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プロローグ

 いつもと変わらない夜だった。


 四月二七日。春の暖かさが増し、初夏の足跡が聞こえる頃合(ころあ)い。


 いつもと変わらず勤務先の高校へ向かい、いつもと変わらず生徒たちに授業を行い、いつもと変わらず事務仕事をこなし、いつもと変わらない道で居住しているマンションに帰る。


 ただ、いつもと違い、俺――森戸養一(もりと よういち)は、ふと、たびたび世話になっている惣菜店(そうざいてん)の、ポテトサラダが食べたくなった。


 惣菜店は、近くの商店街にある。そして、すぐ先にある裏路地は、商店街へ続く近道だ。


 俺は裏路地に足を向け、踏み入った。


 あとになって思い返せば、この選択は運命だったのかもしれない。


「……Aide-moi」


 進む先から、女の子のか細い声が聞こえてくる。


 俺は立ち止まり、眉根を寄せた。


「助けて?」


『Aide-moi』は、『助けてください』を意味するフランス語だ。父の仕事の都合で、幼少期にフランスに住んでいた俺にはわかる。


 裏路地の暗がりのなか、俺は目をこらす。


 空調の室外機の傍(かたわ)らに、誰かがうずくまっていた。


 俺は早足で、その人影に近づいていく。


 うずくまっていたのは、金色の長髪を持つ、一〇代前半と思(おぼ)しき小柄な少女だった。


 薄汚れた少女は、ぼろ切れのような衣服を身にまとい、三角座りになって、膝に顔を埋(うず)めている。


 俺はギョッとした。


 儚(はかな)いほど細い少女の両腕に、無数の傷があったからだ。


『どうした!? 大丈夫か!?』


 堪(たま)らずフランス語で話しかけると、ビクリと少女が震え、顔を跳ね上げる。


 青い目をした、少女のあどけない顔には、痛々しいあざがいくつもあった。これはただ事ではない。


 少女は怯(おび)えた顔で俺を見上げ、ガチガチと歯を鳴らした。


 尋常(じんじょう)でない少女の様子に戸惑いながら、俺はさらに少女に近づく。


 少女が顔を青ざめさせた。


『い、いや!! 来ないで!!』


 異変が起きたのは、少女が叫んだときだ。


 アスファルトから、真っ黒な腕が、無数に生えてきた。


「はあっ!?」


 現実離れした光景に、俺は目を剥(む)き硬直する。


 真っ黒な腕が、俺の脚をつかんだ。


 途端(とたん)、全身が鉛(なまり)のように重くなる。


「な、んだ……これ?」


 町内マラソンで一〇キロ走ったときのような疲労感が、俺を襲う。息が上がり、膝が笑う。まるで力が吸い取られていくようだ。


 為(な)す術(すべ)なく佇(たたず)む俺の体を、真っ黒な腕が次々とつかんでいく。そのたびに、疲労感と息苦しさが増していく。


 なにが起きているのかわからない。これは目の前にいる少女の仕業(しわざ)なのか?


 未知への恐怖が俺を侵(おか)す。うずくまっている少女が、ひどくおぞましいものに見えてきた。


 全身の汗腺(かんせん)から脂汗(あぶらあせ)が吹き出す。視界がかすみ、意識が薄れていく。


 怖い! 怖い! 怖い!! ポテトサラダなんか買いに向かわなければよかったんだ! ふとした気まぐれで、こんなひどい目に遭(あ)うなんて!!


 自分の選択を後悔した、まさにそのとき。


『……助けて』


 いまにも泣き出しそうな、少女の声が聞こえた。


『お願い……助けて……許して……っ』


 少女は頭を抱え、身を縮め、仔猫のように震えている。


 怯える少女の姿が、『あの頃の俺』と重なった。


 同時に悟る。この子は、悪意を持って俺を攻撃しているのではない。


 ただ、身を守りたいだけなのだ。


 ただ、助かりたいだけなのだ。


 なぜ少女が怯えているのかはわからない。少女の正体もわからない。真っ黒な腕がなんなのかも、さっぱりわからない。


 ただひとつ、少女が途方(とほう)もない恐怖に苛(さいな)まれていることだけは、わかる。


 ……なにを怖がっているんだ、俺は!


 俺は歯噛みした。


 思い出せ、俺はなんのために教師になった? 『あの頃の俺』みたいな、傷つく子どもを救うためだろ!


 じゃあ、どうするんだよ? 目の前に怯えている子どもがいるぞ? 助けを求めている子どもがいるぞ? 教師の俺がするべきことはなんだ?


「……そんなの決まってるだろ」


 真っ黒な腕に襲われるなか、全身から力が抜けていくなか、俺は歯を食いしばり、ありったけの力を振り絞って叫んだ。




『俺は! きみを傷つけない!!』




 少女がハッと息をのみ、顔を上げた。


 泣き腫(は)らしたのだろう。少女の目元は赤くなっていた。


 涙で潤(うる)んだ青い瞳が、俺を捉(とら)える。


『…………本当?』

『本当だ! 俺はきみの味方だ!』


 敵意がないことを証明するため、俺は両腕を上げた。


 少女がじっと俺を見つめる。


 そのあいだも真っ黒な腕が俺をつかみ、体がどんどん重くなっていく。


 それでも俺は耐えた。少女に安心してもらう方法はこれしかないから。少女を助ける方法はこれしかないから。


 酸欠で意識が朦朧(もうろう)とするなか、俺はただ少女を見つめ返す。肩で息をしながら、少女が落ち着くのをただ待つ。


 どこまでも長く思えた数秒が過ぎた。真っ黒な腕が俺を離し、アスファルトに沈むように消えていく。


 緊張から解放され、俺はガクリとその場に崩れた。アスファルトに座り込み、ゼェゼェと息をする。


『……ごめんなさい』


 少女が弱々しく呟(つぶや)く。


 もう、少女はおぞましいものに見えなかった。守られるべき、か弱い子どもにしか見えなかった。


 俺は首を横に振る。


『大丈夫だ……怖かったんだよな?』

『……うん』

『安心してくれ。俺は絶対、きみを傷つけないから』

『……うん』


 信じてくれたのだろう。少女がコクリと頷(うなず)く。


 少女に尋ねたいことは山ほどある。だが、真っ先に行うべきは、少女が負った傷の手当だ。


 病院に連れていくべきなのだろうが、少女の怯え方は異常だし、真っ黒な腕を医者にけしかけてしまうかもしれない。


 そうなったら終わりだ。俺がどれだけ擁護(ようご)しても、少女は危険視されるだろう。先ほどの俺と同じく、少女はおぞましいものと見なされるだろう。人間は、未知を恐れるようにできているのだから。


 しばらく悩み、俺は少女に提案した。


『誓ってやましいことはしない。傷の手当をしたいから、家(うち)まで来てくれるか?』


 俺の住むマンションは、ここから歩いてすぐの場所にある。救急箱を備えてあるから、傷の手当てぐらいはできるだろう。


 間(ま)を置いて、少女は怖(お)ず怖(お)ずと頷いた。





 これが、少女との――エリーとの出会いだった。

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