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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第10楽章
104/135

真実 10



夜、である。

邸は、ひっそりと静まり返っていた。

「もうそろそろ大丈夫、かな」

無声音で呟いて、フリッツは暗闇の中ベッドから抜け出す。

彼の部屋の明かりを使用人が消していってから、もう結構な時間が経っていた。

使用人たちもそろそろ今日の仕事を終えて、ベッドに入りこんでいるはずだ。

余程大きな音を立てたりしなければ、フリッツが抜け出したことに、朝まで誰も気付かないはずである。

そう考えながら、フリッツはベッドに人が眠っていると見せかけるよう布団をふくらませた。

暗闇に慣れたフリッツの目は、カーテンの隙間から漏れてくる月の光だけで十分部屋を見渡せる。

閉じ込められている間に準備は十分に整えてあった。

静かに慎重に着替えを済ませ、フリッツは必要最低限のものを荷物として手にする。

――さあ、行こう。

意気込んでフリッツが向かったのは、部屋の書棚だった。

そのある場所がスイッチになっていて、押せばロックが外れて棚が横に動く仕組みになっているのだ。

最初にそれに気付いた時には、小説の中ではあるまいし、と茫然としたものである。

まさかこれを役立たせる時が来るとは、正直思っていなかった。

フリッツは棚を動かし、そこに開けた小さな空間に身体を押し込んだ。

本棚を元に戻し、今度は何の光も差さない暗闇の中で、何とか明かりを灯す。

光を確保してほっとしたフリッツだったが、そこからがまた大変なのである。

左手の下方に穴があいていているのを、下りなければならないのだ。

足と手を掛けられるようになっているそこを、フリッツは下っていった。

二階部分から一階に降りる程度なので、そう長くはない。

再び地面に足をつけて、フリッツはほっと息を吐いた。

その時である。

「――坊ちゃん」

声を掛けられて、フリッツは肩を大きく揺らした。

ばっと振り返れば、ぼんやりとした明かりがゆっくりと近付いてくる。

ベルナー家の家令がそこには立っていて、フリッツは蒼くなった。

――嘘だろ……。

「やはりいらっしゃいましたか」

「なんで……」

「旦那様のご指示です。西側の出口はすでに封鎖されております」

「……!」

やはり読まれていたのか、とフリッツは唇を強く噛みしめた。

「――ですので、お出になられるのでしたら、少し戻られて階段になっているくぼみの中に隠されているスイッチを押し、別の出口から出られると良いでしょう」

「……え、」

フリッツはぽかんと口を開けた。

目の前の相手を退けなければならないのだろうか、長年ベルナー家に仕えてくれている相手にそんなこと、と思っていたのに、あまりにも予想外のことを言われて頭がついていかない。

「……僕を止めに来たんじゃないの?」

「西側の出口を使えないようにとの指示を受け、それはすでに終えております。ここにおりますのは、私の意思です」

「それは……」

「……こんなことを言ってしまってはおこがましいと思われるかもしれませんが、長年勤めさせていただき、ベルナー家には家族の情のようなものを持っております。……旦那様は立派な方です。ベルナー家をここまで再興されたその手腕、誰もが認めるところでございましょう。しかし旦那様はそれを……自らの手で壊そうとなさっていらっしゃる」

「……うん」

「坊ちゃん――、フリッツ様。どうか旦那様をお止めください。私も今晩ここに来るまではどうすることが一番正しいか迷っておりましたが、今はその道が最善と判断しております」

「でも……兄さんに僕を逃がしたことがばれたら、」

「構いません。その時は隠居生活を楽しむことといたしましょう。それに私はこの通路のこと自体は知らないということになっておりますので。明日の朝慌てて旦那様のところに報告に行くつもりでおります」

淡々と答えてくるのがおかしくて、フリッツは少し笑った。

「知らないはずなんだ? じゃあどうしてここに?」

「この別荘は一度改修工事をしているのですが、その際の建築士が隠し通路を面白がりまして、旦那様には内緒でこっそり通路を足したのです。提出された図面と工事の様子を見ておりましたところ何か妙だと気付きまして、その時にこういうものがあったことを知りました。外からの侵入ができない仕組みで、他に問題もなさそうでしたので、報告して建築士の未来を断つよりはいざという時に役立てた方が有用かと思い、今に至ります」

