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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
序楽章
1/135

黎明



経済大国クンストは、大陸の北西に位置する。

主要産業は工業で、科学技術に優れており、他国からの支持も厚い。

特に現皇帝アウグスト・フォン・シーレの代に急激な経済成長を遂げたと言われている。

そのように工業にのみ目を向けられがちであるが、この国は音楽においても著名な作曲家や演奏家を多数輩出していた。

クンストの音楽の中心地は、その首都コーアの北街ケーレ。

そこに、国立シューレ音楽学院はある。

シューレ音楽学院は、宮廷楽団を目指す者たちが集う、名門校だ。

宮廷楽団に所属する団員は、ほぼ全員がシューレ音楽学院の卒業生。

シューレの生徒たちは宮廷楽団の一員となるために、演奏の腕を磨き、日々勉学に励んでいる。

そして、秋。

今年も、宮廷楽団を目指す若者たちが、シューレ音楽学院の門をくぐる季節がやってきた。








――どうしたらいいのだろう。こういう場合……。

テア・ベーレンスは困ったように目の前の相手を見上げていた。

今日、この日。

彼女は、シューレ音楽学院の入学式に参加するため、入学試験、入学手続きから三度目となる来校を果たしていた。

会場である講堂へ向かう途中で連れとはぐれてしまい、広い構内で迷っていたところを、先輩らしい男性が親切に話しかけてくれ、案内してくれると言うので付いて来たのだが。

「ねえ君、僕のパートナーになってくれないかな。僕もピアノ専攻なんだ。きっと先輩として助言できることは多いと思う」

「えっと……、あの……」

講堂に向かうのではなく、人気のない場所に連れて来られ、パートナーになってくれと迫られて、テアは困惑していた。

パートナー制度はシューレ音楽学院特有のもので、生徒同士が二人一組となり協力することで、学院生活をより豊かに過ごせるよう設置されているものだ。

気の合うパートナーを見つけることができるのかというのは、入学にあたってテアも心配していることだったが、今はそれどころではない。

入学式の時間も迫っているし、連れが心配しているはずだから、早く行かなければならないのだが――。

「何より僕はフォン・エーベルハルトの三男だ。色々な便宜をはかってあげられる」

「はぁ……」

フォン・エーベルハルト――エーベルハルト家と言えば四大貴族の一つだ。

平民として生まれ育ったテアは、そんな大貴族に声をかけられて、戸惑うしかなかった。

シューレ音楽学院には、貴族などの後ろ盾を得ているが平民である者、貴族の嫡男ではない者、などさまざまな身分の者が在籍している。

学院の生徒である以上は、階級は関係ない――というのが学院側の基本的な方針なのだ。根強い階級意識はそう簡単に無視することはできないが、そういう姿勢を開校以来貫いているから、こうして貴族と平民が堂々と顔を合わせるようなことにもなる。

