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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
楽章間
113/135

師弟 3



翌朝。

エンジュ、テア、アンネリースは、コンクールに十分間に合うよう余裕をもって、ホールに足を踏み入れた。

テアは演奏のためにドレスアップしていて、ステージには立たないエンジュもドレスコードに合わせた、普段と異なるかっちりとした格好をしている。

アンネリースは常から正装のようなもので、ひとりいつも通りだ。

「受け付けは済ませたし、荷物も預けたし、出番まで時間はありすぎるほどだな。体動かしとくか」

「はい」

すぐ控室に向かわず、エンジュはストレッチを指示した。

夏場で気温は高いが、血行を良くしておくに越したことはない。

服装が服装なので動きにくいが、師弟は広いエントランスの隅で体を温めた。

――緊張も、少しは解れるだろ。

いつもとあまり変わらないように見えるテアだが、その緊張をエンジュは見抜いていた。

だがその緊張は、どちらかと言うと大勢の目の前で演奏した後のことを考えてのことだろう。

本番ともなれば、ピアノを前にして彼女は余計なことを考えない。

それを知っていたから、エンジュは下手なことは言わず、いつも通りの声掛けをした。

「……こんなもんか。後はもっかい化粧を確認して、指慣らしして、本番だな。そんで表彰されてくるってのが今日のお前のスケジュール」

「が……がんばります」

表彰されるところまで予定に含まれて、テアは笑みを引きつらせる。

「あ、表彰の前に昼食だな。昼休憩に入ったらこの辺で待ち合わせようぜ。ここのレストランの料理も美味いんだ。出番の後だからゆっくりできる」

もしかしたら昼食の方が彼にとって大切なのではないか、という笑顔でエンジュは言い、テアは苦笑して頷いた。

そこへ、一時その場を離れていたアンネリースが戻ってくる。

「ストレッチは終わりましたか」

警備の中に見知った顔がいたらしい彼女は、二人を視界に入れる位置で何やら話をしていた。

おそらくテアのことをくれぐれもよろしくとでも頼んだのだろう、とエンジュは予想をつけていたが、彼の目にはアンネリースが知り合いの警備を脅しているように映ったので、努めて見ないようにしていた。

