿なの、と聞いた学院長は、ほろ苦く笑った。

不謹慎だが、それは彼も思っていたことだった。

あれだけ自分の犠牲を厭わないのは――もはや馬鹿と言っても間違いではあるまい、と。

「……君は知らないのだな。テアの母親は、病気で亡くなっている」

「え……」

「それ以上の言葉は必要あるまい。申し訳ないが、あまり時間がない。こちらの問いに答えてもらえるだろうか、マリタ・ケーニヒ?」

マリタは唇を引き結んだ。

全く、この人も狸だ。

思いながら、マリタは乱暴に涙を拭った。

「……答えられることなら、全て」






マリタ・ケーニヒは貧民街の生まれである。

家は貧しく、借金もあった。

屋根のある家に暮らせていたから、そうでない者よりはずっとましな暮らしぶりであったと、彼女は思っている。

両親は二人とも働きに出ていて、幼い頃マリタはずっと一人ぼっちだった。

それも生きていくためだと分かっていたから、寂しいと思っても我慢できた。

彼女の寂しさがなくなったのは、妹ができてからである。

ほとんど家にいない両親に代わって、マリタが妹の面倒を全てみてきた。

大変なことも多かったけれど、寂しいよりはずっと良かった。

世話を焼いてくれるマリタのことを、妹も慕ってくれた。

マリタがやがて働くようになるのを、妹はひどく嫌がったものだ。

雇い主が厚意で許してくれたから、妹はマリタの職場にもついてきて、いつでもマリタの隣で笑っていた。

マリタの雇い主は本当に良い人で、子どもがいないせいもあってか、マリタたちを本当の子どものように扱ってくれたのだ。

字を知らなかった二人に字を教え、数字のこと、それ以外のたくさんのことを教えてくれた。

それも、マリタが目を付けられた理由の一つだったのだろうが――。

その時はただ、雇い主の厚意が嬉しく、何かを学ぶということが、楽しかった。

マリタや妹が次々と知識を吸収していくのを、雇い主も喜んでくれたから、余計に。

マリタたちが働くようになったから、両親の負担も減ったようで、以前より家族が揃うことも増えた。

こんな日々がずっと続けばいいと思っていた。

そんな時だった。

妹が倒れたのは。

その頃ずっと、具体が悪そうにはしていたのだけれど。

医者にと言っても、大丈夫と妹はかわして。

多少の余裕はあっても、貧しい暮らしに変わりはない。

妹は気を遣って、無理をしていたのだ。

医者は、妹の病気を指摘した。

手術をしなければ助からないと告げた。

医者が示した治療費は莫大なものだった。

少なくともマリタや両親が簡単に稼げる額ではない。

家族皆の顔が、絶望に染まった。

もっと早く医者に診せていたら、何か変わっていたのだろうか。

貧しさが、憎かった。

どうしようもできない自分が、憎かった。

その時に。

手を差し伸べられた。

妹を助けてくれると、言われた。

その代わりに、その手の持ち主が欲したのは、マリタの、命。

それでもマリタは、その手を取った。

その、悪魔の手を。




妹を助けてくれると言った人は、マリタのピアノの腕を見込んで声をかけてきたらしい。

幼い頃、働きに出ていた両親はマリタを教会に預けていて、マリタはそこで毎日のようにピアノに触れていた。

