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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
楽章間
112/135

師弟 2



翌朝、朝食をホテルで済ませた三人は、再びクーニッツ宅へ向かった。

エッカルトへの土産は購入してあって、アンネリースが抱えている。

購入したのは白ワインと、どこででも使えそうな小物入れ。

どちらも、これなら絶対気に入る、とエンジュが断言したものだ。

その代金もほとんどをエンジュが払ってくれ、何だかんだと師もエッカルトに感謝しているのだなと、テアは微笑ましいような気持ちになったものである。

だが今、朝の日差しを浴びながら行くエンジュは欠伸を繰り返していて、その歩みは若干危うげだ。

「うー、ねみい」

と、さっきから同じ言葉を繰り返している。

「先生……、あまり眠れなかったんですか?」

「んー」

エンジュは間延びした声を上げ、

「エッカルトが下の名前でばっか呼びやがるから、思い出してイライラしてたんだよ」

眠さの上、口にして思い出して、エンジュは険悪な顔になった。

余程嫌なんだな、とテアは改めて思って、エンジュの言い訳を素直に信じながらも、心配そうな顔を止められない。

「ホテルに戻って休んでいた方が……」

「戻るのめんどい」

「それなら、クーニッツさんにお願いしてベッドを貸してもらいましょう。無理は駄目です」

「んな……」

たかだか睡眠不足に大げさな、とエンジュは笑おうとして、思いの外テアが深刻な顔なので、笑いをひっこめた。

――こいつ、

「なんて顔してんだよ」

エンジュは嘆息し、乱暴にテアの頭を掻きまわした。

「先生!」

「俺だって一生に一度くらいはちょっと眠れないこともある。そう心配すんな。ついたらエッカルトにはちゃんとベッドを借りる。午前中は一人で練習しとけ、午後から仕上げだ」

「はい」

テアはほっとしたように肩の力を抜く。

アンネリースはそのやりとりを後ろで聞いて、ついつい微笑んでいた。





土産を渡すと、エッカルトは非常に喜んでくれた。

特に小物入れは、柄が良い、と上機嫌だったのだが、やはりその趣味は微妙なもので、贈っておきながらテアもアンネリースも本当にこれでいいのかと思う。

そうして朝の挨拶が一段落したところで、ベッドを貸してほしいと頼むと、エッカルトは快く承諾してくれた。

「エンジュが寝不足なんて、天変地異の前触れじゃないのかい」

言いつつ、二階の客室へ案内してくれる。

普段のエンジュならばここで何か言い返すのだろうが、とにかく眠いらしく凶悪な顔で睨むだけだ。

心配なテアは客室まで付き添い、エンジュがベッドに入るまで見届けた。

「大丈夫だっつうのに……」

いいから練習しろ、と言ったのに付いてきた弟子にぶつくさ零しながら、エンジュは薄手の掛布団にくるまる。

「昼食前に起こしに来ますね」

「ああ」

頷いたエンジュは、何故かじいっとテアを見上げた。

「?」

「……なんでもね。ねる」

エンジュが目を閉じたので、テアたちは静かに退出した。

本人が口にした通り大丈夫だと分かっている。

それでも例によって不安を覚えつつ、テアはアンネリースを伴い、エッカルトに続いて階段を下りた。

「じゃあテア、昨日の部屋を使ってくれ。今日は弟子が来るから、私は隣の部屋でレッスンだ。何かあれば声をかけて」

「はい」

「それと、妻が飲み物を準備しているから、後で持っていくと思う。昼食の時は呼ぶよ」

「何から何まで、ありがとうございます」

「いやいや」

テアが丁寧に頭を下げた時である。

「おはようございます」と、男性の声が玄関から響いてきた。

「ああ、来たね。弟子を君に紹介したいんだが、いいかな。彼も明日、君と同じコンクール本選に出るんだ」

その言葉に、テアは目を丸くした。

初耳である。

同じコンクールに出る相手の師にこんなにも世話になるのは、困った時はお互いさまということで許されるのか、それとも少しは気を遣えと問題になるのか……、と判断のつかないテアは冷や汗を滲ませる。

エッカルトが笑みを絶やさないのが、救いだった。

エッカルトは玄関へ足を向けようとしたが、彼の弟子がやってくる方が早い。

「先生、サイガさんは!」

開口一番、彼はそう口にした。

若い男だった。

テアよりいくつか年上、というくらいだろう。

ブラウンの髪はさっぱりと整えられ、同じ色の瞳は鋭く、強い意志を感じさせる。

体格の良いエッカルトと並ぶと細身が際立って感じられるが、ひょろひょろと薄くはない。

――この人が、クーニッツさんの、弟子。

一体どんな音の持ち主なのだろうか……。

「エンジュは眠いからって、今は寝てるよ」

彼はずずいと師に詰め寄り、苦笑された。

エッカルトが人差し指を立てると、はっと彼は片手で口を覆う。

「では……、挨拶は後で……」

いかにも不本意そうに、声を落として彼は言った。

「そうだね」

エッカルトは穏やかに頷いて、少し窘めるような口調になる。

「イェンス、こちらはテア・ベーレンスさん。明日の君のライバルで、エンジュの弟子だよ。それから、付き人のアンネリース・トーレスさん。まずは彼女たちに挨拶を」

イェンス、と呼ばれた彼は、目を見開いた。

「お前みたいなのがエンジュ・サイガの弟子!?」

それに不快を表したのは、アンネリースの方である。

テアは一年間シューレ音楽学院で色々と言われてきたのでいつものことだと気にしなかったのだが、護衛対象である彼女を敬うアンネリースは思わず隠し持った凶器に手を触れそうになった。

