真実 13
「ディルクは……、どうして、ここまで?」
テアとディルクは、ゆっくりと街に向けて歩き出していた。
別荘地を往復するためだけにあるこの道は、他に人もいない。
馬車に追い抜かれることもすれ違うこともなく、辺りは静かだった。
時折、木々が風に葉を揺らされる音と、鳥の鳴き声が耳に届く。
そんな二人だけの空間で、テアはそう切り出した。
テアが問うのは、ディルクがここに来るに至った経緯である。
それを過たず聞きとって、ディルクは答えた。
「エッダが教えてくれてな」
「え……」
テアにとって、その名前が出てくることは少し意外だった。
「彼女がお前に、ハインツからの手紙を渡したのだろう?」
「そうです……」
「エッダ自身も脅されて仕方なくだったようだし、気にしていたのだろう。使用人同士の繋がりもあって、フリッツの軟禁を知ったという話だ。それで彼女が間に入って、フリッツが俺に協力を求めて……ここに」
「そう……だったんですね。フリッツのことは、私も気になっていて……、軟禁の事実は割と直前に知ったのですが、けれど、それならばその方がいいと思っていました。フリッツにも、逃げ道は、多い方がいいと……」
「そうだな」
「……でも、すぐにフリッツの解放を考えなかったのは……、怖かっただけかもしれません」
「怖い?」
「……フリッツが外に出ることを許されなかったのは、知ってしまったからだと……、その理由しか考えられなかったし、実際そうだったのでしょう。ハインツ卿が口にしたことは嘘ではありません。私が周囲を欺いてきたのは事実です。だから――」
「それは違う」
遮るように、ディルクはテアの言葉を否定した。
立ち止まり、まっすぐな瞳で彼は告げる。
「欺いてきたのではないだろう? お前は……、守ってきたのではないのか? だからこそフリッツはそんなお前を守りたくて――兄に立ちはだかったんだ」
あまりにもまっすぐで、眩しく感じる。
テアは目が眩んだように、俯いた。
「ディルクは……、二人から、聞いたのですか、」
「いや――」
え、と思ってテアは顔を上げる。
「二人とも、何も言わなかったよ。俺もそれでいいと思っていた。お前が無事であってくれさえすれば」
「ディルク……、」
「なあテア、だから無理に話そうとしてくれなくてもいい。正直、知りたくないわけではないが――俺にとっては、お前が隣で笑ってくれていることの方が、重要だ」
この人は、どこまでも自分を甘やかす気なのだ。
眩む頭で、テアは責めるようにも、そう思う。
けれど、それに甘えるだけなのは、嫌だった。
「――話します」
「テア、」
「きちんと、話しておきたいんです。フリッツも、ディルクも……、私を信じて、ここまで、来てくれた。私はそれに、報いたい。本当は誤魔化したくなかった。胸を張って、言いたかったんです。母のことも――父のことも」
「テア……」
「聞いて、くださいますか?」
「――ああ」
ディルクは今度こそ止めずに頷いた。
「だが……、そうだな、お前にばかり話をさせるのも何だから、先に少し言っておこう」
「?」
「俺は確たることは何も聞いてはいないが、ハインツがエッダを利用したと知った時点でひっかかってはいた。オイレンベルク家の人間を巻き込むより他の生徒を使った方がリスクは低いはずのに、何故彼女だったのか……」
「ああ……、」
「ハインツの目的を知ってしまえばそれも理解できた。お前の口から『カティア』という名前は聞いていたし――、それに陛下の動きを知ってしまえば、答えは一つだ。フリッツも、答えを言っていたようなものだったしな」
「ええ……、そうです」
テアも否定せず、肯定を返す。
ディルクの方からこうして告げてくれるのは、彼の気遣いの表れだった。
テアは躊躇わず、こう続けることができる。
「私の母は――昔、こう呼ばれていました。『カティア・フォン・オイレンベルク』と」
やはりと、ディルクはテアの言葉を聞いていた。
「家を出てからそう名乗ることはなく、ただの『カティア』で通していましたが……。本当は、こう名乗りたかったのだと思います。――ベーレンス、と」
「……それは――」
「私の父は、」
テアはどこか泣きそうにも見える、そんな表情で、大切そうにその言葉を口にする。
「ロベルト・ベーレンスです」
それをテアが知ったのは、一年前のことだ。
まだ一年しか経っていないのかと思えば、とても不思議な感覚になる。
もっとずっと前から、知っていた気がした。
どんな表情を浮かべるのか、その仕草、話し方……。
全て、母が話してくれたから。
唯一、その人について知らなかったのは、名前だけだった。
それをあの晩、知ったのだ。
月の明るい夜だった。
それを優しいものと、あの時のテアは感じなかった。
母が亡くなって、一年。
一つ、年をとった。
身長も少しだけ、伸びた。
テアは生きていて、月日を重ねている。
それなのに、母はもう年を重ねることもない。
笑顔を浮かべることも。
歌を歌うことも、ない。
不在のまま、変わらない。
そう、思えば。
気が狂ってしまいそうだった。
いくらピアノを奏でても。
一年という月日を経ても。
冷たかった白い手を、動かない細い手を、鮮明に思い出した。
心には穴が開いたままで、冴え冴えとした月の光は、その虚ろをナイフのように抉り、絶望を深く大きくした。
――お母さん、お母さん、お母さん……。
どうして返事をしてくれないの。
何度も何度も、呼び続けているのに……。
――私のせい、だから……?