「はい。そろそろ行こうかと思います」

テアの言葉に、アンネリースは眉を曇らせた。

アンネリースは舞台裏までは付いていけない。

分かっていたことではあるが、心配なのであった。

「……テア様、武器は」

「大丈夫です、身に着けています」

「いざという時は躊躇わずお使いください。どうか、自分のお体を第一に」

「はい」

テアは真面目に頷いたが、苦笑気味だ。

エンジュとしては、弟子が当然のように武器を持っていることにつっこみたかったが、テアよりアンネリースに反論されそうなので、黙っておくことにする。

「それじゃ、行って来い」

「テア様、頑張ってください」

そうして、エンジュとアンネリースはテアを送り出した。

「……さて、と。じゃ、アンネ、頼むな」

エントランスに一度戻って、エンジュはアンネリースに言う。

「はい。サイガ先生は……」

「知り合いに挨拶して、当日券を融通してもらってくる。これ、お前らのチケットな」

エンジュはアンネリースに二枚のチケットを渡した。

素人刺客を客席に座らせるため、エンジュは自分の分をそちらに回したのである。

「本当に、よろしいのですか?」

「おう。お前には負担をかけちまって悪いけどな」

「私は良いのですが……」

エンジュは演奏を聴くのに最高の席を用意していた。

それをわざわざあの娘に座らせてやるというのが、アンネリースは許し難いことのように感じる。

「気にすんな。俺が拘ってねえんだ。じゃあ、また後でな」

「はい」

エンジュがふらりとホールのいずこかへ向かうのを見送ると、アンネリースはホールを出、来た道を戻った。

早足で行けばホテルまですぐで、フロントで鍵を受け取り、階段を上がる。

部屋では、イルザが大人しく膝を抱えていた。

アンネリースがドアを開けると、はっと顔を上げる。

捕らわれた日から眠れていないせいだろう、ひどい顔だ。

だが、アンネリースに心配してやる義理はなかった。

彼女はイルザの足枷をはずしてやると、着替えをその側に置く。

「これに着替えろ。そのままでは連れていけない」

アンネリースは、どこへとも言わない。

拘束はなくなったがその心境は複雑で、イルザは唇を歪めた。

しかし逆らわず、服を着替える。

女同士なので気にすることはないのだろうが、アンネリースに見張られての着替えは居心地が悪かった。

「これ……」

着替えを終えたイルザは、戸惑ったような顔でスカートを引っ張る。

イルザに寄越されたのは落ち着いた雰囲気のドレスで、なかなかに趣味が良い。

サイズが少し大きいが、気にならない程度だ。

わざわざ買ったのだろうか、とイルザはアンネリースを窺うように見つめた。

アンネリースは冷徹な瞳のまま、そんなイルザに櫛を差し出してくる。

「髪を梳け。すぐに出発する」

「わ、分かった」

鏡を示され、イルザは髪を梳った。

顔色はひどいものだが、ドレスを着て髪を整えれば、見られる姿になる。

「よし、行くぞ。分かっているとは思うが、下手な動きを見せるな」

こくり、と神妙にイルザは頷き、部屋を出ていくアンネリースに続いた。

ホテルをチェックアウトしたアンネリースは、真っ直ぐにまたコンサートホールへ戻っていく。

その歩みは速く、イルザは半ば駆けるように後を追わなければならなかった。

――これ、逃げても気づかないんじゃないの……。

心の中で文句を言った瞬間、アンネリースが立ち止まり振り返る。

「ここだ」

ぎくりとしたイルザの前で、アンネリースは巨大な施設を視線で示した。

このコンサートホールで行われるピアノコンクールにテアが出場するというのを、イルザは知っている。

アンネリースが昨晩「ピアノを聴かせてやる」と言ったのに対し、まさかと思っていたのだが、どうやらイルザは本当にコンクールの演奏を聴くことになるようだ。

そのイルザの表情に状況を理解していることを読み取って、アンネリースは再び歩み出した。

ホールのエントランスに入り、先程エンジュに渡されたチケットを受付に提示して、アンネリースは指定された席にイルザと共に座る。

顔を上げて、真っ直ぐにピアノを見ることのできる席だ。

主の供で、こうしたコンサートに来ることが初めてではないイルザだが、まさか今の立場でこんな席に座りピアノを聴くことになるとは思わず、うろたえる。

いいのだろうかと思うのだが、隣に座る女性は気軽に話しかけられる雰囲気ではない。

――聴けばいいのね、聴けば!