「……すまないね、こんな弟子で」

「い、いえ」

嘆息して謝るエッカルトに、テアは慌てて首を振った。

「この馬鹿弟子は、本来エンジュに弟子入りしたかったんだ。でも振られてね、君が羨ましいんだ」

「は、はあ……」

「師匠、オレは、こいつが羨ましいなんて……!」

「こいつなんて言わない。そんなだからエンジュに振られるんだよ。ちゃんと自己紹介しなさい」

師の言葉に、う、と彼は詰まった。

己の無礼を少しは反省したのかどうか、渋々といった体でテアたちに向き直る。

「……イェンス・グライリッヒだ」

ぶっきらぼうな名乗りと共に、手を差し出される。

「よろしくお願いします」

テアはその手を握り返して、この人も手が大きいな、と思った。

イェンスはすぐに手を離し、偉そうに腕を組んでみせる。

「お前、何か弾いてみせろよ」

「え?」

「お前がサイガさんの弟子にふさわしいか、試してやる」

戸惑うテアの前で、エッカルトが何かを振り上げ、振り下ろした。

嘆息と共にイェンスの頭に落とされたのは、飾られていた動物の像。

師に鈍器で殴られたイェンスは、悲鳴も上げられず頭を抱えてしゃがみこんだ。

「ほんっとうにすまないね、アホな弟子で」

「いえ……、あの、大丈夫ですか……?」

「ははは、手加減したから大丈夫だよ」

「手加減しなかったら死んじゃいますよね、それ……」

エッカルトが手にする金属製の像は、猫なのか、犬なのか、鼠なのか、熊なのか、それとも全く異なる動物なのか分からないが、とりあえず重量はありそうで、本気で殴れば人を殺せてしまうだろう。

