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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第12楽章
119/135

決着 5



その建物はどこまでも白く、それなのにディルクの脳裏に描かれる色は、赤だった。

「……ディルク様、こちらです」

「ああ、」

案内人に、一室を示される。

入りたくないと、ディルクは思った。

同時に、早くドアを開いて確認したいとも、思った。

ドアの脇には、厳しい顔つきの一人の男が立っていて、そのドアをノックする。

中からドアが開き、ドアを開けた人物がディルクの顔を認め、頷いた。

「……ディルク様ですね。どうぞ」

「ああ」

気を利かせてくれたのか、ディルクと入れ替わるようにその人物は部屋から出ていった。

ディルクは静かに歩を進め、ドアを閉める。

目の前の窓から見える景色は、夕日で紅に染まっていて、一瞬、ディルクはぎくりとした。

続いて、それとは対照的な白が、目に映る。

「――ライナルト」

ベッドの上に上半身を起こしたライナルトが、ディルクを見、苦笑を浮かべていた。




休日の午後。

午前中にその日の用事を済ませたディルクは、一人、寮で勉強しているところであった。

その時、寮の部屋のドアがノックされたのだ。

『……ディルク様、』

ドアを開けば、隣室の男が青い顔になって立っており、ディルクに告げた。

『ライナルト様が――』

ライナルトは今日、フルートを調整するために街に出ていた。

彼はそこで、怪我をして病院に運ばれたと言う――。

その知らせにディルクも顔色を変え、すぐにライナルトの運ばれた病院へ向かった。

『店から出たところへ、車が突っ込んでいったそうです。幸い、車にぶつかられることはなかったようですが、その代わり車が突っ込んだ店のガラス、車の破片でお怪我を……』




その報告を思い出しながら、ディルクはライナルトの様子を窺った。

頬にガーゼがあてられ、首や腕は白い包帯で巻かれている。

指先まで白く包まれた親友の姿に、ディルクは言葉を失った。

「私よりお前の顔色の方がよほど酷いな」

軽口にも言葉を返せずにいると、ライナルトはベッド側の椅子を示した。

「……とりあえず、座ったらどうだ」

「……そうだな」

その言葉に素直に従い、ディルクは腰掛ける。

「包帯で大げさに見えるだけで、実際にはそう大したことはないんだ。だが、医者にベッドに押し込められてな」

「……痛みは、」

「今はない。痛み止めを処方してもらった。薬の効果が切れた時のことは、あまり考えたくないがな」

ライナルトは笑う。

それが、昔、ユスティーネの浮かべた微笑と重なって、ディルクは唇を噛んだ。

それを見て、ライナルトは困った顔になる。

「……別にお前が車で私に突っ込んできたというわけではないんだ、そんな顔をするな」

「だが……、俺の、俺のせいだろう」

「責任感が過剰なのはどうにかしろ。別にお前のせいではない。これは事故だ」

「事故を装ってお前を殺そうとしたんだ!」

「……それをやろうとしたのは、お前ではない。履き違えるな」

厳しくライナルトは言った。

それは、彼の優しさだった。

ディルクも、それが分からぬわけではない。

だからただ、きつく拳を握った。

「それに、結果的にはこうして無事でいる。学院にもすぐ戻れるだろう」

「……いや、」

ディルクはライナルトの言葉に首を振った。

「お前はしばらく、戻ってくるな」

「……なんだと?」

「対外的には重体で入院、と発表する。その方が安全だ。守りも固めやすい。あちらも油断する。その間に決着をつける」

「……まあ、それで襲ってきてくれたら話は早いわけだが」

「お前を囮にしたいわけじゃない」

「分かっているさ」

「……本当に、」

ディルクは包帯に包まれたライナルトの指先を見つめて、訊いた。

