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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第10楽章
105/135

真実 11

話の後半に若干の暴力的・性的描写を含みます。

苦手な方はご注意ください。





その日の朝、ディルクはいつもより随分早くに目覚めた。

ようやく今日という日になったという思いで、しかし焦る気持ちを抑えるように、彼はいつも通りジョギングに出、戻ってくると食堂にはいかず簡単に食事を済ませ、出掛ける支度をする。

「……それでは、行ってくる。後は頼んだ」

「ああ。気をつけてな」

ライナルトと互いの健闘を祈り、ディルクは寮を出た。

まずはフリッツと上手く合流できるか、と懸念していたが、予想以上に早くディルクはフリッツの姿を見つけた。

途中までは馬車を使った方がいいか、と考えている内、辻馬車が停まっている近くにその姿があったのだ。

「フリッツ」

ディルクは無事なその姿にほっとしながら、辺りを窺っている様子の彼に声をかけた。

近付いてくるディルクに、フリッツは最初、警戒するような眼差しを向けてくる。

それは、見知らぬ他人に向ける目だった。

だがそれもすぐに揺らぐ。

「……もしかして、ディルクさん?」

フリッツの声が戸惑うような、疑わしげなものであるのは、無理もないことだった。

ディルクは、寮を出る際に変装していたからだ。

髪型とその色を変え、簡単な化粧をし、普段とは異なるカジュアルな服装をしていれば、随分と印象が変わる。

学院の生徒が見てもすぐには分からないくらいには、ディルクは別人だった。

「ああ」

「なんで……って、聞くのは、愚問ですね」

「まあ、念のためな。監視に付いて来られては困るだろう」

「監視……、やっぱり、ディルクさんにも……、」

険しい顔になるフリッツの肩を、宥めるように軽くディルクは叩いた。

「時間にはまだ余裕があるか?」

「大丈夫だと思います」

「それなら一度馬車にでも乗って落ち着こう。逃げ出してきたのなら、追手がかかっているんじゃないか?」

「そろそろ……、気付かれてもおかしくない時間、ですね。分かりました。目的地にも少しでも近付いておきましょう。行きながら、事情を説明します」

「ああ」

その前にと、ディルクはバッグの中から取り出したウィッグをフリッツの頭に乗せた。

「……あの、」

「これだけで随分変わってくる。かぶっていた方がいい」

「……どうしてこんなものを?」

わざわざ買ったのか、と思ったフリッツだが、ディルクは笑って言った。

「こういう時に必要だろう?」

「はぁ……」

澄ました顔のディルクと腑に落ちない顔のフリッツは、近くの馬車をつかまえた。

フリッツの兄がいるであろう、もう一つのベルナー家別荘の方向へと、ゆっくりと馬車は進み始める。

「……大変だったようだな」

「僕なんか……、全然」

フリッツは苦笑して首を振る。

「それより、急なことだったのに、来てくれてありがとうございました。ちゃんと落ちあえるかどうか心配だったけど、あそこで待っていて良かった……」

「お前のところの別荘に行くには、いずれにしろあそこを通るからな。判断は正解だ。だが、どうやって抜けだしてきたんだ?」

「抜け道があって……、何とか見張りに見つからずに」

何でもないように答えるフリッツの頬はしかし、一週間という時間の中で細くなっていた。

食事はきちんととっていたにも関わらず、顔色が悪く見えるのは、昨晩からの冒険のせいというより、一週間分の心労がたたっているのだろう。

「……お前がそこまでするほどのことが起こっているのだな」

「――はい」

確信に迫っていこうとするディルクの台詞に、フリッツはどこか泣きそうな表情で、頷いた。

「……ディルクさんは、どこまで、」

がたがたと揺れる音で御者には聞こえないだろうが、声を潜めながらディルクは昨日エッダから聞いた内容を簡潔にフリッツに話す。

「兄さん、エッダにまで……。学院にもそんなに手を出してたなんて……。いや――それくらい、するか……。兄さんなら……」

それならばあの手紙のやりとりは、彼女にとっても危険だったはずだ、とフリッツは思い当たった。

