真実 7
――これでもう三日目……。
水曜日である。
テアは通常通り授業を受けるため、講義室にいた。
ハインツのことを思い出せば気が重くなるばかりだが、現時点でテアができることは全て終えてしまっている。
今のテアにできることは、協力者たちを信じて来るべきその日が来るのを待ち、それ以外はいつも通りに過ごす。それだけだ。
――いつも通り、か……。
しかしそれには、ひとつ欠けているものがあった。
友人であるフリッツである。
例の日曜日が明けて、週はじめから、テアは一度も彼の姿を見ていなかった。
フリッツと共にしている講義は多い。彼の不在はすぐに分かった。
それが、三日に渡ってそうなのである。
テアはフリッツの身を案じていた。
ハインツのことがなければ、風邪を引いたのだろうかとか、何か用事なのだろうかとか、そういうことを考えられたのだろうが、時が時だ。
このタイミングでフリッツが姿を見せないのは、兄であるハインツが絡んでいると考えずにはいられない。
さすがに弟であるフリッツを無暗に傷つけたりすることはないだろうが、気遣われる。
――私のせい、
と考えて、テアは重苦しい溜め息を吐いた。
理由が本当にそうなのか、もしくは全くの見当違いか明白ではないが、宮廷楽団に入るため、人一倍授業にも熱心なフリッツのことだ。
授業を何日も休まねばならないだけで気落ちしていることだろう。
どうにかしたいと気持ちは逸ったが、今のテアは下手に動くわけにはいかない。
フリッツが戻ってきたら授業の内容を克明に説明できるようにしておこう、とテアはいつも以上にノートづくりに一生懸命になった。
――これでもう三日目……。
一方、同じ教室内で同じことを考えている女生徒がもう一人いた。
エッダである。
彼女もテアと同様の考えで、フリッツのことを案じていた。
エッダの場合は、フリッツが家の都合で一週間の間授業に行けないと、ベルナー家から学院に連絡があったことを知っていたが、それが余計に彼女を疑心暗鬼にさせていた。
病気や怪我の心配はおそらくしなくてもいいだろうが、家からの連絡ということはあの兄からということだろう。
フリッツが授業に出ないことを了承しているのかどうか、実に疑わしいと思った。
かといって、フリッツを学院に来させない理由があるのかと問われれば、首を傾げざるを得ない。
これまで見てきた限りではフリッツは何も知らないようであったし、知っていたからといって簡単に口外できる内容ではないと分かるはずだ。
――あのこととは別に、口外されたくないようなことを知ってしまった……?
テアに渡してしまった手紙のことを思い出し、エッダは顔を顰めた。
あれには一体何が書かれていたのか。
内容を知っていれば、フリッツのことを知る手がかりになったかもしれない。
だからといって、今からテアに手紙の内容を教えてくれなどと言えるわけはないし、直接ハインツのもとを訪ねるのはまっぴらごめんだ。
フリッツが使っているベルナー家の別荘を訪ねてみてもいいが、それが引き金になってあのことを他言されては困る。
進みたい道を塞がれたようで、エッダは腹が立った。
――全く、コンクールも終わったと言うのにどうして私があのぽややんとした男のことを気にしなければならないのかしら。あの嫌らしい男のことまで思い出してしまって全く嫌な気分ですわ。もう気にするのは止めましょう、あの男のことを口にしなければ私には関わりなんて……。
そう思おうとするが、彼の持つ手札が手札なので、癪に障るが無関係などとも言っていられないのだった。
だいたい、彼が口約束を守るなどと、安易に思いこめたりなどしない。
オイレンベルク家の一員として、危険な芽は摘んでしまいたかった。
だが、エッダが何らかの行動に出れば……。
――けれど、本当にあの男が言ったことは真実なのかしら……。
あれから何度となく考えたことをまた、エッダは考えてしまう。
テア・ベーレンスがカティア・フォン・オイレンベルクの娘。
そんなことがあり得るのか。
正直、嘘であってほしいと思う。
これまでに彼女とは色々なことがありすぎた。
今更従姉妹などと言われて、そうですかと受け入れられるわけがない。
だが、ハインツ・フォン・ベルナーの説にどこか納得している自分がいることもまた、確かなことだった。
真実を、知りたかった。
エッダはあれから散々父に確かめに行くかどうか迷った。
当主である父が、それを知らぬはずはなかったから。
だがそれも、ハインツの脅迫に阻まれる。
聞けば、一体どうして知ったのか訝しがられることは明白だからだ。
どうにかしてテア自身から聞き出すことも同様である。
何より、父も彼女もいくら鎌をかけてみても簡単に白状するような相手ではないだろう。
エッダは講義室の後方にいるであろうテアの存在を意識した。
ハインツは、彼女を一体どうするつもりなのだろうか。
エッダに手紙を渡してきた時の彼は、まるでテアのことを嫌悪しているかのような口ぶりすら見せたけれど。
実際の彼の心の内は、分からない。
そしておそらくはそれを知ってしまったフリッツは巻き込まれて――。
そこでふと、エッダは気になることに気付いた。
ベルナー家はフリッツの不在を一週間と連絡してきた。
それはどういうことだろうかと。
エッダの予想通り、フリッツがハインツの意図で学院に来ることを禁じられているとしたら、一週間というのは逆に短すぎるようにも感じる。
――この一週間で、何かをするつもりでいる……?