ああ、そうだ。
あの時の傷が原因で。
どこまでも自由に駆けてゆきたいと、無邪気に笑う人だったのに。
私を庇って、その背中は朱に染まったのだ。
この地から、離れられなくなってしまった。
目を、閉じたまま。
冷たくなってしまった。
私のせいだ。
償いを、すれば。
また、会える?
――それなら、彼らを壊しに行こう。
それが私の、償い。
母を追い詰め傷つけた、彼らに報いを。
彼らと共に、償おう。
そして、会いに行こう。
母に、会いに行こう……。
テアは邸からナイフを一本持ち出した。
服はそのままで、あとは、一年前から手放すことなく持っている懐中時計が一つ。
それだけで、彼女は野に放たれた獣のように、邸を出た。
そこで、出会った。
「――カティア!?」
その時呼ばれた名前がそれでなければ、テアは振り向かず目的地へ向かっていただろう。
だが、呼ばれた名が「テア」ではなく「カティア」だったから。
テアは、振り返った。
宵闇の中に、一人の男性が立っていた。
「カティア……? いや、違う? 君は……」
茫然とする男の手から、銀色の何かが零れ落ちる。
音を立てて落ちたそれは、懐中時計だ。
落ちた拍子に、蓋が開いて……。
彼は慌てて、大切そうにその懐中時計を拾い上げた。
けれど、それより前に、暗闇に慣れたテアの目は、それを認めていた。
「……おな、じ……?」
呟きが、零れる。
茫然と目を見開くのは、今度はテアの番だった。
身に着けた懐中時計の存在を、その手が確かめる。
それは確かにそこにあった。
母の形見の、懐中時計。
父と揃いの一対なのだと、それだけは決して手放さなかった母のことを、思い出す。
互いのイニシャルを蓋の中に彫り、切った髪を交換してそこにおさめたのだのだと、幸せそうに語っていた。
「ど……して……」
ナイフが地面に落ちて光った。
テアは男に近付いていく。
ゆっくりと。
その間に、滂沱と涙が彼女の頬を伝った。
「どうして……! 今になって……!」
悲痛な叫びが、喉から漏れる。
どん、とテアは男の胸を叩いた。
男はそれを避けようとしなかった。
彼はその言葉に立ち尽くし、その拳を受け止めた。
「もっと早くに……、来てくれていたら……っ!」
会いたいと、ずっと願っていたのは母だった。
それなのに、どうして今なのだ。
泣きじゃくりながら、テアは何度も男に拳をぶつけた。
やるせない思いで、何度も、何度も――。
「筋違いの非難でした。何も言わずに消えたのは母の方で、会いたいと願ってくれていたのはあの方も同じだったはずなのに……。あの方は今でも私を責めません。それどころかあの後、私を引き取りたいと申し出てくれました。それに頷くことは、できませんでしたけれど……」
「そう、だったのか――」
もしやと、思っていたが。
本当にそうだったのか……。
ディルクは溜め息を吐くように、ゆっくりと歩を進めながら、頷いた。
「一年前と言えば……、あの女性はまだご存命だったな」
「ええ――」
口には乗せないものの、二人が浮かべる名は同じものだ。
オイレンベルク家前当主の妻である女性。
現当主やカティアの母親であり、テアの祖母でもある女性。
彼女はもともと貴族といっても下級の生まれだった。
だが、己の才覚で四大貴族当主となる人物に嫁いだ女傑だ。
上昇志向で、プライドの高い女性だったらしい。
恐れていたのは、昔のように落ちぶれてしまうこと。
体面をとても気にする人だったともいわれる。
そんな人が、娘と平民が結ばれるのを歓迎するはずもなかった。
彼女に知られれば、ロベルトに未来はない――。
生まれてくる命も、きっと許されない――。
実の娘のカティアだからこそ、母の神経質さをよく知っていて、だから逃げたのだ。
実際に、彼女の追跡は執拗で、残忍だった。
その人となりをテアは聞くばかりで本当のところは知らないが、ずっと追いかけられてきた、その相手のやり方は知っていた。
何よりも――一度、オイレンベルクに捕まってしまった時。
テアに刃を振りかざしたのは、その女性だった。
その鋭い刃は、テアではなく、テアを庇ったカティアを傷つけた……。
「だから私は……必要以上にあの方に近づいてはいけないと思いました。後援者に、というのも本当は遠慮したかった。この名前を、名乗ることも……」
母と同じように、彼まで失うわけにはいかなかったから――。
