誓約
「ディルクが……!?」
と、テアとローゼの声が重なった。
六月の穏やかな午後である。
シューレ音楽学院の食堂も、ゆったりとした雰囲気に包まれていた。
とはいえ、学期末試験も近付き、勉強している者もいれば、その話題で顔を暗くしている者もいるが。
その中でテアとローゼがいっしょに昼食をとっていたところ、ライナルトもそれに合流し、三人でテーブルを囲むこととなったのだが、このメンバーが揃って、一人欠けているディルクの話題にならないはずがない。
『ディルクは?』
という問いにライナルトが返した答えが、こうだった。
『あいつなら朝から熱を出して寝込んでいる』
「大丈夫なんですか?」
先に心配そうな声で聞いたのはローゼである。
それにライナルトは肩を竦めて答えた。
「ただの風邪だ、大丈夫だろう。今は部屋で安静にしているし、医務室にも行っていたから」
「またここのところ忙しくしていましたからね……」
「夢中になって根を詰めるのはあいつの悪い癖だ。いつもはちゃんとしているのに、途端に自分の体を疎かにしだす」
自業自得だ、とライナルトは冷たくも感じられる声で言う。
ローゼは似た者同士、という単語を思い浮かべて、親友に目を向けた。
そこで彼女はテアの顔色がひどいことに気付き、軽く目を見張ると、その理由が分かってこう告げる。
「……テア、ディルクはただの風邪です。別に死に瀕しているわけじゃないんですよ」
「……そうですよね」
そう返すテアは蒼白で、むしろ彼女の体調の方が気遣われるようだ。
ライナルトもそれで、まずかったかとローゼに目配せをする。
それを受けてローゼは首を横に振った。
ライナルトが悪いのではない。
ただ、テアの中でカティアの死の存在が大きすぎるのだ。
もう二年、されどまだ二年。
テアにとっては母の死はまだ重く彼女の中にあって、病気で亡くなった母のようにディルクまで、と考えてしまったのだろう。
ディルクが彼女の特別である、ということもある。
これは、早急にディルクには体調を良くしてもらわなければならない、とローゼは考えた。
早いところ元気な顔を見せてもらわなければ、テアの方が不調になってしまう。
ローゼが危惧していると、ライナルトが思いついたように言った。
「……気になるなら、見舞いに来ないか?」
「え……っ」
それに、テアとローゼの声がまた重なる。
「大したことはない、と言って医務室に行った後、授業に出るつもりでいたから、無理矢理寝かせてきたんだ。あいつが動き出さないよう見張ってくれると安心なんだが」
「ですが、男子寮に入るわけにはいかないでしょう?」
ローゼが訝しげに問えば、ライナルトは軽く返した。
「私たちの部屋は隣が非常階段になっているから、少し気をつけていけば大丈夫だろう」
「……副寮長がそんなこと言ってしまっていいんですか……」
「いつも真面目にやっているのだから、こういう時くらい良いんじゃないか」
それはライナルトが、ではなくディルクが甘えてもいいだろう、というニュアンスだった。
それはそうかもしれないが、とローゼは思いつつ、迷う表情を浮かべているテアに目を向ける。
「どうする? テア」
ライナルトが答えを求めれば、やがてテアは心を決めて返した。
「……行かせて下さい」
「……大丈夫でしたか?」
「ああ」
テアを自室まで手引きしてきたライナルトは、外で見張りをしてくれていたローゼの元に戻った。
食堂で昼食をとって後、テアは午後一番でレッスンがあったため、それが終わってから三人は寮に集まった。
幸い授業がある時間帯で、寮への出入りはほとんどなく、テアが男子寮に入るのに難しいことはなかった。
念のためテアはズボンを穿いていったが、その必要もなかったかもしれない。
だがあまりにも容易過ぎるように感じ、この寮は本当に大丈夫なのか、とローゼは警備の強化を進言しようかと思った。
「寝ていたから、起きたらさぞ驚くだろう」
「そりゃあ驚くでしょう……」
人の悪い笑みを浮かべているライナルトを、ローゼは若干呆れたように見やった。
「そんな風に言って、ディルクをいじめているのか、労わっているのか、分かりませんよ」
「心配しているさ」
ライナルトは寮の自室の辺りを見上げた。
「テアがあれくらい悲愴な顔でいてくれたら、ディルクももっと自分を労わるようになるだろう。医務室でもらった薬より余程上等な薬を届けたつもりだ」
