湖底に咲く花の下で
月は天高く昇り、蒼白い光のリボンを幾筋も女王の庭に投げかけていた。
女王は、絹の寝間着の上にショールを羽織り、金の靴を履いた足で、夜に咲く花々の間を縫うようにさまよい歩いた。
イチイの枝先に張られた蜘蛛の巣には夜露が宿り、水晶の首飾りのようにきらめいた。暗く沈んだ木立のどこかで、ナイチンゲールがしのびやかに鳴いている。夜風はライラックの茂みから銀色の花びらをさらいあげておどらせ、庭に立ちこめていた薄もやのカーテンをふわりと薄れさせた。
薄もやが吹き払われた噴水のそばで、一人の子どもがうずくまり、しくしくと泣いていた。その姿を見てとって、女王は足を速めた。
「娘や、どうしたのです。さがしましたよ。さあ、わたくしのそばにいらっしゃい」
肩からはずしたショールを子どもに着せかけて、噴水の縁石に腰掛けた女王は子どもを膝に抱き上げた。なおもぽろぽろと涙をこぼす目をのぞきこむ。
「いったい何があったの。どこにも姿が見えないから心配したのよ。また、お姉様たちがあなたの飾り帯や櫛をとってしまったの?」
女王は三人の娘を産んだが、姉姫たちは幼い頃からきららかに輝く美しい髪をしていた。口々に褒めそやす世話係の女官たちにのせられて、鏡にうつしてはため息をつき、長く伸ばしては自慢にしていた。
おしゃまが過ぎて、お互いに髪紐やピンを奪い合うのはしょっちゅうで、悪い時にはおとなしい末の姫君の持ち物でさえ平然と横取りしてしまうので、女王はしつけに頭を悩ませていた。
「お母様、ちがうの。眠っていたら、怖い夢を見たの」
しゃくりあげながら、三番目の姫君はかぶりを振った。
「なにも悪いことをしていないのに、ひどい目にあうの。痛いって叫んでも、誰も助けてくれないの。ひとりぼっちで、寂しくて冷たい場所で、ずっと痛くてたまらなくて、とてもとても悲しいの」
「宵闇にまぎれこんだ悪霊のかぎ爪が、お前のまぶたを刺したのね」
柔らかなおさなごの髪に口づけて、女王はささやいた。
「でも、何も案じることはありません。あなたのお父様は、恐ろしい魔物と戦ったことがある方なのよ。何度もお話ししたわね――昔むかし、まだ王女であった頃、わたくしは魔物の呪いをうけて、病にたおれてしまったの。どんなに高名なお医者様にかかっても貴重なお薬を飲んでも治ることはなく、ただただ死を待つしかなかった」
夜の庭で、女王は物語った。
「とうとう、わたくしの父上である国王は――あなたにとってはお祖父様ね――わたくしの病を癒やすことができた者とわたくしを結婚させると国中におふれを出したの。そこで、森の狩人であったあなたのお父様は、わたくしを呪った魔物に戦いを挑み、退治して、魔物の心臓をえぐりとって城に持ち帰った。その肉を煎じたお薬を飲むことで、わたくしは呪いを解き、健やかさを取り戻したの。あなたのお父様に片腕がないのは、魔物と戦った時、喰いちぎられたからなのよ。そんな危険を冒してまでも、あなたのお父様はわたくしの命を助けてくれたの。あなたは、そんな勇敢なお父様の子どもなのよ。妖魔も悪霊も、恐れることはありません」
「おそろしくはないの。でも、」
涙に湿った声で、三番目の姫君はつぶやいた。
「あたしは夢から覚めたらお母様が抱っこしてくれるけれど、夢のなかのあたしのそばには誰もいないの。胸のまんなかに穴が空いて、ふさがらないみたいに悲しいの……」
この感じやすく優しい、澄みきった末娘の心を、いつまでも守ってやりたいものだと女王は思うのだった。
充分に与えられているのになおも欲しがり、飾り物を奪い合ってはばからない年上の娘たちや、長く女王の城で住み暮らすうちに、かごに閉じ込められた鷹のごとき目をするようになった夫のことを思い浮かべ、すすり泣く娘を抱きしめ続けた。
***
誰かの手が肩に触れた気がして、三番目の姫君は振り返った。
けれどもそこには誰もおらず、遠く離れた廊の果てから、これから野遊びに出かけるらしい姉姫と、若い女官たちのはなやかな笑い声や靴音だけが響いていた。それもやがてこだまのように遠ざかっていった。
「娘や、どうしたのだね」
呼びかけられ、三番目の姫君はほほ笑みながらかぶりを振った。
