真実 6
――まずいまずいまずい……っ!
新聞社ヴァイス・フェーダーの記者、ロルフ・ディボルトは全力で走っていた。
道行く人の迷惑そうな視線にも負けず、ひたすらに目的地目指して走る。
彼には人と会う用事があったのだ。
エンジュ・サイガ。
若いながら才能あるピアニストで、音楽界に詳しい人でなくとも、その名を知る人は多い。
その彼に独占インタビューの機会をつくってもらったのだ。
かなりしつこく粘ったという自覚はあり、それでも駄目だろうと思いながら諦めずにいたのだが、どうやら功を奏したらしく約束を取り付けることができた。
多忙な相手を呼びつけてまで話を聞くのだから、決して遅れることなどあってはならないと分かっていたのだが。
――余裕持って仕事終わらせたのに、出掛ける直前にトラブルで引き止められるとか、おおおお! 怒って帰ってたらもう二度と話を聞けないかもしれん! そんなことになったら編集長にどやされる! ただでさえ今回のこれは独断専行でばれたらやばいってのに……!
それでも休まず走り続けた結果、彼は何とか約束の時間ぎりぎりにその店についた。
カジュアルな、どこにでもありそうなカフェだ。
この店を指定したのは、エンジュ・サイガの方である。
現在学院は入学試験対策で常以上に外部からの入校を拒否しており、ロルフの立ち入りも認められなかったので、学院で話を聞くことはできなかったのだ。
むしろ、そんな態勢の中で話をしてくれるというだけで有り難い。
ロルフとしてはちゃんとした店をリザーブしようとしたのだが、堅苦しい店は好きではないとエンジュに一蹴されてしまった。
本当は、とロルフは思う。
エンジュの話、というより謎の多い彼の弟子についての話をしたかったのだが、約束の場所がこういうところであるところから見ても、そう多くを語ってくれるつもりはないのだろう。
――まあ、何でも聞けるとかそんな多大な期待は全然してない。ただ、少しでも彼女に繋がるきっかけにはなるかもしれないし――
息を整えながら、ロルフは店のドアをくぐる。
案内しようと近付いてきた店員に連れが先に来ているからと断り、彼は店内をきょろきょろと見回した。
そして、パーテーションで区切られた、一番奥のテーブル席に目を留める。
彼がそこで息を呑んだのは、ここにいるはずのない人物をそこに認めたからだった。
テア・ベーレンス。
シューレ音楽学院の制服を身につけているその人を、見間違えるはずもなかった。
どうして、と混乱しながらも、吸い寄せられるようにロルフはそのテーブルに近付く。
壁際の席に落ち着き、入り口側に目を向けていたテアとロルフの目が合った。
彼女は自然な様子で視線をそらし、目の前に座っている男に話しかける。
そこでようやく、ロルフは彼女の向かいに本来の約束の相手であるエンジュが座っていることに気付いた。
エンジュはどうやらチョコレートパフェをつついていたようだが、立ち上がり、軽い調子でロルフに手を振ってみせる。
そのままエンジュはテアの隣に席を移し、ロルフに向かいに座るよう示した。
「申し訳ありません、お待たせしまして……」
「待ったけど早く来すぎただけだから構わないぜ。それより立ったままだと目立つから座ってくれ」
「は、はい」
時間ぎりぎりになってしまったが、相手に怒りの気配は見られない。
席を立たれる様子もないので少しほっとして、ロルフは促されるまま腰を下ろした。
「知ってるだろうが、こっちは俺の弟子でテア・ベーレンスだ。テア、こちらはヴァイス・フェーダーの記者、ロルフ・ディボルト氏」
「よろしくお願いします。ディボルトさん、とお呼びして構いませんか?」
「もちろんですとも! お会いできて光栄です、フロイライン。よろしくお願いします」
「私のこともテアと呼んでください。大仰に呼ばれるほどのものではありませんから」
愛想良く挨拶しながら、ロルフの頭は興奮と困惑とでいっぱいだった。
これまで頑なにメディアから逃げ続けていた彼女が、どうしてロルフの目の前に突然現れたのか。
謎に包まれた彼女に、ロルフはずっと会って話したいと願っていた。
こうしてそれが叶っていることは嬉しい。
だが、下手に質問をぶつければ彼女はすぐに帰ってしまうのではないか。
今後のことを考えれば、彼女とその師匠であるエンジュの機嫌を損ねてしまうのは得策ではない。
好奇心にまかせて猪突猛進に口から質問が飛び出しそうなのを、ディボルトは何とか堪えて頭を働かせた。
「忙しい中、こうして話をする時間をつくってくださり、ありがとうございました。テア……さん、でいいですかね。今日は授業はもう?」
「いえ、実はひとつ講義を休んでしまいました」
「えっ!?」