年を重ねて、教会の世話になることはほとんどなくなったけれど、幼い時に世話になった礼に、休みの時は時々その手伝いをしていた。

マリタがピアノを弾けば妹もひどく喜んだから、行く度にピアノを奏でた。

それを聴いたのだと、言う。

シューレ音楽学院に通うように言われ、マリタはまた毎日のようにピアノを弾くようになった。

同時に、礼儀作法やたくさんの知識を詰め込まれた。

入学試験まで一年もなかったのに、自分でもよくもあの期間の努力だけで、学院に入学できたものだとマリタは思う。

死に物狂いの、準備期間だった。

入学できなければ、切り捨てられる。

それが分かっていたから。

合格の知らせを聞いた時は、心から安堵したものだ。

そして、標的と対面した。

テア・ベーレンス。

雇い主は彼女を、貶める必要があるのだと言った。

その身に相応しい場所へ、彼女は戻らなければならないと。

分不相応な位置に、彼女はいるのだと。

ディルク・アイゲンのパートナー。

ローゼ・フォン・ブランシュの親友。

本来なら、彼女が易々と近付ける相手ではないのは確かで。

取り入るのが何よりも上手なのだろうと、雇い主は彼女を嘲った。

彼女の悪口という悪口は、あの準備期間に散々聞いたように思う。

実際に出会った彼女は、聞いた話とはかけ離れていたけれども。

彼女が分不相応な立ち位置を確保しているのは、そうだと思った。

教師たちも、彼女には一目置いている。

彼女は、マリタの目には、ひどく周囲に溶け込んでいるように映って。

それが、妬ましかった。

けれど本当は。

同時に、納得もしていたのだ。

彼女の努力は本当で。

飾り気のない様は本当で。

彼女が認められるのは当然のことだと、分かっていた。

それでもそれを自分の中で肯定してしまえば、マリタは動けなくなってしまう。

彼女を標的として捉えられなくなってしまう。

だから、羨ましいとか、妬ましいとか。

そんな気持ちだけを残して。

その他の気持ちには、蓋をした。

けれど結局、あの時マリタはテアを庇ってしまった。

妬ましくて、嫌いだった。

けれど、それだけではなかったから。






何とか、冷静に、これまでのことを述べるマリタに、学院長も時間がないと言いながら、落ち着いた調子で返した。

「……それで、君が怪我をして、その咎をテアに押しつける、という計画だったわけだな」

「はい、基本的には、そうです」

「雇い主の名は分からないと言ったが……、君を訪ねた人間の名は? 名は知らずとも、外見上の特徴は」

「名前は、やはり、名乗りませんでした。ただ、代理人とだけ。確かなことは、女性だった、ということです。身長は私と同じくらいで……、いつもヴェールを被っていたから、ほとんど顔は見えませんでしたけど、髪の色は黒、だと思います。年は多分、そんなには若くなくて……、三十代後半、とか、もしかしたらもう少しいっているかもしれません」

「入学前には城下で勉強していたと言ったが、その時君の前に現れた人物を挙げられるかね」

「勉強とピアノを教えてくれた人は、多分、何も知らなくて普通に名乗ってくれました。私が城下で会ったのは、基本的に代理人と教師たちだけです。あとは、宿泊していたところで勤めていた人と……。ここに来てから、学院の……その、仲間、とは会いましたけど」