蹲るイェンスにテアは気遣わしげな視線を送るが、エッカルトは一笑して済ませた。

自業自得、とアンネリースは冷たい眼差しだ。

「互いに良い刺激になるんじゃないかと思ったんだが……、テア、時間を使わせてしまってすまない」

「いえ、そんな」

「本番は明日だからね。もうこの馬鹿のことは忘れて練習に集中してくれ」

「テア様、クーニッツ氏の仰る通りです。ピアノをお借りして明日に備えましょう」

「ええと、はい……。では、あの、ピアノお借りします」

「心置きなく使ってくれ」

イェンスのことは放置して促してくる二人に逆らえず、テアはいいのかなぁ、と思いながら、昨日も借りた奥の部屋へ向かった。

アンネリースも軽く礼をし、テアに続く。

二人の背を、痛みを堪えるイェンスの恨みがましげな目が追いかけて、エッカルトにまた叩かれた。






「先生、お加減はどうですか?」

控えめにドアがノックされた音に、エンジュの意識は浮上した。

静かにドアが開けられて、彼の弟子が姿を見せる。

エンジュは起きたばかりの目にその姿を映して、むくりと起き上った。

ぐぐっと伸びをするのが、心地よい。

「あー、寝た。寝たりねえ気もすっけど、大分マシになった」

「良かったです。クーニッツさんが昼食を用意してくださっていますが……、食べられますか?」

「食う食う」

いそいそとエンジュはベッドから抜け出す。

昨晩も馳走になったが、これまでの付き合いで、彼はクーニッツ夫人の料理の腕の確かさを知っているのであった。

しかし、階下のダイニングでエンジュはくるりと踵を返したくなる。

「……こいつの存在をうっかり忘れてたぜ……」

「サイガさん、ご無沙汰しています!」

エンジュがダイニングに足を踏み入れた瞬間、駆け寄ってきたのはイェンスだ。

彼はテアと対していた時とは打って変わって、目を輝かせている。

「春の演奏会行かせてもらいました。いつもながらすごかったです。サイガ先生の音は聴く度感動に襲われて……」

云々。

捲し立てるイェンスに、エンジュは嫌そうな顔を隠そうともしない。

エンジュは褒められること自体は大好きなのだが、イェンスのそれはやたらとうっとうしく感じられるのであった。

テアはその光景を見て、エッカルトの弟子が同じコンクールの本選に進んでいると、師が全く口にしなかった理由が分かった気がする。

「――うるさい」

しばらくはイェンスの賛美を聞き流していたエンジュだが、やがて耐え切れなくなってイェンスの頭を手加減なく叩いた。

先程できたたんこぶにその手があたって、イェンスは悶絶する。

エンジュはそんなイェンスを捨て置いて、食卓についた。

「エンジュ、睡眠不足は解消されたかい?」

「サイガだっつの。ベッドサンキュな。助かった」

「それなら良かった。いつものことだけど、不肖の弟子がすまないね」

「あれを押し付けたのは俺だからな。引き取ってくれてマジに感謝してる」

「ははは、君がらみで暴走しなければ楽しいよ」

寛容に笑うエッカルトに肩を竦めて、エンジュはテアに尋ねる。

「テア、お前、何もされてないか?」

「え、と、はい」

テアはイェンスに情けをかけたが、彼の師は優しくなかった。

「暴言を吐いたから、叩きのめしておいたよ」

やっぱりか、とエンジュは溜め息を吐く。

「ま、でも仕置きされたならいいか? こういうやつなんだ、耐えがたくなったらぶちのめしていいからな。お前の方が強いだろ」

「は、はぁ……」

「おや、テアは何か武術でもやっているのかい? 意外だね」

「護身術を少し……」

「クンストの剣」であるブランシュ家次期当主の稽古相手を務められる腕であるという事実はわざわざ知らせる必要もないので、テアは濁した。

知っているアンネリースもわざわざ付け足さなかったが、代わりににこやかに言う。

「いざとなったら私が手を出しても構いませんか?」

「おう、やれやれ。うっかり殺っちまったら、ばれないようにしろよ」

「もちろんです」

笑顔でする会話ではない、しかも本人がそこにいるのに、とテアはそれを聞いて顔をひきつらせる。

弟子の表情は気に留めず、エンジュはぼやき続けた。

「こいつはなぁ、俺に対するこれさえなければ良い音持ってんだけどなぁ」

「光栄です! 後で、少しでいいですから、練習みてもらえませんか!?」

回復してきたイェンスが、エンジュの後ろで言った。

これまでの会話を聞いていたのかいないのか、その姿は飼い主に尻尾を振る犬そのものである。

しかしエンジュはにべもなく却下した。

「やだよ。お前にはエッカルトがいんだろ」

「もちろん先生からのレッスンは大事にしていますが、サイガさんのアドバイスも是非聞きたいんです」

「俺はテアのことで忙しい」

エンジュの返答はにべもない。

テアはイェンスに睨まれて、どうしたものかと思った。

「なんで俺は駄目であいつはいいんですか」

「お前はうざい。テアは……、」

エンジュはちらりとテアを見た。

感情の読めない黒曜石の瞳に見つめられ、テアはどきりとする。

「うざくはねえ。面倒な時もあるけど」

結局、エンジュはそっけなくそう続けた。

「お前、サイガさんに面倒かけてんのかよ」

自分のことを棚に上げて、イェンスはテアを責める。

「君が偉そうに言わない」と、エッカルトが呆れて窘めた。

イェンスは己に都合の悪いことはスルーして、エンジュの座る椅子の背もたれに手をかける。

「サイガさん、どうしたら俺を弟子にしてくれますか。俺、役に立ちます。何でもします。悪いところは直しますから」

エッカルトの前でも自重しないしない様子に、隅の席からアンネリースが冷ややかな視線を送った。

エッカルト自身は慣れているのか、特に気にする様子はない。

「何でもするのか」

「はい!」

熱意の籠った返事をするイェンスに、エンジュは無情に返す。

「諦めろ」

イェンスは撃沈した。

「……さて、いい加減昼食にしようか」

「おう。いつまで我慢させられるのかと思ったぜ。今日も美味そうだな!」

皆のやりとりを黙って聞いていたクーニッツ夫人は、飾らないエンジュの言葉に嬉しそうに笑った。

テアはどうしても気にしてしまうのだが、他のメンバーはイェンスのことは置いておいて、昼食に舌鼓を打つ。

イェンスがテアを睨みながらの食事を開始したのは、それから少し後のことだった。






「なんであんな地味な女が良くて俺は駄目なんだ……」

午後の練習の途中、手洗いに出たイェンスは部屋に戻りながらぼやいた。

憧れのエンジュがすぐそこにいるというのに、まともに相手をしてもらえないのが、彼は悔しかった。

それは主に彼の態度のせいなのだが、エンジュへの尊敬は制御が難しいほどに大きく、多少自覚はあってもどうにかできないのである。

むしろその憧憬こそが彼の自信で、エンジュの弟子には自分こそがふさわしい、と思ってしまうのだった。

実力とてエンジュの弟子として胸を張れるものだ。

それは自惚れではなく、彼には数々のコンクールで入賞してきたという実績がある。

だが、あのテア・ベーレンスという女はどうだろう、とイェンスは苛立つ。

無名のピアニストの上、エンジュへの熱意もイェンスほどではない、と彼は感じていた。

――それなのに、忌々しい。

それでもイェンスの冷静な部分は、テアはエンジュに選ばれた人間であり、己と同じコンクール本選に残ったのだ、という点をちゃんと認識していた。