ロルフは驚いた。
彼女がひどく勤勉だという情報は仕入れていたし、授業も欠かさず出ているという。
それが、講義を休んでここにいるなどと、驚かずにいられようか。
これが二人きりのシチュエーションであったなら別の意味で誤解してしまいそうだったが、ここにはエンジュ・サイガがいた。
「インタビューとかめんどくせえから、もう直接こいつ連れてきたんだよ。お前が話聞きたいの、こいつの方だろ? 俺じゃなくてさ」
チョコレートパフェをつつきながら、エンジュは無造作に言い放った。
「学院長先生の許可が必要と聞いていたのですが、」
「許可とかねえよ。学院長本人がいねーんだからさ。大丈夫大丈夫、ぜーんぶ俺のせい、俺の責任でやりますよっと」
「先生、根に持ってますね……」
「べっつにーぃ?」
師弟は馴染み同士の気安い会話を交わした。
二人は普段こんな感じなのか、とロルフは半ば感心しながらそのやりとりを聞く。
生真面目だと聞くテアと、自由奔放なところのあるエンジュが、一体どんな風なのかと思っていたが、二人の雰囲気はとても自然なものだった。
「……それでは、今日はテアさんとお話しさせていただいてもいいので?」
「おう。もいっこデザート注文していいなら」
「ひとつといわずいくらでもどうぞオーダーしてください!」
「じゃ遠慮なく」
エンジュはにぱっと笑って店員を呼び、追加注文をした。
ロルフもコーヒーを頼んで、ものがやってくるのを待つ。
本人を目の前にできるなら、もっと質問できそうなことや話の持って行き方を色々と考えておくのだった、と思うが、ここに来るまで分かるはずのないことだったのだから仕方がない。
調子が出ないな、とロルフは自覚した。
テア・ベーレンスの後ろにあるものはおそらく大変なものだ。
下手に突けば身を滅ぼしかねない。
慎重に、とロルフは己を律していた。
それがなくても、秘匿されているものと認識していたのだろうか、彼女が目の前にいることからの戸惑いから抜け出せない。
ディルクのように存在感があるわけではないのに、物腰は物静かなものなのに、何となくロルフは圧倒されるようなものを目の前の彼女から感じて、余計に自由に振る舞えない。
ロルフがそんなことを考えていると、注文の品がやってくる。
コーヒーを一口飲んだロルフだったが、さてどう切り出すかと逡巡した。
「ええと、それでは……うん、」
「――お前、いつもと随分調子違えなあ。何そんなに上がってんだ。これまで大勢の音楽家相手にインタビュー繰り返してきてんだろ」
ずばずばとエンジュは口にし、次いで人の悪い笑みを浮かべた。
「もしかしてあれか、テアに惚れたか? 確かに美人だけどなー、やめとけやめとけ、こいつのパートナーに殺されるぜ」
「先生!」
テアは控えめに咎める声を上げた。
なるほど、やっぱりそうなのか、とロルフはそれだけでディルクとテアの関係を把握する。
「妙なことを言うのは止めて下さい。そんな誤解、ディボルトさんにも失礼でしょう」
「……これだよ」
呆れたようなエンジュの声音。
ロルフはテアの情報に一つ新しいものを付け加えた。
鈍感。
思わず笑ってしまい、肩の力が少し抜ける。
「……すみません、そうですね、どうも緊張していたようです。まさかこんな風に会って話ができるとは思っていませんでしたので。ディルクでん……、いや、ディルク殿には既にきつく言われています。妙なちょっかいをかけたら容赦はしないってね。ああ、言うのが遅れましたがコンクール入賞おめでとうございます。ディルク殿との演奏も聴きましたよ。聴きごたえのある演奏でした」
「ありがとうございます」
調子を取り戻しかけたロルフに、はにかむようにテアは笑う。
確かにこれは破壊力があるな、とロルフは思いかけたが、ディルクに殺される想像が浮かんでそれ以上考えるのを止めた。
「今は期末試験に向けて練習をしているところでしょうか」
「はい、」
とテアは頷き、問うような視線をエンジュに送る。
「……それとあと、夏に国際コンクールに出場する。その一次審査の練習も同時進行中」
エンジュは新たに運ばれてきたザッハトルテをもごもごと咀嚼しながら、その視線を受けて続けた。
注文する際、『チョコレートばかりで飽きません?』『Nein!』という会話を聞いたばかりだが、いささか胸やけがしそうである。
「ほう! それは楽しみですね! 絶対に聴きに行きますよ!」
「……公開されるのは院内コンクールと一緒で本選のみなのですが……」
「時期はずれるが、入賞者の演奏会も当然あるから、そっちも今から予定しとけば?」
「そうします」
「あの……、だからですね……」
テアは諦めたように肩を落とした。
「ではもしかして、そちらの楽譜は今練習されている?」