「このリストにその仲間の名はあるか? このリストにない名で知っているものがあった場合も教えて欲しい」

用意していたリストを差し出され、マリタは順にそれを見ていった。

「この人と、この人は……そうだと思います。あとは、分かりません。……すみません、あまりお役に立てなくて」

「いや、随分助かった。ありがとう」

礼を言われ、マリタは複雑な表情を浮かべる。

「ひとまず、聞きたいことは以上だ。君の今後についてだが、追って伝えるようにしよう。すまないが、今日は寮に戻らずこちらの監視下にいてもらう」

「はい……」

「なに、そう悪いようにはしない。別室にベッドを用意してあるから、今日はゆっくり休みなさい」

マリタはそれに頷いた。

ゆっくり休めるとは、思わなかったけれども。






マリタとの話を終えた学院長は、他に捕えた者たちの尋問結果を知るため、部屋を出た。

先ほど捕えた者たちは、全て教員棟の地下に連行してある。

教員棟の地下階は、「こういう場合」に備えてつくられ、整えられていた。

学生も教師もごくごく一部の人間しか知らず、これまでそうそう使われることのなかった場所だ。

使わずにいたかったのだが、と思いつつ、学院長は一室に足を踏み入れる。

「……どうだ、吐いたか」

「いえ、なかなか手強そうです」

尋問に立ちあっていたローゼだが、眉一つ動かさず、学院長に応じた。

「出て話しましょう」

学院長を気遣ってか、話を囚人に聞かれたくないと思ったのか、ローゼはそう促す。

部屋にいたもう一人に尋問を任せ、学院長はローゼと共にすぐにまた部屋を出ることとなった。

「さきほどようやく起こしたところなので、あまり進んでいないんです」

「他の者たちはどうだ」

「引き続き尋問させていますが、誰も彼もほとんど雇い主を知らないまま動いていたようです。どの部屋の人間も同じような受け答えばかり」

言って、ローゼは出てきたばかりの部屋のドアを指す。

「学院内ではおそらくこいつがリーダー格ですが、それだけに余計喋らせるのは難しいかもしれません」

「そうか……」

「マリタ・ケーニヒも同様ですか」

「ああ」

ローゼは苛立たしげに、唇を噛んだ。

「こいつがさっさと吐いてくれれば、問題ないのですが……。宮殿の方は、上手くやってくれているのでしょうか」

「それについての報告もまだだが――」

言いかけた時、ちょうど廊下を渡ってくる人影がある。

学院長の右腕だ。

ローゼに目礼し、彼は口を開いた。

「学院長、ご伝言です」

「アウグストだな」

「はい。離宮に混乱あり。少なくとも明日の昼までは持つだろう、とのことです」

「皇帝自ら一体どんな混乱を起こしたやら、な」

「成果を期待する、と頂いております」

その言葉に、学院長は苦々しい表情を浮かべた。

「……とにかく、尋問を進める他ないな。もう少ししてから上に行く。先に戻っていてくれ」

「はい」

はきはきとした動作で、学院長の秘書はすぐに上の階へと戻っていく。

学院長はそれを見送ることなく、ローゼに視線を戻した。

「……ということだそうだ」

「はい。時間は十分です」

頷くが、ローゼの顔には焦燥が濃い。

テアへの心配も大きいのだろう。

だが、やってもらうしかないのだ。

学院長は口を開きかけたが、それより先にローゼが憂鬱そうに言った。

「……学院長、先ほどは報告させなかったのですが、一つ、伝えておくことが」

「どうした?」

先ほど、というと、テアを病院に送った直後の報告だろう。

「ディルクが、」

忘れていたわけではないが、意図的に考えないようにはしていたかもしれない。

その名につい、反応してしまう。

「まさか……知られたか」

「それに近いかと。テアが運ばれるのを見られました。止める間もなく、後を追っていってしまって、」

「……なるべく教員棟に近付かないよう、誘導を頼んでいたのだが……」

はぁ、と二人して重い溜め息を吐いてしまった。

「……あいつもテアも、嫌なところで勘が鋭くて頭が回るからな」

「察してしまっているでしょうね。病院に行けば確信も深まるでしょう、ライナルトの時と同じような体制ですから……。彼が無茶をやりそうであれば、誰かが止めてくれるでしょうけど」

ローゼはディルクの反応が怖かった。

賢明ではあるが一途でもある彼がテアの怪我に暴走しそうで怖かったし、全てを知った彼がテアを傷つけることもあるかもしれない可能性が、怖かった。

「……だがとにかく、今こちらはここでやるべきことをやるしかないな」

「はい。……では、尋問に戻ります。あいつを吐かせなくては、全てが無駄になってしまう。テアにこれ以上、負担をかけたくないですし」

「頼む」

平静を装うようで、思い詰めた瞳をして、ローゼは頷いた。

テアがあんな怪我をしているのに、彼女はここでやらなければならないことがある。

側にいられないことは、どんなに気が狂いそうなことだろう。

やるべきことがあるだけ、まだ良いのかもしれないが。

テアの後を追っていったというディルクのことを考え、学院長は心の中でもう一度溜め息を吐いた。

ローゼは部屋に戻り、彼も地上へ戻るため階段へ足を向ける。

長い夜に、なりそうだった。




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