それを顧みずに手を貸してくれた彼女に、フリッツは頭の下がる思いでいっぱいになる。

「お前の兄は、そこまでして一体何をしようとしているんだ?」

フリッツが苦しい思いをしているのは分かっていたが、聞かずに済ませるわけにもいかず、ディルクは問う。

だが、フリッツとしてもそれは話さなければならない問題で、ディルクから聞いてもらえるのは逆に有り難いことだった。

「……兄さんは、」

それでも、ディルクの前でこの話をするのには、大変な勇気が必要だった。

「……テアに、その、プロポーズ、していて……。今日がその、テアに返事をもらう日なんですけど……、テアの意思なんて関係なく、兄さんは何が何でも、テアを手に入れるつもりでいるんです」

「なんだと?」

ディルクの声が険を帯びた。

フリッツは肩を揺らし、ディルクの顔が見られずに俯くが、それでも続ける。

「そのためにテアの弱みを握って、脅して……無理矢理従わせようとしてる。学院に監視をおいたのも、テアが助けを求めて他人が妨害してくるのを避けたかったんだと思います。僕を閉じ込めたのも同じ理由です」

「それほどまでに、テアを――。だが、それは……」

「そうです。兄さんは多分、テアを愛しているわけじゃない。むしろ憎んでいるみたいに見えました。兄さんの考えていること、ちゃんと分かっているとは言えないし、そんな風に簡単な言葉で言えるのかも分からないけど……」

厳しい目で、ディルクはフリッツの言葉について思案した。

ハインツの真意は彼に直接尋ねでもしなければ実際には分からないが、やりすぎの感は否めない。

学院に手を出しただけでも咎められるのは必至だというのに、そのリスクを負ってまでテアを欲しいと望むのか。

――彼にとっての邪魔者の、その力を警戒している、か。

邪魔が入れば確実に彼の計画は頓挫する。

彼にとってそのリスクを負うことは、避けられないことだったのかもしれない……。

ディルクが持っている、テアの背景についての疑惑が確信に近付く。

いずれにしろ、それを実行してしまえるということは、ハインツの思いは深く根強いということだろう。

だが、何故、テアなのだろうか。

何故、彼女ばかりがこんな風に傷つかなければならないのか。

ディルクはきつく拳を握り、やり場のない思いをそこに込めた。

「――目的地は、別荘地の方だな」

「は、はい」

ディルクが切り出した内容は、話の流れの中で唐突で、フリッツは困惑しながら首肯する。

「正面から乗り込んでも追い返されるのがオチだろうが、どうするつもりでいる?」

「あ、はい、隠し通路を使おうと思ってます。味方についてくれた人が、あっちの別荘の図面をくれて……。ただ、兄さんなら警戒して見張りを置いてると思うんですよね」

「そうだな……。だが、その通路を使うのが良さそうだ。見張りは何とかしよう。時間は?」

「昼過ぎ、なので、十分間に合うと思います」

「分かった」

厳しい雰囲気ではあるが、フリッツの目にはディルクが落ち着き払っているように見えて、それが逆に不気味に思えた。

「……フリッツ、お前は、テアの『弱み』を――、知っているのか?」

静かに問いかけられ、フリッツはどきりとする。

「……兄さんの口から、聞くだけは聞いちゃったんですけど……、でも、兄さんの言葉が本当なのかは、」

「だが、それを信じたからこそお前は俺に助けを求めた」

責めるでもない眼差しを向けられ、フリッツは頷くように俯いた。

「……ディルクさんは、テアから?」

「いや、俺は何も聞いていない。今回の件に関しても、人から聞くばかりだ」

「え……」

「俺は何も知らないんだ。ただ、こうかもしれないと思っていることがあるだけでな」

「僕、」

「分かっている」

ディルクは仄かな微笑を見せた。

「……先ほどは言わなかったが、既に陛下は動いておられる」

「えっ」

フリッツは目を丸くする。

「俺が何をする前からな。学院では既に間諜のあぶり出しが始まっている。今日に関してもおそらく何か策が打たれているはずだ。どういう手筈かは知らないが」

「それって……、」

「俺は俺としてここにいる。だから、もしこの手が必要なければ見守るにとどめるつもりだ。だからこそ隠し通路でという手段は最適とも言えるわけだが……。お前はどうする?」

