【終末ワイン】 エンド・オブ・ライフ (50,000字)
需要が無いままにシリーズ11作目。短編なのに50000字を超える会話多めのネガティブストーリー
寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事がわかっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。
6月30日 厚生労働省終末管理局
月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』の葉書を作成するプログラムが起動した。今月は、9001通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。
◇
「助かって良かったな。もう自殺なんて真似するなよな?」
清潔に保たれている白いパイプベッドの上に横たわる伊豆見重彦に向かって、吾妻真一が言った。
伊豆見は自殺を試みた。が、幸か不幸か直ぐに発見され、救急車で病院へと運ばれた。運び込まれたERに於いて医師による懸命の治療の甲斐もあり、幸か不幸か一命を取り留めた。その後容態が安定した為、8床の相部屋へと移された。そこで高校時代の同級生である吾妻と再会した。
吾妻が病院を訪ねたのは、伊豆見と同室に入院している知人を見舞う為だった。その際、病室のネームプレートに見覚えのある名前がある事に気付いた。すぐにその名前が高校時代の同級生である伊豆見重彦だと気付き声を掛けた。とはいえ、首の後ろまで伸びたボサボサの髪に、1週間以上は剃っていないであろう不精ひげというその伊豆見の姿に、30年以上前の高校時代の面影は殆ど見られず、名前を見てなければ気づかない程であった。伊豆見も吾妻に声を掛けられた際、直ぐに高校の同級生だとは気付かなかったかが、吾妻の顔を見ているうちに、少しだけ残る高校時代の面影に気付いた。
点滴の注射針が腕に刺さってはいたものの、目立った外傷らしき箇所も見当たらない。そんな一見元気そうに見える伊豆見に対し「どこか悪いのか?」と、吾妻は質問してみたが伊豆見は何も答えなかった。伊豆見は同級生に見つかってバツが悪そうに視線を合わそうともしなかった。
伊豆見のそんな様子に「何か言いたくない病名なのかな」と、吾妻は気を遣うつもりで知人のベッドの方へと早々に退散した。そして知人から「彼は自殺を試みて失敗したらしい」と小声で耳打ちされ、吾妻は再び伊豆見のベッドへと向かった。
「お前……。死のうとしたらしいな? とにかく助かって良かったな。もう自殺なんて真似するなよな?」
「お前には関係ないだろ? 知人の見舞に来たんだろ? 済んだら帰れよ。俺の事は放っておけよ」
伊豆見は不貞腐れるように顔を背けていた。そんな顔を背ける伊豆見の首に吾妻の目が留まった。病院から支給されたであろう水色のワンピースのパジャマ越しにチラリと見えた伊豆見の首の周囲には、1センチ幅の痣の様な跡があった。それを目にした吾妻は「伊豆見は首を括ったのかな」と想像した。
「なんで自殺なんて真似したんだよ」
「真似じゃねぇけどよ。とにかく放っておいてくれ」
「お前さあ、子供みたいな事言うなよ」
「だから俺の事は放って置いてくれって」
「もう自殺なんて馬鹿な事するなよ?」
「ったく、うるせえな。だいたい何で生きて行かなきゃならないんだよ」
「生まれたからには、精一杯生きるのが義務って物だろう?」
「義務? 何だよ義務って。それって個人を尊重していないと言えないか?」
「自殺を尊重するって何なんだよ。そんなの尊重なんて出来ねーよ。生きていれば良い事だってあるかもしれないじゃないか? そもそも自殺する意味が理解できないね」
「別に理解して欲しいなんて言ってないけどな。まだ20歳だったら『この先、良い事があるよ』って言葉にも耳を貸すかもしれないけど、もう俺達50歳だぜ? 他人から見れば足りないと言われるかもしれないが、自分なりに真面目に頑張って生きてきたつもりだ。良い事ってやつを期待して、これからも生きていくのって面倒すぎだろう? ……もう充分生きたよ。だから放って置いてくれ」
ベッドの上の伊豆見は、尚も不貞腐れるようにして吾妻に顔を背けていた。
「親とかが聞いたら悲しむぞ?」
「親が鬼籍に入った今だからこそ、終わりにしようと思ってたんだよ。とりあえず、親より長生きはした。親不幸にはならずに済んだ。それで充分だ」
「……そうか。両親亡くなってたんだ。知らなかったよ。悪かった」