「何でもありません、お父様。一番目のお姉様が、お出かけになる声が聞こえたの。髪に飾る松雪草を摘みに、野原へお散歩に行くのですって」
「おまえも姉さんたちのように、自分の楽しみのために遊んだり、身を飾りに行ってよいのだよ。もうそんな年頃だろう。わたしの世話にばかり時間を費やすことはない」
長椅子に身を休めた王婿は、気づかわしげに末娘を見やった。
三番目の姫君は、片腕の父の古傷にヤマモモの膏薬を塗ってやりながら、つぶやいた。
「いいえ、お父様。いつものように、森で狩人をしていた頃のお話をしてくださいな。枝角をそなえた大鹿を、猟犬たちと追った話を。餓えた狼の群れと一晩中にらみあった話を。弓を引いて、初めてしとめた野うさぎの話を――キノコの輪のなかでおどる妖精たちの話を。湖の霧のはてにあるという誰も知らない王国の話を。わたくしは、王宮で語られるどんな美辞麗句よりも、不思議に満ちた森の話が聞きたいのです」
「変わり者だね、おまえは」
王婿は、疲れたような笑みをくちびるに刻んだ。
美しい緑の野原で、一番目の姫君とその取り巻きの女官は楽しい時間を過ごしていた。
花かごは、彼女たちの手で摘まれた松雪草でいっぱいになっている。王女のまばゆい蜂蜜色の髪に編み込めば、山際から照りわたる朝の日射しのように麗しい眺めになることだろう。
早々に目的を果たした一行は、澄みわたった空に向かってヒバリがさえずる声を聞いたり、岩陰で見つけた木イチゴを味わったり、のびのびと時間をつぶしていた。そんなとき、女官の一人が森を指さして驚きの声をあげた。
「お姫様、ご覧になって!」
靴をぬいで小川に足をひたしていた一番目の姫君は、呼ばれるままに顔をあげた。そして、桜桃のようなくちびるをぽかんと開けた。
暗い森の中から、一頭の馬がこちらに向かって歩を進めていた。
黒馬と見えたが、近付いてみれば、その毛並みは夜空のような濃紺、もっとも深く暗い青よりなお色濃かった。たてがみと尾はオパールのごとき乳白色、冷たく燃える火のようだ。
最初、警戒もあらわに娘たちは馬を遠まきにしていたが、歯をむきだしたり唸り声をあげたりする様子もないので、一人が勇気を振りしぼって手をのばした。馬はことさら人なつこい素振りは見せなかったが、無遠慮になでまわす手を拒むことはなく、おとなしく従順にしていたので、彼女たちを喜ばせた。
「かわいい子ね、わたくしを乗せて歩いてごらん」
一番目の姫君はたわむれに馬にまたがった。すぐに降りるつもりで。
馬はぴくりと鼻を動かした。そして、唐突に走りはじめた。
女官たちの笛のようなかん高い悲鳴が聞こえたが、すぐに後ろへ遠ざかって消えてしまった。今にも振り落とされそうで、一番目の姫君は馬の首に両手で抱きついた。
風を切り、馬は凄まじい速さで森を駆けた。姫君は恐ろしさのあまり息も絶えそうになりながら、ぎゅっと目をつぶった。緑の木立が途切れ、どこかひらけた場所に出たらしい。湿った冷たい風が姫君の頬を叩いた。馬が高く身をおどらせ、ざぶりと水音がしたが、必死になって馬にしがみついている姫君には聞こえたかどうか――ついに馬が駆け足から並足になり、立ちどまると、姫君はおそるおそる目を開いた。
「ひどいじゃないの、こんな場所に連れてきて。ここはどこなの?」
姫君は馬をなじりながら、地面に足を降ろした。
不思議な場所だった。足の下は白茶けた砂地で、見たこともない草花や苔が風もないのにしきりに身をくねらせている。あたりは瑠璃色の光に覆われていて、頭上の太陽はにじんだようにぼやけていた。水泡が天に向かって昇っていき、蜂蜜色の髪をかすめるように小さな魚がついと泳いでいったとき、姫君はやっと気付いた。
「ここは、湖の底なのだわ。でも、息ができるのはどうしてかしら。おぼれずにいられるのはどうしてかしら」
理由を聞きたくても、連れてきた肝心の馬は、黙りこくったまま姫君を見返すだけだ。
たたずむ青黒い馬の体の向こうに、大きな白い木が生えているのが見えた。わけもわからぬまま、姫君は木に歩み寄った。
