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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第12楽章
116/135

決着 2



夜、ライナルトが夕食を取って寮の部屋に戻れば、ディルクは机に向かってテキストを開いているところだった。

「ただいま」

「おかえり」

「お前は、夕食は?」

「もう少ししてから行こうと思っていたところだ。パートナーの申請はしてきたのか」

「ああ。テアも無事、パートナーが決まったようだぞ」

ライナルトがバッグを置き、着替えを用意しながら告げれば、それまで机に向ったままだったディルクはようやくペンから手を放し、振り返った。

「何だって?」

驚きの表情に、このことに関しては本当に分かりやすいと思いながら、ライナルトは繰り返す。

「パートナー申請をしに行った時に、テアとも一緒になったんだ。テアの新しいパートナーは新入生でピアノ専攻科の女生徒、名前はマリナ・フォン・ロッシュ。……女生徒で良かったな」

「……授業開始一日目で決まったのか」

「そうなるな。先ほど夕食の席も一緒になって、話を聞いてきたが、向こうからの申し出だったらしい。大人しい印象だったから、少し意外に思ったが……」

その新入生に、テアとローゼはただならぬものを感じたのだと言う。

それをライナルトは打ち明けられていたが、ディルクには話すなと口止めされていたから、何も言わなかった。

いや、口止めがなくとも、ライナルトは少なくともそれに関して確たるものがない間、それをディルクに告げることはなかっただろう。

ライナルトは、ディルクの現状を知っていたから――。

「決まらぬままでいるより、決まってしまった方が、お前も安心できるだろう?」

「そうだな……」

答えるディルクはどこか、上の空である。

ライナルトは苦笑し、「シャワーを浴びてくる」と一言断ってから、浴室に入った。

――相手が女生徒でも、他の相手を選ばれれば複雑は複雑か……。

卒業後ならまだ割り切れもするだろうが、在籍中で自分がフリーならばなおのことかもしれない。

――それでも、"あのこと"で悩むより、色恋にうつつを抜かしてくれた方が良い……。

ライナルトは、昨日のことを苦く思い出しながら、そう思った。

『今日は行けなくなった。悪いが、テアにすまないと伝えてもらえるか』

本当なら、昨日はディルクもテアを迎えに行くはずだった。

だが、行けなくなった。

新たな予定が入った、わけではない。

ただ一通のあの手紙が……、ディルクを引き止めたのだ。

レティーツィア第三皇妃からの――彼の母親からの、手紙が。

彼女の欲が、いつでも、今でも、彼を縛り付けている……。

ディルクがライナルトを救ってくれたように、彼をその縛りから解き放ちたいと思う。

だが、その力を持たない自分を、ライナルトはもどかしく思い、頭から乱暴に湯をかぶった。






――そうか、もう決まってしまったのか……。

また一人になった部屋で、そう思ってしまって、ディルクは自嘲の笑みを零した。

こうすることを決めたのは自分なのに、責める言葉が胸にわく。

そんな資格も権利も、ありはしないのに。

――テア……。

心の中で、ディルクは愛しく思う者の名を、呟く。

離れなければと思いながらも側にいた。

その猶予期間は終わってしまったのだ。

新しい学年になり、ディルクは卒業を控え、その後に備えなければならない。

不自然に感じさせずに距離を置くのに、理由は十分だった。

だからこそ、決着をつけるにも、いい機会、なのだろう。

上質な便箋に綴られていた内容を思い出し、ディルクは苦く、溜め息を吐く。

あそこを去れば、すぐにでも執着は断ち切れるのではないかと思っていた。

そこまですれば、きっと分かってくれる。

自分の夢を、愛するものを、認めてくれる。

真に、自分を見てくれる。

それが、本当の別れに繋がっていても。

その方が、いい。

そんな風に、思っていた。

その結果が、今だ。

何も――何も、変わっていない。

時間が過ぎ去った分だけ、鎖は重く、この身体に巻きついて縛っているような気すら、した。

――だが俺は、あの時の音の持ち主のようにただ、音楽が好きで、それに触れていたくて、自分で、音の世界をつくりあげたくて……。




『そんなことに、大した価値などないのだから』