「別に吾妻が謝る必要は無いさ。とにかく俺の事は放っておいてくれ」
伊豆見の両親は公営アパートに住んでいた。伊豆見は民間のアパートに一人暮らしをしていた。伊豆見の父親は3年前に病死。母親は半年前に老衰で亡くなっていた。母親が亡くなった際、伊豆見はアルバイトをしながら生計を立てていたが、母親が亡くなったと同時にアルバイトを辞め、親の葬儀と身辺整理した後に自殺に及んでいた。
「でも伊豆見、世の中には生きたいけど生きられない人が沢山いるんだぞ? それこそ俺達が想像も付かない過酷な状況でも頑張っている人達が沢山いるんだぞ?」
吾妻からのそんな言葉に、伊豆見は吾妻に聞こえるように舌打ちをした。
病院関係者にも同様の事を言われた。事情聴取に来た警察官にも同様の事を言われた。だがそれが何だというのだろうと思って聞き流した。意味の無い話と思って聞き流した。そういう過酷な環境で生きている人達が自分とまったく同じ境遇になったら幸せにでもなるともで言うつもりなのだろうかと。絶対に悲観しないとでも言うつもりなのだろうかと。そういった事を口にする人達は隣の芝生が青く見えるだけであり、自分の様な環境で生きている人間を馬鹿にしている見方では無いのかと。
「またそういう話か。そういう話は聞き飽きた。他の人がどうとかって関係あるか? 意味ねぇよ」
「病院のベッドに寝ているお前に向かって言う事でも無いかもしれないけど、お前のは甘えてるだけなんじゃないのか?」
「だから、そういうのはどうでもいいんだって。俺なり頑張ったんだよ。別に誰のせいにするつもりでも無い。ただもう疲れたんだよ。これからも生きていく事を考えたら疲れるんだよ。生きていれば、これから良い事があるかもしれないって言うけどよ、逆に言えば良い事なんて無いかも知れない、辛い事ばかりかもしれないって事でもあるだろ? 良い事があるかもしれないという期待に賭けて、これからも頑張るモチベーションはもう無いんだよ。それをお前が理解するかしないかは、どうでも良い事なんだよ」
「病院に運ばれてから医者も懸命になって、お前の命を救おうと努力してくれたんだろ?」
「だから何だよ? 俺を見つけた人に感謝しろとでも言いたいのか? 俺を病院まで運んだ救急隊員に感謝しろってのか? 俺を助けた医者に感謝しろって言うのか? 俺は自殺しようとしたんだぞ? それを助けたからって皆に感謝しろって言うのか? 俺は自殺したんだぞ? 自殺する側からしたら迷惑な話だぞ?」
「感謝はともかくとして、伊豆見が自殺に失敗したって事は『これからも生きろ』って事かもしれないじゃないか?」
「お前はよくそういう綺麗事を真顔で言えるな? 全く、自殺を見つかるなんて俺はツイてないな……」
高校だけ一緒だった2人は現在50歳となっている。伊豆見は高校卒業後にとある町の小さな木材加工所に就職し働いていた。そして伊豆見が40歳を過ぎた頃にその木材加工所は倒産した。伊豆見は次の仕事を必死になって探しはしたものの、社員としての仕事は見つからず、結果アルバイトという働き方で長年に渡って生計を立てていた。それは貯金はおろか、贅沢をせずとも食事に事欠きそうな毎日であり、万が一にも病気や怪我などを負ってしまえば即座に破綻しそうな程にギリギリの生活といった物だった。吾妻はといえば、大手建設会社で支店長にまで出世していて、明日の食事を心配する事など皆無といった生活水準の日々を送っていた。
吾妻と伊豆見。同じ高校に通った同級生とはいえど、卒業後は一度も会った事も無いままに30年が経過した今、まったく別の道を歩んだ2人の境遇は天と地ほどに開いていた。
「ツイてないなんて言うなよ。どうしてそうネガティブに考えるんだよ。仮に俺の言っている事が綺麗事だとしても、現にお前は助かって、こうして生きている訳だろ?」
「こっちだって、よくよく考えた上で実行したんだよ。それを台無しにされたって気持ちの方が大きいんだよ」
伊豆見はそれなりの葛藤や覚悟もあっての自殺であった。実際にはあと5分発見が遅れていれば自殺は成功し、伊豆見はこの世には居なかった。
「伊豆見は、結婚してたんだっけ?」
「してない」
「もし結婚してたら、奥さんや子供の事を考えて、自殺なんてしなかったかもな」
「ああ。そうかもな。今では結婚なんかしてなくて、つくづく良かったと思っているよ」
「全然、話を聞く気は無いようだな。とりあえず今日は帰るよ。そういえば、いつ退院できるんだ?」
「さあ? 明後日位じゃねえのかな。知らねぇけど」