「えっ……、もしかして兄さんも知らない通路なの?」

「出口を封鎖する指示を受けておりませんので、ご存じないままでしょう」

本当なら、ここで相手の言うことを鵜呑みにするのは危険なのかもしれない。

だがこの時、フリッツは家令のことを信じた。

本来彼がここにいる理由はないのだから、と理性も告げている。

フリッツが出て行く予定だった出口を使えなくしてしまえば、フリッツはここから逃げることはできず、それで済むことだからだ。

何よりも、ずっと世話になってきた相手のことを、フリッツは疑いたくなかった。

「――ありがとう。その道を使わせてもらうことにするよ」

「はい。お気をつけていってらっしゃいませ」

「うん。絶対兄さんを止めてくる」

力強く頷いて、フリッツはこう付け加えた。

「……もし兄さんにばれても、僕は絶対引き止めるからね。これからどういうことになっても、ここにいてくれると嬉しい」

「……もったいないお言葉です」

深く家令は頭を下げる。

フリッツはそれに見送られて、また狭い通路を上がっていった。

――絶対に、僕は兄さんを止める……!

そう、例え、それがどんな結果に繋がるとしても。

フリッツも、それが最善であると信じた。

テアや皆の笑顔に繋がると、信じた。






「今日は私がもぐりこんでもいいですか?」

そうローゼが問えば、テアはベッドの端に寄った。

大変な日になるであろうと予測される日曜日を控えた夜だ。

明かりを消した中で、二人は並んで横になった。

ぼんやりと窓際から月明かりが差している。

眠気は訪れない。

互いにだけ聞こえる声で、二人は言葉を交わした。

「……剣は集結しています。他領にいる者を少しずつ集めたので、向こうに気付かれてはいないはずです」

「その辺りはモーリッツさんを信用しています。それに、彼らのことも……」

「ええ。かなり動いてくれているようです。内でも――外でも。ただ時間が……問題ですね」

「十分すぎるほど迅速ですよ。記者さんが期待以上のスピードでした。大丈夫、間に合います、きっと」

楽観的とも言えるようなテアの言葉だった。

微笑むテアは、枕元に置かれた懐中時計を見つめている。

ローゼはテアと共に、それを眺めた。

「――もし間に合わなくても、イエスなんて言っちゃだめですよ。あの人なら、どんな逆境だって乗り越えられるでしょうし。……カティアさんが選んだ人ですからね」

「……そうですね」

ローゼの言葉に、テアは同意した。

「むしろ、頷いた方が折れてしまうかも……」

「え?」

「……明日、ぎゃふんと言わせてやりましょうね」

テアは笑った。

嵐の前日。

一見穏やかな夜だった。

だが、笑っていたとしても、その内心が本当に穏やかだったわけではない。

それでも、覚悟だけはもう決まっていた。

やがて彼女たちは目を閉じる。

眠りは、訪れなかった。






『綺麗ね、』

月明かりの美しい夜だった。

明かりの落とされた部屋も冴え冴えと照らす、輝きだ。

懐かしい声が聞こえた気がして、ハインツ・フォン・ベルナーはふと首を巡らせたが、部屋には彼以外の誰もいない。

ふ、と彼は唇を歪めた。

『とても……、心惹かれるわ。そう思わない?』

最後の日だった。

日が暮れた部屋で、彼女は遠くを見つめていた。

それを彼は、脳裏によみがえらせる。

『私、昔はあんまり月は好きじゃなかったの。夜もそう。恐ろしいと思ってた。とても、恐いものだと思ってた。でも今はね、好きになったわ。月の光を冷たい輝きだと思わなくなった。むしろ、見守ってくる優しい光のように思えるようになったの。あなたにはある? ハインツ、昔は嫌いだったり苦手だったりしたけど、今は好きになったもの』