「二重の意味で、ですね」
「そうだな。……あいつはストイックにすぎる。せめてこんな時くらい、欲しいものに手を伸ばしてもいいと思わないか?」
だが、彼らが互いに、今以上に距離を縮めるつもりがないことを、ローゼは知っている。
密室に二人を閉じ込めておくのは、ある意味では拷問ではないのか、と彼女は思った。
ライナルトもそれを分かっているはずだが、だからこそ彼はそうしたのかもしれない。
色々な意味で、ディルクにとって効果覿面なのは間違いないから。
心配している、と言ったライナルトの言葉は、言葉以上の重みを持っている。
ライナルトにとってディルクの存在は特別なのだ。
それを思うと、ローゼは複雑な心境になる。
ローゼにとってのテアと同じだと思えば理解はできすぎるほどにできるが、だからこそ余計に複雑なのかもしれなかった。
「……妬いたか?」
「――え、」
唐突に尋ねられて、ローゼは自分の内心を見透かされたかと焦った。
「他の女生徒もこんな風に連れ込んでいるのではないかと疑われたかと思った」
それは全く考えないわけではなかったが、ローゼは首を横に振る。
心中を見透かされていたわけではなかったことに、ほっとしたものを覚えながら。
「あなたもディルクも……、真面目なのはよく知っています」
「それは残念だ」
妬いて欲しかった、と告げるライナルトを、ローゼは頬を赤らめながら軽く叩いてやった。
「疑っていたらテアをこうして見送ってません」
「……そういう風に信頼されているのも考えものだな」
「……それに、」
苦笑するライナルトから、赤くなった顔を隠すようにして、ローゼは続ける。
「あなたもディルクも誰に対しても優しいですけど……、ライナルト、あなたは――、あまり女性が好きではないでしょう?」
「……」
「だから私、自惚れているんです。私はあなたにとって……、特別だと」
「ローゼ、」
「だからといって油断しているわけではありませんが。あなたがどこかの女性に手を伸ばしそうになったら、その手を剣で刺し貫いてでも引き止めてやります。私は……、もう二度と大切なものを奪われないと、決めています。重いと思われるかもしれませんが、最初に手を伸ばしてきたのはあなたの方です。だから、今更逃げるのは許しません。覚悟しておいてください」
「ローゼ」
ライナルトは、それに、蕩けるような笑みで返した。
「私は、だから……、そんなお前が、好きなんだ」
覚悟など、必要ない。
彼女の側に居続けることは、ライナルトの願いでもあり、既に彼の中では決定事項であったから。
一番近い距離をと望んで、ライナルトはローゼを抱きしめ、口付けた。
――本当に来てしまった……。
ライナルトが出ていって、室内から鍵をかければ、テアは自分の鼓動が早まるのを感じた。
男子寮の、二人部屋。
ディルクとライナルトの部屋に、今は眠るディルクとテアの二人きりだった。
ライナルトはまだ、午後に授業が残っているらしい。
夕食の時間には帰ってくるからそれまで頼む、と言われ頷いてしまったが、本当に良かったのだろうかとテアは今更ながら不安に思った。
だがもう、出ていくことはできない。
腹をくくって、音を立てないようテアは部屋の中央に進んだ。
カーテンを閉じた部屋は薄暗い。
しかし隙間から漏れる光で、部屋の中を見渡すには十分だった。
基本的に部屋の設備もその配置も女子寮の二人部屋と同じで、そう目新しくは感じない。
それでもそれぞれの持ち物に個性があって、ついテアは室内を観察してしまった。
ディルクの机に神誕祭の時に贈ったオルゴールボールを見つけてしまえば、嬉しさが胸に滲み。
綺麗に並べられたテキストのタイトルには、彼等らしさが見えて、思わず微笑んでしまう。
――……いけないいけない。
本来の目的を忘れそうになっていた。
いや、敢えて目を背けていたのかもしれない。
テアはようやく、ベッドで眠るディルクに目を向けた。
テアが部屋に来ていることにも気付かず、ディルクはよく眠っている。
その枕元と、部屋の真ん中に置かれたテーブルには、薬やタオル、水入れなど、必要なものが全て置かれていた。
ライナルトが揃えていってくれたものだ。
頼む、と言われたが、しばらくすることはなさそうだと思いながら、テアは椅子を借りてディルクの寝顔を眺める。