やはりその腕は、きちんと把握しておかねばなるまい。

エンジュ・サイガにふさわしいピアニストであるならば、その音を聴けばイェンスは明日"勝つ"。大したことがなければ、当然下せる。

いずれにせよ、勝つのは己である――。

不敵に笑んだイェンスは、戻るべき部屋を通り過ぎ、その隣の部屋のドアノブに手をかけた。

気付かれないよう、注意を払って。

それなのに。

「――何か御用ですか?」

小さく開いたドアの隙間から、穏やかであるのにぞっとしてしまうような声をかけられて、イェンスは硬直する。

アンネリースが、感情を全く見せない目で彼を見ていた。

――なんだ、この女……。

ほとんど気に留めることのなかった女性が、ひどく恐ろしい人物であると、彼は覚った。

逃げたい、と思うのに、体が動かない。

「――またお前かよ」

エンジュの呆れた声が聞こえて、ようやくイェンスは後ろに下がることができた。

エンジュが部屋から出てきて、ドアを閉める。

テアの音は全く聴けなかったが、アンネリースがドアの向こうに見えなくなったので、イェンスはひどくほっとした。

「テアの練習を聞いてやろうとか思ったんだろ」

見透かしたように、エンジュは言う。

「邪魔をするつもりはありませんでしたが、申し訳ありません」

「邪魔は悪くて盗み聴きはいいのか?」

意地の悪いことをエンジュは無邪気に口にして、イェンスは言葉に詰まった。

「ま、敵を知ろうとするのは理解できる。でも、お前には聴かせてやんねえ」

「それは、」

「もちろん、お前が調子に乗るからだ」

エンジュは人の悪い笑みを浮かべた。

イェンスはライバルの音が高みにあればあるほど良い音が出せるという、癖のあるピアニストなのである。

自分の最上の音に辿り着く、というのが彼の目的で、そのために絶えることなくライバルと競うコンクールに出場し続けている。

その彼を調子づかせる音をテアは持っていると、エンジュは言うのだ。

「……彼女はそこまで素晴らしいピアニストなのですか」

「そうじゃなきゃ弟子にしねえだろ。ま、まだ発展途上だけどな」

「では、俺が彼女に勝てば弟子にしていただけますか」

「勘違いすんじゃねえ」

エンジュは厳しい声になった。

「俺はお前がテアに負けてるから弟子にしなかったわけじゃない。テアがお前より優れてるから弟子にしたってわけでもない。こんなこと言うとコンクールの存在を否定するようだが、そもそも優劣なんか決められるもんじゃねえだろ。その音楽の価値を決めるのは聴く人間だ。聴く者によって価値なんて変わっちまう」

「つまり……、サイガさんにとっては、彼女の音の方が価値の高いものだと」

「拗ねた言い方すんなぁ。まあ、その通りだ」

「……」

「別にお前の演奏の価値が低いって言ってるわけじゃねえ。お前の演奏を聴くのも、いつも面白いぜ」

ひどく気落ちしたイェンスだったが、エンジュのフォローに単純に気分を浮上させた。

「今回はテアが勝つけどな」

「そんなに自信があるのでしたら、俺が聴いたところで問題ないのでは?」

エンジュに対して生意気な態度をとることのほとんどないイェンスだが、ダメージが尾を引いてそう口にする。

「ホールで一番良い音を聴かせてやるっつってんだ、光栄だろ?」

「……!」

「お前を調子に乗らせるのが癪なだけだけどな」

エンジュの言葉の一つ一つが、イェンスを振り回す。

「サイガさん……」

だが、最終的にイェンスのやる気は――高まった。

「俺は、負けませんよ。彼女の音がどれだけのものかは知りません。ですが、サイガさんにそこまで言わせる音に、俺は勝ちたい。いえ、勝ちます」

「言うねえ」

にやりと笑ったエンジュに、イェンスは真面目な顔で続ける。

「俺が勝ったら、弟子にしろとまでは言いません。一言二言でもいいですから、アドバイスをください」

「お前、歪みねえな……」

――どんだけ俺のこと好きなんだ、こいつ。

エンジュはそれを不可思議にすら感じたが、ふと思いついて返した。

「じゃあ、テアが勝ったらお前が助言してやれよ」

「は!?」

思わず、イェンスはすっとんきょうな声を上げる。

あまりにも予期しない条件だった。

「あいつ、まだライバルらしいライバルいねえんだよな。ピアニスト仲間とか。お前、先輩なんだから、色々教えてやれよ。演奏に関しては俺がいるからいいが、それ以外でも経験してきたこといっぱいあるだろ」

「いや……、しかし」

「決まりな。じゃ、練習戻れよ」

「え、サイガさん、」

イェンスがまともに頷かない内から、エンジュはひらひらと手を振って部屋の中に戻ってしまった。

しばらく茫然としていたイェンスだが、自分が勝つのだから問題ない、と奮起する。

そうしてようやく戻るべき部屋に戻ったイェンスは、遅くなったことに対し、エッカルトから笑顔で嫌味を言われることになるのだった。







その日はぎりぎりの時間まで練習をして、三人はクーニッツ宅を辞した。

「本当にありがとうございました」

暗闇に包まれた玄関先。

エンジュがまともに礼をしないので、テアはその分まで心を込めて、エッカルトに頭を下げる。

「どういたしまして。明日の演奏、楽しみにしているよ」

「ありがとうございます。聴いてくださる方に満足いただけるよう、力を尽くしたいと思います」

「聞いたかい、イェンス。テアの心がけを見習うといいよ」

「俺は良い子ちゃんぶったりしません」

テアのことはともかくエンジュを見送りたかったイェンスは、ぶっきらぼうに言った。

「明日は俺が勝つからな。覚悟してろよ」

宣言したが、テアはきょとんとした表情をして、微笑む。

「はい。グライリッヒさんの演奏、楽しみにしています」

そうじゃない、と思うイェンスの傍ら、エッカルトとエンジュが笑いを堪えて肩を震わせた。

「うーん、イェンス、この時点で人間的に負けてるねえ」

「全くだな。明日はテアが勝つぜ」

「いやでも、演奏はやるんだよ、イェンスは」

「それは知ってっけど、勝つのはテアだ」

さすがにようやくエッカルトもイェンスの味方になって、師匠同士の言い合いが始まる。

やれやれと聞いていたアンネリースだが、テアがおろおろしているのを見かねて、口を挟んだ。

「……それでは明日の本選の二人の演奏に期待することにして、そろそろ帰りましょう。明日に備えて、早く寝なくては」

落ち着いた声に、「イェンスが」「テアが」と繰り返していた大人たちの口論は止まった。

エンジュがテアの勝利を確信する言葉を繰り出すのをこれ以上聞いていたくなかったイェンスも、自分の味方をしてくれる師を止められずにいて、ほっとする。

「そうだな。じゃあ、明日な」

「ああ、また明日」

「サイガさん、お気をつけて」

別れを告げてしまえば、エンジュはあっさりとエッカルトたちに背を向けた。

テアとアンネリースはもう一度丁寧に礼をして、エンジュに続く。

「あー、腹減った」

「ホテルのディナーはどんなものでしょうね」

夕食をとる時間も惜しんだので、今夜はクーニッツ夫人の手料理は遠慮したのである。

空きっ腹を抱えた面々はホテルの料理に期待し、結果的に、三人は満足して各々の部屋に戻ることとなった。

クーニッツ夫人の料理の腕も見事なものだが、ホテルのシェフの腕も、当然のことかもしれないが、素晴らしいものだった。ただし、料金はそれ相応に財布を軽くしたのであるが。