「――行きます」

フリッツの返事は、即答に近かった。

「僕にできることなんか限られてるけど、それでも時間が経つのをただ待ってるだけなんてできないから」

ディルクはその答えにただ、頷く。

フリッツの覚悟は確かなものとしてあって、それ以上言葉を重ねることは無粋だった。

「では、行こう」

テアを守りたい、その思いで二人は進んだ。






時間だ。

懐中時計の針が予定していた時刻を指すのを認め、テアはその蓋をそっと閉じた。

もう一度身支度を確認し、最後にその時計をしまう。

ローゼは既に出ており、寮の部屋に彼女は一人だ。

よし、と頷き、テアは一人の部屋を出た。

先日はかなりの余裕を持って出たが、今日の出発はぎりぎりである。

それをハインツはどう捉えるだろうか、とテアは思った。

躊躇いと見てくれるなら、幸いだ。

その理由も確かに存在するが、出掛ける時間を先週より遅らせたのは、時間稼ぎのためだった。

今日テアがしなければならないことは、それに尽きる。

周囲の者たちが動いてくれている、その時間を少しでも増やし確実に彼の望みを断つために。

こういうことを周囲に任せるばかりなのはテアの性格ではあまり気が進まないのだが、仕方がない。

それに今回のことは、テアの個人的な問題では済まなくなっている。

事が計画通り運ぶように思いながら、テアは先週と同じ道を辿り、迎えの馬車に乗って、再びベルナー家の別荘に足を踏み入れた。

その、応接室。

ハインツ・フォン・ベルナーは、悠然と彼女を待っていた。

「お待ちしていました」

彼は微笑んでテアを迎え入れる。

優しげに細められたように見える目はしかし、テアには彼女を射竦めるようなものに感じられ、さらに部屋の中に踏み出すのに躊躇を覚えた。

それでもゆっくりとテアは部屋の中へと進み、勧められるままソファに腰掛ける。

「……とても良い天気ですね。昨晩の月も、美しかった。ご覧になりましたか?」

ハインツは穏やかに口火を切った。

「……はい」

「昨晩のような月の日には、それこそピアノを聴きたくなる。『月の光』――、カティアも手放しでほめていたことがありました。素晴らしい曲だと。是非あなたが奏でるのを聞いてみたいものです」