幼い時分、ディルクは微笑んで告げた母親に、言葉を返すこともできなかった。

――誰にでも好きや嫌いはある。母上が音楽を好まれないのは、仕方のないことなんだ……。

あの頃、ディルクはまだ、母からの愛情を信じていた。

いや、信じていたくて、信じようとそんな風に自分に言い聞かせていたのだ。

だが、年を重ねれば、これまでに分かっていなかったことが、少しずつ分かるようになっていって……。

あの夏の晩を境に、さらに疑心は募った。

あの夜、少女と母親の交わし合う、信頼と優しさに満ちた眼差しを見て――。

――母上は、いつも俺に微笑んでくださる。だが……、あんな風だっただろうか。何か、何かが違うような……。

あの音の持ち主にさえ出会わなければ、こんな不安を覚えることはなかったのに。

自ら城を抜け出したことは棚に上げて、ディルクは理不尽にもそんなことを思っていた。

そうして筋違いの非難を抱えながらも、ディルクは焦がれた。

何度となく、あの音を記憶に蘇らせては、どうしようもない衝動にかられて……。

あの音に近付きたい、と望んだ。

欲しい、と強く思った。

しかし――。

『ピアノもヴァイオリンも教養として身につけておくことは悪いことではありません。けれど、それにばかり時間を割いていてはね。あなたはどれをとっても優秀なのだから、もったいないわ。将来人の上に立つ存在となるために、多くのことを身につけなければ……』

その母の主張によってレッスンの時間は削られた。

けれど、母の言うことも正しいと思ったから、ディルクは熱心に勉学に励み、剣術の稽古も怠らなかった。

皇族として生まれたからには、その義務を果たさなければならない。

人を導くため、誰よりも多くのことを学び、研鑽を積まなければ……。

それでも空いた時間に、ディルクはこっそりと離宮を出、宮殿のピアノの前に座っては、あの夜の音を再現しようと試みた。

だが、何度鍵盤に触れても、近付けなくて。

遠ざかる、ばかりで。

その時に。

ディルクは、彼女と出会った。

『……様?』

ディルクが鍵盤から指を離した時、その声が聞こえた。

誰かの名を呼んだ、綺麗な声。

ディルクの名前ではなかった。

まるで信じられないと言わんばかりの声音で、その名は呼ばれていた。

ディルクははっとして立ち上がり、部屋に入ってきた人物を見て、驚愕したものである。

そこにいたのは、第一皇妃であるユスティーネだったから――。


『――昔の知り合いが、時々ピアノを弾いたり、歌ったりしていて……。とっても上手だったのよ。それをね、思い出して……。あの方が、弾いているのではないかと思ったの』

金糸雀色の髪をきらきらとさせながら、ユスティーネは懐かしそうに言った。

『あの方でなかったのは残念だったけれど、ディルク様に会えて良かった。あの方はいつも良いご縁を導いてくださるから、今回もきっとそうね。私、ディルク様とずっとお話ししてみたいと思っていたの。ライナルト様とも……。高望みだってことは、分かっていたけど、でも、陛下の御子だと思ったら……』

そう、最初彼女は、ディルクたちのことを「様」付けで呼んだのだ。

それは彼女の出自から来るものだったのだろう。

ユスティーネはバンゲンハイム家出身、では確かにあるのだが、皇帝が見染めた故に、ふさわしい家に養女として入ったのである。

元々彼女は下級貴族の生まれで、まさか皇妃になるとは露ほども考えたことはなかったらしい。

だが、アウグスト・フォン・シーレと出会い、恋をして、二人は結ばれた。

ディルクはこの時言葉を交わすまで、ユスティーネはきっとディルクやライナルト、第二皇妃第三皇妃のことを、気に食わないと感じているのだろうと思っていた。

ディルクの母親、レティーツィア第三皇妃がそうだったからだ。

だが、ユスティーネは陽だまりのような笑顔でディルクに接した。

そこに偽りはなく。

彼女は、第二第三皇妃たちのように大輪の花のような美貌の持ち主ではなかったけれど、野に咲く可憐な花のようなひとだった。

慎ましやかに見えて、くるくると表情を変えていくのが意外で、ディルクは目を奪われたのだ。

『母上!』

彼女と他愛ない言葉を交わしていると、またドアが開いた。

『またお一人で勝手に出ていかれて……! 例え宮殿内でも一人でほっつき歩かないでくださいとお願い申し上げているでしょう! 何度あなたが迷子になったのを皆で探したか、覚えていないとは言わせませんよ』