腹を満たしたエンジュはベッドに腰掛け、シャワーを浴びたいのを我慢して、人を待つ。

彼が待ったのは、長い時間ではなかった。

控えめにドアがノックされ、彼は訪問者を部屋に入れる。

訪問者は、昨夜と同じ、アンネリースだ。

互いに二人だけで話したいことがあったので――と言うと意味深だが、色っぽい意味は欠片もない――示し合わせてあったのである。

話が長くなりそうなので、エンジュは彼女に部屋に備え付けの椅子を勧め、自分はベッドに座りなおした。

「女の身元が割れました」

アンネリースは単刀直入に告げる。

女というのは、昨晩テアを狙った素人刺客のことだ。

彼女は書類の入った封筒を持参していて、その書面に記された内容から必要な情報をエンジュに伝えた。

「名前はイルザ・フォン・ドーレス。オイレンベルクの傍系も傍系です。典型的な没落貴族の娘で、年端も行かない頃借金のために変態商人の愛妾にされそうになったところを、女傑に助けられたようです。それ以降女傑の侍女を務めていましたが、先日オイレンベルク家を辞しています。周囲も探らせましたが、危うい要素は見つからなかったようですので、単独犯で間違いないかと。念のため、オイレンベルク家への警戒を上げるよう進言しておきました」

「情報はええな!」

「ブランシュ家縁の情報屋ですから、これしきのこと当然です。……と言いたいところですが、以前からオイレンベルク家に関しては情報を集めていましたので」

感嘆したエンジュに、アンネリースは謙遜する。

それでも速い、とエンジュはその思いを変えなかった。

彼女がその手に持つ情報は、今朝クーニッツ宅へ行く途中で情報屋に頼んでおいたものである。

先程帰ってきた時には、それは既にホテルに預けられていた。

テアもいる前で手渡されたが、「警備に必要な情報を送ってもらった」と嘘ではないが真実でもない言葉で誤魔化しておいたので、不審に思われてはいないはずである。

「で、様子はどうだ?」

「ピンピンしていますよ」

さすがに一日中縛り続けておくのは不都合が多いので、朝、アンネリースは女の足にだけ枷をはめた。

両手を自由にしても、決して外せない金属製の枷だ。

部屋からは出られないがトイレだけは行けるようにし、水も用意してやって、アンネリースは出かけた。

ホテルと交渉して、従業員が絶対に立ち入らないようにしたのはもちろんである。

猿轡は容赦してやったので助けを求める可能性もあったが、「逃げればオイレンベルク家に責任を問う」という脅し文句が功を奏したようで、アンネリースが帰っても大人しくしていた。

「今は食事をとらせてやっています。破格の待遇ですよ」

足枷、と聞いたエンジュはドン引きするが、現在役に立っているようなので「そんなもん持ってくんなよ」と言えない。

アンネリースの荷物は視界に入れないようにしよう、と決意して彼は言った。

「しっかし、女傑に相当毒吹き込まれてそうだな。単純そうだったし、鵜呑みにしてんだろうな、色々」

「そのようですね」

「だが、"痛み"は知っているな……」

ひとりごちるように、エンジュは小さく呟いて。

「……なあ、明日、あいつを観客席に座らせられないか」

「サイガ先生?」

思いもよらぬ提案に、アンネリースは眉を顰めた。

「朝三人でホールに行って、お前だけ戻って連れてきてくれ。テアのことなら、ホールには警備がいるから大丈夫だろ。いざとなったら俺が盾になるし」

「先生は決して盾になどなってはいけません。一発で死にます。それによってテア様が動揺されてしまえば、ろくな応戦もできません。最初からテア様が動いてくださった方が、お二人とも生き残れます」

「はっきり言うな、おい……」

だが最もな言葉なのでそれ以上反論できず、続けた。

「いずれにせよ、舞台裏に俺たちは入れない。そっちの警備はホールが手配した連中に任せるしかねえし、最初から観客席から守る予定だったろ。同行者が一人増えるくらい、お前にとっては問題じゃないはずだ。それに、ホテルだって引き払わなきけりゃならん。コンクールの間、置いとける場所はあんのか?」

「それはその通りですが、場所のことは何とでもなります。彼女を連れていって、どうなさるのですか」

「テアのピアノを聴かせる」

「……それで、あの女の意志をくじくということですか」

察し良く告げて、そんなに簡単にいくものではない、とアンネリースは非難めいた眼差しでエンジュを見つめた。

「完全に諦めさせるのは無理でも、何かやっときたい。俺はお前らみたいに荒事に慣れてねえから、怖いんだよ。お前やブランシュ家がどうにかしてくれるんだと分かっちゃいるが、またあの女がテアのとこに来るんじゃないかってな。少しでも手ごたえがあれば、それだけで安心できる」