「そうか、まあ体は大事にしろよ? じゃあな」
「ああ、じゃあな」
伊豆見の居る病室は8床。それらのベッドには見た目にも分かる手足の骨を折った者、伊豆見同様に点滴で繋がれている者等で全て埋まっていた。伊豆見達は大声で話していた訳でもなかったが、皆が伊豆見達2人の話に聞き耳を立てていた。伊豆見以外は怪我や病気を治したくてその場所に居た。それらの者は皆、死にたいと言う伊豆見を、自殺を図ったという伊豆見を、腫れ物には触れないほうが良いとでも言いたげに、ある者は背を向け、ある者は視線を合わさぬようにして過ごしていた。その雰囲気を伊豆見も察していた。しかし「自分から話した訳では無い。自分から病院に来た訳でもない。勝手に病院に連れて来られただけだ」と、口にはしないものの、それを態度で示すかのように背を向け頭から布団を被ると、昼間であるにも拘らず眠りについた。
伊豆見が入院する病院を後にし、自宅マンションへと帰宅した吾妻は、ダイニングテーブルに俯きながら座る妻の栄子の姿が目に留まり声を掛けた。
「栄子どうした? 具合でも悪いのか?」
「……あ、お帰りなさい。いえ、私はどこも悪くはないわ」
夫の声にワンテンポ遅れながらも顔を上げた栄子は、そう言って再びテーブルに目を落とした。
「そうか、なら良いけど……」
栄子が見つめるテーブルには葉書サイズの紙が置いてあった。吾妻はその紙に目を留めると「何だこれ?」と言いながら手に取った。
吾妻が手にしたそれは葉書であり、裏側に記されている差出人には『厚生労働省終末管理局』との記載があった。吾妻は訝しみながらも葉書を裏返すと、宛先欄には『吾妻真一様』と書かれ、その宛先の左横には目を引く赤字で『終末通知』と書いてあった。吾妻は思考が止まった。そしてハッと気付いたかのように眼を見開いた。
「この葉書……。俺宛の死亡宣告って事か……」
ダイニングテーブルの上には終末通知が置かれていた。吾妻と栄子はそのダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに座り、暫くの間、テーブルの上の終末通知をジッと見つめていた。
2人のいるダイニングルームには沈黙が流れていたが、それに痺れを切らした吾妻がようやく口を開いた。
「これも運命って事で受け入れるしかないな……」
理解は出来るが納得は出来ない。だが騒いでも、暴れても、泣いても、喚いても何の意味もない。この期に及んで自暴自棄になるのも無意味であり、妻にそんな姿を見られたくない。
栄子はずっと俯いたままに、時折、嗚咽を漏らしながら泣いていた。吾妻にも泣きたい気持ちはあったが、目の前の栄子が嗚咽を漏らしながら泣いている姿を見たせいもあってか、涙も流さず、逆に冷静を保っていられた。
「あの……。ご、ごめんなさい……」
「ん? 別に栄子が謝る事でも無いだろ?」
「そうじゃなくて……。その葉書の中に……」
「葉書の中?」
吾妻は目の前のテーブルの上に置かれた終末通知の葉書を手に取った。その葉書は中開きタイプの葉書で、すでに開いた形跡があった。
『あなたの終末は 20XX年 8月 6日 です』
葉書を開いた吾妻の目に飛び込んできたのは、終末通知の葉書を開いた片方のページに大きな文字で記載されたそんな文言であり、今日が8月2日なので終末日迄は、残り4日と意味する事が記されていた。
「あと4日? 俺はあと4日しか生きられないって事か?」
「本当にごめんなさい。その葉書、多分だけど、1か月前位に届いたの……。でも、その時は何の葉書かよく確かめずに、一緒に届いていたチラシなんかと一緒にしちゃってて、今日、チラシとかを整理してて、そこでようやく気付いたの。本当にご免なさい……」
栄子は相変わらず泣いていた。本来であれば1カ月ほど前に届いていた通知であり、死亡宣告を受けてから1か月近くの間を、出来るだけ悔いを残さない様に生きられる猶予があったはずなのに、それを自分の不注意で台無しにしてしまった。無駄な時間という訳ではないが、より濃密な時間を大切に使えたはずなのに、それを無駄にしてしまったと、栄子は激しく悔やんでいた。
「そうか。まあ仕方ないじゃないか。残りが4日と聞いて、ちょっとショックではあるけど……。うん、仕方ないよ。うん、仕方ない……」
そんな栄子の姿を見て、吾妻は怒りを覚えるどころか、栄子に対して辛い思いをさせてしまった事を辛く感じた。同時に、残り4日の命であるなら、いっその事知らずにいた方が幸せだったかもしれないなと思った。