「けれど、結局押し切られてしまいました……。おじさんと、学院長と、陛下と、三人に太刀打ちするのは難しくて……」
憮然としてテアは言った。
ディルクはそれに少し、笑う。
「それはそうだろうな。……ロベルト氏が二人に相談を持ちかけたのか?」
「そうです。私はブランシュ領でこのままでも構わないと言ったのですが……。おじさんは、オイレンベルクの、彼女のやり方は間違っていると。私は、やりたいことをして、堂々と生きるべきだと……。それが母も喜ぶことだと言って……。嬉しかったです。怖かったけれど、嬉しかった。音楽を、学びたくて、もっとたくさんの音を、聴いて、奏でたくて……、私は結局抗いきれませんでした」
「ロベルト氏の言葉は正論だな。だがそれだけでは入学まで踏み切るのは難しかったろう。ブランシュ領から出てしまえば――」
「はい……。そこは、陛下がオイレンベルクとの仲介をしてくださいました。彼女本人とでは表面上の約束だけで終わってしまうかもしれないと、主に取引の相手は現当主でしたが……。驚いたことに、彼は当主でありながら母親のやっていたことをほとんど知らなかったのです」
皮肉っぽい笑みを、テアは浮かべた。
「ですが、オイレンベルクでは既にずっと前に亡くなったことになっていたカティアの事実には、ひどく打ちのめされたようで……。母は病弱で隔離されるように育ったため、会う機会も少ない兄妹だったようですが、それでも兄として気にかけてくださっていたようです。私がシューレ音楽学院で学ぶために尽力してくださると、約束をいただきました。私の背景は秘匿する、という条件で……。現当主とあっては、オイレンベルクの名を汚すことになるかもしれない私のことはやはり、知られたくなかったのでしょう。彼女の行動も……公になればそれこそ非難の的でしょうから」
「だが……いささか心許なく感じられる『約束』だな。書面に残すにしろ、陛下にしてはやり方が温いように思うが……」
「さすがですね、」
隣で歩いていたディルクには、その時のテアの表情は見えなかった。
彼女は……、滅多に浮かべることのない冷笑を、その口元にはりつけていた。
彼女が笑ったのは――、「あの時」のオイレンベルク家当主の顔を思い出したからだ。
当主が母のことを気にかけてくれていたのは、本当だろう。
だがそれくらいのことで、テアがオイレンベルクを許すはずがない。
彼女の憎悪は、普段は全く表に出てこないが、誰が思うよりも深く、強く、止まるところを知らないのだった。
気にかけていた、と。
それならば、母を助けてほしかった。
ずっと見ないふりをしていた男の免罪符が、それだけで足りるわけがない。
「……先代の治世の話になりますから、少し時代を遡りますが……、オイレンベルク家はどうやら、謀反を企んだことがあったようなのです」
「まさか――その証拠が、今も?」
「陛下も偶然見つけることになったらしいのですが……。謀反人たちのグループで、裏切り者を出さないために署名した書類がそのまま残っていたという話です。そこに、当時のオイレンベルク家当主の名もありました」
「それは……迂闊としか言いようのない物証だが、これ以上ない切り札だな」
「こちらとしても下手に公開して四大貴族のバランスを崩すわけにはいかないので、そこまで強いものとも言えませんが、あちらの生命線であることに変わりありません。謀反を起こす前に擁立するはずだった人の方が亡くなってしまったらしく、実行には至らなかったようですが、関わりない現当主にとっては災難以外の何者でもない署名ですね」
「だがおかげでお前はシューレに、か……」
「だからといって、謀反を起こしたオイレンベルク家の人間に感謝をしようなどとは露ほども思いませんが」
厳しいというより、きつい、テアの言葉だった。
先ほどから言葉の端々に滲み出ている、オイレンベルク家に向けるテアの感情が、ディルクにはよく分かる。
だから、諌めることも考えない。
憎悪だけなら、単純なのに。
そこが、彼女のルーツであり、彼女の母親が少しでも愛情を残した場所であるのならば……、それだけでは割り切れない思いも、渦巻いていることだろう。
それは、よく、分かった。
それはディルクも同じ、だから。
「ですが……約束も、いつか終わる日が来ます」
「お前がシューレを卒業する日、か」
