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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第10楽章

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真実 8



――もう、木曜日か……。

じりじりとした焦燥感を覚えながら、フリッツはひとり別荘の自室にいた。

日曜日、テアと兄の密会を目撃してしまってから後、フリッツはハインツによって、普段学院に通うために使っている別荘の自室に閉じ込められている。

少数ではあるが部屋の外には見張りがいて、何度か脱出しようとしたが簡単に阻まれてしまった。

毎日のように脱走行為を繰り返していたフリッツだが、今日は至って大人しくしている。

油断を誘って明日、というつもりであるが、それも兄や見張りたちにはお見通しかもしれない。

だが、構わなかった。

一連の脱走行為はダミーだ。

フリッツはこの別荘の隠し通路を使って外に出るつもりでいた。

父も兄も教えてくれなかったその存在を、フリッツはここで過ごすうちにたまたま見つけたのだ。

兄はフリッツが通路のことを知らないと認識しているはずである。

フリッツはそれをことさら強調するために、毎日分かりやすい方法で逃げるふりをしているのだった。

あの兄のことだから、用心のためもしかしたら何らかの対抗策をとっているかもしれないが、フリッツにはその手段しか残されていない。

深夜確認してみたところ、通路自体は問題なく、出口まで通じていたが……。

もし、何かが起きても。

――決行は、土曜日の夜。

フリッツはそう、何度も自分に言い聞かせていた。

朝までに学院に辿り着き、ディルクに接触することがフリッツの一つ目の目標だ。

兄の脅迫があるから、テアはディルクに相談もできないはずである。

だが、兄を止めるためにはディルクの力が必要だと、フリッツは考えていた。

他力本願だと、分かっている。

それでも、ディルクの持つ権力が、必要なのだ。

それを考えると、フリッツは何度でも溜め息を吐きたくなる。

ディルクはそんなものに頼らず自分の力で進むためにシューレにいることを、フリッツは分かっていた。

そんなディルクに、それを使うことを頼まねばならない。

そして、ディルクはフリッツの頼みを断らないだろう。

テアを守るために、彼はそんな犠牲を厭わないだろう……。

それを思うのは、気の重いことだった。

だが、兄を止め、テアの秘密が漏れることを防ぎ、彼女を守るためには。

兄よりもより強い権力を持つ人の制止が必要なのだ。

兄はそういう手段でしか止められない。

フリッツにはそれがよく分かっていた。

タイムリミットは日曜日の昼。

フリッツがそれより早くディルクに事の次第を伝えることができれば、きっと何とかなる。

決行は土曜日と、ぎりぎりのタイミングに決めた理由の一つは、その方が捕まる可能性を減らせると考えたから。何もない時に逃げれば、兄はいくらでも配下を動かせる。けれど、当日であれば兄は他にも人を割くだろうから、ほんの少しかもしれないが逃げられる可能性が高まる。ぎりぎりであればあるほど、もう諦めただろうと油断をしてくれるかもしれない、とも考えていた。

何より、ディルクに事情を伝えた時、兄がそれに対応する時間を少なくできる。こちらにとっての猶予も少ないが、焦った兄が失策を犯す可能性にも期待していた。

兄にとって約束の時間を目前にしたフリッツの逃亡は嫌なものだろうが、フリッツにとっても本当にぎりぎりの賭け。

だからといって、焦って早い内から隠し通路を使って逃げて、余裕のある兄に捕まってしまえば、同じことはもう許してくれないだろうから、ぎりぎりでも最も高い可能性に賭けるしかないのだ。

「テア……」

今頃彼女はどうしているだろうか。

自分のことより今は、彼女のことがフリッツは心配だった。

テアのことを考えれば、さらに心は焦燥感に焼かれるようだ。

兄がテアにしていることを考えれば、もう彼女と笑い合うことはできないかもしれない。

力づくで兄を止めることになれば、フリッツもこれまでと同じように学院に通うことはできなくなるかもしれない。

それでも、フリッツは自分にできる限りのことをして、テアを助けると決めていた。

そんなフリッツに協力の手が差し伸べられたのは、この時である。

「失礼いたします」

部屋のドアがノックされ、侍女が入室してきた。

使用人はフリッツとの会話を禁じられているようだが、最低限の声かけは許されているらしい。

入学時別荘に移ってきてから、それ以前からも、彼らとは主従の関係もありつつ、親しくしてきた。そんな彼らのよそよそしい態度はフリッツにとってショックなものだったが、あくまでも彼らを雇っているのは兄なのだ。

彼らも抵抗なく兄に従っているわけではないとその立場をフリッツは分かっていて、この時もただ頷いた。

侍女の手には昼食が乗せられたトレイがあって、彼女はそれをフリッツの目の前の机の上に置く。

――あれ……?