「それでしたら、先生の前で女の手足を切断いたします」

「……それ、安心するどころかトラウマになるから止めてくれ」

物騒な意見をはきはきと述べられて、エンジュは頭を抱えた。

「つうか、アンネ、お前もしかしてかなり怒ってるのか」

「主を狙われたのですから当然です。見つけた時点で首をはねても良かったのですが、それはテア様も望まれないだろうと思いましたので控えました。後始末も大変ですし」

怖い。

エンジュはまた後ずさりたかったが、昨日とは状況が違うので逃げられなかった。

「……お前とテアはほとんど初対面なんだろ。いくら仕事だっつっても、なんか、いきすぎてねえか?」

それは前々から思っていたことである。

しかし、つい口にしてしまったが、踏み込みすぎたかとエンジュは頭を掻きまわした。

「あー、いや、すまん。余計なことだったな」

「いえ、構いません。私は、勝手にですが、テア様に恩を感じているのです」

隠さなければならないことではない。

テアの師であるエンジュにはむしろ話しておこうとアンネリースは告白した。

「私は幼少の頃よりモーリッツ様を師と仰ぎ、ブランシュ家本邸で過ごさせていただいておりました。数少ない女弟子ということでローゼ様とも親しくさせていただき……、ローゼ様は私のような者とも気さくに接してくださいました。あの方は私より若くあられますが、次期当主として誰よりも努力し、本当に強くなられた。その高潔な人柄と実力に、私だけでなく、弟子一同、ローゼ様を尊敬し、お慕いしております。けれど私どもは家臣。どうしても踏み込んではならない一線がありました」

落ち着いているが、感情の籠った言葉に、エンジュは真面目な顔で相槌を打った。

「ローゼ様は私どもの前でいつも朗らかに笑っておられましたが、度々寂しそうな顔を見せることがありました。お父上であるモーリッツ様は領主としてお忙しく、お母上は幼い頃にお亡くなりで……、ローゼ様は家族と過ごす時間をほとんど持っておられなかった。寂しいと感じて当然です。ですが、あの方はブランシュ家を継ぐ方でした。寂しいなどとは言えなかったでしょう。我々としても、一歩を踏み出すことはなかなか難しかった。テア様とカティア様が来てくださったのは、そんな時です。私は本邸住まいで、お二人は別邸から出ることがほとんどありませんでしたので、接点はありませんでしたが……。ローゼ様がお寂しそうな顔をすることは、だんだんとなくなっていきました。あの方々のおかげだと、誰もが分かって、感謝したのです。私も、ずっと感謝の思いを抱いておりました。この度、ローゼ様が私を護衛に選んでくださったこと、身に余る光栄と存じております。テア様の人柄に直に触れ、その思いは増すばかりです。ですから、あの方を傷つける者は決して許しません。それはローゼ様を傷つける行為でもありますから、余計に許しがたいのです」

なるほどそうか、とエンジュは思った。

――ローゼとテアの熱烈ファンか。

自分の言動はセーフだったんだよな、と彼はついつい振り返って、あまり深く考えないことに決めた。

これからちょっと気を付けよう、とも決めた。

「お前の気持ちは分かった。話してくれたことに感謝する。で、話を戻すんだが、それをあの女にも聞かせてやれよ」

「は……、」

アンネリースは唖然としたような顔になった。

彼女にしては珍しい表情である。

「別に俺に話してくれたみたいに事細かに言わなくていい。ただ、ちくちく刺してやりゃあいいのさ。自分の大事な人間を奪う気なのかってな。なんなら、俺の話も聞かせてやっていいぜ」

「先生の、ですか」

「俺は最初の弟子をなくしてる。不幸な事故だった」

意図したわけではなく、エンジュの表情は消えていた。

それに、アンネリースの方が狼狽する。

エンジュの傷がいまだ深いことを、覚ってしまったのだ。

「先生――」

「そんな顔すんな。気遣いはいらん」

エンジュは無造作に手を振って拒絶を見せて、続けた。

「一人だってなくせばしんどい。二人目になっちまったら、きつすぎてやってらんねえよ。そういうのを聞かせてやって、ぐらつかせろ。テアを殺していいのか、疑わせるんだ。ぐらぐらしてるところに、テアの演奏を聴かせる。お前は疑うが、結構覿面だと思うぜ」

