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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第3楽章
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憎悪 2



「エッダ・フォン・オイレンベルク?」

ライナルトからその名を聞いて、ローゼは訝しげな顔をした。

昼休み、ライナルトと共に広場で昼食を広げているところだ。

食欲をそそるような色とりどりの具が挟んであるサンドイッチは全て、ローゼの手作りだった。

「心当たりはないか?」

ライナルトが尋ねているのは、テアとエッダの関係である。

昨日テアの顔色が大きく変わったのは、エッダを紹介した直後。

もしかすると、エッダとテアの間に何かあるのかもしれない、とライナルトは考えたのである。

しかし様子を見る限り、テアに直接聞いても彼女は答えないだろう。

気にかかったのでローゼに聞いたのだが、彼女も首を傾げた。

「少なくとも、私の方で知っていることは何も……」

ローゼは記憶をたどりながら、茶の入ったカップを手にした。

「そうか。それならいいんだ。少し気になったものだから……」

「いえ……。……でも、ちょっと待ってください。フォン・オイレンベルク……」

引っかかるものがあって、ローゼは眉を顰めた。

「……それは、やはり、」

「何か思い出したのか?」

「いえ、何でもありません」

どこか慌てたようにローゼは首を振った。何か思い当たる節があるような態度である。

しかし彼女は何も言わないまま、告げた。

「でも、確かにテアのその反応は気になります。エッダ・フォン・オイレンベルクをなるべくテアに近づけないようにしたいところですね」

ローゼが上手く誤魔化そうとしているのはライナルトにも分かった。

それならば今は追究するのは止めておこうと、ライナルトは誤魔化されておく。

「だが彼女は学院祭の実行委員で、しかもディルクに想いを寄せているようだ」

「それは……」

頭が痛くなるような事実だ。

だがその事実は頭に留めておかねばならないだろう、とローゼは思った。

「……早くテアに落ち着いた学校生活を送れる日が来ると良いのですが……」

「全くだ」

ライナルトは嘆息する。

しかし、ローゼのサンドイッチを一口かじった彼は、ふと顔を綻ばせた。

「……美味いな」

「そうですか? 良かったです」

ローゼは素直に、嬉しそうに笑った。

その様子を見て、ライナルトはくすり、と微笑む。

「お前とこうしていると、他の何事も上手くいくのではないかと思うよ」

「そ、んな……」

「ディルクも、早く気付けば良いと思うのだが……」

愛おしむような眼差しでライナルトは小さく囁き、ローゼを見つめた。






「前回のレポートはとてもよい出来だったよ。また気軽にここに遊びに来ると良い」

「ありがとうございます」

にこにこと教師に告げられ、テアは同じような顔で返した。

直前の授業でのテアの質問が良い指摘だったと、教師は彼女を研究室に招き、二人でそれについて話をしていたのだ。

生徒たちからの白い眼は相変わらずだったが、テアに対する教師の態度は随分柔らかくなっていた。

教師たちは、毎日テアが図書館に通い、熱心に勉学に取り組んでいるのを知っているのだ。その努力に比例するように、テアは課題でも教師の予想以上のものを提出してきている。