木の幹は骨のようにしらじらとして、灰色の木の葉がゆらゆらとうごめいていた。葉と葉の間にいくつも赤い実がなっていることに気付いた姫君は、ごくりと唾をのんだ。突然のどの渇きを覚えたのだ。姫君は手をのばし、アンズのようなその実をもぎとり、くちびるに運んだ。
その様子を、妖馬は静かな目でじっと見つめていた。
歯をたてた瞬間、姫君はあっと叫んで実を取り落とした。赤い実はルビーでできていて、どうあっても食べられなかったのだ。
馬はもう一度姫君を背中に乗せ、地上へ帰すと姿を消した。
青ざめた顔で手をつかねていた女官たちは、森の奥からとぼとぼと歩いてくる一番目の姫君を見つけた。
馬に振り落とされてしまったの、と濡れそぼった姫君は弱々しくほほ笑んでみせた。湖のなかに落ちたから、怪我もしなかったわ、と。蜂蜜色の髪からもしずくがしたたり落ちていて、女官たちはあわてて毛布で姫君をくるみこんだ。
「外聞が悪いから、誰にも言わないで」
姫君は女官たちに約束させた。奇妙な馬のことも、姫君が湖に落ちたことも、たとえ女王様にさえ漏らさない、と忠実な女官たちは誓った。
けれども、その日以来、一番目の姫君の持ち物に大粒のルビーの髪飾りが加わった。いったいどこで手に入れたものか姫君は語らず、女官たちは首をかしげた。
***
誰かに名を呼ばれた気がして、三番目の姫君は振り返った。
けれどもそこには誰もおらず、遠く離れた廊の果てから、これから野遊びに出かけるらしい姉姫と、若い女官たちのはなやかな笑い声や靴音だけが響いていた。それもやがてこだまのように遠ざかっていった。
「娘や、どうしたのだね」
呼びかけられ、三番目の姫君はほほ笑みながらかぶりを振った。
「何でもありません、お父様。二番目のお姉様が、お出かけになる声が聞こえたの。髪に飾るスミレを摘みに、野原へお散歩に行くのですって」
「おまえも姉さんたちのように、自分の楽しみのために遊んだり、身を飾りに行ってよいのだよ。もうそんな年頃だろう。わたしの世話にばかり時間を費やすことはない」
長椅子に身を休めた王婿は、気づかわしげに末娘を見やった。
「おまえの返事を待ちかねている求婚者もいるだろうに……」
三番目の姫君は、片腕の父の古傷にヤマモモの膏薬を塗ってやりながら、つぶやいた。
「わたくしが一緒になる方は、王宮にはいないようが気がするの、お父様。どなたも素晴らしい仕立ての服を着こなして、耳をなでるような詩を歌いかけてくださるけれど、わたくしがそばにいてさしあげたいと思う方は、ほかにいるように思うの」
王婿は、疲れたような笑みをくちびるに刻んだ。
「へだてのある恋はすすめないよ、娘や。王女の結婚相手には、やはり宮殿で生まれ育った王子や貴公子がふさわしいものだ……」
美しい緑の野原で、二番目の姫君とその取り巻きの女官は楽しい時間を過ごしていた。
花かごは、彼女たちの手で摘まれたスミレでいっぱいになっている。王女のまばゆい真珠色の髪に編み込めば、星明かりをはじく雪野原のように麗しい眺めになることだろう。
早々に目的を果たした一行は、羊雲の下をツバメが横切るのを見上げたり、切り株に絡んだ野ブドウで指先を染めたり、のびのびと時間をつぶしていた。そんなとき、女官の一人が森を指さして驚きの声をあげた。
「お姫様、ご覧になって!」
靴をぬいで草地でくるくるとおどっていた二番目の姫君は、呼ばれるままに顔をあげた。そして、桜桃のようなくちびるをぽかんと開けた。
暗い森の中から、一頭の馬がこちらに向かって歩を進めていた。
黒馬と見えたが、近付いてみれば、その毛並みは夜空のような濃紺、もっとも深く暗い青よりなお色濃かった。たてがみと尾はオパールのごとき乳白色、冷たく燃える火のようだ。
最初、警戒もあらわに娘たちは馬を遠まきにしていたが、歯をむきだしたり唸り声をあげたりする様子もないので、一人が勇気を振りしぼって手をのばした。馬はことさら人なつこい素振りは見せなかったが、無遠慮になでまわす手を拒むことはなく、おとなしく従順にしていたので、彼女たちを喜ばせた。
「かわいい子ね、わたくしを乗せて歩いてごらん」
二番目の姫君はたわむれに馬にまたがった。すぐに降りるつもりで。
馬はぴくりと鼻を動かした。そして、唐突に走りはじめた。