そう言って、エンジュはにやりと笑う。

この人は、とアンネリースはしばらくエンジュをじっと見つめていたが、やがて静かに言った。

「……分かりました。そのようにいたします」

己の傷を晒したエンジュに敬意を表して、アンネリースは深く頭を下げるようにして首を縦に振ったのだった。






イルザ・フォン・ドーレスは、オイレンベルク家に忠誠を誓っている。

特に、現当主の亡くなった母親に対して、彼女の忠誠心は上限を知らない。

彼の人は、まだ少女だったイルザを求めた変態から、彼女を救ってくれたのだ。

その上、行き場のなくなったイルザをずっと側に置いてくれた。

彼の人に恩を感じるなというのは無理な話で、しかも彼女の救い主は、老いてなお美しく、気高く、全てのことに優れていて、イルザの心酔は止められるものではなかった。

そんな、イルザにとってこの上ない主だが、長年悩み心苦しませることがあった。

主の娘のことだ。

病弱に生れついた娘を、彼女は慈しんでいた。

けれど娘はそんな親を裏切って、婚姻も結ばずに子を成したのだ。

そして娘は、オイレンベルク家から逃げ出した。

子を連れて逃げた娘を、彼女は当然追いかけた。

娘の身を案じたのはもちろん、娘の行いはオイレンベルク家にとって醜聞であったからだ。

彼女はこれまでずっとオイレンベルクを支えてきた。

オイレンベルク家を危うくすることを、認められるはずがない。

だが、親子は巧妙にオイレンベルクから逃げ続け、やがてブランシュ家に身を寄せるようになる。

そうなると、オイレンベルク家でも簡単には手を出せない。

イルザの主は娘が拠り所を見つけたことに安堵していたが、同時にいつオイレンベルク家に災が及ぶかと恐れていた。

――あの子どもさえいなければ。

――あの子どもさえ、いなくなれば……。

主は常にそれを願っていた。

イルザはそれを、当然のことだと思った。

あの子どもさえいなければ、主は娘を失わなかったのだ。

そして、子どもの死はオイレンベルク家を守るために必要なこと。

主は正しい。

それなのに、どうしてブランシュ家は親子を引き渡さないのか。

彼女たちは、逃げ出したとはいえそもそもはオイレンベルク家の身内。

オイレンベルク家に戻すのが筋というものだ。

そう考えていたイルザだったが、事は主にとってさらに悪いことになった。

愛していた娘の死亡に続き、オイレンベルク家当主が悪しき子どもの存在を許し、子どもを殺そうとしていた主を非難したのだ。

当主は母親を監視下におき、決して子どもが害されないようにした。

それは軟禁と言ってよい処遇で、主は嘆き、イルザは腸が煮えくり返るようだった。

忠誠を誓うオイレンベルク家の当主が相手でも、主に対する不当な扱いを、許すことはできなかった。

それより何より、災いをもたらした子どもを、呪った。

主が体調を崩しがちになれば、ますますその思いは強まる。

娘の死亡、息子からの非難、災いを成す悪しき子どもの安泰。

続く不幸に、主は短期間でみるみる内に痩せ衰え、ベッドから出られぬ日が続いた。

そして。

イルザは献身的に看病したが、とうとう主は帰らぬ人となってしまった……。

イルザはその亡骸に縋って泣いた。心行くまで泣いて、それから。

決心した。

主の望みを叶えようと。

ずっと、自身の手でそうできればどんなにかと思っていたのだ。

けれど、主の側を離れることはできなくて。

だが、主はいなくなってしまった。

イルザを置いて、いってしまった。

だから。

今こそ、主の願いを叶えよう。

そして、復讐を――。

決意したイルザは、オイレンベルク家に迷惑がかからないよう、まず暇を告げた。

主のいないオイレンベルクに、未練はなかった。

すぐに、目的の子どもの動向を探った。

シューレ音楽学院へ乗り込むのは難しい、と思案していたが、都合の良いことに学院は夏休みに入るらしい。

標的が学院を出ていくのを見つけ、イルザは背中を後押しされるように感じた。

主がチャンスをつくってくれたのだと。

イルザは標的の泊まるホテルに忍び込み、寝込みを襲おうと画策した。

凶器のナイフを持つ手は震えていたが、戻ることは考えなかった。

けれど、彼女の襲撃は失敗に終わる。

標的の側にいた女が、護衛だったのだ。

しっかり握っていたはずのナイフは、簡単に地に落とされ、イルザは逆に捕えられてしまった。

護衛の女は、ブランシュ家より使わされたという。

何の訓練も受けていないイルザが敵う相手ではない。

イルザは逃亡を諦めたが、標的を殺すことは諦めなかった。

チャンスがあれば逃さず何をしてでも殺してやる。

例え拷問を受けても何も言わず、それで死んでも、呪うことを止めてなるものか。

そう覚悟した。

だが、彼女の想定とは全く違って、イルザは何もされなかった。

ほとんど放置されていた。

暴行されたのは最初だけで――それも、ナイフを叩き落とすのとみぞおちに拳を入れられたのと二発だけである――、後は拘束こそされたものの、苦痛を与えられることは全くなかった。