「ねえ、だから僕のパートナーに――」

「――こんなところで何をしている?」

ふ、と向こうから長身の人影が現れて、テアは目を瞬かせた。

「ディルクさん……」

ぎくり、とテアに迫っていた男性の身体が強張る。

静かに、向こうから現れたのは、テアや彼女に迫る男性と同じ、白い制服を身に纏った美貌の青年だった。

「そろそろ講堂に集まる時間だが」

「は、はい。その、新入生が道に迷っていたので案内をしようと――」

「そうか。では彼女は俺が引き受けよう。一般生徒は早く講堂に向かった方がいい」

「は、はい……!」

彼は何度も首を縦に振ると、テアの方も見ずに講堂の方へ走って行ってしまった。

テアは目をぱちくりとさせてそれを見送ってから、困っていたところを助けてくれた青年に目をやり、思わず見とれてしまう。

美しい――男性だった。

男性に対して美しい、と思うのは初めてだったが、そう形容するにふさわしい美貌の持ち主なのだ。

赤みがかった鳶色の髪に、白藍の瞳。肌は健康的な色を持ち、容貌だけでなく身体のつくり全てが精緻に、精巧につくられているようだった。

高潔な気品が宿っている眼差しがテアを捉えて、彼女はどきりとする。

「大丈夫だったか?」

「あ……はい。どうも、ありがとうございます」

我に返って、テアは丁寧にお辞儀をした。

「いや。すまないな。新入生を誘うのは入学式を終えてからというルールがあるのだが。彼はたまにああして……」

ふぅ、と少しだけ困ったように彼は笑った。

「いえ――」

ふる、と彼女は首を振る。

「困りましたけど、私などをパートナーになんて、ありがたいことです。やはり、誰とも組めないように見えたのでしょうか……」

テアの台詞に、青年は驚いたような眼差しを注いだ。

パートナーをつくれないかもしれないという彼女の不安を読み取って、彼は優しく微笑む。

「それは、逆だと思うが」

「逆?」

「彼の目に君は魅力的に映った。だから思わずパートナーの申し込みをしてしまった。そういうことだ」

「え……」

今度、目を丸くするのはテアの番だった。

言葉を失ってしまった彼女の前で、彼は朗らかに手を差し出す。

「そう言えば名乗っていなかったな。俺はディルク。ディルク・アイゲンだ」

「あ……、テア、です。テア・ベーレンスと申します」

握手を交わし、少しの緊張を覚えながら、テアは答える。

彼の立ち振る舞いはどう見ても貴族であるが、彼――ディルクは名字に「フォン」をつけない。

貴族ではないのだろうか、とテアはディルクを見つめて少し首を傾げた。

「さて、では講堂まで案内しよう。そろそろ時間が迫っている」

「あ、はい、お願いします」

そうだった、とテアは状況を思い出す。

目の前の人物に、入学式が迫っていることを忘れさせられていた。

少しだけ急ぎ足で、けれどテアの歩調も思いやる歩きで、簡単に構内の説明をしつつ、ディルクはテアを講堂まで案内してくれた。

「……あそこが講堂だ」

ディルクの指す方に、白く大きな建物がある。

シューレ音楽学院の敷地は広大で、どの建物も芸術を極めたような、素晴らしい建造物だ。

その講堂もどこから見ても美しく、大きなステンドグラスが輝いていた。

そこに、次々と白い制服の生徒たちが吸い込まれるように入っていく。

テアは間に合ったことに安心して、ほっと息を吐いた。

「わざわざありがとうございました。助かりました」

「いや。ここは広いから慣れるまで大変だろうが、迷って授業に遅れないようにな。……じゃあ、また」

手を振って、ディルクが颯爽とした様子で去っていくのを、テアは見送る。

――本当に、綺麗な人だ……。

感嘆の眼差しで、テアは少しの間そこに佇んでいた。

中低音の声も柔らかく、けれどはっきりとしていて、耳に心地良かった。

何よりも、テアにかけてくれた優しい言葉、気配りは、心に温かい光を灯してくれた。

彼のような人がいるところで、自分はこれから学ぶことができるのだ――。

「テア、……テア!」

名前を呼ばれて、テアは我に返る。

呼ばれた方を向くと、はぐれていた友人が、心配そうな少し怒ったような表情でずんずんとこちらに歩いて来ていた。

「あれだけ離れるなと言ったでしょう! ここは広くて迷いやすいんですよ」

「す、すみません……」

「探したんですからね、もう」

ぷりぷりと怒ってみせる彼女だが、そんな表情豊かな様子が魅力的だ。

竜胆色の長い髪に、菖蒲色の瞳を持つ彼女は、名をローゼ・フォン・ブランシュという。

シューレ音楽学院の新二年生で、テアより三つ年上の彼女は、テアの幼馴染であり親友であり、姉妹のようなものだった。

フォン・ブランシュの名字から分かる通り彼女は貴族であったが、本人は貴族ぶった振る舞いをあまり好まないようである。普段名乗る時に「フォン」を付けないことの方が多いくらいだ。