自棄気味にイルザは思って、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。




アンネリースとイルザが着席して少しして、コンクール本選の演奏は始まった。

二人のずっと後方の席に、エンジュもいる。

――ちゃんと感じてくれよ、あいつの音を……。

イルザの後頭部を一瞥したエンジュだが、すぐに目をそらす。

恐ろしい可能性を突き付けてくる相手のことを、彼はなるべく見ていたくなかった。

だから、彼はステージ上のピアノの音に集中する。

そして、その視線の先にあったイルザは、真面目な性格ということもあって、最初の演奏からしっかりと耳を澄ませていた。

何といってもオイレンベルク家の元侍女であるから、彼女の耳は結構鍛えられている。

大きなコンクールの本選というだけあってさすがだというのが、彼女の評価だった。

――エンジュ・サイガという師を持つあの娘も、さぞかし上手いんでしょうね……。

ぼんやりとそんなことを思う。

昨晩から、彼女はずっとテアと己の主のことを考えていた。

イルザもそこまで馬鹿ではない。

アンネリースに指摘されて初めてではあったが、テアが絶対的に悪いとは言えないと分かってしまった。

けれど、主が間違っていたとも認めたくなかった。

テアの存在がオイレンベルク家にとって危険なものであったのは本当で、娘の裏切りに主が苦しみ、テアを憎むのは、どうしようもないことだ。

――だけど、誰かの命を奪う、ということは……。

誰かから奪う、ということ。

――奪われるのは、なくすことは、とても、つらいこと……。

慕っていた主を亡くし、イルザはその痛みを知った。

だからこそ彼女は復讐を望んだ。

だからこそ彼女は今、恐れている。

主のしようとしていたことは。

自分のしようとしていたことは。

一体、どれほどのことだったのか。

――だって、あの方をあんなに苦しめた娘に、母親以外のまともな味方がいるなんて、思ってなかった。

そんな言い訳をして、イルザは自分を守ろうとする。

――人に慕われるような人物なら、あの方があれほどまでに憎むこともない……。害をなす人間なのだと思った。だから殺してもいいと思った。

殺した方がいいと思った。

殺さなければと、思った――。

『そんな事を言えるほど、お前は我が主の何を知っている?』

アンネリースの言葉が、こだまする。

言われて初めて、気が付いた。

イルザは、娘の顔さえもまともに知らないということに。

主から話は聞いていた。

けれど、それだけ。

顔も、性格も、話し方も、何も知らなかった。

それなのに、殺していいなんて、イルザが簡単に決めつけていいわけがなかったのだ。

これもアンネリースに示唆されて初めて思考したことであるが、イルザがテアの立場だったら、とても許せることではない。

アンネリースがイルザに怒りを隠さないのも当然だ。

元来、単純というより素直な性質のイルザは、エンジュとアンネリースの予想以上に、そこまで考えて落ち込んでいた。

そして、知らないということを知った彼女は、見極めよう、と決めていた。

全てアンネリースの言に従うようで癪だが、とにかくテアのことを知らなければならない、と。

知って、また考えなければならない。

主を苦しめた敵を、この手にかけるか。

それとも……。

やがて――そんなイルザの視線の先、ステージ上にテア・ベーレンスが姿を現した。

イルザはまず、その面差しに動揺した。

自身と似ている、と思ったわけではない。

眼鏡を外し、うっすらと化粧をした彼女は、とても美しく――その容貌が、主のものと重なったからだった。

丁寧な礼をしたテアは、ピアノの前に腰を下ろす。

そして、鍵盤にそっと指が触れて……。

その音は、とても優しくイルザを包み込んだ。






テアの後に演奏したのは、三人。

それで午前中の演奏が終わって、コンクールは昼休憩に入る。

客席に座っていた人々が腰を上げる中、エンジュも立ち上がり、アンネリースたちのいる席へと近づいた。

「おい、アンネ――」

声をかけたエンジュだが、ぎょっと立ち竦む。

それは、アンネリースにつられたように顔を上げた素人刺客が、痛々しいほどの泣き顔を晒していたからだった。

アンネリースもさすがに見かねたのだろう、イルザの手には彼女に渡されたらしいハンカチが握られている。

「……まさか、効きすぎたのか?」

「そのようです」

半信半疑のエンジュの問いかけに、アンネリースも幾分困惑気味に答える。

いじめすぎたんじゃないのか、とうっかり口にしそうになったエンジュだが、何とか堪えた。

「……とにかく、移動すっか。昼メシの前に、嫌な話を済ませちまおうぜ。俺はテアを迎えに行ってくるから、先に上がっててくれ。これ、鍵な」

「……?」

疑問符を浮かべながら、アンネリースはエンジュから鍵を受け取った。

「話聞かれたら困るだろ。さっき、席とるのと一緒に部屋を貸してくれって頼んどいた。ホール出て左手の階段上がって、二階の奥の部屋な。鍵に部屋番号付いてるだろ」

「はい……」

エンジュの周到さに、アンネリースは驚いた。

普段の飄々した彼の様子に誤解されがちだが、エンジュは結構几帳面な性格である。

よくよく考えてみれば今回の旅行の手筈も彼がほとんど整えてくれたのだ、と意外に思ってしまってからアンネリースはそのことを思い出した。

「……さすが、ですね」

「うん?」

「当日に頼んですぐに部屋を貸してくれるというのは、先生がエンジュ・サイガだからでしょう」

「ま、な」

エンジュは偉そうに胸を張った。

ここで謙遜したりしないところが、彼の彼らしいところだ。

「じゃ、行くか」

「はい」

ホールの出入り口までは一緒である。

アンネリースはイルザを促し、エンジュに続いた。

イルザは二人の会話にようやくエンジュのことが分かったようで、目を丸くして彼の背中を見つめている。

ホールを出ると、エンジュはアンネリースと一旦別れ、テアとの待ち合わせ場所へ足を向けた。

「おう、お疲れさん。待たせたな」

「いえ」

エントランスの隅で既に待っていたテアは、エンジュの労いに微笑を見せる。

「学院のホール以外で演奏するのはどうだった」

「ピアノも音響も、やはり違いますね。ですが、弾きやすかったです。とても良い音が出せたような気がします」

「そうだろ。学院のホールも良いけどな。俺はこっちの方が相性がいいんだ。お前もそうだろうと思った」

にかっとエンジュは笑った。

その笑顔に、テアは自身の演奏に自信が持てるように感じる。

「……と、色々話したいがそれは後にするか。アンネのところに行かねえとな」

「アンネさんは、先にレストランに?」

「いや、」

エンジュはテアに背を向けた。

「食事の前に、お前に話さなきゃならんことがある。付いてこい」

「はい……?」

不思議そうな顔のテアを連れて、エンジュはアンネリースたちの待つ部屋へ向かう。

ドアをノックすれば、すぐにアンネリースが二人を迎え入れてくれた。

「テア様、お疲れ様です」

「いえ……、そちらの方は?」

「そのようにテア様が丁寧に接する必要のない人物です」

アンネリースの棘のある言葉に――もちろん、棘の向かう先はテアではなくイルザである――テアはますます首を傾けた。

普段は会議などに使われているだろう部屋には、十数人が囲めるテーブルが真ん中に据えられている。さらにその周囲に配置された椅子の一つに、イルザは座らされていた。

彼女は泣き腫らした目で、テアを茫然と見つめている。

憎む相手がすぐそこにいるのに、イルザは立ち上がることもできなかった。

その様子を見、ドアがしっかりと閉まっていることを確認して、エンジュは口を開く。

「そいつ、お前を殺しにきたんだってよ」

言い方は軽いが、エンジュの表情は固い。

テアは目を見開いて師の顔を見、それからイルザを見た。

「捕えたのは、一昨日の夜でした」

驚くテアに、アンネリースがその日からのことを説明する。

話が進むにつれ、テアは表情を失っていった。

「報告を遅らせたこと、お詫び申し上げます」

「それは、構いません。理由はよく分かりました。けれど、どうして拘束もせずここに?」

「それは俺が指示した。お前のピアノを聴かてやれってな」

「先生……、なんて危険を冒すんですか」

テアはエンジュを責めた。

「アンネさんがいれば滅多なことはないでしょうが、先生が人質にとられて傷つけられるようなこともあったかもしれないんですよ!」

「お前……、なんでここで俺の心配しちゃってんだよ」

怒った顔のテアにエンジュは呆れたように笑って、その頭をぽんぽんと撫でた。

「先生!」

「そう大きな声を出すなって。そいつに殺気がないのは俺に分かるくらいだ、お前だって分かってるんだろ。少なくともこいつは大丈夫そうだったから連れてこさせたんだ。俺だって痛い目見るのはごめんだからな。確信がなけりゃ今回みたいな無茶はしない」

