決着 4
思い出は苦く、胸を締め付けるようで、ディルクは先ほどから見向きしなくなったテキストを閉じた。
ライナルトが浴室から出てきたのに、食堂へ行ってくる旨を告げて、部屋を出る。
「ディルクさん!」
ディルクが廊下を少し行ったところで、後ろから声を掛けられた。
隣室の生徒が、ディルクににこやかに笑いかけ、追いついてくる。
「食堂ですか? 途中までご一緒しても?」
「ああ、構わない」
「先日の件でお話ししたいと思っていたんです。良かった」
ほんのわずかディルクは表情を動かしたが、それ以上何かを見せることはなく、二人は並んで歩き出す。
共用棟へ行くにも少し遅い時間で、他の寮生の姿は多くない。
部屋に戻る寮生と幾度かすれ違いながら、二人は言葉を交わした。
「今のところ、あちらに特に変わった様子はないようです」
「そうだろうな」
不自然に感じられないほどの小声で、表情も自然なものである。
第三者が見て、これが皇帝の金のカフスを持つ者同士の会話と気取ることは難しいだろう。
「ですが、報告を受けて、少々厳しくしています。それから……こちらでも新入生に対して、もう一度。少し時間を頂きますが」
「……そこまでやってくれると、ありがたい。返事は渡したが……、」
「はい。上も同じ考えのようです。何かありましたらまた」
「頼む。あと、例の件だが」
「ああ、すみません、そちらの手配も終えています。……あちらはともかく、こちらは以前より少し増やした、程度ですが。これ以上となると……」
「ああ、分かっている。……すまないな」
「これが仕事ですから。では、僕は管理人室に用がありますので」
颯爽と、彼はディルクから離れていった。
すぐに一人になったディルクは、あまり食欲を感じていないながら、食堂で夕食をとる。
昨年度末風邪を引いて以来、食事を抜かさぬよう気をつけているのであった。
――仕事、か……。
鷲の意匠の金のカフス。
ディルクが城を去る際、皇帝はディルクに渡したそれの返却を口に出さなかった。
ディルクも自ら返すことをしなかった。
それは。
あの悲劇がもう一度繰り返される可能性を考えていたからだ。
フォン・シーレであることを止め、それで全てが終わってしまえばいいのにと、ディルクは願っていた。
だがそれが儚いものであることも、本当は、知っていたのだ。
城を出て最初に、レティーツィアからの手紙を受け取った時。
どんなにディルクが絶望と諦観を抱えたか。
ディルクは白く美しい便箋を、封筒を、音を立てて引き裂いた。
それを意思表示にした、つもりだった。
レティーツィアはしかし、返事がないことを、自分の都合のよいようにとったのだろう。
何度も手紙は送られてきて、ディルクはそれを、中身も確認せず捨てた。
幾度、それを繰り返しただろう。
最初に手紙が来た時、はっきりと、決別の言葉を告げるべきだったのかもしれない。
いや、あの時、ディルクはそのつもりだったのだ。
最後にレティーツィアと顔を合わせた時。
『皇子に生まれ、その責任を果たすためには、逆にここにいてはいけないと考えました。皇太子殿下のお命が狙われ、宮殿内では皆互いを監視するかのような空気。ルーデンドルフ家にも疑いの目は向いております。また何か起これば国民も不安に揺れましょう。その懸念をなくすために、私はここを出ます。幸い、皇太子殿下には何の異常もなく、あの方は後継ぎとしてふさわしいものを全て持っておられます。私はここに必要ありません。母上、何よりも私は皇子として生まれたからこそ、国民の生活を見、寄り添って生きていきたいと思うのです。これまで心を砕いていただいてこのような選択をとること、お怒りになるのは当然のこと。ですが、どうかお許しください』
レティーツィアを母と呼ぶのはこれで最後にしようと、ディルクはそう告げた。
だが、そんな言葉では、ディルクの真意は伝わらなかったのだろうか。
――やはり、彼女のことを、俺は、
全て決着をつけてから、出てくるべきだったのか。
実を言えば、ディルクにはもう一つ、城にいる間にとれる手段があった。
それをディルクが実行できていれば、長年のこの状況はきっとなかっただろう。
皇帝も、それを考えついていたのかもしれないが、結局命じてはくれなかった。
命じて、くれれば。
仕事と割り切って、それを為しただろうに。
考えて、それも自分勝手なことだと、ディルクは溜め息を吐く。
昨日無理矢理受け取らされた、手紙の返事に、ディルクは再び自分の思いを綴った。
何があっても、再びディルク・フォン・シーレに戻ることはないのだと。
どうか、それを受け入れてほしいと、ディルクは思った。
その願いも、淡く消えゆくものだと知っていて、それでもなお。
「マリナ・フォン・ロッシュの件だが、」