「もしかしたらそれよりもっと早いかもしれません。彼女が――亡くなりましたから」
それは、ディルクも知っていた。
オイレンベルク家当主の母親は、先月息を引き取った。
それはテアにとって、長らく待ち望んだ瞬間だった。
人の死を望むことなど、テアとて本来ならしたくない。
けれど、オイレンベルクだけは……。
どうしても、駄目だった。
誰に軽蔑されても、その死を喜ばないことは、できなかった。
そう、テアはその報に喜んだのだ。
己の歪みに自嘲を覚えながらも、テアは暗い歓喜に浸った。
それこそこの時がもっと早ければと、そんなことすら思った。
母に、自由な時が許されただろうと、それを思った。
「私たちは……、私のことを公にするつもりでいます」
「……!」
「もちろん、ハインツ卿とは異なるやり方で――。ほんの少しだけ、事実を捻じ曲げることにはなりますが……」
「先ほど陛下が仰った『記者』とはそういう意味か……」
「そうです。公にしてしまえば、それはそれで大変でしょうが……、ずっと隠し続けて、オイレンベルクの影に怯えるよりはずっとましです。私は、この負の繋がりを断ち切りたい……。それも、おじさんや陛下の尽力なしにはできないことですから、二人にはいくら感謝をしてもし足りません」
「ロベルト氏はともかく、陛下も、か……」
複雑な微笑で、ディルクはテアの言葉にそう、ひとりごちた。
昔、エッダがディルクの婚約者候補だったように。
カティア・フォン・オイレンベルクが現皇帝の皇太子時代の婚約者候補の一人だったことは、知る人ぞ知る事実である。
オイレンベルク家は外交関係で特に力を伸ばしてきた一族で、現当主の他の二人の姉妹は他国に嫁いでいた。三番目に生まれたカティアが、生まれる前から女児であったら将来の皇帝にと考えられていたのだが、結局邸から出ることも叶わないような病弱な体の持ち主だったため、その話はなくなってしまったのだ。
しかし、どういう気まぐれでか、皇太子の身分であったアウグスト・フォン・シーレが度々カティアのもとを訪れていたことを、ディルクは知っている。
"彼女"が教えてくれたのだ。
アウグストは、カティアのことを恩人だと、そう告げたのだと言う。
彼が最も愛する人物と引き合わせてくれたのがカティアだったのだと……。
だが、だからこそアウグストはカティアの元へ行くことを控えた。
それ故に気付かなかったのだろう。
カティアがオイレンベルク家から出奔したことを、知らないままだったのだろう。
オイレンベルク家も、皇帝には必死になって隠そうとしたはずだ。
やがてオイレンベルク家はカティアを死んだものと偽った。
その一報を受け取った時のアウグストの様子を、ディルクは覚えている。
その時に"彼女"に、その事実を聞いたのだ。
そして一年前――、アウグストは真実を知り、何を感じたのだろうか。
ディルクはその心中を慮った。
一方で、カティア・フォン・オイレンベルクという人の気丈さに感じ入った。
彼女は頼ろうと思えばアウグストを頼れるはずだった。
ブランシュ家にいる時もそうだ。
本来ならモーリッツはそれを皇帝に報告すべきだった。
それをしなかったのは、カティアの強い希望があったからだろう……。
何故、彼女はその道を選んだのか。
理由はいくつか、考えられる。
オイレンベルク家も、それを最も警戒して何としても阻止しなければならないと考えていただろう。
カティアも、背を向けても、育った家にこれ以上の仇で返すわけにはいかないと思っていたかもしれない。
それより何より、カティアは、テアに自由を与えたかったのではないか……。
そして、ロベルト・ベーレンスという人を、彼女は何よりも守りたかったのだ――。
ディルクはそう、思う。
彼女はそこまでして、一人の男を愛したのだ。
それがロベルト・ベーレンスであったとは、何という運命の不可思議かと、感じられる。
ロベルト・ベーレンスを見出し、学院に導いたのは、アウグストなのだ。
劇場の片隅で働いていたみなしごのロベルトを、たまたまアウグストが見つけ出した。
そのロベルトが成長し、楽団を立ち上げ、カティアと出会い――。
テアが、生まれた。
そして、そのテアと、ディルクが、今こうして並んで歩いている……。
「――その時が来て、」
ディルクはその奇跡のような運命を噛みしめながら、また一歩踏み出す。