女官たちの笛のようなかん高い悲鳴が聞こえたが、すぐに後ろへ遠ざかって消えてしまった。今にも振り落とされそうで、二番目の姫君は馬の首に両手で抱きついた。
風を切り、馬は凄まじい速さで森を駆けた。姫君は恐ろしさのあまり息も絶えそうになりながら、ぎゅっと目をつぶった。緑の木立が途切れ、どこかひらけた場所に出たらしい。湿った冷たい風が姫君の頬を叩いた。馬が高く身をおどらせ、ざぶりと水音がしたが、必死になって馬にしがみついている姫君には聞こえたかどうか――馬が駆け足から並足になり、ついに立ちどまると、姫君はおそるおそる目を開いた。
「ひどいじゃないの、こんな場所に連れてきて。ここはどこなの?」
姫君は馬をなじりながら、地面に足を降ろした。
不思議な場所だった。足の下は白茶けた砂地で、見たこともない草花や苔が風もないのにしきりに身をくねらせている。あたりは瑠璃色の光に覆われていて、頭上の太陽はにじんだようにぼやけていた。水泡が天に向かって昇っていき、真珠色の髪をかすめるように小さな魚がついと泳いでいったとき、姫君はやっと気付いた。
「ここは、湖の底なのだわ。でも、息ができるのはどうしてかしら。おぼれずにいられるのはどうしてかしら」
理由を聞きたくても、連れてきた肝心の馬は、黙りこくったまま姫君を見返すだけだ。
たたずむ青黒い馬の体の向こうに、大きな白い木が生えているのが見えた。わけもわからぬまま、姫君は木に歩み寄った。
木の幹は骨のようにしらじらとして、灰色の木の葉がゆらゆらとうごめいていた。葉と葉の間にいくつも緑色の実がなっていることに気付いた姫君は、ごくりと唾をのんだ。突然のどの渇きを覚えたのだ。姫君は手をのばし、アンズのようなその実をもぎとり、くちびるに運んだ。
その様子を、妖馬は静かな目でじっと見つめていた。
歯をたてた瞬間、姫君はあっと叫んで実を取り落とした。緑色の実はエメラルドでできていて、どうあっても食べられなかったのだ。
馬はもう一度姫君を背中に乗せ、地上へ帰すと姿を消した。
青ざめた顔で手をつかねていた女官たちは、森の奥からとぼとぼと歩いてくる二番目の姫君を見つけた。
馬に振り落とされてしまったの、と濡れそぼった姫君は弱々しくほほ笑んでみせた。湖のなかに落ちたから、怪我もしなかったわ、と。真珠色の髪からもしずくがしたたり落ちていて、女官たちはあわてて毛布で姫君をくるみこんだ。
「外聞が悪いから、誰にも言わないで」
姫君は女官たちに約束させた。奇妙な馬のことも、姫君が湖に落ちたことも、たとえ女王様にさえ漏らさない、と忠実な女官たちは誓った。
けれども、その日以来、二番目の姫君の持ち物に大粒のエメラルドの髪飾りが加わった。いったいどこで手に入れたものか姫君は語らず、女官たちは首をかしげた。
***
父親の薬が底をついたので、三番目の姫君はヤマモモをさがしに森へ出かけた。
太陽は天高く昇り、金色の光のリボンを幾筋も森に投げかけ、姫君の肩に木漏れ日をたわむれさせた。
三番目の姫君は、くすんだ髪の上に頭巾をかぶり、赤い靴を履いた足で、生い茂る木々の間を縫うようにさまよい歩いた。姫君のかごはヤマモモでいっぱいになり、これだけあれば薬を作るのに充分足りるだろうと思われた。
ふいに日がかげり、梢がしなうほどの強い風が吹き付けた。姫君はよろめきながら頭巾をおさえ、とっさにヤマモモのかごを抱きかかえたが、両方ともふりもぎるように腕から奪われ、飛ばされてしまった。致し方なくその場にうずくまって、じっとしていた。
ようやく風がやみ、乱れた髪に手をやりながら立ち上がると、姫君の目の前に、黒い馬がすっくりとたたずんでいた。その毛並みは夜空のような濃紺、もっとも深く暗い青よりなお色濃かった。たてがみと尾はオパールのごとき乳白色、冷たく燃える火のようだ。だが、姫君は眉を寄せた。
「怪我をしているの?」
馬は胸からどくどくと血を流していた。
「かわいそうに。こちらへいらっしゃい。城に戻れば、薬があるわ」
だが、姫君がうながしても、馬は一歩も歩きだそうとはしなかった。押しても引いても頑として動こうとしないので、姫君はそっと馬に触れながら話しかけた。