テアもそうだが、ディルクがこんな風に無防備にしていることはそうない。
寝ているところを見るのは初めてだと思いながら、よく眠っている彼を起こしてしまわないように、テアは息を潜めた。
――余程疲れていたのだろう……。
そう、テアは思った。
風邪と聞いたが、熱はもう下がったのか、あまり高くなかったのか。薬が効いているせいもあるのだろう。眠るディルクに、熱の気配は薄い。
熱に浮かされることもなく、ただただ、安らかに眠っているようだった。
溜まった疲れを癒すための眠り、なのだろう。
それなのにテアは、怖くなった。
このままディルクは目を覚まさないのではないか、と思えてしまって。
――やはり、来なければ良かっただろうか……。
だがきっと、自室に戻ってもディルクのことを思い出しては、気が気でない思いをしていただろう。
手の届かないところで彼が苦しんでいることを考えるよりは、ここでこうしている方が良かった。
何かあった時、すぐに手を差し伸べることができるから。
けれどそれもテアが勝手に望んでいることで、ディルクにとってはどうだろうか。
一人の方がゆっくり休めると思うかもしれない。
彼は優しいから、具合が悪いのにテアの方を気遣ってくれるかもしれない。
そう考えればやはり、ここにいることは間違いだと思えてしまう。
来てしまってなお迷いを覚えながら、それでもテアはじっとディルクを見つめ続けた。
まるで、目を離したら、その一瞬にディルクが消えてしまうのではないかと、それを危惧しているかのように。
『別に死に瀕しているわけじゃないんですよ』と、ローゼは言った。
分かっている。
ディルクと……母は、違う。
ちゃんとディルクの目は開いて、その瞳にテアを映してくれる。
唇は弧を描き、柔らかく微笑んで、その声はテアの名を呼んでくれる。
心臓は力強く鼓動を刻み、温かい手はテアに触れてくれる。
何を恐れることがあるだろうか。
それなのに怯えをどうにもできない己を、テアは滑稽だと思った。
分かっているのに、病気で眠るように息を引き取った母と、横たわるディルクを重ねてしまうのだ。
開かれない目。
閉じられた唇。
青白い肌。
冷たい手……。
――あんな風に、いなくならないで。
心の中で、テアは請うた。
もう二度と、大切なものを失いたくなくて。
いつの間にか、ディルクはテアの中で大きな存在になりすぎていた。
テアが何者であっても受け入れて、笑いかけてくれる、かけがえのないひと。
もう一度、失ってしまったら……。
その可能性に、テアはぞっとして自分の身体を抱くようにした。
目を開けてほしい、と思った。
それだけでこんな恐れはどこかへ行ってしまうだろうから。
同時に、開けないでほしいと思った。
ちゃんと疲れを癒してほしかった。
今はきっと情けない顔をしている。それを見られたくなかった。
「ディルク……」
渦巻く思いが溢れるように、気付けばテアは、名前を呼んでいた。
その時だ。
「テア……、」
不意に、布団の中から腕が伸びてきて、テアの手を掴んだ。
それに少し驚いて、テアは目を丸くする。
目覚めたばかりのディルクが、薄く開けた目で、テアを見つめていた。
「ああ……、良かった……」
「……?」
「大丈夫か?」
それはテアの方が言うべき台詞だった。
掠れた声に問われ、寝ぼけているのだろうかと、テアは戸惑いながら首肯する。
掴まれた箇所が、熱い。
テアを繋ぎとめておくかのように、その手は彼女を離さなかった。
「だが、」
と、ディルクは上半身を起こし、もう一方の空いた手を伸ばして、今度はテアの頬に触れる。
「痛いところでも、あるのではないか?」
「え……」
「泣きそうに、見えたから――」
「!」
テアは息を呑んだ。
咄嗟に表情を隠そうとするが、今更だ。
上手くいかずに、唇が震えた。
誤魔化しのきかない真っ直ぐな眼差しに、大丈夫だと、嘘をつけなくなった。
「……あなたが、」
弱々しく、テアは言葉を紡ぐ。
「ディルクが、いなくなってしまったらと、そんなことを、考えてしまったら、何だか怖くなって――」
素直に告白して、テアは苦く笑った。
「馬鹿ですよね、こんな……」
「いや」
ディルクは首を振り、続けた。
「俺も同じだ」
「ディルク、」