「――戻って、こられるのか」

「……」

ライナルトは一瞬詰めた息をそっと吐き出した。

「……以前と同じようにフルートがやれるかどうかは、まだ分からない」

「そう、か」

「退学を視野に入れる必要も、あるだろうとは考えている。その時はモーリッツ卿のところで修業だな。剣を持つのに支障はなさそうだから、扱かれてくるさ」

そう言って、親友はまた優しく笑うのだ。

胸が詰まるようで、また何も言えなくなったディルクに、ライナルトは続けた。

「なあ、ディルク。お前のせいじゃない。お前のおかげなんだ。お前のおかげで私は道具ではなくなり、お前のおかげで、こうして、進みたい道を見つけることができた。全部、お前がいてくれたからこそだ」

「……それは俺が言うべき台詞だ。あの日、広い世界を前にして、俺は恐ろしかった。本当は、とても恐ろしかったんだ。だが、ひとりではなかったから。お前がいてくれたから……、俺はこうして今、ここにいられる」

だからこそ、ディルクは許せないのだ。

「……永の別れのようなやりとりだな」

「そんなことにはならないさ」

だが、思っていたよりも少し早く、分かれ道にさしかかったことは、確かだった。

ディルクは立ち上がり、退室の言葉を告げる。

「……あまり長居をしてもお前の負担になるな。そろそろ行こう」

「ディルク、無茶は」

「分かっている。今後のことは、陛下とも話をしてから決める。俺も、自分が冷静だとは思っていないからな。きちんとお前にも報告はさせる。俺はもう、ここには来ないが……」

「……ああ」

「ゆっくり休んでしっかり治せ。……では、またな」

「ああ、また」

ディルクは振り返らず、病室を後にした。

ドアを閉め、すぐに外にいた者に尋ねる。

「陛下は」

「隣室でお待ちです」

頷き、ディルクは続いて隣室のドアをノックした。

ドアを開いたのはローゼで、ディルクは軽く目を見開く。

無言で促され、ディルクも何も言わずに入室した。

皇帝がここにいることを、ディルクはここに来る途中で既に聞いていたのだ。

どうやら公務で外に出ていたらしく、知らせを聞いて忍んでやってきたらしい。

珍しいことだと、ディルクは思った。

皇帝としてのアウグストは謹厳な性質で、例え息子が怪我をしたとしても、それで簡単に駆け付けてくるような人情家ではない。

とはいえ、この件にルーデンドルフが関わっているとなれば、特別おかしいことでもないが。

隣室もライナルトの病室と同じ配置で、ベッドと簡素な棚、椅子がある程度の、質素な一室である。

その小さな椅子に腰かける皇帝は余りにも威風堂々とし過ぎていて、部屋から浮いていた。ディルクも人のことを言えたものではないけれども。

部屋には皇帝の他に、その側近と、ローゼがいる。

ディルクはわずかな躊躇いを覚えたが、それも一瞬のことだった。

「……お待たせしました、陛下」

「構わん。時間は限られている、用件のみ話す」

「御意」

皇帝の視線を受け、最初に口を開いたのはその側近である。

「まずはライナルト様の容態についてですが、」

と、彼は最初に一番聞きたかった話を持ってきた。

ライナルト本人が語った言葉に違いはなく、それを確認できてディルクはほっとする。

「事故については早速調査を進めていますが、車の持ち主は死亡、ライナルト様以外にも数名市民が軽傷を負いました。同じく病院で治療済み、既に全員帰宅させています。今のところ運転手が慣れぬ運転で操作を誤った、不幸な事故、という見立てです」

「……証拠を残さないのはいつもの手ですが、」

「調査中です」

情を交えぬ声で、側近ははっきりと告げる。

それに続くように、ローゼが口を開いた。

「一方で、エーベルハルトとブランシュ家が手をとって国家の長たる地位を狙っているという、馬鹿げた下種な噂話が宮殿内で急激に拡散しているようです。以前よりちらほらと聞かれていましたが、信じる馬鹿もほとんどおらず、聞き流すだけでした。ですが、」