もしくは、一週間と言っておいてそのまま退学――ということも考えられなくはない。
エッダは溜め息を吐きたくなった。
あの男が、ハインツが現れてから、毎日気分が重い。
人に見られることはいつものことではあるが、監視されているというのはやはり負担であったし、いつ彼が約束を破ってもおかしくないと思えば、ここでじっとしているだけで気が狂ってしまいそうだ。
――この私が大人しく言いなりなんて、全く憤懣やるかたないことですわね。
やはり、どうにかしなくてはなるまい。
オイレンベルクのためにも――新しい友人のためにも。
とはいえ、ハインツの裏をかくための方法が簡単に浮かんでくるわけもない。
その日もあまり講義やレッスンに集中できないまま一日を終え、エッダは帰路についた。
だが、帰った先で、エッダの思いもよらないところから現状を打破するきっかけが訪れたのである。
それは、エッダがベッドに入る少し前の時間だった。
「……このような時間に、申し訳ございません、お嬢さま」
エッダに仕える侍女の一人が、彼女の部屋を訪れた。
深刻そうな顔でやってきた侍女を、エッダは躊躇いもせず招き入れる。
「何かありましたの?」
「はい、その……、このような私事をお嬢さまに相談するのは、分を弁えぬことと思うのですが……」
普段から淡々とした物腰で、愛想は少ないがてきぱきと仕事をしていく様を気に入っていた侍女が、このように言葉を探しあぐねている風なのは珍しい。
使用人のことを把握しておくのも主人の務めである。
立ったままの彼女を座らせて、エッダは優しく微笑んでみせた。
「構いませんわ。とにかく話してご覧なさいな」
「はい……」
侍女は主人と向かい合うように腰を落ち着けることを最初は気にしていたようだったが、やがて神妙な顔つきで口を開いた。
「昨日はお休みをいただきまして……、同郷の幼馴染みと久しぶりに会いました。その、友人も私と同じようにあるお邸に務めているのですが……、彼女がそこの仕事を辞めさせられることになるかもしれないと言っていて、」
「主人の不興を買うようなことがありましたの?」
「いえ……、友人は、これから不興を買うようなことをするつもりでいるのです」
その言葉にエッダはわずかに目を見開いた。
再就職の世話でも焼いて欲しいのだろうか、それにしては様子が、などと考えていたが、話の方向はエッダの思う方とは微妙にずれている。
「……何か事情があるようですけれど、あなたの友人はどうしてそのようなことを? 進んで辞めたいというわけではないようですけれど」
「はい。友人は勤め先を気に入って懸命に勤めておりました。会う度に、邸の主人は気遣いのできる優しい方で、勤め先がここで良かったと口にしています。もちろん普段は、それ以上のことを私にでも漏らすようなことはありませんが」
「あなたに似て真面目な方のようですわね。それが何故、そのように?」
尋ねれば、侍女は表情を暗くした。
「それが……、実は……、」
他家の事情を口にしてしまうことを生真面目な侍女は気にしているようだったが、すぐに顔を上げて続ける。
「正確に言うと、友人は雇い主である主人の弟君の身の回りをお世話させていただいているのですが……、友人は、その弟君が、兄君に軟禁されていると言うのです」
「それは、穏やかではありませんわね……」
兄弟、という符号に、エッダはまさかと思いながら相槌を打った。
「昨日の時点で三日目だと言っていました。兄君は罰だと仰ったと言います。家を危うくするような真似をしでかそうとしたと……。だからしばらく部屋から出してはいけない、使用人と口をきくことも、外との連絡をとらせることも禁止すると……。邸には見張りの者がいて、今は邸中が重苦しい雰囲気に包まれているようです」