そう、学院長は切り出した。
学院長室の書斎机には、主である学院長が腰掛け、机を挟むようにして、ローゼが立っている。
「今のところ、不審な点は出てきていない。小さな地方領主の一人娘。ピアノは幼い頃から学んでおり、領地での取引相手に才能を見込まれてシューレに入学。婚約者もおり、卒業後は結婚を予定、楽団への入団希望はなし……」
「結婚で縛られる前に一度領を出て、好きなピアノに打ち込む傍ら、都を堪能したいのだ、と言っていましたね。本人の言葉とも矛盾はありませんが――」
「地方育ちで、交友関係も限られている。周囲に影は見られていない」
新年度が始まって、既に一週間が過ぎている。
テアが新しいパートナーと組み、その相手について、ローゼは学院長に再調査を頼んでいた。
ハインツ・フォン・ベルナーの件があって後、時間のない中で新入生にも調査の手は及んでいたが、二人の進言を軽視せず学院長は手を尽くしてくれたのだ。
「……ただ、ひとつ、ささいなことだが気になることがあった」
「それは?」
「入学試験の前に、城下に立ち寄っている。都に憧れを抱いているというならおかしくないことだが、試験の前というのがな。試験の際の宿泊先も、ここより少し離れた宮殿寄りだ。今、立ち寄った店などを探らせている」
「……ありがとうございます。すみません、お忙しいところに」
よくそこまで目を留めてくれた、とローゼは頭が下がる思いだった。
学院長は気にするなと手を振る。
「いや、実を言うと、別口からも新入生の洗い直しを頼まれている。さすがに、前回徹底的に調査した在校生や教員に見落としはないと思いたいが……。ともかく、その件もローゼ、君にだけは伝えておこうと思っていた」
「別口……というと、誰です?」
「アウグストだ」
ローゼは眉を顰め、続いた学院長の言葉に息を呑む。
「ルーデンドルフが動き出している可能性がある」
「……では、マリナ・フォン・ロッシュの件も、」
「タイミングがタイミングだ。その疑いは濃いと、我々は考えている」
「……このことは、テアには言わない方が良いんですね?」
「こちらとしては警戒してもらった方が良いが……」
「ディルクが、望みませんか」
「……そうだな」
学院長とローゼは、同時に小さな溜め息を吐いた。
ライナルトは何も言ってはいなかった、とローゼは思い返し、それも当然かと、責めそうになる心を胸の内に抑えつける。
その疑問の答えは、簡単だ。
肩を落としたローゼだが、すぐに姿勢を正して告げた。
「分かりました。注意します」
「頼む」
「……それと、そうですね、そういうことがあるのなら、言っておいた方がいいかもしれません」
考えるように片手を口元にやったローゼは、その手を下ろして、答える。
「……調査を混乱させてもいけませんし、もっと確信を持ってから報告した方が良いと、テアと話していたのですが……」
「なんだ?」
「マリナ・フォン・ロッシュは……、貴族の生まれではないのではないかと思います。少なくとも、私たちの知る彼女は、そうなのではないかと」
「――なんだと?」
「地方育ち、と言っても……、色々と些細な言動に、違和感があるんです。テアも同じことを考えています。この場所がある意味では特別ですから、周囲には割となじんでいるようですが……。先ほど、お話を窺って、マリナ・フォン・ロッシュという人物が実在していることが確かなことは分かりましたから、そうなると――」
「まさか……」
「はい。ここに在籍しているマリナ・フォン・ロッシュは、その名を騙っている偽物ではないかと考えられます。断言はできませんが、その可能性は少なくないと……」
「……分かった。その可能性も含めて調査を進めさせよう」
「お願いします」
ローゼの言葉に学院長は頷き、「ああ、そうだ、」と思い出したように書斎机の引き出しを開けた。
「テアへの手紙を預かっていたんだ。渡してもらえるか」
「はい。実は、それもそろそろかな、と思っていたんです」
テアが喜ぶ、と思ってローゼも顔を綻ばせた。
言わずもがな、ロベルト・ベーレンスからテアへの手紙である。
差し出されたそれを、ローゼは丁寧に受け取った。
「しばらくテアはこちらに伺えませんので、この手紙に関しても私が仲介を務めますね」
「ああ、すまない。嗅ぎつけられては困るからな」
「はい。私であれば、警備の相談とでも何とでも理由がつけられますから、ひとまずは安心です」
頼もしく微笑んだローゼに、学院長も笑った。
「そうだな。任せる」
「はい。また伺います。テアも、すぐにあしながおじさん宛に手紙を出したいでしょうから」
「その時にはまた何かしら掴んでいるようにしておきたいものだな」
「そうですね。期待しています。……では、失礼しました」