それでもテアは責める眼差しを変えず、心外だとエンジュは思った。

大体、危険を顧みないのは――生きる意志を持っているくせに己の命を軽んじているのは、テアの方ではないか……。

「……なぁ、お前、もうテアを殺す気ないんだろ?」

突然話を振られ、イルザは肩を揺らせた。

三人の視線が、彼女に集中する。

「私……、」

唇を震わせ、顔を俯けて、彼女は答えた。

「私、あなたが憎いわ」

それは、変わらない。

「あの方があなたのせいで苦しんだことに変わりはないもの……」

だけど、と意識せず再び彼女の目から涙が溢れた。

「だけど、殺せないわ……、そんなことできない」

嗚咽交じりに告げるイルザの言葉を、テアは静かな表情で聞く。

「あんな音、出されたら……」

分かってしまう。

あんな、包み込むような優しい音。

悲しいほどの、慈しみに満ちた音。

それはテアが、それを持っているから。

それは、テアの周りにそれだけの優しさがあるから。

主の言う通りの人間ならば、あんな音は出せない。

主が知らなかったのも無理はない、とそれでもイルザは主のことを悪く思わなかった。

オイレンベルク家の中枢にいた主は、知ることができなかったのだと。何より娘を奪われたのは主なのだ。例えテアの人となりを知っても、許せなかっただろう。

それはきっと、イルザの憎しみとは比べ物にならない。

だからこそ、その望みを叶えたかったけれど。

アンネリースの言葉を聞いて。

テアのピアノを聴いて。

エンジュ・サイガとテアのやりとりを聞いて。

イルザは、竦んでしまった。

――奪われて、あんなに痛かった……。

そんな痛みを、与える側に回るのか。

敵なのだからと思えれば良かったのに、今のイルザにそれは、ひどく、恐ろしいことだった。

そのことに耐えられるほど、彼女は無神経でも強くもなかった。

「あなたが……、どうしようもない人間だったなら良かったのに。オイレンベルク家を、本当に危険に晒すような人間だったら……」

テアはむしろ、自身をそういう人間だと思っていた。

だから言った。

「私は、オイレンベルク家にとって危険人物だと思いますよ。母が望まないので、危害を加えるつもりは(一応)ありませんが」

「あなたの母親は……、オイレンベルク家を大切にしていたの?」

「ええ」

テアにとっては、忌々しいことに。

「それなら、やっぱり殺せないわね……。今頃、お二人は仲直りしているかもしれない……。私がその邪魔をすることはできないもの」

「遅すぎですよ……」

仲直りなんて、そんなこと。

生きている内にそれが叶えば、母は父とも再会し、もっと幸せになれていたかもしれない――。

目を伏せてテアが呟くように言えば、そうね、と力なくイルザは頷いた。

「私が……仲裁に入れていれば良かったのかしら……」

ここまでの台詞が出てくるとは、本当に予想だにしないことだった。

警戒を解かないまま、アンネリースはわずかに目を見開く。

その前で、イルザはぽろぽろと涙を零した。

「ごめんなさい……、ごめんなさい――」

それは、主の願いを叶えられなかったことに対する謝罪。

それから。

主の「本当の願い」を理解することができなかったことに対する、後悔の思いだった。

「――で、どうするよ、テア」

嗚咽が響く中、エンジュは冷たいテアの横顔に問いかける。

「ブランシュ家に引き取ってもらってください」

冷静な声で、テアはそう判断を下した。

「再就職の世話をブランシュ家にしていただければ、今後の監視が楽でしょうし」

「かしこまりました」

テアの言葉に、アンネリースは了解の意を示し、エンジュはにやにやと笑った。

ひくっと喉を鳴らしながら、イルザは信じられないような目でテアを見つめている。

「それでは早速、引き渡してきましょう。人は呼んでありますので」

「お願いします」

見透かしたようなアンネリースの対応の早さに、テアは一瞬目を丸くして、頷いた。

「よし、じゃあ、ようやく昼メシだなっ!」

そして、エンジュが少年のような笑顔になる。

それに、女性三人はそれぞれの立場を忘れて、つられたように笑ったのだった。






イルザをブランシュ家の使いに引き渡し、テアたち三人は昼食をとった。

その間に午後の演奏が始まってしまったが、心労から解放されたエンジュのために、テアもアンネリースも時計を見て急かすのは止め、ゆっくりとその時間を楽しむことにする。

幸せそうにデザートを口にするエンジュの姿に、テアは罪悪感を覚えた。

先日の寝不足も自分のせいかと分かってしまって、とても申し訳なく思う。

――先生は、私を見放した方がきっと楽になれるだろう。

けれど、そうせずに側にいてくれる。

テアに、ピアノを教えてくれる。

そのことが、とても、有り難かった。