皇帝の前でこれである。口調だけは淡々としたものであるが、ローゼが相当な怒りを内心で持て余しているようだ、というのは、ディルクでなく赤の他人でも分かることだろう。

「おそらく今回ライナルトを狙うことを考えての布石だったのではないかと」

「今後は皇太子殿下に不審の目が注がれるようになる、と?」

「憶測ですが。その可能性は高いでしょう。明日どころか今日の内からそんな噂が新たに蔓延ることが予想できます」

ローゼの言葉が怒りからくるだけのものでないのは、皇帝がその発言を許していることからも確かであった。

「深刻化してしまえば、バンゲンハイム・エーベルハルト間で何か起こり得る可能性もある――。そう思わせることもできる、というわけですね」

「実際に皇太子付近で何件か不審な動きが見つかっている」

「第三皇妃は、」

「証拠を残さぬのがいつもの手、なのだろう」

ディルクは唇を噛む。

「だが、彼女だけに餌を撒いた。食いついてきたということは、やはりそういうことなのだろう」

「――どういうことです」

低い声で、ディルクは問うた。

それにいささかもたじろがず、皇帝は答える。

「近々退位するつもりだと言った」

それは、この場にいる誰もが初耳の内容だった。

「それで焦って出てきたな。そもそも、お前が卒業するのをずっと待ちかねていたようだったから、余計にな」

「そんな、たきつけるような真似を……!」

「動いてもらわねば決着をつけることもできまい」

「それで皇太子殿下やライナルトが傷ついてもいいと仰るのか……!」

激昂しかけたディルクの前に、ローゼがすっと立ちはだかった。

皇帝を守るように立つローゼの気迫に、ディルクは言葉を呑みこむ。

「……ディルク、私にあなたを斬らせないでください、お願いですから。外に人もいます。落ち着いて、声を落としてください」

「……すまない」

ディルクを窘めながら、ローゼの怒気はディルクと同じ方へ向かっているようで、それが分かったからこそディルクは一歩引いた。

ローゼもそれに、元の位置に戻る。

「申し訳ありません。取り乱しました。ではやはり、ルーデンドルフへの嫌疑が濃厚なのですね。皇太子殿下の護衛は増員されていると聞いておりますが、今後ライナルトのことはいかがいたしますか」

「お前はどうすべきだと考える」

問いに問いで返され、ディルクは一瞬の躊躇いの後、先ほどライナルトに語ったことをそのまま告げた。

「少なくとも、今回の事故の調査を終えるまではそのようにすべきかと」

「よかろう。ライナルトが学院に戻る時期については、調査後もう一度検討することとしよう。証拠が出れば終わるのだがな」

「はい。――学院への手出しに関しては、調査は進んでいるのですか」

「新入生に紛れ込ませてきているのは確実だ。絞り込んできているが、やり口が巧妙で捗っていない。それについてはその都度マテウスから報告させる。学院内の警備は、新年度当初から試験時と同じ体制だが、これ以上増やすつもりはない」