食べられるようになった食べ物とか、と彼女は悪戯っぽく笑った。

『……あるよ』

自分は確かそう答えたはずだと、ハインツは思う。

けれど何がとは言わなかった。

彼女も聞かなかった。

――それは、あなただ。

本当はそう、答えたかった。

答えなかったのは、まだそれを告げるには早過ぎると分かっていたからだ。

あの時自分はまだ十だった。

心に決めていた言葉を口にするには、幼過ぎた。

――私は最初、あなたのことが苦手だったんだ。

誰もが彼を褒めそやした。

天才だと、これでベルナー家は安泰だと、賞賛した。

子どもらしからぬ大人びた振る舞いは、当然のように身についた。

彼女だけが、彼を子どものように扱った。

否――、彼女は、彼を他の人間と同じようには特別扱いしなかったのだ。

彼女は彼を「友だち」だと言った。

そんなものは必要ないと思っていた彼に、他愛ない話を振っては笑った。

彼女は彼自身が自覚していなかった、好きなものや嫌いなものを指摘した。

それは違うと否定した時期もあったが、やがて認めざるをえなくなった。

『あなたは皆が言うような完璧な人間じゃないのよ、ハインツ坊や。でもその方がいいわ。それがあなたがあなたであるってことでしょう? 私はあなたらしいあなたが好きよ。大人びてるあなたも可愛いし、ご両親の期待に応えてるあなたはとても立派だわ。だけど、皆の理想を体現するだけの存在なんてつまらないじゃない』

そうして、彼女は彼の初めてで、おそらく唯一の友人になった。

その感情が変化するのに、大した時間はかからなかった。

いつでも、彼よりもずっと無邪気に笑う彼女に惹かれた。

ベッドの中にいることの方が多くて、いつ消えてしまうのか分からない命の灯火を持ちながら、それでも笑っていた、その強さを尊敬していた。

夜が恐ろしいと言った、彼女。

来ないかもしれない朝に怯えながらも、その姿は潔く堂々として……。

いつかもっと力をつけて、彼女を支えられる存在になろう。

そう心に決めていた。

だが――。

あの夜を境に、彼女は唐突に姿を消してしまった。

いくら探しても見つからなかった。

絶望――。

絶望だった。

暗闇の日々を生きた。

彼女が消えて、おそらく彼も一度、死んだのだ。

唯一の理解者であり愛した人を失って。

彼はただ、ベルナー家の当主として生きた。与えられたその職務だけを全うしてきた。

度々、カティアのことを思い出した。

その時だけ、彼はただのハインツだった。

愛する人を想って、彼女は一体どこへ行ってしまったのだろう、と彼は考えた。

何故、いなくなってしまったのだろう……。

単純に彼女が亡くなったとは、彼は思わなかった。

確かに彼女の身体には生まれ持った弱さがあった。

だが、それすら克服してしまえるような内面の強さを彼女は持っていたのだから。

自分にも何も言わずに消えてしまった、その理由――。

それを考えれば、彼はいつもあの晩のことを思い出す。

どこか遠くを見つめていた彼女の瞳を。

あの夜、彼女は何を思い、あんな目をしていたのだろうか。

夜を、そこに浮かぶ月を、恐ろしいと呟いていた彼女が、どうしてあんな優しい目で空を見つめていた?

その答えは――今になって、もたらされた。

突然に、彼の前に現れたテア・ベーレンスによって。

そうだったのかと、彼は納得した。納得させられた。

カティアは、自分ではない誰かを選び。

その誰かのために、娘のために、自分の前から消えたのだ。

彼女らしいと、思いもした。

同時に。

許せないとも、思った。

――いつか捨てるなら、どうして笑いかけたりしたんだ、カティア……。

彼女を愛していた。

だからこそ、憎いと思った。

彼女も。

彼女の選んだ者も。

――カティア、だから、私は選んだ。

あなたが私を捨てて、彼らを選んだように。

私も遠慮はしない。

欲しいものに、手を伸ばそう。

「……明日には、必ず、手に入れる」

それがかなわないのならば――。

そう呟いて、彼は笑った。

密やかに、昏く。




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