――それにしても、彼女の死後に刺客がやってくるとは……。

まるで考えもしないこと、というわけではなかったが、意外だった。

その意思を汲んで人殺しに手を染めてもいいと思わせるものが彼女にあると、テアは思っていなかったのだ。

そこは自分にこそ想像力が足りなかった、とテアは己を省みる。

母がずっと庇い続けた人物なのだ。

本当に、ただ家のことだけを考える人間であれば、母の態度はもう少し違ったものだっただろう。

だからといって、テアの憎悪が消えるわけではないが。

テアの命をずっと狙った相手だから、ではなく。

彼女が、母を刺したから。

ブランシュ家で匿われる前、親子はオイレンベルク家に囚われた。

そこで彼女はテアを殺そうと刃を振りかざし……、テアを庇った母を、刺してしまったのだ。

それがあったために逆に隙をついて逃げることが叶ったのではあるが、あの時の光景を、テアは二度と忘れないだろう。

許すことはないだろう。

母を追い詰めるばかりだった彼女のことを。

そしてそれは、彼女にとっても同じだっただろう。

娘を傷つけることになったのは、テアがいたから。

テアさえいなければ、娘を失うことはなかった、と考えていたはずだ。

彼女は、テアへの憎悪を抱えたまま逝っただろう。

――全く、嫌なところが似ている……。

テアは同席する二人に気づかれないほどひっそりと、自嘲の笑いを浮かべた。

その目の前で、エンジュが片手を上げて店員を呼ぶ。

さらにデザートを追加し始めた彼に、アンネリースは呆れた表情を隠せていなかった。

「なんだよー、マジに美味いんだぜ、ここのデザート。お前も食べてみろよ」

「いえ……、見ているだけで十分です」

店員が去って、アンネリースを見咎めたエンジュに、彼女は本気で遠慮する。

「テア、俺のおごりだ、なんか頼んでみれば?」

すげなくされて、エンジュは弟子にふった。

「そうですね……」

常であれば遠慮していただろうが、テアは何だか甘えたい気分になった。

刺客のことも、申し訳ないと思う一方、エンジュが色々と考えてくれたことが嬉しい、と改めて感じる。

その気持ちが、憂鬱な考えを払ってくれるようで、テアは微笑んだ。

「では、先生が一番お勧めと思うものを、お願いします」

「おっしゃ。けどなー、ここのどれも美味いんだよなー、一個に絞るのか……」

うーん、と唸り始めた師に、テアは小さく声に出して笑った。






ゆっくりとした昼食の時間を終えて、三人はホールへ戻った。

結局午後の演奏を聴くことはできず、表彰式を待つことにする。

演奏者として前方の席を指定されているテアは、エンジュたちと別れ、用意された席に腰掛けた。

結果を待つのは、テアにとって苦痛ではない。

彼女は、勝ちたい、と思って演奏をしていないからだ。

彼女はピアノが弾ければそれだけで満足であったし、良い演奏ができて誰か一人でも喜んでくれるのならばそれで良かった。

けれど、師や後見人や友人たちの期待を裏切りたくない、という気持ちはある。

皆を喜ばせる結果を残せればいいのだが、とだけテアは思っていた。

だが、もしそうならなくても。

皆は、テアから離れて行ったりしない。

テアよりもずっと悔しがり、テアを励ましてくれる。

彼女の周りにいてくれるのは、そんな人たちばかりだ。

テアはだから、落ち着いて座っていられる。

――これからピアニストとして生きていくなら、もう少し気にしなければならないのだろうけれど。

今はまだ、結果を出すことの方がむしろ、テアには恐ろしいことだった。

それで、己のことを知られてしまうのが、怖い。

先程も、刺客の顔を見たばかりだから、余計に。

「……テア・ベーレンス」

表彰式を目前にして、そんな彼女に声をかけた者がいる。

テアが顔を上げれば、イェンス・グライリッヒが隣に立っていた。

「あ……、グライリッヒさん、こんにちは」

どう挨拶したものか、とテアは迷い、無難にそう告げる。

「イェンスでいい。隣、座るぞ」

「はい……」

ぶっきらぼうに言われて、テアは目を瞬かせた。

舞台袖では彼はテアを無視していたし、昨日の彼の態度を思い返すに、下の名前で呼ぶのをテアに許すようには見えなかったのだが……。

「――今回のコンクールは、俺の負けだ」

しばらく黙っていたイェンスだが、口を開くとそう言った。

「……表彰式はこれからですよ?」

「聞くまでもない」

きょとんとしたテアに、イェンスはきっぱりと返す。

彼の演奏順はテアより早く、舞台袖で彼女の演奏を聴いた。

聴いて、彼には分かってしまった。

自分の順位がテアより下であることを、確信した。

イェンスの技術や表現力がテアに劣っているわけではないし、昨日のエンジュの挑発が効いて、調子は良すぎたくらいだ。