その時、トレイの下にわずかにはみ出した白いものが見えて、フリッツは問うように侍女を見つめた。

侍女は何も言わないままに、ただ一瞬、微笑みを向けてくれる。

「失礼いたしました」

侍女が部屋にいたのは、ほんの短い時間だった。

フリッツは彼女を見送り、机に向き直る。

そっと、わずかに震える指で、フリッツはトレイの下から小さなメモを引き出した。

簡潔な文面に、彼の目が見開かれ、次いで喜色が溢れだす。

フリッツはそっと、机の引き出しのその奥を覗いた。

フリッツの部屋から、紙やペンなどは全て没収されているはずだったが、そこにはそれが無造作に置かれている。

それを確認すると一度引き出しを閉じ、フリッツは急いで食事をかき込み始めた。

引き出しの奥の紙に書きしたためる内容を考えながら。






そして、同日、同時刻のことである。

「侵入成功……、なんて言ったらまずいか」

新聞記者ロルフ・ディボルトが、ブランシュ領本邸にいた。

いつものカジュアルな服装を変え、きちんと身なりを整えた彼は、それなりの身分の者と見まごうばかりとなっている。

「これで君への義理は果たせるというわけかな?」

「十分すぎるほどですよ、感謝してあまります」

ロルフに告げたのは、ブランシュ家に子息を預けているさる貴族である。

彼がちょうど子息に会いに行くという情報を得て、ロルフは同行を頼んだのだ。

ロルフはちょっとした貸しを持っていて、快く相手は頷いてくれた。

ロルフ自身に監視はついていないはずだったが、ブランシュ領内にはおそらく監視の目があるということで、単身で行って不審に見られるような動きはできるだけ避けたかったのだ。

それに、ロルフのような人間が訪れて行って簡単に邸に入れてもらえるわけもなかった。

貴族と連れたち、ロルフはモーリッツ・フォン・ブランシュとの対面を果たす。

ブランシュ家当主は巌のような大男で、遠目からしか彼を見たことのなかったロルフは目を見張っていた。

――このお人があのローゼ嬢のお父上っていうんだから、人間ってのは全く興味が尽きないもんだよなぁ……。

「……実は彼は、知り合いがこちらの世話になりたいと希望されているようで、話を窺いたいと……」

と、表向きの理由を告げながら、貴族が紹介してくれる横で、ロルフは愛想良く笑う。

だが、ロルフを見つめてくるモーリッツの視線は厳しく、少しばかり引きつり気味だ。

「突然の訪問で申し訳ございません。知り合いのピアノのお嬢さんに強く勧められまして――」

言えば、モーリッツの眼光はさらに鋭くなった。

「……なるほど」

ひとつ頷くと、彼は貴族に子息との対面を促し、ロルフを書斎へと導いた。

モーリッツは書斎机に向かうように腰掛け、机越しにロルフと向き合う。

「詳しく話を聞こう、記者殿」

――あーらら、ばれてる……。

以前ローゼと出くわしたことを思い出し、あれで警戒されたかな、とロルフは過去の自分を詰りたくなった。

椅子も勧められないまま、ロルフはとにかく役目を果たすことだと神妙な面持ちで口を開く。

さすがにこの部屋の中の言葉まで聞かれることはないだろう、とほんの少し警戒を緩めながら。

「ピアノのお嬢さんから、伝言を預かってきました。剣と鷲へ。予期された事案B発生、相手は東の山羊。日曜日の昼までに、鷲はペンと共に外の駒を叩き、小剣は薔薇のもとへ集うよう、請うものである、と」

「……そうか。承知した」

深い溜め息の後、モーリッツは眉間にいくつも皺を刻み、聞き返すこともなくそう告げた。

「すぐに動く。伝えてくれたこと、感謝する」

「いえ、」

生真面目に礼を言われると、下心やら何やらがあるロルフとしては居心地の悪いものがある。

「オレ……いえ、私もそれではこのまま国境を越えることとします。時間がないですし、鷲まで伝わって動き出す間に、その後のことがスムーズに動くよう手を尽くすつもりです」