警戒をあちらに知られても困る。ディルクはその判断に頷いた。

「学院の警備体制は十分でしょう。ただ……、」

その先を、ディルクは言いあぐねたが、皇帝は察したようである。

「学院外での、お前と親しい人間の安全だな。リストは既にこちらにも来ている。ライナルトの件があった以上、人員を増やそう。……証拠も揃えやすくなる」

何故わざわざ人の神経を逆撫でするような一言をこの皇帝は付け加えるのか。

若者たちが神経を尖らせるのを察して、皇帝の側近はさりげなく皇帝を睨んだ。

だが、皇帝はどこ吹く風である。

側近は誰にも聞こえないような溜め息を吐き、時刻を確認した。

「……陛下、そろそろ」

「そうだな」

皇帝は立ち上がった。

「何か他に話しておくことはあるか」

「……退位、と先ほど仰いましたが、」

「ああ、まだ発表していないだけで嘘ではない」

「!?」

一応確認しておこう、くらいのつもりで口にしたのだが、あっさりと皇帝はそう言った。

それは、皇帝の側近を含めた三人の言葉を奪うものだった。

「そうすぐというわけでもないがな。いつかは訪れることだ、そう驚くことでもあるまい。だいたい、この流れではそれが必要になる。テアのこともあるからな」

「それは……、」

「この件に関してはいずれ詳しい話をすることになる。それだけならば、戻るぞ」

「……陛下、」

歩み出した皇帝をディルクは引き止めかけ、鋭い眼差しに真っ向から見返されて、言葉を呑みこんだ。

覚悟を、問うような、見透かすような、視線。

ディルクはずっと胸に抱えている案を、この時も口にできなかった。

ただ、その背を見送るしかなかった。

体格は同じくらいに成長したはずなのに、ずっと大きく見える、父の背を。




「……大丈夫ですか、ディルク」

「あ、ああ、」

ローゼに気遣うように覗きこまれ、ディルクは瞬いた。

皇帝が側近を引きつれて去って後も、ディルクは深刻な面持ちで立ちつくしていて。

ローゼが声をかけてやっと、彼は口に微笑のようなものを浮かべた。

「……すまないな、ローゼ」

「何を謝っているんですか、」

「お前には色々……、苦労を、かける。ライナルトはまた狙われる可能性がある……、テアも、」

「ディルク……」

「二人のことを、どうか、頼む」

「頼まれずとも。二人とも、私の家族みたいなものなんですから」

「そうだな……。――すまない」

すまない、とディルクは繰り返す。

それが切なく感じられて、ローゼは務めて普段通りを装った。

「もう、止めてください。どうしてあなたが謝るんですか、ディルク」

「ああ……、」

これは危うい、とローゼは感じた。

いつもは太陽のような、と形容するにふさわしいディルクが、今にも消えそうなほど儚く映る。

「……ディルク、最近ちゃんと休んでます?」

「食事も睡眠も十分にとっているよ」

疑わしげなローゼの視線の先で、ディルクは苦笑した。

「あなたには前科がありますからね。怪しいです。ちょっとここに座って待っててください。薬を持ってきますから。少し休んで、それから帰りましょう。実を言うと、私、まだライナルトに会っていないんです」

「そうなのか?」

ディルクの目が、驚きに見開かれる。

「それは、すまなかったな。先に面会を済ませてしまって……」

「構いません。とりあえず、座ってください」

ローゼは半ば強引に、ディルクをベッドの端に座らせた。

「薬、頼んできますから。大人しくしててくださいね」

「……俺は別に、病人でも何でもないんだが……」

ぼやいたが、ディルクに抗う意思は生まれなかった。

ローゼが部屋を出ていくのを見届け、片手で目を覆い視覚を遮断する。

休もうと考えての行為であったが、暗闇に包まれて、孤独感を増すだけだった。

強い自責の念に、身体を重く感じる。

――いっそのこと、俺を、斬ってくれても良かったんだがな……、ローゼ。

自嘲的に思い、頭の冷静な部分が、まずい、と告げた。

けれど、一度負の感情に囚われてしまえば、それはディルクをどこまでも暗闇に引きずり込んでいく。

――俺が、いなければ、

きっと、誰も、傷つかない。

そう思った。

その時だった。

「……ディルク」

静かな声に、名を呼ばれた。

ディルクは顔を上げる。

光が彼の目に飛び込んできた。

眩しい、と思った。

「……テア」

かけがえのないそのひとの姿を、ディルクは確かに、その瞳に映し出した。






色とりどりの花が活けられた花瓶を手に、ローゼはライナルトの病室をノックした。

カラフルではあるが、華美というよりほっとさせてくれるような印象の花々は、テアが見舞いにと買ってきてくれたものである。

ライナルト負傷の知らせを受けた時、ローゼはテアと共にいた。

そのまま二人で病院までやって来たのだが、ライナルトはディルクと面会中。さらには皇帝まで来ており、ルーデンドルフのことで話をしておきたかったローゼは、テアに花を頼んだのである。当然と言うべきか、皇帝に護衛を一人貸してもらい、テアにつけて。