「お前がいなくなることなんて、考えたくもない。だから、そんな顔をするな。俺はずっと、お前の側にいる」
お前がそれを望んでくれる限り、とディルクはどこまでも優しく笑った。
「ほんとう、に……?」
「ああ、本当だ」
引き寄せられるまま、テアはディルクの肩口に頬を埋めた。
温かな想いが、行き交うようで、愛しいという感情を、言葉にしてしまいそうだった。
だが――。
「……テア!?」
すぐに、身体は離された。
ディルクが驚愕の表情で、テアを見つめている。
ああ、今度こそ起きたのだなと、テアはそれに笑った。
ディルクが夢現にあることは、ちゃんと分かっていたのだ。
それでも、先ほどの言葉は本当だと信じられたから、今更のディルクの質問を聞いても、揺らぐことはなかった。
「……どうしてお前がここに?」
「風邪だと聞いて……。お見舞いに、来ました。ライナルトが、入れて下さって」
「そのライナルトは……」
「授業中です」
ディルクは頭を抱えた。
それを勘違いして、テアは気遣わしげに声をかける。
「ディルク、頭痛が?」
「いや、大丈夫だよ……。元々大したことはないんだ。よく寝たから随分すっきりしているし」
「それなら、いいのですが……。喉が渇いたりしていませんか? 水を……」
「ああ、ありがとう」
水差しから水の注がれたグラスを受け取り、ディルクはゆっくりとそれを含んだ。
「……わざわざ、すまなかったな。男子寮まで、来させてしまって」
「いいえ。こちらこそ、お邪魔になってはと思ったのですが……」
空になったグラスをまた受け取りながら返したテアは、それ以上続けなかったものの、言葉にしなかった続きは明白で、ディルクはそれが嬉しかった。
「心配をかけた。……お前にうつさないと、良いんだが」
「今は人の心配より自分の心配をする時ですよ。さ、まだ寝ていてください。その方がいいです」
テアに肩を押されて、ディルクは苦笑しながらも素直にそれに従う。
「……お前は、学院に戻らなくてもいいのか」
「はい。ライナルトから、ディルクが逃げないようにと監視の役も仰せつかっていますし」
「……あいつは大げさなんだ」
「そんなことはありません。たまにはゆっくりすべきです」
「そんなに忙しなくしているか、俺は?」
「……そうですね、少し」
躊躇いがちに、テアは肯定した。
その返答にディルクは黙って目を閉じ、また開く。
「……少し焦っていたことは、否めないか」
「焦る?」
「卒業まであと一年、だからな。夢が現実味を帯びてきて、楽しくて止められないというのもあるが……、それなりのものとして出発しようとしているから、いくら時間があっても足りない。早く、早く形にしなければと……」
もどかしそうに、ディルクは眉を寄せた。
その気持ちはテアにも分かるような気がして、けれどそれにしてもディルクが思い詰めたような表情を浮かべていることが、気にかかった。
「……それならなおのこと、普段からきちんとした休養をとらないといけません。こうしてダウンしてしまったら、余計にロスが大きくなるだけです」
だから、テアはわざとらしく、重々しく注意する。
それはディルクに伝わったのか、「その通りだな」と彼は笑って頷いた。
「今後はもう少し気をつけることにする」
「お願いします。……また、眠られますか?」
「あまり寝過ぎるとまた悪い夢を見そうだ……」
「夢を?」
「そんなに心配そうな顔をするほどのものじゃない」
口を滑らせたかと、ディルクはあえて軽く言った。
そう、大した夢ではないのだ。
自分に言い聞かせるように、ディルクは心の中で呟いた。
いつも見る悪夢の一つ。
もういない人物の宛名が書かれた手紙が降り注ぎ、それに囲まれる夢だった。
白い封筒に、視界が利かなくて。
たったひとつ、それ以外に目に映るのは、輝く玉座。
そこに座れと、赤い唇が囁くのだ。
けれどディルクは首を振る。
何故なら彼は、知っているからだ。
見えないだけで、この外には広い世界が広がっていることを。
大切な人たちが、いてくれることを。
だからディルクは何とか手紙をかき分け、外に出ようとする。
外からも手を伸ばしてくれる人がいて、ディルクはその手を掴もうと必死になった。
だがその手紙が、その手を傷つけて、邪魔をする。
それでも、伸ばしてくれた手のひら。
その向こうに見えた、優しい微笑みの持ち主は……。