「はい、コンクール用のものです」
頷くテアの手元にある紙を指して、ロルフは尋ねた。
どうやらロルフを待っている間、彼女は楽譜を見直していたらしい。
ロルフがテアを見つけた時から、それは彼女の手の中にあった。
「随分書き込みしてありますねえ……、さすが」
「ご覧になりますか?」
「いいんですか!」
「構いませんよ」
微笑んでテアは楽譜を渡してくれる。
その瞳の奥に、意味深なものが光ったような気がしたのは、ロルフの気のせいだったのか。
バッハか、と彼は一枚目をじっくりと見つめた。
綺麗な字が、楽譜にいくつも散らばっている。
「……ま、こいつの場合書き込むけど演奏中は全然楽譜見ねーんだよな。曲は覚えちまってるし、書き込んだらその瞬間に頭ん中に入れちまうから」
「そうなんですか!?」
こんなに書き込みがあるのに、とロルフは二枚目をめくり、ぎょっとして顔を上げた。
テアが、口元に人差し指を立てている。
それはあたかも、今のロルフの声を窘めるかのように。
だが、実際はそうではなかった。
楽譜の二枚目には、こう書かれていたのだ。
"私には今監視がついています"
思わず首をきょろきょろと動かしそうになるが、何とか自制する。
「……失礼しました、驚いてしまって」
「いいえ」
この言葉の続きがあることを確信して、ロルフは楽譜をめくった。
"脅迫を受けて、そのことを他言しないよう釘をさされています"
"この脅迫に対抗するために、あなたの力が必要です"
「なるほど」
と、強張りそうな表情を何とか笑みの形にしながら、ロルフは告げた。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあるが、監視されているということは下手に言葉にしてはいけない、ということだろう。相手に読唇術の心得があれば、声に出さずとも唇を動かすだけでばれてしまうかもしれない。
「この楽譜ひとつとっても、テアさんの演奏の素晴らしさの理由が分かるようですね」
「そうでしょうか?」
「ええ」
――全く。本当になるほどだ。
ずっとメディアを避けてきた彼女が今ここにいる理由は、それだったのか。
ロルフは納得し、今度は心から笑っていた。
――さすが、ディルク殿下が選んだ方、ということか。
監視が付いている、と言うのに、堂々としている彼女に、彼は賞賛を覚える。
その内心では不快にも不安にも思っているのだろうが、その脅迫に立ち向かうようにまっすぐ背筋を伸ばしている様には、この上ない好感が持てた。
これは、偶然にでも選ばれたことを光栄に思わなければなるまい。
こんなに興味が持てる人物を脅かす相手を打ち倒すためなら、どんなことだってしてやろう。
そんな気分で、ロルフはまた次の楽譜を見る。
"外国の報道関係にどれほど伝手がありますか"
「……こう楽譜を見ていると、一次審査から聴きにいければ良いのにと思いますよ。あっちの方にも友人とか色々いますから、何とか潜りこめないかなーなんて考えちゃいますね。まあ、さすがにそこまでやっちゃうと出入り禁止くらいそうなんでやりませんが」
テアは笑って頷いた。
「記者さんが出入り禁止は痛いですよね」
楽譜上の言葉は、続く。
"協力を引き受けてくれるのであれば、私はあなたにあなたの聞きたいであろう全てをお話しすることをお約束します"
「……!」
本気なのか。
ロルフはちらりとテアに目を向けた。
静かな瞳で、彼女はロルフを見つめている。
――本気だ。
向こうから進んで情報を開示してくれるとは。
もうとっくにロルフはやる気満々だが、こんなおいしい取引を逃す手はない。
しかし、彼女は一体ロルフに何をさせようと言うのか。
その思考を読んだように、エンジュがスプーンを揺らしながら言った。
「次のが一番、真っ黒だよな」
「先生が落書きしたせいもありますけれど……」
「いいじゃねーか、かわいかったろ? あのトリ」
「えっ? あれ、トリだったんですか」
「何だと思ったんだよ」
「え……」
テアはわざとらしく瞳を逸らす。
――エンジュ・サイガも当然全て承知の上、なのか……。
ロルフは思いながら、静かに楽譜を捲る。
そのページから目を離すまで、彼は少々の時間を要した。
「……トリ……、ですか!」
「なんなんだその信じられないような目は! どう見たってトリだろうが!」
「ははは、エンジュ・サイガは音楽畑の人ですから」
「その慰めみたいなのは止めようか地味に傷ついてきたんだけど!」
「先生、また何か頼まれます?」
「あからさまに話逸らし始めたし!」
結局エンジュはさらにデザートを追加した。
ロルフは楽譜を最後まで見終え、テアに礼を言って返す。