「それは、辛いでしょうね」
「はい……。毎日一度は、弟君は何とか部屋からの脱走を図ろうとして、見張りの者に阻止されているようです。それで一度は怪我をしそうになったこともあったと……。友人はそんな弟君を見ていられないと、いっそのこと……、自分が逃がして差し上げる手引きをしようかと、思い詰めているようなのです」
それで話の冒頭に戻るわけか。
「なるほど……、事情は分かりましたわ」
エッダは頷き、確認する。
「率直に聞きますけれど――、あなたのご友人が務めている家は、ベルナー家で間違いないかしら?」
口にすれば、侍女は目を丸くして主人を見つめた。
「お嬢さま、ご存じだったのですか?」
「いいえ。兄弟、という話から推測しただけです。何よりベルナー家の次男は確かに、週の初めから学院を休んでいます」
さすがという賞賛の色が、侍女の目に浮かぶ。
一方でエッダは、内心溜め息を吐いていた。
予想通りの、嫌な展開だ。
下手に手出しできないというのに……。
「友人はすぐにでも行動に移してしまいそうなのかしら?」
「いえ、彼女も無茶とは分かっているようで……、迷っている様子でしたし、私も諌めておきました。何か思いつくことがあるかもしれないから、早まったことだけはと。私としては、無謀なことをして彼女が辞めさせられる以上の悪い事態になるのではないかと、それが心配で……」
「そうですわね」
その通りだ。
「警察に相談しようかとも考えたのですが……」
その言葉の続きも、汲み取ることは容易かった。
エッダは苦く笑って、頷く。
「私のところに来たのは賢明ですわ。相手がベルナー家の次男というなら、私に全く関わりのないことというわけでもありませんし。彼はシューレの生徒でもありますものね」
「お嬢さま……」
侍女の目が、希望に輝く。
「やれるだけのことはやってみましょう。まずはもっと正確な情報が必要ですわ。次男本人と話をしなければ。当主や当主側の使用人に話を聞くわけにはいきませんものね」
「ですが……」
「あなたの友人の協力が不可欠です。あなたにも動いてもらわなければなりません。私の言うとおりに動けば、危険は少ないはずですわ」
エッダの言葉に、覚悟を決めたように侍女は頷いた。
「――はい。どのように致せばよろしいでしょうか?」
「難しいことはありません。明日、半日お休みをあげますから友人のところへお行きなさい。皆には私の用事と伝えておきますから」
「はい」
「その時に――」
エッダの続けた言葉に、侍女はほんのわずか、目を丸くし、悪戯をする子どものような顔になった。
エッダの目にも、若干の愉悦の色がある。
「かしこまりました、お嬢さま。私、その務め立派に果たして参ります」
翌日の、ベルナー家別荘である。
ベルナー家に仕える侍女は、その朝も主人である人の弟、フリッツ・フォン・ベルナーに食事を運んだ後、憂鬱な溜め息を吐いていた。
――お可哀そうなフリッツ様……。毎日楽しみに通ってらっしゃったのに、学院にも行けないなんて……。
思わず他家に仕える幼馴染みにぶちまけてしまうくらい、彼女はフリッツのことを案じていた。
以前より、雇い主が弟に対する態度にはどうにも酷いと感じることがあったが、今回はいくらなんでも酷過ぎるように思う。
――いつまで、こんなこと……。
鬱屈を抱えながらも彼女が仕事にとりかかっていると、同僚から声がかかった。
彼女に客人が来ている、という。
今は基本的に誰も取り次がないことになっているはずだがと、不思議に思いながら彼女は外に出、門の方へと急いだ。
そこで、門番たちと並んでいる幼馴染みの姿に、彼女は瞠目する。
同時に、呼び出された理由も分かった気がした。