「城へ行きたくないの? 分かったわ、では水辺で傷を洗いましょう。それくらいはさせてちょうだい。痛々しくて見ていられないの」
そうたのむと、おもむろに馬はひづめの音を響かせて自ら歩き始めた。案内しようとでもいいたげに。姫君は傷をかばうように寄り添いながら、馬を見上げた。ビロードのようなつややかな馬体は目をひいた。いつしか霧が目の前にたちこめて、あたり一面をまっしろに塗り潰してしまっても、馬の姿だけはくっきりと浮かび上がり、決して見失うことはなかった。
どこまでついていけばよいのだろう。姫君は半ばぼんやりとしながら道なき道を歩いていった。かたわらの馬が立ちどまり、ようやく我に返る。ほんの数刻だった気もするし、一日中歩き通しだったような気もした。なんだか雲を踏んでいるようで、自分の感覚がおぼつかなかった。
たたずむ青黒い馬の体の向こうに、大きな白い木が生えているのが見えた。わけもわからぬまま、姫君は木に歩み寄った。
木の幹は骨のようにしらじらとして、灰色の木の葉がゆらゆらとうごめいていた。葉と葉の間にいくつも黄色い実がなっていることに気付いた姫君は、ごくりと唾をのんだ。突然のどの渇きを覚えたのだ。姫君は手をのばし、アンズのようなその実をもぎとった。
その様子を、妖馬は静かな目でじっと見つめていた。
姫君はその実を自分の口に運ぶことなく、馬のそばに戻ってきた。
「お食べ。おまえもここまで歩いてきて疲れたでしょう」
姫君の手から実を食べると、馬はため息を吐き、甘えるように鼻面を姫君の髪にすり寄せた。
『あなたも食べるといい。甘くて、柔らかで、のどにしみわたるようだよ』
おだやかな低い声を聞いて、姫君はまばたきした。
「あなたは妖精?」
馬はかすかに笑ったようだった。
『おあがり、娘や。あなたをさがしていたのだ。食べ終えたら、あの木蔭で少し休もう。あなたに聞いてほしい物語がたくさんあるのだよ』
すすめられるままに、姫君はもう一つもいだ木の実を、自分のくちびるに運んだ。
歯をたてると、木の実は口のなかでほろりとくずれて、ひんやりとした味が舌に広がった。のみこむと、ふわりと体が軽くなったような気がした。
長い脚をたたみこむように馬は木蔭に座った。さそわれるようにその隣に腰をおろし、姫君は歩き疲れた体をもたせかけた。なぜかまぶたが重く、意識がとろけていくようだ。馬の横腹にぴたりと耳をつけても、心臓の脈打つ音は聞こえなかった。ただ、静かに馬が話す言葉だけが、もやがかった姫君の頭にしみこんでいった。
『……昔むかし、人間の国に身分違いの恋をした者たちがいた。若者は貧しい狩人で、王の娘との結婚は許されなかった。そこで二人は策を練った――姫君は呪いの病にたおれた振りをした。もちろん詐病ゆえに、医者にかかっても薬をのんでも治りはしない。若者は水妖を罠にかけて襲った。誰を呪ったこともなく、何の罪もなく森に遊んでいた水棲馬を。若者は歯向かわれて片腕を失ったが、それでも心臓をえぐりとって城に持ち帰り、その功によって王女と結ばれた』
湖の底で、妖馬は物語った。
「誰か、あなたの苦しみに寄り添ってくれる者はいないの?」
姫君はつぶやくようにたずねた。
「どこかに、あなたの傷を癒やせる者はいないの?」
妖馬はくろぐろと濡れた目で見返した。
***
湖面に浮かべた船の上から、姉姫たちは必死に呼びかけたが、答える声はなかった。
姫君たちはルビーとエメラルドの髪飾りを、自慢にしていた蜂蜜色と真珠色の髪ごとふっつりと切り落とし、ためらいなく水面になげうった。妹を返してくれと叫びながら。
髪房ははらはらときらめきながら水中を沈んでいき、からまりあい、やがて花びらを織りなして、骨のようにしらじらとした湖底の木に金銀の花を咲かせた。それを誰か見上げる者があったかどうかは知れない。
だが、湖の沖からうねるようにして吹き寄せてきた風波が、岸辺に立ちつくす女王と王婿のもとに届けた――あの日、三番目の姫君が履いて出かけた赤い靴を。
地面にくずおれた女王の膝の上で、持ち主を失った靴は、つがいの小鳥のようにいつまでも寄り添いあっていた。