空気を察してテアは躊躇いもせず頷き、戻った後も花を活け、話が終わるのを待っていてくれた。

その花を受け取り、ローゼはテアに隣室を示したのである。

親友がディルクをいつものように輝かせてくれるよう、ローゼは願っていた。

「失礼、します」

――ああ、どうして、私、

こんなに緊張しているのか。

それをドアの隣に佇む護衛に気付かれないように、ローゼは病室に入った。

中から「どうぞ」と声がしたから、そこにライナルトが確かにいることは、ローゼにも分かっていたのに。

「ローゼ」

名を呼ばれて、その顔を見て。

この時にやっと、ローゼは、しばらくぶりの呼吸をしたような、そんな気がした。

「ライナルト……、真っ白、ですね。壁に埋もれてしまいそうです」

「はは、そうだな」

「これで少しは……、部屋も明るくなると良いんですけれど」

「ありがとう」

花瓶をそっと棚におき、ローゼは椅子に腰かける。

「……入れ替わり立ち替わり人が出入りして、落ち着かないでしょう。私もすぐ、帰りますから、そうしたらゆっくり」

「そう急がなくてもいいだろう」

繋ぎとめるように片手を取られて、ローゼはどきりとした。

「……こんなにぐるぐる巻きにされては……、せっかく手を握っているのに、ちゃんとお前に触れている気がしないな」

拗ねたような言い方がおかしい。

ローゼは顔を綻ばせ、ふふ、と笑った。

「それなら……」

と顔を近づける。

「こうしたらいいんじゃないですか」

一瞬だけ、唇を触れさせて、離れた。

ほんの一瞬だったけれど、確かに互いの熱は、伝わって。

ローゼの頬を、涙が伝った。

「ローゼ……」

体温を感じさせない、包帯で巻かれた手が、その滴を拭う。

ローゼはいけないと、その手をそっと頬から外した。

「駄目ですよ、怪我に障りますから。ごめんなさい……、安心したら、何だか」

「心配をかけたな……。すまない」

「も、謝るのはいいです。ディルクので聞き飽きました」

ふるふると首を横に振って、ローゼは俯く。

「……本当は、こんな風に泣いてばっかりじゃ駄目だって、分かってるんです。私は『クンストの剣』です。こんな時の覚悟なんて、とっくに決めておかなくちゃならなくて……、覚悟、してるつもり、だったんですけど……っ」

嗚咽を、ローゼはのみこんだ。

「怖くて……、駄目でした……!」

「ローゼ、」

零した言葉ごと、掬いとられるように、ローゼはライナルトの腕に抱きしめられる。

止めようとするのに、嗚咽は漏れた。

「ライナルト、怪我、が、」

「いいんだ」

痛みを覚えないわけではない。

それでもそうしたくて、強く、ライナルトはローゼを抱きしめる。

「覚悟など、する必要はない。私はお前とずっと、同じ道を歩き続けていくのだから。不要な覚悟だ。そうだろう?」

「……こんな、包帯ぐるぐる巻きの人が言っても、説得力、ないですよ」

「何を言ってる。包帯ぐるぐる巻きでもこうしてお前を抱きしめているのだから、説得力はあるだろう」

「……屁理屈です」

返したローゼの声は、泣きながら、笑っている。

己の熱をもう一度確かめさせるように、相手の熱を確かめるように、ライナルトはもう一度、今度は深く、そんなローゼに唇を重ねた。






テアがライナルトの事故の話を聞いたのは、ちょうどローゼと寮の共用棟の練習室に向かおうとしていた時だった。

以前からそうではあったのだが、マリナ・フォン・ロッシュが現れてから特に、ローゼはなるべくテアを一人にしないようにしているようで、この時も二人でいたのだ。

せっかくの休日をライナルトと一緒に過ごしたいのではないかとテアは思ったけれど、『なんのために私がここにいると思っているんですか』と先に言われてしまっては、何も言えない。