ローゼは、彼女らしい爽やかさと優雅さを兼ね備えた動作で、学院長室を辞した。
しかし、廊下に出た彼女の顔から、微笑は消える。
――テア、ディルク……、ライナルト――
どうか、とローゼは心の中で名を呼びながら、願った。
どうか、このまま、皆と平穏な日々を過ごさせてほしいと。
奪われたく、ないのだと。
恐ろしい可能性が迫りつつあるような気がして、ローゼはぐっと奥歯を噛みしめる。
恐怖の予感を覚えながらも、ローゼは背筋をまっすぐ伸ばし、毅然と進んでいった。
――まさか、こんなに上手くいくなんて。
正直なところ、思っていなかった。
マリナ・フォン・ロッシュは――そう名乗っている少女は、心の中でひとりごちる。
レッスンを終え空いた時間、彼女は練習室の窓からぼんやりと外を眺めた。
広く美しい構内。
才能を持った、輝くような生徒たち。
権威あるシューレ音楽学院に、自分が在籍しているなんて、今でも夢ではないかと疑ってしまう。
きらきらとした、夢の世界。
――でも、綺麗なのは周りだけ。
自分自身がそれに不釣り合いなことは、分かっていた。
この美しい世界の一部になれたら、どんなに幸せだろう。
同じくシューレに入学したばかりの女生徒たちと笑い合っていても、自分だけが浮いた存在と感じて。
将来のことを疑いなく語り、夢に向かって努力する、周囲の姿が、羨ましく、妬ましい。
――最期に見る夢にしても、眩しすぎて、残酷だわ。
どうせなら、もっと優しい夢が良かった。
マリナは思って、首を振る。
けれど、この道を選んだのは自分なのだと。
目的のために、あの、白くて美しい手をとった。
願いを叶えてあげる、と言った残酷な手を。
その代わりに、とマリナはここに入学させられた。
テア・ベーレンス。
彼女に近づくようにと、言われて。
けれど、本当にパートナーの申し込みをして、受け入れられるとは思っていなかった。
断られることが前提で、「あなたのことを尊敬しているから」とその後も接触を続けていくつもりだったのだ。
思わぬ、計算違い。
上手くやったと評価されたが、あまり嬉しいとは感じなかった。
先輩にまとわりつく後輩、というスタンスで行くつもりだったのに、関係性にパートナーが加わるだけで距離が近いように感じられ、逆にやりづらいように思う。
何より。
――私は、あの人のことが、嫌いだ。
平民なのに、ブランシュ家で育ったという幸せな人。
ブランシュ家の後継者の親友として在って。
このシューレ音楽学院で、高名なエンジュ・サイガに認められて。
元第三皇子のパートナーとして、その隣にいた。
テア・ベーレンスの周りはきらきらと輝いている。
けれど。
――本来なら、あの人は"私"と同じなのではないの?
特に目立つところのない、平民。
そうではないのか。
それなのに、あの人は、恥ずかしげもなくあの中にあって、笑う。
幸せそうに、笑う。
――ずるい。
子どもじみた感情だ。分かっている。けれど思った。
どうして、あの人だけ、と。
私も、"あの子"も、今が、どんなに苦しいか……。
「――次の予約者なんだけど、いいかな」
練習室のドアの方から声をかけられ、マリナははっとして振り向いた。
「すみません、すぐに出ていきます」
「そんなに焦らなくってもいいけど」
出したままだった楽譜を急いで手にして鞄に詰め込む。
そんなマリナに、その生徒は近付いてきて、彼女の側で囁いた。
「――そろそろ、最初の幕だが。どうだ? 彼女のパートナー役は」
「……順調です」
表情を変えないように気をつけながら、最小限の言葉でマリナは答えた。
「それならいいけど」
くすり、と笑う声が、耳に障る。
「よくもまあ、上手くなれたもんだ。このまま計画通りで頼むぜ」
こくりと小さく、マリナは首肯した。
――よくも、上手く、か。
本当にそうだと思う。
何故、テア・ベーレンスは、マリナのパートナーの申し込みに頷いたのだろうか。
ピアノを聴かせてほしいと言われ、ピアノを弾いた。
それが眼鏡に適ったのだと、そう、一応納得しているのだが。
はっきりとした確信が持てず、マリナはもやもやとしたものを抱えていた。
まさか初対面でばれたということはないはずだが――そもそも、それならばマリナをパートナーにとは考えないだろう……。
心の中で仮定の話に首を振り、マリナは申し訳なさそうな表情を取り繕った。
「お待たせしました。それでは、失礼します」
相手は鷹揚に頷き、マリナの背を見送る。
注がれる視線を背に感じながら、マリナは廊下に出て、息を吐いた。
――最初の幕、か。
マリナにとっての幕は、もう上がっている。
そして終演はきっと、遠くない。
早く、早く、終わってしまえば良いのに。
そして、早く。
――"あの子"を、助けて……。