そして、次にやってきたのは、皇太子ディートリヒ・フォン・シーレ。

いつも落ち着き払った彼の表情しか見たことのなかったディルクは、眉を吊り上げた皇太子の様子にまた、目を見開いてしまったものである。

ディートリヒは一息に言ってしまってからディルクの存在に気付き、ばつの悪そうな表情となったが、すぐに笑顔になった。

それまで一言二言しか言葉を交わしたことはなかったのに、皇太子は自然に、それこそ普通の兄弟に接するように、言ったのだ。

『ここでお前と会うとは思わなかった。ピアノを弾いていたのか?』

『はい、』

『とっても上手よ。ディード、あなた、音楽の才能はないものね。残念なことに。ディルク様に習うといいわ』

『……音痴は母上から受け継いだものだと思いますが』

『……ディルク様、ピアノ、また弾いてくださる?』

ユスティーネは息子を睨みつけ、すぐにディルクに花のような笑顔を向ける。

遠慮のない親子の会話に、ディルクは度肝を抜かれたが、嫌な感じはしなかった。

そこには、あの夜に見た、母子と同じものがあって。

知らず知らずのうちに、ディルクは憧憬を抱いていた。

圧倒されるようにディルクは頷き、二人の前でまた、鍵盤に指を下ろしたのだ。

それから度々、ディルクは二人と他愛ない時間を過ごすようになった。

離宮を出、宮殿の目立たない一室に密やかに集まっては、ピアノを弾き、言葉を交わした。

ディルクは、その時。

足りなかったものを、埋めていくような気がしていた……。




ユスティーネ皇妃と皇太子の食事に毒が盛られていたと、その話をディルクが聞いたのは、そんな時を何度も繰り返した後のことである。

『また、ユスティーネ様とディートリヒ様のお食事に毒が盛られたと?』

『ああ……。毒見役が気付いたらしい。遅効性のもので解毒が間に合ったが』

『これで何度目だ?』

『数えたくもない。だが、今回はまだましな方だろう。毒見役も含め皆無事だったわけだからな。犠牲者はおそらく一人。……関係者かは調査中だが、厨房に出入りできた使用人が一人、死体で見つかった』