けれど、テアの音は。

誰のものとも違って、どこまでも優しく、どこまでも悲しく、響いていた。

胸が震えて、声が出なかった。

こんな風になるのは久しぶりだと、他人事のようにも思った。

――サイガさんの演奏を初めて聴いた時と、同じ……。

それに思い当たって、エンジュ・サイガが彼女を選んだわけが、分かったような気がした。

悔しかった。

けれど同時に、彼の胸は熱く滾った。

彼の音は、競争相手の音に影響される。

相手の音が研ぎ澄まされていればいるほど、イェンスの音も磨かれるのだ。

これからきっと、テアとは何度も同じステージに立つことになるだろう。

彼女がいてくれれば、自分はもっと高みへ近づける――。

それを、確信したからだった。

「良い演奏だった」

「……ありがとうございます」

テアはいまだにぱちくりとしながらも、礼を口にした。

「イェンスさんの演奏も、素晴らしかったです。ああいう音の出し方もあるのだと、勉強になりました」

照れもなく言ってのけるテアに、むしろイェンスの方が照れた。

しかも、今日のテアは"見かけ"からして違う。

眼鏡をかけた昨日のテアは地味な印象しかなかったのに、ドレスアップしたテアは、イェンスが一目見て絶句してしまったほど、美しく見えた。

ドレスを着て化粧をすればこんなにも変わるものかと、妙な敗北感を味わったくらいである。

「……そうかよ。次はもっと腕を磨いて、お前に勝つからな」

「はい。楽しみにしています」

にこにこと返してきたテアに、本当に分かっているのか、とイェンスは脱力させられた。

どうにも調子を崩されて、次こそは勝つと強く思い定めるのに、同時に勝てないような気がしてきてしまうのだった。

イェンスは「はぁ」と溜め息を吐き――そんな彼の目の前で、ステージに司会者が現れる。

表彰式が、間もなく始まろうとしていた。






エンジュは、ステージへと上がっていく弟子の姿に眼差しを和らげた。

コンクールの結果、テアは二位、イェンスはそれに次ぐ三位。

一位に選ばれたのは、エンジュたちが演奏を聴かなかった午後に演奏をしていた女性。

彼女もコンクール入賞の常連で、むしろテアがイェンスより上位であったことの方が、詳しい者にとってみれば意外な結果だったかもしれない。

――俺としては、優勝させてやりたかったが……。

実のところ、テアの学院外での初コンクールということで、エンジュは彼女の入賞のためにかなりのお膳立てを整えていた。

コンクールで結果を残すにはもちろん努力が大切である。

努力の積み重ねがあってこそ、本番で実力を出すことができる。

だが、ただ練習をすれば良いというわけでもない。

ホールやピアノ、審査員との相性等の要素も関係してくる。

実力者であっても他の参加者の実力が同じく高ければ、どうしてもそういう相性に結果が左右されてしまうものだ。

かといって、実力が低い相手ばかりでも、成長は望めない。

その辺りのバランスを考慮に入れつつ、十分すぎるほどのテアの努力が報われるよう、エンジュはいくつものコンクールの中から、今回のコンクールを厳選した。

審査員はテアのような演奏を好む人物であり、課題曲も、これをテアに弾かせては右に出る者はいない、というもの。

それで二位というのは悔しかったが、それでも十分快挙だ。

何しろ、テアがきちんと師事を受け始めて、まだ一年しか経っていないのだから。

――少しは自惚れろよ、テア。

己を過小評価するきらいのある弟子に、エンジュは心の中で告げた。

今回のコンクールの条件について、テアに有利なものを揃えたと、エンジュは弟子に教えていない。

それは彼女に、自分の実力を分からせたかったからだ。

エンジュのお膳立てがなくとも彼女は入賞していただろうが、より良い結果を残せれば、少しは自分を全うに評価するのではないか。

そうすることで、彼女の音はますます輝く。

そんな狙いが、エンジュにはあった。

師の心を知らないテアは、ステージ上で戸惑ったように賞状を抱えている。

――全く、手のかかる弟子だぜ。

三人目の弟子、テア・ベーレンス。

三人目とはな、とエンジュは遠い眼差しになった。

一人目の弟子であり、最愛の女性だった人を、失って。

二度と弟子などつくるものかと、そう思っていたのに。

シューレ音楽学院学院長、マテウス・キルヒナーに、まんまと嵌められてしまった。

彼女を亡くし、ひたすらに演奏するだけの日々を過ごしていたエンジュを、学院まで誘き寄せて、マテウスは言った。

ディルク・アイゲンの担当教員になってほしいと。

『皇位継承権を捨てても、生まれが生まれだからな……。教師選びに難儀している。おそらく教える期間はそう長くならないと思うから、みてもらえないか。あなた向きの生徒だと思う』