しかも、テアは傲慢な貴族の子弟やプライドの高すぎる生徒たちよりもずっと控え目で好ましい。

態度が変わるのは当然というものだった。

テアがちゃんと授業についていけるのか、という懸念が消え、むしろテアがずば抜けて優秀であることに大半の教師は安堵し、また期待しているようだった。

そんな風に教師に認められ始めていることが、テアには嬉しい。

「それでは、失礼します」

「長々と引きとめてすまなかったね」

教員の研究室から笑顔で退出したテアは、そのまま練習棟へ向かった。

昼休みを挟んで後、エンジュのレッスンがあるのだ。

本当なら食堂で昼食を取る予定であったが、あまり時間に余裕がない。

ローゼにもらったクッキーがあるのでまともな食事を一食くらい抜いても問題はないだろうと考えながら、教務棟を出る。

その時ふと、視線の先にディルクの姿を見つけた。

――ディルク……と、エッダ・フォン・オイレンベルク……。

学院祭での仕事の関係で連れ立って歩いているのだろうか。

エッダの姿を見て思わず足を止めてしまったテアは、ディルクに声もかけられなかった。

エッダはディルクに想いを寄せているらしい。

それはテアにも一目瞭然の態度だった。

学院祭実行委員の彼女はあれから、何度も泉の館に通うテアの前に姿を見せている。

彼女を見かける時はいつも、彼女がディルクに近づいている時だ。

――彼女ならば……、きっとディルクのパートナーになっても周りから何かを言われることはないのでしょうね……。

ディルクに心を寄せる者が多いとはいえ、エッダが相手では文句のつけようがないだろう。

彼女は四大貴族の一つ、オイレンベルク家の娘である。家柄も良ければ、美人で成績優秀な優等生。彼女に想いを寄せる男性も多いようであるし、また彼女に憧れる女子生徒も少なくはないようだ。