『そうか……。おそらく、これまでの件と同様、黒幕までは辿れまいな。毒の入手経路についても、』

『ああ、人手は割いているが……思わしくない』

『警備を増やしてもこれでは……。陛下も心安らかにいられまい。黒幕を一刻も早く突き止めなければ……』

『……やはり、他の四大貴族か』

『エーベルハルトか、ルーデンドルフか、か』

『最も疑わしきはルーデンドルフだが……』

『一つのみに狙われているとは限るまい』

『それも問題か……』

それをディルクは、例によって隠し通路側から盗み聞きしていたのであった。

ディルクが離宮から出て宮殿でピアノを弾いていると知れば、母は気を悪くする。

そのことがあったから、ディルクはいつも隠し通路を使って宮殿へ入り、なるべく誰にも会わないように気をつけていた。

そうそう使われることのない部屋にピアノを発見したのは僥倖で、ユスティーネ達との出会いもそうだったのだ。

そしてこの日も、たまたま通りかかったところで声が聞こえてしまった。

それは、幸いと言えることではなかったけれど。

ユスティーネとディートリヒの名に反応せずにはいられず、ディルクはその会話を聞いて、強く拳を握った。

二人はいつだって、ディルクに笑いかけてくれたから。

そんなことがあったなどと、ディルクは欠片も思いはしなかったのだ……。

――近衛の者たちの話なら……、根も葉もない噂とは違う。信憑性がある……。

考えながら、ディルクは歩き出していた。

いつも行く、ピアノの部屋とは異なる方向へ。




『父上』

あの時の皇帝の顔は、滅多にお目にかかれるものではなかった、とディルクは思い返す度に笑いを堪えなければならなくなる。

隠し通路から唐突に現れた息子に、執務室で仕事に励んでいた皇帝は、ひどく間の抜けた顔を晒したのだ。

その場にはもう一人、皇帝の側近がいて、同じように書類に向かっていたのだが、彼の方が余程冷静で、皇帝の空いたままだった口を閉じさせた。

『……そんなところから出てきて、なんのつもりだ、ディルク』

『お忙しいところ申し訳ありません。お願いがあって参りました』

『……言ってみろ』

『第一皇妃殿下と皇太子殿下を狙った輩を捕まえるために、私にも尽力させてください』

言えば皇帝は、顔つきを厳しくした。

『まだ子どものお前に、一体何ができるというのだ』

『子どもだからこそ、できることがあると存じます』

まっすぐに皇帝を見つめれば、目の前の皇帝は探るようにディルクを見返す。

『ふん……、何故そうしたいと思う』

『……第三皇子として、皇太子殿下をお守りするのは当然のことでしょう』

『……なるほど、最近ユスティーネたちが何かこそこそしていると思えば……』

ディルクはそれに、どきりとした。

『二人と会っているのか』

『……はい』

隠すより正直に頷いた方が良い、と判断し、ディルクは躊躇いがちながら首肯した。

もう会うなと言われるかもしれないが、それでも。

それよりもディルクは、二人のために動きたいと、思ったのだ。

皇帝が、三人の密会を知らなかったことも、ディルクの背中を後押しした。

誰にも止められることはなかったから、分かっていたことだったけれど。

それでも、二人が自分のことを秘密にしてくれていたことが、嬉しかった。

彼らも邪魔されることが嫌なのだと、あの時間を大切にしてくれているのだと、それが伝わるようで。

そんな風に思ってくれる二人を、守りたい――。

そんなディルクの真摯な思いが伝わった、のかは分からない。

だが、皇帝はディルクが思うよりもずっとあっさりと頷いた。

『なるほど。……それならばやってみるがいい』

泰然としていたが、皇帝もそれだけ、悩まされていたのかもしれない。

皇帝の側近も止めようとはせず、二人の会話を聞いていた。

『それで、具体的にお前はどうしたいと考えている』

皇帝の問いに、ディルクは短い時間で考えたことを話した。

隠し通路を活用、もしくは身分を隠し下働きに紛れて情報を収集、怪しい者がいないか目を光らせ、同時にユスティーネ等を護衛する。

『……危険だぞ』

『覚悟の上です』

『ルーデンドルフが黒幕かもしれない。それでもお前は役目を全うできるか?』

『……できます』

母の面影が、ディルクの脳裏に浮かんだ。

ここにディルクがいるもう一つの理由。

――母上は、黒幕ではない……。

それを、確信したかった。

『では、これを』

皇帝はディルクに、その紋章のモチーフとなっている鷲をかたどった金色のカフスを、無造作に渡した。

『この仕事中は、必ず身につけているように。私の勅命で動いている証だ。お前のことはしばらく侍従長に預ける故、彼について学べ。離宮にはこちらから話を通しておく。単純に国政の一部を手伝わせると言っておけば、お前の周囲はさぞかし喜ぶことだろう』

皇帝の言葉の後半は皮肉に富んでいて、ディルクは言い返しそうになるのをぐっと奥歯を噛んで堪える。

心が揺さぶられるのは、皇帝の言葉が図星だからだ。

『……ご配慮、ありがとう存じます、父上。――いえ、陛下』

動揺を抑え込むように、やや慇懃無礼ともとれる形で、ディルクは深く、腰を折った。

『……私のことも、疑っておられるのでしょう』

『……』

『それでもこれを渡していただいたこと、感謝いたします。皇妃殿下、皇太子殿下のこと、必ずやお守りしてみせます』

『そう肩肘を張る必要はない。無理はするな。お前とて、皇子なのだからな。母親を泣かせたくはないだろう』

『……はい』

ディルクはその言葉に、無難に頷くにとどめた。

皇帝にとっては――、ディルクに何かあった方が、ある意味では安心できるのではないか、と思ったが、さすがにそれを言葉にするのは卑屈であるし、無遠慮にすぎる。

皇帝と皮肉の応酬で傷つけあうためにここに来たわけではないのだ。

初めての父親との会話らしい会話がそれでは、そう思ってディルクは、父親とこんなに長く話すのはこれが初めてだ、とようやく気付いた。

だが、その会話も、親子同士が交わすものではおそらく、なかったのだけれど。

そしてディルクは、一旦皇帝の前を去った。

離宮へと戻りながら、彼は決意を新たに金のカフスを握りしめていたが、彼の胸中は輝く鷲とは対照的に、暗澹としていた。

大切な二人の命が狙われている、事実。

それを企むのが、ディルクの身近な人間かもしれない可能性。

母親を泣かせたくはないだろう……。

そう言った、皇帝の言葉。

――もし、俺という存在になにかあったら……。

母は、一体何を失ったと、泣くのだろう。

そんな問いが、胸をよぎった。

真に、ディルクのそれに涙を見せてくれるものは、いるのだろうか……?




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