ローゼが本当は人一倍寂しがり屋だということを、テアは知っているから。

ローゼは幼い頃に母親を事故で亡くしている。彼女の周囲には使用人や領民たちがいてくれたけれども、やはり身分差という壁はあり、父であるモーリッツは領主としての仕事で忙しく、ローゼとの時間を多くはとれなかった。

彼女はずっと寂しかったのだと、思う。

そこに、カティアとテアが現れた。

時を重ねて、ローゼはカティアを第二の母と慕い、テアを本当の姉妹のように愛情を持ってくれた。

寂しい時を過ごして、やっと手に入れた家族を失うことを、ローゼは恐れている。

それは、テアも同じだ。

ローゼのことを、家族のように思っている。

基本的にはテアはひとりでいる方が好きだが、ローゼは特別で、共にいることを苦痛に感じない。

それに、彼女は世話焼きではあるが、たくさんの人と関わってきて、またテアとも長い時間をこれまでに過ごしてきているから、テアとの距離の取り方が上手い。

だからこの日もローゼと共に休日を過ごしていたのだけれど、やはりライナルトと一緒に送り出すべきだっただろうかと、テアは知らせを受けて病院へ向かう馬車の中で、そんなことを考えていた。

ライナルトが出掛けることは、聞いていたのだ。デート、してきたらどうですかと、ローゼの背を押していたら、彼が怪我を負うことは、なかったかもしれない。けれど逆に、二人が共に怪我を負っていたかもしれなくて。

無意味だと知りながら考えた仮定の話に、やはり無意味だとテアはひとりで首を振った。

少なくとも、ライナルトの命に別条はないのだ。詳しくは行ってみなければ分からないが、意識もはっきりしていると言う。

ライナルトも心配だったが、それもあって、この時、隣の親友の方が、テアは心配だった。

ローゼは泣いてはいなかったけれど、その身体は震えていた。テアはその震える手に自分の手を重ねて、握った。

少しでもいいから、ローゼの心が落ち着けるようにと思って。

そうして到着した病院で、テアとローゼは皇帝と会うことになった。

皇帝は身分を隠して来たようだが、それにしては護衛の数が多い。

皇帝よりもライナルトの病室を厳重に囲んでいるようで、テアは病院に到着した時から、ライナルトの事故はただの事故ではなかったのではないか、と思った。

それはローゼも同じだっただろう。

先ほどディルクも到着して、先にライナルトと面会していると聞くと、

「少しお話ししておくことがあります」

そうローゼはテアに告げて、皇帝と別室に入っていった。

その時にはローゼはブランシュ家の跡取りとしての顔でいて、テアは心配しながらも邪魔になってはいけないと、ローゼに頼まれるままライナルトのための花を求めに行ったのである。

需要が多いからか病院のすぐ側に花屋はあって、帰ってみれば、ローゼたちはまだ話中だった。

ローゼより先にライナルトに会いに行くのも、と思って、そのまま廊下で待ってみるが、護衛がドアの前に無言で佇んでいて、正直居心地は良くない。

テアたちをここまで案内してくれた者も、重苦しい雰囲気で立っている。

そんな空気の中で待ちながら、先ほどから医師や看護師、他の患者の姿も見ないなと、テアは気付いた。

ライナルトの生まれが生まれだから、そんな警戒態勢も特別不思議なわけではないが、やはり何かが起きていることは間違いないようだ。

そう考えていると、皇帝が部屋から出てくる。

皇帝はテアを見て少し疲れたように笑うと、「思っていたよりも早く時が来そうだ」と、それだけを告げて、去っていった。

それについては、もういつでもと、覚悟はとうにできているのだが。

――一体、何が、起こって……?