血は繋がっていても、まるで別世界の人間のようだとテアは思う。

エッダは知らない。母カティアの苦しみを。

自らの家の冷酷さを、きっと知ろうともしない。

テアとカティアが、どれだけの恐怖の中にいたか。

いつ捕えられ、殺されてもおかしくはない、そんな生活を彼女は理解できないだろう。

分からないから、簡単にその力を使い彼女たちはテアから大切なものを奪っていく。

母だけではなく、今の穏やかな生活もまた、奪われてしまうのだろうか。

強く動悸がして、テアはぎゅっと拳を握った。

嬉しかった気持ちがまたたく間に萎んで、他の感情へとすり替わる。

ディルクとエッダから目をそらすと、早足でテアは練習棟へ向かった。

怖がらなくてもいい、分かっているのに恐怖が襲う。

それと同時にテアの中に溢れてくるのは、どろどろとした――憎悪だ。

一度は落ち着けたはずの心。

だがテアはエッダを見る度に、過去を思い出さずにはいられなかった。

そうして募っていた感情が、ここに来て抑えようもなくなってきている。

テアは飛び込むように練習室に入ると、縋るようにピアノの前に座った。

母を亡くしてから、テアが心の全てを打ち明けられるのは、亡き母とテアをつないでくれるピアノだけだった。

どうしようもない思いを一人では抱えきれず、テアは鍵盤に指を走らせる。

何という音なのだろう――。

溢れて、溢れて止まらない、怨嗟の声だ。

こんな音は出したくないと、聞きたくないと、テア自身ですら思うほど。

けれども止められない。

何故なら、彼らは母を殺したのだ。

直接彼らが手を出したのではないにしろ。

たったひとつ、テアが失いたくなかった存在を、彼らは奪った。

フォン・オイレンベルク――。

彼らが憎い。

憎い。憎い憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い――。

どうして彼らは生き続けているのだろう。

エッダはあんな風に微笑んでいるのだろう。

母は、もういないのに。

共に笑いあうこともできなくなってしまったのに。

――ああ、でも本当は、私が一番許せないのは――

「……テア」

テアは自分を呼ぶ声にも気付かず、ただ一心不乱にピアノを弾いていた。

「テア、止めろ」

どうしようもなくなっていたテアを止めたのは、エンジュだった。

彼に強く肩を掴まれ、テアはびくりとして手を止める。

「……ったく、来てみればなんちゅう音を出してんだ、お前は」

「サ、イガ先生……」

我に返ったテアは、師を見上げた。

「そんな泣きそうな顔で弾いてやるなよ」

ぽんぽんと軽く頭を撫でられ、テアは俯く。

自分の指先が、強い感情の残滓に揺れていた。

「すみません……」

「謝んなくてもいいけどさ」

思いつめた様子のテアを眺めやって、エンジュは無造作に尋ねる。

「何かあったのか?」

「……っ」

ここで誰かに悩みを打ち明けられたなら、どんなにか――。

テアは思って両手をぎゅっと握り合わせた。

「おじさん」という味方ができて、テアはオイレンベルク家から逃げる必要はなくなった。

しかし、その逃げなくてもいい、普通の生活のために、テアは何があっても自分の生い立ちに関わることを語ってはいけないのだ。

そういう「約束」が交わされている。

もし「約束」が無効になって、オイレンベルク家が今度こそテアを捕まえるようなことがあったら……、テアの生まれを知ってしまった周りも、どうなるか分からない。

テアは、大切な人たちを巻き込みたくなかった。

これ以上、失いたくなかった。

だからテアは、黙るしかない。

ただ、ピアノに思いをぶつけるしかない……。

きゅっと唇を結んでしまった教え子の姿に、エンジュは小さく溜め息を吐いた。

――ったく、十七の小娘とは思えねーような音出しやがって……。一体どんなもん背負っちまってんだか……。

「ま、無理に話せとは言わねーけどさ」

「すみません……」

「だから謝んなって」

もう一度テアは弱々しく謝って、エンジュは苦笑した。

「その……、」

テアはエンジュという人をこの一月ほどで少しずつ知ってきた。

あの深みのある音を出せる彼なら、詳しい話はできずとも、せめてこの感情のやり場に的確な助言をしてくれるかもしれない。

何より、テアのピアノから彼は様々なものを聴きとってしまうから。

今も、隠し事をしていても、本当は何もかも見透かされているのかもしれない……。

「もう、これ以上あんな音を出したくないんです」

静かだが、吐き捨てるようにテアは言った。

「こんな思い……、どこかへやってしまいたいのに、この気持ちをどうすればいいのか、どうしたら消せるのか分からなくて……」

どうしても抽象的な言葉になってしまう。

テアは上手く言えない自分がもどかしくて、また俯いた。

こんな思いを抱える自分は、見放されてもおかしくはないのかもしれない。

やはり言うのではなかったか、とエンジュを見られないまま、テアはもう既に後悔を覚え始めていた。

しかしエンジュは萎んでいくテアの言葉を聞くと、くたびれた鞄からごそごそと分厚い楽譜を取り出し、

「じゃあお前、今度これ弾いてみろ」

そう、無造作にその楽譜をテアの前に差し出した。

「『クープランの墓』……」

それは「プレリュード」「フーガ」「フォルラーヌ」「リゴードン」「メヌエット」「トッカータ」の六曲で構成されている作品だ。戦争への憎しみと、故人を悼むためにつくられたのだという。

「弾いたことあるか?」

「いえ、以前に楽譜を少し見たくらいで……」

「今のお前ならかたちにしやすいだろ。今日から課題はそれな。学院祭前に、それを俺のリサイタルで弾いてもらうから」

「はい……え!?」

殊勝に頷いてしまってから、テアは仰天した。

鬱屈した感情がどこかへ飛んでいくのではないかと思うくらいに。

「り、リサイタルって何ですか……!?」

「来月、十月末に近くの教会でリサイタルやるんだよ。チャリティー的なやつ。お前、それに出ろ」

「ででで、出ろって……」

「出ないと単位は出さないぜ」

「先生、ですが来月なんて、あと一ヶ月しか……」

「お前なら暗譜はすぐだろ。ラヴェルなら好きだろーし。聴かせられるくらいには完成するさ。しばらくその曲に集中してろ」

無茶苦茶だ。

テアは唖然としたが、エンジュは本気のようである。

「あ、でもそれだけじゃつまんねーから、お前が好きなあれも弾けよ。『月の光』。楽しみにしてるぜ。俺に恥かかすなよー」

テアは絶句したまま楽譜とエンジュを交互に見ていたが、エンジュが「冗談だ」と言ってくれるような気配はない。

あの相談に対して、「じゃあ」と出された課題。

エンジュの意図ははっきりとしないが、もしかしたらこの思いの行方を、どうすればいいのか導いてくれるかもしれない。

少なくとも、目前に迫るリサイタルに対し集中していれば、あまり余計なことは考えずに済みそうだ。

テアはそう考えて、楽譜を持つ手に力を込める。

彼女は決意を固めた。




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