「――テア、」
だから、先ほど掴んだ手が白かったことに、ディルクは安堵した。
無事なテアの姿が、泣きそうなほどに、嬉しかったのだ。
「だが、もし良ければ、手を握っていてくれないか」
「え……」
「そうしたら、悪い夢も見ずに眠れる気がするんだ」
そのディルクの微笑に、テアは息を呑んだ。
甘く、甘えるような、それ。
「この手で……良いのでしたら、いくらでも……」
この手が良いんだ、とディルクは口にはせず思って、差し出された手を握った。
躊躇いがちに握り返してくるその温もりが、愛しかった。
「ありがとう」
ディルクは目を閉じた。
今度は夢は見なかった。
ただただ優しい眠りが、彼を包み込んだ。
翌日には、ディルクはすっかり元気になっていた。
『お前は、女生徒を、男子寮に入れて……!』
『だが特効薬だっただろう?』
『……』
という会話を、完治したディルクとライナルトが交わしたことを、テアは知らない。
知らずにいられて、良かったのだろう。
あれから試験前にも関わらずディルクはまた動き回っていて、けれどやはり懲りたのか、睡眠と栄養には以前より気を配るようになったようだ。
そのためテアとディルクは学院にいてもすれ違うことが多かったが、食堂では度々席を共にした。
ディルクが元気でいてくれるならそれで十分で、会う頻度はこれくらい少ない方が好ましいと、今のテアは思う。
ディルクがテアに向けて微笑む度に、あの日に見た甘い笑顔と重なって、平静を保てなくなりそうだからだ。
自惚れそうになっている自分を、テアは自覚していた。
同時に、自分の想いが相手に伝わってしまっているのではないかと、恐れた。
あの時口にしそうになった言葉を、テアは必死で胸の奥に詰め込んでいる。
近くにいればいるほど、またそれが溢れ出してしまいそうだった。
だから、試験が終わって、長い夏休みに入ることを、テアは歓迎している。
そう、今は既に、七月。
季節は夏に移り変わって、白い制服も薄手の半袖だ。
「今日はまた暑いですね」
「そうだなー。でもまだクンストは涼しいぜ。もっと暑いとこにも行くから、今から覚悟しとけよ」
学院が夏休みに入ったその日、テアはエンジュと共に列車に乗るため、駅に来ていた。
国際コンクールへの参加を決めたテアは、師であるエンジュと共に隣国へ向かうのだ。
それが終われば、エンジュの演奏会等々、様々な場所へ赴く予定である。
きっとあっという間に過ぎていくだろう日々を、テアは楽しみにしていた。
さすがに今回はエンジュと二人だけというので、護衛(表向きとしては二人の付き人)を一人つけることをテアは了承していて、ローゼの選んだ女性が、二人につき従うように続く。
彼らを見送るために、ディルク、ローゼ、ライナルト、フリッツも駅に集まっていて、
「頼みましたよ」
と、その駅でしつこいくらいローゼは護衛である女性に念を押していた。
さすがにブランシュ家の後継ぎが長い時間他国へ足を向けて、単なる平民(ということになっているテア)と行動を共にするのは目立ち過ぎるし色々と問題がある。
ローゼ自身も領のことがあるから、泣く泣くテアについていくのを諦めたという経緯があった。
駅のホームは、旅立つ人と見送る人とで溢れている。
その中で、テアは四人にかわるがわる気遣われていた。
「身体には気をつけて」
「無理をしちゃ駄目ですよ」
「ちゃんと食べて、」
「ちゃんと寝ろよ」
それにエンジュはテアとともに苦笑し、「お前らはテアのかーちゃんか」と突っ込む。
それに一緒に苦笑していた護衛の女性は、先に荷物を持って席へ向かった。
やがて時計を見、エンジュはひょいと空いたドアから車内に飛び乗る。
「そろそろ行くぞ」
「はい」
テアは頷き、腕を広げたローゼと軽く抱擁を交わし、エンジュに続いた。
「――テア」
最後に彼女を呼んだのは、ディルクだ。
どきりとしながら、テアは振り返る。
「はい、」
「また、九月に、学院で」
「はい――行ってきます」
再会の約束に、笑顔でテアは応じた。
例え距離は離れても。
あの日の約束があるから、無暗に怯えずに、彼女は強くいられた。
そして、出発の笛が鳴る。
「応援している」
「頑張って」
と口々に言ってくれる友人たちに手を振るテアを乗せ、列車は動き出す。
きらきらと夏の太陽は輝いて、そんな彼らを照らしていた。