「でも、何事もなかったようで良かったです。さ、入学式始まっちゃいます。行きましょう」

「はい」

ローゼに手を引かれ、テアは歩き出す。

――ここで私は、音楽を勉強する。そしていつかは、あの人のように……。母が願ってくれたように……。

テアはまっすぐに自分の未来を見つめていた。






「ディルク、遅かったな。何かあったのか?」

「すまない。迷っていた新入生を案内していたんだ」

テアを講堂まで送り届けたディルクは、そのまま生徒会役員の活動場所である建物――通称「泉の館」に向かった。

清楚な白の館の裏手に、芸術的な石造りの泉があることから、そう呼ばれているのだ。

ディルクは、シューレ音楽学院生徒会会長だった。

入学式の進行は、生徒会が中心となって行われる。

入学式前のミーティングが終わって、入学式が始まる前の休憩にとディルクが出て行ってから戻ってくるまで、少し時間が経ってしまっていた。

生徒会の人間が集まる一室に入ったディルクに、開口一番に尋ねたのは、副会長でありディルクの親友でもあるライナルト・アイゲンである。

水浅葱色の髪に、白藍色の薄い色素を持つ彼は、ディルクに似通った美貌の持ち主だった。ディルクに比べるとやや冷たい印象を与える容貌であるが、その瞳には気遣わしげな色がある。

「ここの敷地は広いからな」

「ああ。しかも、エーベルハルトに絡まれていた」

「あいつか……」

ライナルトは嘆息する。彼は複数の女性に声をかけて問題を起こしたことがあるのだ。

だが、ディルクはエーベルハルトの彼がテアに声をかけたことは、理解できるような気がした。

テアはたおやかで繊細な容貌の少女だった。眼鏡の硝子の向こうにある穏やかな瞳は、水面に反射した光のような、美しい麦の穂が揺れる様を連想できるような、自然の中で輝くような見事な黄金。背に長く流れる髪は、落ち着いた空色。ぱっと見ただけでは大人しい印象でふと見逃してしまいそうにもなるのだが、一度しっかりと見つめてしまうと目が離せないような、淡いのに不思議な存在感があった。

彼女はこれから色々な意味で注目の的だろうな、とディルクは思う。

テア・ベーレンス。

実を言えば、学院長から、既に彼女の名前を聞いていたディルクである。

今まで学校に通ったことがなく、普通に受けるような教育を受けてこなかった少女が、特別入学を利用してこの学院に入学してくる。

慣れないうちは何かと不便もあるだろうと、学院長は少しでもいいから気を掛けてくれないかと生徒会長である彼に頼んだ。

「特別」入学というだけあって、この方法で入学してくる生徒は、これまでに大きな成果をあげてきたような、有名な者が大半だ。

だが、テアが実力で合格したのは間違いのないことなのではあるが、彼女には今までの功績などはまるでない。

この学院の生徒は特に向上心が強く、プライドも高い。やっかみや反発を向けられることは避けられないだろうと、学院長もディルクも考えていた。

今までにテアのような経歴でシューレ音楽学院に入学し、卒業したのは、たった一人だ。

彼は、今や音楽界で知らない人間はいないほどの人物となったが、彼女はどうだろうか。

そこらの貴族よりもよほど礼儀正しい振る舞いで、理知的で控えめな視線を自分によこしたテアの眼差しを思い出し、ディルクはふとそんなことを思った。

「……そろそろ時間だな。行くか」

「ああ」

ライナルトに促され、ディルクは頷き、歩き出した。

それに並ぶように歩きかけ、ふ、と苦笑気味に振り返ると、ライナルトは他の生徒会役員を見渡す。

ぼう、と二人の姿に見とれていた役員たちは我に返って、歩き出した二人に続いた。

ディルク、ライナルトの二人の姿には、見慣れた者でもつい見惚れてしまうものがあるのだ。

「いつもながら、立っているだけで見事な誑し具合だな、生徒会長」

ライナルトはやや人の悪い笑みを浮かべる。

「お前も人のことは言えないだろう?」

「そんなことはない」

ディルクと比べて遜色のない容姿を持ちながらライナルトは本心から否定して、含みのある笑みでさらに続けた。

「……今年も、新入生が何人気絶するやら、な」

「言うな。からかうなら歓迎の挨拶はお前がしてくれ」

「遠慮しておく。落胆の溜め息を吐かれるのは嫌だからな」

「心にもないことを……」

親友同士である二人は、他愛のない言葉を交わしながら講堂へ向かって歩いていく。

新入生を迎え、新たな年が始まろうとしていた。






…というわけで、初投稿です。

のんびりと、テアとディルクの物語を綴っていければと思います。

どうぞよろしくお願いします。




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