「いやー、まさかこんな楽譜まで見せていただけるなんて、望外の幸せ!」
「大げさですよ、そんな……」
「いやいや、大げさなんかじゃありません。こっちにもやる気が湧いてくるようですよ。夏が本当に楽しみです。絶対聴きに行きますよ。応援しています」
「期待にそえるよう頑張ります」
熱心なロルフの態度に、テアは若干引き気味だったが、微笑んで答えた。
それから彼らは、インタビューというより、和気藹藹とコンクールの話で盛り上がる。
やがて、話題が途切れたのを見計らうように、ロルフがそろそろと解散の言葉を口にした。
「記事にできそうな話はできなかったと思うのですが……、良かったのでしょうか?」
「はは、気になさらないでください。最初から今日のことは記事にはしないだろうと思ってましたから。書いても載る許可がおりないでしょうし。ですが、とても貴重で楽しい時間でした。忙しい中お時間を割いて下さったこと、感謝します」
「いいえ、こちらこそ」
丁寧に礼を言った後、ロルフは会計を済ませて二人を店の外まで見送った。
「気をつけて帰られてくださいね」
「おー」
「ディボルトさんも」
気のない返事をするエンジュと、律儀に会釈していくテアは、見事に対照的だ。
その背に、最後にロルフはこう告げた。
「俺には、記事を書くこと以外にそう能力もありませんが、だからこそ良いニュースを届けられるように最善を尽くしたいと思っています」
「はい。期待しています」
振り返ったテアの、黄金の瞳がきらめく。
それにしばし、ディボルトは見とれた。
――これは、気合いを入れていかないといけないな。もともとそのつもりだったが――
そうとなれば、とロルフは二人とは反対の方向へ駆け出す。
時間は限られている。悩んだり躊躇している暇はない。
次の日曜までの、勝負だ。
出し惜しみはしない。
そんなことをするには、見返りが大きすぎる。
――"鷲"さえ出てくるくらいだからな……!
心の中で呟き、彼は嬉しそうに笑った。
テアには悪いが、こんなに楽しいことは滅多にない。
笑顔で彼は街中を駆けて行った。
「あれで良かったのか?」
「はい。思っていた以上に賢い人のようで安心しました」
「ま、確かにちったあできそうなやつだよな」
学院に戻る道を、テアとエンジュは並んで行く。
人波の中、こうして動いていれば、話の内容を知られることはないだろう。
そう考えつつも、言葉を選びながら、二人は会話を進めた。
「……今日は本当に、ありがとうございました。色々と、助かりました」
「別に。俺はお前の師匠だぜ。こういう場合助けるのは当然だろ。お前は遠慮しすぎ。抱え込みすぎ。色々黙りすぎ」
「……先生は、言葉にしなくても分かってくださるじゃないですか」
「そうだけどさー、それでも俺も人間だから、分からんことの方が多いんだぜ。現にあの楽譜にゃ俺だって吃驚仰天させられたっつうの。お前、平然と差し出すんだもんなぁ」
「平然となんて、していませんよ」
「それは知ってるけど」
飄々とした調子で、エンジュはそう返した。
テアは苦笑を浮かべたが、師の次の言葉にそれも消え失せる。
「お前、今日のこととか、ディルクに何も言わなくていいのかよ」
それにテアは、すぐには答えを返せなかった。
しばらく二人は、無言で歩を進める。
「……心配をかけたくありません。今のあの方に水を差すような真似は、できない」
「そうかよ」
「……先生、」
「うん?」
「――私、怖いんです」
ぽつりと、雑踏にかき消されそうな声で、テアは呟いた。
「怖いんです……」
今にもテアが足を止めそうに思え、エンジュは弟子の手をとった。
テアは手を引かれるままだ。
彼は内心、嘆息する。
おそらくテアが最も恐れていることが、それなのだろう。
彼女の気持ちは、理解できた。
だがやはり、鈍感にすぎる。
あまりの、杞憂だ。
だがそれを彼女に伝えるのは、エンジュであってはいけないはずだった。
――世話の焼ける弟子どもだぜ、全く……。
それでも彼は、テアの手を離さない。
学院が見えるくらいに近付いて、ようやくまた、テアが口を開いた。
「先生」
「なんだよ」
「……私、先生が先生で良かったです」
「お前ね、」
エンジュは立ち止まり、結んでいた手をほどいて、テアにデコピンをかましてやった。
「そんな最初っから分かりきったこと今更言うんじゃありません。つうか、もっと違うシーンで言え! コンクールで第一位に輝いた時とか! 感動甚だしい時! それこそ記者の前で言うべき台詞だし!」
痛い、と呟きながらテアは額に手をやっていたが、そんなエンジュの説教に口元を綻ばせる。
「つうことで、今の台詞は将来やり直しな」
「はい」
きっと、とテアは素直に頷いて、笑った。