音楽界において、マテウスは結構な重要人物である。

幼少より音楽学院のトップに立つための教育を受けてきたマテウスには、その世界で生き抜くための知識もあれば人脈もある。

何より"国立"シューレ音楽学院の学院長であるということは、皇帝とも繋がりがあるということ。

だからといって畏まるような可愛げはエンジュにはなかったが、敵には回したくない相手であるし、これまでに何度か世話になっている。

とにかくその音を聴いてからだ、という返答をして、ディルクに演奏をさせた。

聴いて、なるほど、と思った。

真っ直ぐな、良い音だった。

同時に、学院長の言葉の意味が分かった。

ディルクにエンジュは、本来ならば必要ない、と。

だから、引き受けてもいいかと思った。

すぐにエンジュの手から離れていくのなら、そう情も移らないだろうから。

それに、興味を持ってしまった。

期間限定の弟子が、これからどう成長していくのか。

そうしてエンジュは二人目の弟子を持つに至ったが、ディルクがエンジュの弟子を卒業するのは、想定以上に早かった。

彼は己の楽団を持ちたいと、ピアノ科から指揮科へ転向したのだ。

エンジュは寂しくも思ったが、それ以上にほっとした。

一人目の喪失が、彼にとって大きすぎたのだ。

弟子の存在は、彼にとって、恐ろしいものだった。

だから、学院長にこれきりだと告げて、学院から足を遠ざけたのだが……。

学院長が再びエンジュの前に現れるまでの時間は、そう長いものではなかったのである。

どうしてもエンジュに担当してほしい生徒がいるのだと、やって来た学院長は言った。

やはりエンジュは気乗りせず、嫌だと突っぱねたのだが、学院長はしつこかった。

エンジュは絶対に彼女のピアノを気に入る、今彼女を弟子にしておかなければいつか絶対後悔する、と繰り返し断言した。

それでもエンジュが首を縦に振らないでいると、一度ピアノを聴いて一言アドバイスをくれるだけでもいいから、と食い下がられた。

深く腰を折って頭を下げられてしまえば……、エンジュも折れざるを得ない。

渋々と学院に足を運び、練習室で弟子候補と対面した。

……弟子候補を待つ間、「やだなー、やだなー」と床を転がっている内、寝落ちてしまったのは、ご愛嬌というやつだ。

起きて、挨拶を済ませたエンジュは、弟子候補の少女に早速ピアノを弾かせた。

これきりのレッスンだと心に決めて。

けれど、その決心は脆く消え去る。

彼女のピアノは、音は、エンジュの魂を揺さぶった。

よろめいて、膝をついてしまいそうだった。

彼女の音は、エンジュの音にも似ていて。

深い深い悲しみを秘めていて、広く大きな慈しみと優しさがあった。

エンジュが打ちのめされたのは、彼女がその大きすぎるほどの悲痛を抱えながら、それでもなお、前を向いていたからだ。

未来へ進んでいくことを、止めていないから。

その華奢な身体のどこに、そんなにも強靭な意志が宿っているのか。

――俺は、そんな風に強くは生きられない。

エンジュは、留まりたかった。

大切な人のいてくれた時間に。

それにしがみついていたくて、ピアノを弾いていた。

過去だけを見つめて、ピアノを弾いていた……。

それが悪いことだとは、思わない。

けれどきっと、いつまでもこのままでは、最愛の人とて、喜びはしないだろう。

分かっていたけれど、踏み出せなかった。

怖かった。

歩み出して、再び失うくらいなら、このままが良かったのだ。



――なぁ、俺は弱いんだ。

弱いけど……、いつかは、進めるんだろうか。

お前みたいに、前を向いていけるんだろうか。

それを、教えてくれるか。



テア・ベーレンス。





そうしてエンジュは、テアを弟子に迎え入れた。

学院長の思惑通りになってしまったのは癪だが、テアを弟子にした自分にエンジュは満足していたので、学院長には顔を合わせるたびに皮肉や嫌味を一言二言浴びせるだけで止めている。

――あれからもう少しで、一年、か。

改めて一年の歳月を振り返り、そうひとりごちたエンジュの周囲、観客席が大きな拍手に包まれた。

表彰式の終わり、観客席から、ステージに立つ表彰者に向けて拍手が送られたのだ。

エンジュも伏せていた目を上げて、両手を打ち鳴らす。

この後、入賞者には別室で記者会見が待っている。

ステージから入賞者がはけたところで、エンジュはアンネリースとアイコンタクトし、席を立った。

イルザを引き渡したので、二人は隣り合う席に座っており、スムーズにホールを出る。

エンジュの伝手を使って、二人は会見会場にこっそりと入っていった。

とはいえ、こういう場所にやってくる記者は当然エンジュの顔を知っており、注目は集まってしまったのだが。

だがそれも、エンジュの策の内。

コンクールの主催者がこの場にいることを許した記者たちは、質問内容を弁えていて、テアが答えられないような質問をすることはなかったのだが、エンジュの存在の圧力もあって、ますます掘り下げるような質問はできなかったようだ。

