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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第12楽章

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決着 8



「――私がアドバイスすることなど、そうありませんが」

そう言いながら、テア・ベーレンスは容赦のない指摘をずばずばと入れてきた。

――エンジュ・サイガのレッスンがこんな感じだった……。

マリナ・フォン・ロッシュ、を騙るマリタ・ケーニヒは、内心大変な疲労を覚えながらも、鍵盤に指を下ろす。

今マリタは、練習室でテアにピアノの練習を見てもらっているところだった。

体調不良を一日で治したテアは、また今までと同じように笑っている。

穏やかに。

何度も何度も迷惑をかけているのに、こんなに変わらずにいられるものなのか。

そろそろあの噂も、耳に届いていそうなものなのに。

昨日の体調不良のことも、マリタのせいだと、考えてもみないのか。

マリタは焦燥感にも似た思いを抱えながら、テアの隣にいた。

二人が出会って、まだ一ヶ月と少ししか経っていない。

切り捨てるのは簡単なはずだ。

いや、そこまでいかずとも、少しでもいい、苛立ちを見せてくれれば。

あの噂のことで、マリタを問い詰めてくれるのでもいい。

――鈍いのか、甘いのか、臆病なのか。

一年目の彼女はどんな批判的な眼差しも気にせず学院に居続けたというから、鈍い、が正解なのかもしれない。

もしくは、頭の中がピアノのことばかりで占められていて、あまり他に関心がないのかも、とマリタは思う。

テアのピアノへの打ち込みようは、いくらここが音楽学院と言っても異常なように、マリタには思われた。

テアは授業以外の空いている時間、読書をして過ごすか、課題をこなすか、ピアノを弾いているか、いずれかしかやっていないと言っても過言ではないくらいなのだ。

パートナーになったと言っても私的な時間を共に過ごすようなことはほぼなく、会うのは練習室で、テアがマリタのピアノの練習に付き合う、ということがほとんど。

とにかく彼女は、ピアノやそれに関するものと離れることがないのだった。

テアがマリタをパートナーにした理由もそれであろうと、マリタは思っている。

マリタはピアノを弾く技術に関しては自信があった。それが気に入られてのことだろうと、彼女は納得している。というより、それで納得しなければ他に理由がないのだ。

いずれにしろ、マリタがやらなければならないことは一つ。

テアが思う通りの反応をしてくれないならば、また違う手を打って、最終的に目的が果たせればそれでいい。

「……今の最後は、良い音でしたね」

「本当ですか?」

マリタは満面の笑みを作り、顔を上げた。

「先輩にそう言ってもらえると、嬉しいです」

「ですが、そろそろ休憩した方がいいですね。疲れた顔をしていますよ」

顔を覗きこまれ、マリタはどきりとした。

「そうですか?」

「ええ。無理はしないでくださいね」

鈍い、と思ったばかりなのに。

月の光を凝縮したようなテアの瞳は、全てを見透かすかのようで、マリタは息を詰めた。

「無理なんて。私より先輩の方が……。いえ、病み上がりの先輩に練習に付き合ってもらっているのは私ですけど」

「気にしないでください。昨日ピアノ断ちしていた分、今日は自分が弾かないにしろピアノの側にいたいんです」

「……先輩、ピアノが恋人みたいですね」

「そうですね」

とテアは笑った。

そこは嬉しそうに肯定するところではないように思ったが、マリナ・フォン・ロッシュとしては、ここは呆れた顔をする場面ではない。

「先輩らしい」

と、マリタも笑った。

「じゃあ、私休憩することにします。その間、先輩がピアノを弾いていてください」

「……そうですか?」

「はい。それに私、せっかく先輩のパートナーになったのにピアノを聴いてもらうばかりです。先輩のピアノ、聴きたいのに」

唇を尖らせて、言う。

ピアノを弾きたいだろうに、テアは何故か、わずかな躊躇を見せた。

「……そうですね、それでは、少しだけ……」

マリタと入れかわり、テアはピアノの前に座った。

マリタは立ったまま、テアが両手を鍵盤に伸ばすのを見つめる。

――この人のピアノの才と努力は、本物だ。

けれど。

――この人自身と、このピアノの音……どちらもやはり、私は嫌いだ。

あなたのピアノに感動したなどと言って、近付いた。

けれど、実際に彼女の演奏を聴くことは、耐え難い苦痛を伴った。

自分がこんな風になるなんて、思ってもみなかった。

逃げたくなるのだ。後ずさって、背を向けてしまいたくなる。

テアがマリタの前で演奏する機会がこれまで少なかったのは幸いだった。

絶えず彼女の音を聴かせられていたら、それこそマリタは堪えようもなく、彼女の心臓の音を止めていたかもしれない。

それでも。

――好意を持ってしまうよりは、いい。

彼女を、命じられたようにするのなら。

嫌悪が強い方が、やりやすい。

そう思って、嫌悪を、苦痛を、やり過ごして、笑顔をつくってきた。

――この人を、私と同じところまで引きずり落とす。

そのために。

そのために、こんな不釣り合いな場所にいる。

そして。

それがなされてようやく、マリタの願いは聞き届けられる。

それなのに。

それなのに、マリナの身体はまた、震えを抑えきれなくなった。

テアの奏でるピアノの音が、部屋中に満ちている。

優しい、音だった。

優しい優しい、音だった。

そうだというのに。

――怖い。

片手で、もう片方の腕を掴む。

自分の身体を抱きしめたくなるのを、それで堪えた。

どうしてと、思う。

自分でも分からない。

ただ、テアの音は、優しいけれども、ひどく残酷な何かをマリタの前に突きつけているようで。

――一体"何"を、あなたは弾いているの……。

きっとそれは、マリタにとって受け入れがたい"何"かであるのだろう。

だからまた、身体が逃げを打とうとする。

もう、この音を聴いていたくない。

止めて。

止めて欲しい。

どうしてそんな表情ができる。そんな音が出せる。

――私に"それ"を、見せないで……!