翌日、拘束が足だけになった時は、何を考えているのだと怒鳴りそうになったくらいである。

舐められているのが悔しかったが、実際、イルザには何もできなかった。

できるはずが、なかった。

こんなことを言われてしまえば。

『余計なことをすればオイレンベルク家に責任をとらせる』

主が支え続けてきたオイレンベルク家に対し、恩を仇で返すことは絶対にしたくなかったから、イルザは女護衛の言う通りにひたすらじっとしていた。

その時間の方が、彼女には恐ろしかった。

一体これから、自分はどうなるのか。

主の望みを叶えるつもりが、むしろ主を嘆かせることになってしまうのではないか。

そんな不安で胸が押しつぶされそうで、いっそ拷問されていた方が心を強く持っていられるのではないかと思った。

そして、捕えられて丸一日が経った夜。

心をぐらぐらと揺らすイルザに、護衛の女は言った。

「言った通り大人しくしていたようだな。仕えた家が、余程大事と見える」

「……私が勝手にやっていることで関係のない他の誰かに迷惑をかけるのが不本意なだけよ」

戻ってきてシャワーを浴び終えたばかりの護衛はひどく無防備な格好でいて、イルザは屈辱を感じた。

昨晩は椅子に括り付けられていたものの、今の彼女の手足は自由だ。

部屋からは出られないが、やろうと思えば女に殴り掛かり噛みつくことだってできる。

だが相手は、全くそれを警戒していない。

イルザがそれをしたところで、痛くも痒くもないのだろう。

実際、すぐにでも組み伏せられてしまうであろう己の姿が簡単に想像できてしまって、イルザは唇を噛んだ。

「白を切る必要はない。既にお前のことは分かっている。イルザ・フォン・ドーレス」

冷ややかに名前を呼ばれて、イルザは怯えた目で女を見上げてしまった。

「健気なことだ。そんなに素晴らしい主人だったのか」

「……そうよ。だから私は幸せだったわ」

――だから、その敵を殺したいと願った。

「あなたは、あんな女が主で幸せなの?」

全てを知られてしまったことが、恐ろしい。

それを隠し、精一杯の虚勢でイルザは返した。

ふ、と女が冷笑し、部屋の温度が何度も下がった気がする。

「そんな事を言えるほど、お前は我が主の何を知っている?」

「し……私生児だわ」

「それは自身でどうこうできるものではないだろう。そのことで人を責めるのか」

「っ、そうね、あの方の娘に生まれながら、裏切るなんて、愚かだったのは母親の方ね。父親も定かではないし、きっとロクデナシなんでしょう。そんな両親を持って、災いを運ぶのは当然の子どもだったんだわ」

「お前の言う災いとは何だ」

「あの方が……! 娘を取り戻せなかったのは、あの子どもがいたから! あの子どもさえいなければ、家も安泰で、あの方が心痛めることなど何もなかったはずなのよ!」

「だから殺すというわけか」

その言葉には、嘲りと侮蔑が含まれていた。

「だが、オイレンベルク家が実際に窮地に立ったという話はまるで聞かないが」

「そ、れは……」

「こちらからすれば、お前の主が勝手に取り越し苦労をして我が主を苦しめた。だから死んで当然、ということになる」

「な……」

「十数年、暗殺者に怯えて暮らす日々を、お前に想像できるか? お前の主は苦しんだというが、衣食住に困ることもなく、命を脅威にさらされることもなかったのだろう」

「! それは……、そもそも家を捨てるなんてことをしたから――」

「我が主を連れて、御母君が逃げなければならなかったのは何故だ?」

「だって、許されることじゃないでしょう、」

「そう頑なにならず、お前の主が許していれば、お二人は戻っただろうな」

反論に、イルザは凍りついた。

「私は、主の御母君の行いが許されないこととは思わない。父君のことも、何か理由があるのだろう。未婚というのは確かに世間的に忌避されていることではあるが……、母親だからこそ、許すべきだったのではないか? 追い詰めるのではなく、共に歩めば良かったのではないか?」

「だって、そんな……」

「娘を大事に思っていたなら、どうしてその娘が子を慈しむ思いに目を向けられなかった。奪われると分かっていて戻れるわけがない。結局、お前の主は娘よりも家を大事にしすぎたから、娘を失ったのだ。それでも非は全て我が主にあると言えるのか」

「で、でも……! 裏切ったのは、そちらの方……!」

「子を失うと分かっていたから、裏切らざるを得なかったんだろう。では聞くが、お前が我が主の母君の立場で、子を絶対に手放さないと決めた時、どう動く」

今度こそ、イルザは言葉を失った。

血の気が引いて、まともに何かを考えられない。

敵の言うことを真に受けることはない、と否定しようと思うのに。

女騎士の言葉は、彼女の胸に突き刺さった。

「我が主ならば……、例えいつか、ご令嬢が未婚で身籠っても、受け入れるだろう。命を奪うなどということを、考えるはずもない」

「……背負うものの、違いだわ」

震える唇で何とか口にしたが、全く力のない言葉だった。

「そうかもしれない。だが……、それでお前の主は人殺しを命じた。我が主は、そんなことを命じたりはしない。命を奪ってでも己の思い通りにしようとする主に仕えることなくいられて、私は至極幸せだと感じている」

「……!」

「主は謙虚で優しい方だ。護衛である私のことも気遣ってくださる。人を悪く言うことなど、少なくとも私は聞いたことがない。努力家で、研鑽を怠らない。仕える者として誇らしい主人だ。だから、私はお前を許さない。何も知らずに、災いと嫌悪する浅はかさを。それによって私の大切なものを奪おうとした愚かさを。決して、許しはしない」

主のことを述べる声は優しげですらあったのに、糾弾の声は刃のように鋭かった。

「これは、私だけの思いではない。あの方には、姉のような存在がおられる。学院にはご友人が。ピアノの師も……、主の命が奪われるようなことがあれば、嘆き悲しむだろう。お前は覚悟を決めたつもりでいるだろうが、主を大切に思う方々から主を奪い、彼らから憎しみを向けられる、その覚悟は本当にあるのだろうな」

詰問に、イルザは答えられない。

「……こうして捕らわれても、諦められずにいたのだろう。一晩もっとよく考えてみることだな。己の覚悟は確かなものか。我が主は、真に殺すべき人間か」

殺すべき人間に決まっている、とイルザは返せなかった。

目の前の相手とこの長い会話をする前であれば、はっきりとそう言えただろうが、今の彼女には言えなかった。

彼女は、主と定めた相手のことを、いつだって正しいと疑いを持たずにいたが、この時初めて、主が誤っていたのかもしれないと思ったのだった。

「明日、主のピアノを聴かせてやる。己の目で真実を確かめ、己の意思で、本当になすべきことは何か決めろ」

女騎士はイルザの返答を求めず、そう言うと一方的に会話を終わらせた。

すぐに明かりが消され、相手はベッドに横になる。

イルザは暗闇の中でぼんやりとそれを見ていたが、先程とは別の理由で、立ち上がってどうこうしようという気になれなかった。

彼女は床の上で膝を抱え、体を丸める。

頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしていいのか分からなかった。




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