そもそも、"上"からの圧力はまだ効力を発揮している。

過保護かな、とエンジュは思っていたが、アンネリースもテアの側にいる方が安心するようだし、この後のことを考えるならば、テアを一人にしておくわけにはいかないのだ。

やがて、記者会見が終わる。

テアに真っ先に近づこうとしたエンジュたちだったが、それよりも素早い者がいた。

新聞社ヴァイス・フェーダーの記者、ロルフ・ディボルトである。

「とても素晴らしい演奏でしたよ!」

と笑顔でテアの手を取っていて、アンネリースが殺気立った。

「殺すなよ、知り合いの記者だ」

「……はい」

不満そうな返事に、エンジュは悪寒を覚える。

止めなかったら殺していたのか、と内心で突っ込んだが、言葉にはできなかった。

「ああ、お久しぶりです、ヘル・サイガ!」

大仰な身振り手振りで挨拶され、エンジュは辟易した表情になる。

「相変わらずな、お前さん……」

「ええ、おかげさまで」

にっこりと嫌みでなくロルフは返す。

「とても良い演奏を聴かせてもらいましたから。さすがは、テアさんです。先生のご指導も加われば無敵というものですね」

「まあな」

そう言われると胸を張ってしまうエンジュであった。

「ところで、そちらの方は? 先生のマネージャーさんですか?」

アンネリースを指して、ロルフは尋ねる。

「いんや。俺らの今回の旅のサポーター」

周りの耳を気にしてエンジュは言い、声を潜めて事実を追加した。

「ということになってる、テアの護衛。余計なことすると後が怖いぜ。気を付けろよ」

「なるほど……、ブランシュ家縁の方ですか?」

アンネリースは一瞬咎めるような目でエンジュを見たが、

「ディボルトさんには以前お世話になって、私のこともご存じなんです。今後もお世話になることが多いかと思いますので……」

とテアが説明して、そういうことならと礼をした。

「アンネリース・トーレスです。よろしくおねがいします」

それでも口調が幾分か砕けているのは、仕方のないことだろう。

「これはこれはご丁寧に。申し遅れました、ヴァイス・フェーダーのロルフ・ディボルトです。今後とも良しなに」

ロルフは道化のように大げさな動作で挨拶をして、わざとらしく声を落とした。

「それで、ですが……、外は良識のない記者連中がうじゃうじゃしていますよ。どう切り抜けるんですか?」

「ま、そこは一応考えてあるぜ」

エンジュは笑い、先ほどから視界の隅に映っていたイェンスの方へ腕を伸ばした。

「よう、イェンス」

「さ、サイガさん! あ、あの!」

「うん、賭けは俺の勝ちな。約束守れよ」

「は、はい」

「よし。次会うとしたら入賞者演奏会だな。そん時はよろしく」

イェンスは何か言いたげだが、そろそろ行かなくてはならない。

「んじゃ、行くぜ。またな」

ロルフとイェンスに言って、エンジュは記者団の視線を無視し、テアとアンネリースを連れて部屋を出た。

そのまま向かったのは、職員用のトイレだ。

そこで、変装するためである。

エンジュとアンネリースはホールを出てから先に荷物を受け取っていて、実はその中に、変装用品を用意してあったのである。

といっても、荷物をあまり大量にするわけにはいかなかったので、ディルクから貸与された鬘だけだが、それを被ってドレスを脱いでしまえば、テアの印象は全く変わったものになる。

着替えがアンネリースと同じパンツスタイルならば、尚更だ。

地味な髪色の鬘を被り、スカートでなくなったテアを見て、エンジュは「すげえなぁ」と感心した。

「これならばれねえな」

うんうん頷くエンジュも、金髪の鬘を被っている。

テアよりもよく知られたエンジュを探して近づいてこられそうなので、エンジュの方にこそ変装は必要だった。

アンネリースは顔が知られていないので大丈夫だろう、ということで、そのままだ。

変装した師弟とその護衛は、やはりエンジュの口利きで、一般利用者は使用できない職員用玄関を使って施設を出た。

その付近にも記者がいたが、施設関係者のような顔でその横を通り過ぎる。

駅までの道をしばらく歩いても、誰にも声をかけられない。

「はははっ」

やがて、思い通りに記者たちを欺けたのが嬉しくなって、エンジュは笑った。

「すっげえ覚悟してたんだけどなぁ。そんなん必要なかったわ。上手くいった!」

「そうですね、ここまで気づかれないとは……」

つられるように、テアも笑い声を上げる。

全然印象が違うからな、とアンネリースも後ろで微笑した。

鬘のチョイスが、二人の印象と正反対なのだ。

さすがはディルク、とアンネリースは密かに賞賛する。

楽しそうな一行は、そのまま駅を目の前にした。

もういいだろうと、師弟は鬘を鞄にしまう。

早速列車へ乗ろうと足を向けかけ、エンジュはすっかり"それ"を言い忘れていたことに気づいた。

「テア、」

「はい」

「言い遅れたけど、よくやった。二位入賞、おめでとさん」

「テア様、おめでとうございます」

二人に温かい笑みを向けられ、テアは目を丸くした。

彼女自身、先ほど賞をとったばかりだというのを、すっかり忘れていたのである。

「……ありがとうございます」

賞をとったことより、二人からのその言葉の方が嬉しい。

テアは微笑んで、丁寧に礼を返した。

その律儀な姿にエンジュとアンネリースは視線を交わして、苦笑する。

「っつうわけで、これからもピアノ三昧の毎日だ。行くぜ」

「はい」

歩き出すエンジュに、テアとアンネリースが続く。

――なぁ、テア。

確かな足音を後ろに聞いて、弟子を振り返ることなく、エンジュは口の端を上げる。


――このまま、俺に、未来を見せてくれよ。


駅の屋根の隙間から差す夕日が眩しい。

けれど俯かず、エンジュは真っ直ぐ前を見つめていた。
















余談ではあるが――。

その後、師弟にまんまと逃げられてしまったとある記者が、腹いせにねつ造記事を書いた。

「エンジュ・サイガ 両手に花!」

というタイトルの記事は、小さいながら人々の注目を集めはしたのだが――。

その記者は、いつしか行方が分からなくなり。

誰かにふとその記事に関して聞かれたエンジュ・サイガは表情をなくし、「弟子、コワイ」と漏らしたという……。




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