気付けば。

マリタの両目から、涙が溢れ出していた。

――嘘、

少しして、ピアノの音も中断する。

それに、ほっとした。

ほっとして、我に返った。

滲む視界の中、驚いた顔のテアが見える。

「ご、ごめんなさい……! これは、あの……! その、少し席を外します、すぐに戻ってきますから!」

乱暴に目元を拭い、マリタはテアの返事も聞かず、練習室を飛び出した。

馬鹿だ、こんな、と自分を罵る。

テアに変に思われていなければいい。

感動のあまりとでも、受け取ってもらえたら。

情けない気持ちで練習棟の外まで逃げるように出、人気のないその建物の影に、マリタは蹲った。

泣くなんて。泣いてしまうなんて。

自分が理解できない。

けれど、どうしようもなくテアの実力を認めてしまうのは、自分がこういう風になってしまうからだった。

少なくとも、テアの演奏はマリタの心をこうして揺さぶってくる。

そういう意味では、テアはこの学び舎にふさわしい。

それも妬みの材料にしてしまえ、とマリタはきつく目を瞑る。

そうでなければ――。

は、と嘲るように笑って、マリタはこれ以上涙が出てくるのを抑えた。

「ハンカチ、忘れてきちゃった……」

今更だが、制服を濡らしてしまったことを後悔する。

こんな服はこの機会を逃せばもう着れたものではない、と大事に着ていたのに。

だが、今は早くテアのところに戻らなければ。

遅くなれば、ますます、変に思われてしまう。

「……お前、婦女子の嗜みとしてハンカチくらい持っとけよ。んなとこで拭くんじゃねえ」

マリタははっと顔を上げた。

目の前に、呆れた顔のエンジュ・サイガが立っている。

全く気付かなかった。

と、間抜けな顔を晒してしまう。

彼は無造作に、マリタにハンカチを投げて寄こした。

「え、あ、ありがとう、ございます……。サイガ先生、ですよね?」

ぞんざいにエンジュは頷く。機嫌が悪そうだ、と思いながらも、警戒心からマリタは尋ねていた。

「いつ、の間に、ここに」

「お前が来るより先にいたんだよ。……ったく、人の安眠を妨害しやがって」

安眠、と口の中でマリタは繰り返した。

ここには誰もいなかったはずだ。

校舎を除けば、ここにあるのは立派に立つ木々くらいものである。

「今はテアとの練習の時間だろ。……ま、どういう経緯でここまで逃げてきたのかは想像がつくが、早く戻れ」

冷たい響きに、マリタは戸惑った。

彼とまともに話すのはこれが初めてだ。

忙しい人だから、と言われて紹介の機会を与えられることもなかった。

弟子のパートナーとして顔は一応認識されていたようであるが、彼のこの態度は何か、腑に落ちないものがある。

いつか見かけた彼は、とっつきにくい印象もなく、無邪気な、子どものような笑顔でいたから。

――もしかして、

と、マリタは思った。

テアは、この人には何か、マリタに関して何かを零したりしているのかもしれない。

だから、こんなに、冷ややかな、眼差しで。

「……サイガ、先生。私のことを、ご存じなのですか」

「知りたくもなかったっつうの」

吐き捨てるように告げるエンジュは、今にも去っていきそうだ。

その拒絶は、いささか、度を超えているように思われた。

「ど、して、そんなに」

「そんなもん、」

突き放す、この物言い。

「お前が一番、よく分かってるだろ」

それは、どういう意味だろうか。

最近のマリタの行動を指しているのだろうと思えれば、簡単だが。

エンジュの言葉は、マリタがこれからやろうとしていることを指しているように、何故か思えて。

マリタは、言葉を失くした。

「もう俺に話しかけんな。なるべく視界にも入んな。俺はお前みたいなやつが大嫌いだ」

子どものような言い分だったが、嫌悪感はあますところなく伝わってくる。

去っていく背中に、もう言葉はかけられなかった。

マリナは力なく、座りこんでしまう。

――知られて、いる……。

そう、思った。

そんなわけはないのに。

それでも。

それなら。

――早く、終わらせなくては。

マリタは手元のハンカチを見下ろした。