不安を覚えるテアのもとに、それから少しして、ローゼが戻ってくる。

「すみません、テア、待たせてしまって」

「いえ、」

「花も、ありがとうございます。……それで少し、お願いがあるのですが、」

「はい。待っていますから、どうぞライナルトと二人で話してきてください」

「え、いえ、テア、その……ありがとうございます」

テアは気を利かせてそう言ったつもりだったのだが、ローゼは少しだけまごついた様子を見せた。

「あの、隣室にディルクがいますので……、あちらで待っていてもらってもいいですか?」

「ああ、はい、分かりました」

テアが出ている間に、ディルクは面会を終えて、隣室に移動していたらしい。

この空気の廊下で待っているのは居づらいと、テアは素直に頷いた。

ローゼに花を渡し、親友の背を見送って、テアも隣室のドアをノックする。

返事がなく困惑するが、そっとドアを開いた。

ドアを開けながら、テアは、久しぶりだな、と思う。

新年度が始まって、ディルクに会ったのはたったの一回だ。

それも食堂で、すれ違うようにして。

その時はマリナも一緒にいて、彼女を紹介してすぐに別れてしまった。

会った、とも言えないような一瞬だった。

けれど、それで良いのだと思っていた。

マリナに、彼と親しくしているのを見られるのは、良くないように感じていたから。

彼女のことがはっきり分かるまでは、ディルクには会わない方がいい。

彼女の狙いが、ディルクである可能性もあるのだから。

そう考えて。

「……ディルク」

ドアを開いたテアは、思わず、声を潜めるようにして名前を呼んでいた。

ベッドの端に腰かけているディルクが、とても弱っているように見えて。

静かにドアを閉め、テアはそっとディルクに近付く。

はっとしたような表情を束の間見せた彼は、今は眩しさを感じているかのように、目を細めてテアを見上げてきた。

その瞳の奥に、傷ついたような色を、見た気がして。

「ディルク」

もう一度名を呼べば、次の瞬間、強い力でテアは身体を引かれていた。

「テア、」

何という声で、呼ぶのだろうか。

縋りつくように、ディルクの腕がテアの肩と腰に回り、身体をきつく抱きしめてくる。

思わず、テアは息を詰めていた。

「少しだけでいい、このままでいさせてくれ……」

耳元でそう請われ、拒むことなどできるはずもない。

小さく頷き、テアは身体の力を抜こうとしたが、眼鏡が邪魔で、少し身じろいだ。

邪魔なそれを外そうと手を伸ばした動作をディルクは受け入れて、少しだけ力を緩めてくれる。

テアは眼鏡を脇に置き、大人しくディルクの腕におさまった。

ぎゅっと、ディルクはテアを抱え直す。

抱きしめてくるディルクの力は痛みを感じるほどであったが、多分本当に痛いのは、テアよりもディルクの方で。

その痛みを消したくて、けれどテアにできたのは、ディルクの背にそっと手を回すことだけだった。

「俺の、せいなんだ……」

長いような短いような抱擁の中で、ディルクはただそれだけを呟く。

けれど、それだけで、テアには分かったような気がした。

ディルクがずっと何かに苦しんでいるのは、知っていたから。

そうか、と思った。

――そうだったのか。

テアは瞳を閉じる。

瞼の奥に隠された瞳に、その時、強い意志が宿った。

――この方の苦しみを、断ち切りたい。

そのために、とテアは決める。

だが、今は。

少しでも、ディルクが安らぐように、テアはただ願って、温もりを分け与えた。

縋る相手として、この腕の中にいられる権利を与えられたことに喜びを感じたけれど、今はその浅ましく思える感情を、胸の奥に深くしまって。




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