幼馴染みが勤める先はオイレンベルク家だ。その名を出せば、無碍にはできなかっただろう。
「どうしたの、急に?」
「ごめんなさい、仕事中に。一昨日会った時、あなたの荷物をうっかり持って帰ってしまったみたいなの。これ、叔母様にって買っていたでしょう? 今日を逃せばしばらく会えないから、叔母様にこれを渡せないと困るかもしれないと思って」
「……ああ!」
彼女は困惑した。そんなものを買った覚えはなかったからだ。
しかも、幼馴染みが差し出したのは、誕生日の祝いにと幼馴染みに贈った手づくりのバッグである。
だが、それで彼女には分かった。
幼馴染みの瞳からもそれを察して、彼女は大げさに感情を出して見せる。
「全然気付いてなかったわ! ありがとう! そう、今度のお休みに叔母様に会う予定があったのよ! 助かるわ」
「良かった、見つけた時どうしようかと思ったのよ。そうしたら、同僚がこちらの方面に用を言いつけられていたのを代わってくれて」
「そうよね、そっちも仕事中よね。わざわざありがとう」
「いいえ。それじゃあ戻るわね。お互い頑張りましょう」
「ええ」
互いに仕事があるから長話をしているわけにはいかない。
門番もいる前だ。
幼馴染みは用を済ませてしまうと笑って手を振り、邸から離れて行った。
「……申し訳ありません、私用で」
「あれくらいなら構わん。それより仕事に、」
「はい、戻ります。失礼します」
一部始終を側で聞いていた相手に頭を下げ、彼女は邸の中へ戻っていく。
幼馴染みから手渡されたものを自室にしまって、彼女は急ぎ任せられた仕事を済ませると、短い休憩時間を確保した。
また自室へと戻り、幼馴染みから渡されたバッグを開ける。
中に入っていた物に彼女は目を見張り、次いで失笑した。
あの門番、微妙な表情でいると感じていたが、これを見たからだったのか、と納得する。
中に入っていたのは、女性の下着やらそれに類するもの、男性が目の前にすれば目を逸らしつつもちら見せずにはいられないようなものだ。
これならば、詳しく検分されることはなかっただろう……。
門番はフリッツを外に出さないための見張りであり、邸の出入りを監視する役目も持っている。今まではそこまで厳戒ではなかったのだが、今や邸を出るもの入るもの、人間に関わらずほとんどがチェックされているような状況なのだ。
一体何が起きているのか。
使用人の中でも様々な噂が飛び交っていた。
彼女が笑ってしまったのは、「旦那様は何か脅迫状でももらって、それでフリッツ様を守るために閉じ込めて警備を厳重にしているのではないか」というものだ。
そんな理由があるならば、フリッツが何度も脱出しようとするはずがない。彼は柔和で頼りなく見えることもあるが、賢明な青年だ。そんな理由があるなら、説明して理解を得られれば協力してくれるはずである。
それがあんな風に邸から出ようとするのは、まさに兄の手から逃れたいからなのではないか。
――旦那様は、何か危険なことをお考えなのではないだろうか……。
そんな予感がしてならない。
バッグの中を探りながら、彼女はそんなことを考えていた。
やがて、彼女はその存在に気づく。
余程注意しておかなければ分からないような場所に、紛れるように幼馴染みからの言葉が綴られていた。
それは、先日幼馴染みに相談した、フリッツの件についての返答。
荷物を探っていた時よりもさらに真剣な眼差しになって彼女はその文字を目で追いかけ、その内容を刻むように何度も目が同じ場所を往復した。
やがて一度しっかりと頷き、彼女は幼馴染みからの手紙を躊躇なく燃やしてしまった。
あまり長く自室に籠っているわけにはいかないと、彼女は部屋を出て行く。
その顔は、完全にではないが、さきほどまでの憂いが晴れたように、見えた。