モーリッツはそれに声もなく頷き、引き出しから何かを取り出すと、ロルフにそれを差し出した。

「鷲の者と接触する際に必要となる。同じものを持っていたらその者と協力を」

「……はい。有り難く」

ロルフは震える指でそれを受け取った。

小さなカフスボタンは、黄金に光る鷲だ。

こんなものを自分が手にすることがあろうとは――。

決して失くせないそれを、ロルフはしっかりと握りしめた。

「慌ただしくて申し訳ありません。ではこれにて」

「成功を祈る。その暁には、ちゃんと茶を出してもてなそう」

顔つきは険しいままだったが、ほんの少し茶目っ気の混じるその送り文句に、ロルフは思わず破顔した。

そのままモーリッツの前を辞し、彼は次なる目的地へと向かう。

心は逸ったまま、足取りだけは悠然として。






そして、金曜日。

授業を終え、いつもより早めに帰宅したエッダは、自室に入ったところで侍女から一通の手紙を受け取った。

「……上手くいったようですわね」

「はい」

渡された手紙は、フリッツからのものだ。

書いてもらうのはいいとして、エッダに届くまでがまた問題だったのだが、それもあちらに気付かれずここまで到着してくれたようである。

「スパイみたい、と喜んでいたでしょう」

「はい、また協力できることがあれば何でも言ってほしいと。結果も是非聞かせてほしいと言われてしまいました……」

「上手い話をつくっておくことにしましょう」

エッダは微笑んで言った。

手紙を受け取るため、エッダはまた違う侍女に事情を偽ってそれを実行させたのだ。

フリッツのもとで務める侍女が、この日に購入品受け取りのために商店街へ出向くと分かっていたから、その際に偶然を装って接触できるよう取り計らったのである。

「さて……」

エッダは小さく小さく折り畳まれたその手紙を、丁寧に開いた。

文面をたどり、ゆっくりと彼女の視線が上から下へ落ちる。

――あの方にしては、うまく書きましたわね。

万が一第三者に渡っても、これなら事情はばれないだろう。

エッダは顔を上げ、固唾を呑んで待つ侍女に告げた。

「赤いリボンを、お願いします」

「赤、ですね」

「ええ。下手に動かない方が賢明です。彼なら大丈夫ですわ。今の状況も、長くは続かずに終わります」

「そうですか……」

侍女はほっと息を吐いた。

「では、手配させます」

エッダは頷き、侍女はすぐにその前を辞そうとしたが、気にかかるようで一度、振り返る。

「……詳しい事情は、聞かない方がよろしいのですね」

いつもならこんな確認はしない侍女だ。よほど、幼馴染みのことが心配なのだろう。

「……知らない方が、いいでしょう。その方が安全です。もし彼女に何かあれば、その時は私が引き受けます。安心なさい」

「……ありがとうございます、お嬢さま」

「礼など不要ですわ。私は少し助言をしただけ。それに、今回のことで分かりました。あなたに似て優秀な方のようですから、あちらを解雇になったりする前にこちらで引き抜きたいと考えているくらいですの」

「もったいないお言葉です」

侍女は微笑み、今度こそ部屋を去る。

それを見送って、エッダは溜め息を吐いた。

手紙にもう一度目を落とし、やはり、と思う。

ハインツ・フォン・ベルナーがテア・ベーレンスに何かを仕掛け、それを止めようとしてフリッツが軟禁された、という経緯らしいとエッダは文章から読み取った。

一方で当事者のはずのテアがいつも通りに過ごしているのが気になると言えば気になるが、日曜日に何かがあるらしい。

それを阻止するために、フリッツはディルクの力を欲している……。

――彼女のパートナーがディルク様だから、というだけではないのでしょうね。ローゼ・フォン・ブランシュではなくディルク様を敢えて選んだのは――より強い権力が必要だから、ということでしょうか……。

フリッツがどこまで把握しているのかは分からない。

だが彼が、その覚悟を決めているのは分かる。

だからエッダは、また溜め息を吐かずにはいられない。

――それならば私もまた、覚悟を決めなければならない。

ハインツの言ったことが真実でも嘘でも、否応なくオイレンベルクは巻き込まれている。

あの日ハインツが語ったことを外にひたすらに隠したいなら、エッダはこの手紙を握りつぶすべきだ。

家を守るために。

だが……。

――あの忌々しい手を、振り払いましょう。

決然とした眼差しで、エッダは前を見据えた。




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