第一話
「いい風ね」
「そうですね、悪くない」
晴天に恵まれた空に涼やかな風が吹き抜ける。軽やかに踊る草葉の絨毯の上に彼女と彼は立っている。
枝毛が目立つ箒を手に持つ彼女は、空を仰ぐ。
ひつじ雲の一つもない澄み渡った空には、時折まるで風と踊っているかのような様相で草葉が舞う。
「今日飛んだら気持ち良いでしょうね。正直羨ましいですよ、花梨さんが」
風になびく長く伸びた前髪を気にしながら、彼は自らが花梨と呼んだ女性に羨望の眼差しを向ける。
「確かに今日は絶好の飛行日和ね。でも弟子くんだって、直ぐに飛べるようになるわ。そのために私のところにきたんでしょ?」
「確かにそうですけど………直ぐに飛べると言われても、弟子になって一カ月あまり経っても、箒一つ握らせてくれないじゃないですか。後、その呼び方止めてください」
「だって怖いのよ、空の世界は。確かに私は空を飛べる。でも空は元々私達人間が住まう世界じゃない。翼を持たない者が空に挑み、今までにどれだけの人間が仮初めの翼を捥がれ、地に墜ちか知らないわけじゃないわよね?」
「それは………」
そう言ってうな垂れた彼の髪に柔らく温もりのある手が置かれた。しかし彼の髪は撫でられることなく、クシャクシャと掻き回されてしまう。
「何するんですか、花梨さん! それも止めてって、いつも言ってるじゃないですか!」
「だーめ。呼び方も撫で方も全部私の気分次第で変わるのよ。だから今日も大人しくここで待ってなさい。焦る必要なんてないんだから」
そう言い残し彼女は踵を返す。空を仰ぐ瞳は鈍色で、お世辞にも世界を覆う蒼天に似つかわしいとは言えない。
「じゃあ、行ってくるから。ちゃんと大人しくしてるのよ!」
箒に跨ると彼女の足元に一陣の風が生まれ、次の瞬間には彼女の姿は地上から失せ、草葉と共に遥か頭上へ登っていく。
彼女の姿はやがて点となり、その動きを止める。地上の温もりはその姿を潜め、蒼天と厳寒が支配する空で彼女の吐く息は白く凍てついている。
──彼女が飛び立った軌跡を彼の視線が追う。
「あんな風に飛べれば気持ちいいんだろうな」
自然と独り言が口をついて出る。彼女は一度出掛けてしまうと中々帰って来ず、彼は日がな一日、草葉に腰を下ろし彼女の帰りを待つことになる。
──地上を見下ろす。つい先刻まで彼と見ていた風景は姿を消し、一切の緑が失われた大地は灰に染まっている。知らず知らずの内に唇を強く噛み締めてしまう。血が滲み、血はやがて雫となり灰に塗れた大地へ落ちる。大地に落ちた彼女の血液が灰の色彩を変えることはなかった。
──静寂に満ちた空を裂くように、音が近付いてくる。虫の羽音を想起させる、それが彼女の鼓膜を震わせる。
不快さを隠すことなく、彼女は視線を音の発生源へ向ける。地上で彼に対し見せていた表情から温和さは失われ、眼光鋭く目前に迫る何者かを見据える。
『毎度毎度精がでるね、お嬢さん』
頭に直接語りかけてくる、その声を彼女は聞いたことがなかった。男性の声音とも女性の声音とも判断がつかない、中性的な声音。
「誰?」
『さぁ、誰だろう。お嬢さんなら知っていると思うけどな』
「買い被らないで。なんでも知ってる人間なんて、そうそういないわ」
『人間なんてよく言う。お嬢さんが人間なわけないだろう。眼下に広がる景色を見てご覧よ。これはお嬢さん、あなたの仕業でしょ?』
唇を噛む。血が滲むが知ったことではない。彼女は箒に立っていた。手を掲げ、声のする方目掛けて振り下ろす。
空気が切れる音がした。いや空気を切ったのではない。次元を両断したのだ。片手だけで。
『いやー、流石は獣に堕ちた魔女。この力、到底敵いませんわ。この力で守ったもの、大事にしなきゃいけませんよ。滅ぼしたものもね』
そう言い残し、何者かの気配は霧散した。
ため息をつく。あれは一体誰だったのか。分からないことばかりだが、今日はそんな事を思案するためにきたわけではない。『灰の雫』と呼ばれる花を手に入れるのが今日の目的だった。あの場所で待っている少年にはこの花がどうしても必要なのだ。
とはいえ、生えている花なんてもう残り少ない。殆どはもう彼女が取ってしまっていたから。それでも彼女は探す。たった一人の家族である少年のために。
━━草花の香りが鼻を抜ける。彼女は少年が待つ地に降り立った。
「花梨さーん!!!」少年が手を振りながらこちらに駆けてくる。その目はキラキラと光を放っていた。
「おー弟子くん、お出迎えご苦労。はい、これ」そう言って先程摘んできた花を少年の手に優しく握らせる。
「灰の雫ですね! でもよく見つかりましたね! 花梨さん言ってたじゃないですか、もう見つからないかもしれないって……」
「それでも見つかったんだからいいの! ほらそのまま食べなさい!」
少年は彼女と花をいったりきたり、視線を彷徨わせている。「どうしたの?」
「なんか、食べるのが勿体無くて……花梨さんがせっかくとってきてくれた花……少しの間、部屋に飾ってもいいですか?」
「まぁ、いいけど。出来るだけ早く食べるのよ」
「はい! 分かりました!」
少年は踵を返し、足取り軽やかに家の方へ向かっていく。
彼女は背伸びをする。考えなければならない事がまた一つ一増えた。日中現れた相手が一体誰なのか。調べる必要がある。
「弟子くんにだけは手を出させるわけにはいかない」
読んでくださり、ありがとうございました。
コンテストに応募しようと思い、書き始めました。
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