「俺にも何かやれることがあれば……、協力させてくれ」
「ディルク……」
「話してくれて、ありがとう。その時までは決して口外しないと誓おう」
「そんな……、私の方こそ、いくらお礼を言っても足りないくらいです。今日、ディルクが来て下さらなかったら――」
言いかけて、思い出してしまう。
テアが思わず唇を噛んだその時、二人の不意を突くように強い風が吹いた。
「あ……、」
羽織っていた上着が飛ばされそうになってテアが声を上げるのに、一瞬遅れるようにして、ディルクがその肩に触れてそれをとどめる。
風が落ち着いてほっとしたテアだが、焦ったようにディルクがその手をとった。
「テア、怪我を……!?」
しまった……、とテアは思った。
指先が、かすかに赤く染まっている。
それは紛れもない、血であった。
だが、指先を怪我してしまったわけではない。
それならばテアとてもっと取り乱していただろう。
ピアノを弾く指を、怪我したとあれば。
そうではないから、テアはただ、ディルクにまた心配をと、それを思った。
「大丈夫です、ディルク……」
テアは言った。
言いながら、無意識に、片手でまた上着をかき合わせる。
その動作の示すところに、ディルクは気付いた。
気付かれてしまったことに気付いて、テアは上着を握っていた指を震わせる。
「ディルク、」
「テア、こっちに」
有無を言わさず、ディルクはテアの手をとったまま、彼女を木陰に誘った。
ほとんど通行がないとは言え、誰にも見られたくなかったのだ。
「水があるから、」
ディルクは戸惑うテアの前で、持ってきていたバッグから小さな水筒を取り出した。
次いで、タオルにその中の水を染み込ませ、絞る。
それを、彼はテアに手渡した。
「これで拭くといい。……気付かなくてすまなかった。俺は少し離れているから、」
そう告げて背を向けようとするディルクの腕を、今度はテアが掴む。
ディルクがテアでなく自分を責める目をしていたから、テアは堪らなくなった。
「そんな風に謝らないでください。これは私が油断していたから……、」
「いや、もっと俺が早く着くことができていれば――」
「そんなこと……」
テアがぎゅっと、袖を握る力を強くする。
テアがまた泣きそうな表情になったから、ディルクは少し困って、彼女の髪を撫でた。
「……分かった。謝るのは止めよう。その代わりお前も、自分を傷つけるのは止めてくれ」
「はい……」
どうしても、嫌悪感が拭いきれなかったのだ――。
感触を消し去ってしまいたくて、テアは喉元に爪を立てていた。
傷跡で、赤いしるしを消してしまいたかったのだ。
消えたのだろうか。
少なくとも今は、己の血が滲んでいるから、少しだけ、安心できる。
それを拭い去ってしまっても、大丈夫だろうか。
跡はもう、消えている?
はっきりと、テアは頷けなかった。
もっと深く、大きく、傷を残して、消してしまいたい――。
「テア……、」
やがて、凍りついてしまったような様子のテアに、ディルクはこう、提案した。
「お前が……、触れられることを厭わないなら……、俺がその跡を消すことを、許してくれないか」
その言葉に、テアは顔を上げた。
ディルクはとても真摯な瞳で、テアを見つめている。
躊躇を、あまり感じずに。
「――消して下さい……」
囁くように、テアはそう告げていた。
その返答に動揺したのはむしろ、ディルクの方だった。
彼女は首を横に振るだろうと思った。
その時こそ、布で清めるように諭そうと思っていた。
けれど、彼女が望んだのは……。
ディルクは包み込むようにして、首元を隠していたテアの手をそっとよけた。
テアの抵抗はなかった。
わずかに滲む血が、痛々しい。
テアに止められても、ディルクは自分を責めるのを止められそうになかった。
テアを傷つけたあの男には、もっとしかるべき報いを与えるべきだと怒りが再燃した。
だが今はそれよりも――目の前にいるテアこそが、もっとも大切だった。
「……っ」
白い肌に、ディルクは口付ける。
その感触に、テアは肩を揺らした。
あの男に触れられた時のような嫌悪感は全くなかった。
その忌まわしい記憶さえ、甘美な痛みに、全て、消されていくようで。
彼から与えられる熱を受け止めるように、テアはその背に手を伸ばした。
木立の中に、二人の影が伸びる。
それは、一つに重なったまま、しばらくの間、動かなかった。