嫌いでも、泣いている子どもを放ってはおけなかったのか、と思って、思わず、笑ってしまう。

それはすぐに崩れて、そのまま、涙の表情になった。

使えない、と思って。

綺麗なハンカチを握りしめ、マリタは声を押し殺して泣いた。








「泣き虫のマリナ、なかなかいい具合だぜ?」

「そうですか。それは良かったです」

無感動にマリタは返した。

向かう相手は、何がおかしいのか、楽しそうに笑う。

学院でのマリタへの連絡役の青年と顔を合わせるのは、これで何度目になるだろうか。

人目の少ない構内で、マリタはその生徒と落ち合っている。

一応標的を共にする仲間とはいえ、この相手はいつも軽薄そうな言動で、マリタはいけ好かない感情を抱いていた。

彼女より先に学院へ入学している彼は、普段はそれなりに真面目な生徒であるらしい。

だが、生徒の仮面をとった途端に、これだ。

笑みは無邪気なようでいて、瞳は暗く、澱んでいるように見える。

何年もここにいてよく正体を知られなかったものだと、マリタは思った。

「……それで、今日は」

あまり長く顔を合わせたい相手ではない。

早く用件を済ませようと、マリタは問いかけた。

話の内容が気になっていた、ということもある。

普段はこのようにわざわざ顔を突き合わせて連絡を取り合うことはしないのだ。さりげない接触で済ませ、怪しく見える行動はなるべく避けるようにしていたのに。

「まあそんなに焦るな……っと、言ってもいられないんだよな。大事な話だから呼んだ、つうのは分かってるだろうけど。やれ、ってさ」

そうだろうとは、思っていた。

マリタは小さく頷く。

「日時の指定は」

「ない。けど、標的がパートナーを泣かしたとか、二人が仲違いしたとか、そんな風に言われてる内がいいだろ」

「では明日」

「早すぎ。他にも協力してもらわなきゃならない。明後日だ」

「分かりました」

マリタは淡々と頷く。

「簡単に言うね。あんた、パートナーに多少の情もないんだ?」

「あまり長居するのはよくないのでは?」

「いーじゃん、最後にちょっとくらい。あんた、明後日でいなくなるんだからさ。俺、結構あんたのこと気に入ってたんだぜ」

全くもって嬉しくない、とマリタはつい嫌そうな顔になった。

それに、相手はさらに楽しそうに笑う。

「……私、あの人のこと最初から嫌いでしたから」

「ふーん。じゃ、自分のことも?」

「は?」

「だって、自分だって終わりってことじゃん。標的に仕掛けるってことはさ。それ込みで、そんなに簡単に頷いちゃっていいわけ?」

「……そうですね」

それは、相手の言う通りだ、と妙に素直に思った。

「ですが、そんなことを聞いてどうするんですか。何を思って何を言っても、結局あなたのやることも、私のやることも変わらないのに」

「全くの正論だ。けどたまに、こういう戯言も言ってみたくなるんだよ」

「本当に戯言ですね。くだらないです」

「……俺のことも、嫌いだよね、君」

「はい」

「そこは否定するところだって」

けれど、はは、とやはり楽しそうに、相手は笑うのだ。

こういうことを長く続けていると神経がおかしくなってしまうのかもしれない、とマリタは冷静に考えた。

「ま、その方が俺もやりやすい。命乞いしてくれた方がやりがいはあるんだけどな」

「……噂、広めておいてください。その後のことが、上手くいくように」

これ以上変態に付き合っていられない。

マリタはさっさと先にその場を辞すことにして、相手に背を向けた。

「では明後日に」

「よろしく頼むよ、君」

後ろからの声は聞こえないふりで、そのままマリタはその場を去る。

――ようやく、か……。

いっそ清々しい気持ちだ、と思えれば良かった。

けれど、マリタの意思に反して、手足は細かく震え出す。

情けない、と、マリタは唇を噛んだ。

――"あの子"を助けるためなら、どんなことだってする。

そう思っていたはずではなかったのか。

自分を叱咤して、マリタは進んだ。




終幕は、目の前。




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