決められた台詞をなぞるような彼の言葉を、テアはじっと聞いていた。

それに対する彼女の返答は、ハインツの望むようなものではないと分かっていたが、テアはそれをはっきりと口にする。

「……あなたが聴きたいのは私の演奏などではないでしょう」

「何を仰る、」

「あなたが聴きたいのはただ唯一、カティアの歌なのではないですか。私は母とは違います。私の演奏に、あなたが満足されるとは思いません」

「――それが返事、というわけですか?」

「……はい。そうです――」

テアの言葉を聞いても、ハインツは微笑を保ったままだった。

嫌な動悸を感じながらも、これを曖昧にするわけにはいかないと、テアははっきりとした答えを示す。

「あなたが望むのは私ではないでしょう。その証拠に、あなたは一度も私の名前を呼ばない」

「……」

「私はカティアの人形にはなれません。求婚の話はお断りさせていただきます」

わずかの沈黙が、二人の間に降りた。

ハインツは軽い溜め息を吐いてみせ、足を組む。

そして、まるで聞き分けのない子どもに言い含めるかのように言った。

「……あなたの父親が、その結果不利益を被ることになっても構わないと仰る」

「先日も言いましたが、私は父親のことなど知りません。……ですが、母の選んだ人であれば、どんな窮地でも乗り越えられると信じています」

「麗しい親子愛だ」

その声には隠しきれない嘲弄が滲んだ。

テアは拳を握ったが、冷静であろうと努めて返した。

「……あなたの方こそ、カティアの名誉を傷つけるようなことになってもいいと言うのですか。あなたはカティアのことを大切に思っていたのではないのですか」

「ええ、そうですよ。大切に思っています。今でもね。ですが彼女はもういないのです。笑うことも、悲しむこともない。躊躇を覚える必要はないでしょう」

「それは、」

違う、とテアは言いたかった。

だが言わせずに、ハインツは続ける。

「何よりも、だからこそ、私は許せない。何も言わずに消えていった彼女のことが」

装うことを止めた彼の本音に、テアは息を呑んだ。

「彼女はあなたたちを選んだ。私が望むのはあなたではない、と言ったが、それは違う、テア・ベーレンス。私はあなたを望んでいる。あなたの贖罪を望む。私から彼女を奪った罪を、あなたは償わなければならないのだ」

分かっていたこととはいえ、覚悟していたこととはいえ、ハインツの言葉はテアの心に鋭く刺さった。

それは、テアがずっと自分自身に対して抱いていた思いと同じ。

――だからあの時、私は全てを消そうとして。

自分自身と、憎むべき敵と、全てを絶ってしまおうと思って。

だがその時に、出会った。

まるで、テアを思い止めるために用意されたような邂逅。

あれは、導きだったのだ。

だから、今も。

――私はこの人を、止めなければならない。

だが、そんなテアの思いを知ろうともせず、無情に男は告げる。

「――まずは情報を公にすることから始めようか」

「……!」

使用人が呼ばれ、出て行くのを、テアは見送るしかなかった。

「本当に実行するつもりなのですか? 全てが――壊れてしまうかもしれないのに……!」

「彼女の欠けた世界がどうなろうと構いませんよ。それよりも今は、ご自身のことを心配するべきですね。求婚を断られても――、あなたを手に入れる方法はある」

ハインツは立ち上がり、テアの方へと近付いた。

まずい、とテアの脳内で警鐘が鳴る。

テアは部屋のドアに駆け寄ろうとしたが、ハインツの動きの方が早かった。

テアの腕を掴み、床に押し倒す。

「何を……!」

「分かりきったことをわざわざ聞くのは感心しません」

ハインツは口元を歪ませた。

その端正な顔が近付いてくる。

テアは必死で顔を背けたが、男は執拗にその唇を追うことはせず、その白い滑らかな首筋に口付けた。

「やめ……っ!」

慄然として、テアは足による抵抗を試みたが、ハインツは見た目よりもずっと鍛えてあるのか、難なくかわされてしまう。

暴れたせいでテーブルの上のティーカップが倒れたが、誰も部屋に近付いてくる様子はない。

どんな抵抗をしても、腕の拘束は緩まず。

テアは唾を吐きかけてやったが、その代わりというように服の上から強く胸を掴まれた。

「……っ!」

「やれやれ、さすがブランシュ領育ちだ。小さな猛獣だな」

「離して……!」

睨みつけても、男は笑うだけだった。

吐息が鎖骨にかかり、背筋が粟立つ。

柔らかい肌に、痛みが走った。

起ころうとする事態に、恐怖が抑えきれない。

――嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……!

助けて、と祈るようにテアはぎゅっと目を瞑った。

「……ディルク――」

眼裏に浮かんだ面影の、その名前が思わず唇から漏れる。

その時だった。

「テア……!」

腕の拘束が消えた。

聞こえた声が信じられずに、テアは目を開ける。

そこには、紛れもないディルクがそこにいて。

次の瞬間には、その力強い温もりに、包まれていた。




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