「そ、そういえば、室蘭の方に終末なんとかセンターってのがあって、確か心理カウンセラーみたいな人がいるって聞いた事があるな。早速、明日にでも行ってみるよ。そこへ行っても何の意味も無いのかも知れないけれど、わざわざセンターってのがあるって事は、何かしらの意味があるのかも知れないしな。栄子も一緒に行くか?」
4日後には死ぬ事が確定している中でカウンセリングなんてどうでも良いとは思っていたが、むしろ栄子の為にという気持ちで吾妻はそんな提案をした。
翌日、吾妻と栄子の2人は北海道室蘭市にある終末ケアセンターへと向かった。2人が暮らす札幌から室蘭の終末ケアセンターまでは特急の電車に乗って約2時間を要する。道内には他に3箇所の終末ケアセンターがあるが、吾妻達が暮らす札幌から最寄りのセンターが室蘭だった。
吾妻はベージュのジャケットにアイボリーのチノパン。栄子はカーキ色のワンピースに肩幅よりも小さい麦わら帽子。そして泊まる事を想定しての小さめのボストンバックという装いに、吾妻は「まるで夫婦で旅行している感じだな」と1人ほくそ笑んだ。
実際には、室蘭駅の1つ手前の母恋駅が終末ケアセンターの最寄り駅という事で、吾妻達2人は母恋駅で下車した。その母恋駅から約2キロの場所にある終末ケアセンターまでタクシーで行くつもりであったが、小さく古びたその駅前にはタクシーが1台もおらず、2キロ程度の距離ならばという事で、吾妻達2人は徒歩で向かう事にした。
その駅前には、その地域の名物なのか「母恋めし」なる大きめの看板と共に弁当屋らしき店が吾妻の眼に留まったが、今は食事をする気分でもなく、一路終末ケアセンターを目指す事とした。
車は通るものの2人の他に歩いている人は誰も居ないといったそんな道を、終末ケアセンターを目指して2人は静かに歩いて行く。
通りの両端には2階建ての家々がまばらに並び、その並びの中で極稀に商店が現れる。時折現れる路地の先に目をやると、低い山の稜線がチラチラと見えた。札幌中心部に近いマンションに住む吾妻は、普段見る事の無い低い山に囲まれている街と思しきその光景に、ほんの少し好感を抱きながら歩いて行く。
人気も無いそんな終末ケアセンターまでの道程を徒歩で向かう道中、吾妻と栄子は言葉を一切交わさない。耳に聞こえるのは自分達の靴音と時折通り過ぎる車の音のみ。2人とも何の話をすれば良いのか分からず、口を開く事が出来なかった。札幌からの電車の中に於いても2人は一切会話をしなかった。お互いに口を開くのが怖かった。
栄子からすれば、未来が閉ざされた夫に対して「未来の話をしてしまったらどうしよう」という恐怖にも似た思いがあった。
吾妻からすれば「これから死に行く自分の発言は自虐的になりそうで栄子を傷つける可能性がある。若しくは心理的に負担を与えるような発言になりかねない」と口を開けなかった。
お互いがお互いを心配するあまり、会話をする事が出来なかった。傍から見れば夫婦そろって室蘭へ旅行しに来たようにしか見えなかったが、当の本人達はそれどころではなく、決して明るく振る舞えるような状況では無かった。
あまりの会話の無さに、吾妻は栄子に気を遣うかのように口を開いた。
「そういえば昨日知人の見舞に行った時さ、高校の同級生に会ったんだよ。そいつは病気や怪我で入院していたんじゃなくて、自殺を図ったって事で救急車で病院に運び込まれて一命を取り留めたらしくってね。何があったかは詳しくは聞けなかったけど、自殺するなんて信じられないよ。何でそんな簡単に命を捨てられるのかねぇ」
歩きながら吾妻は、直近の出来事として何の気なしにそんな話をしたが、吾妻の1歩後ろを俯き加減に歩く栄子は無言のままだった。吾妻はチラリと顔だけを後ろに向けたが、俯いている事に加え、麦わら帽子の影となって栄子の表情は一切窺い知れなかった。
栄子はなぜ吾妻がそんな死の話を振って来るのだろうと思った。自宅からここに来る迄の間、ほとんど会話らしい会話が無かった事に気まずくなり適当な話をしただけかもしれないが、よりにもよって何故自殺未遂などという死に纏わる話を振ってきたのか分からず、その話に上手く返事が出来ずにいた。
栄子には自分のせいで吾妻の貴重な時間を奪ってしまったという悔いがあった。吾妻は「そんな事は気にしなくても良い」と、栄子に何度も言い聞かせはしたが、栄子からすればそんな吾妻の言葉に何の意味も無かった。ただただ取り返しのつかない事をした。残りの短い時間を奪ってしまったという自分の行為を悔いるばかりであった。
母恋駅から終末ケアセンターまでの2キロの道中は夫婦2人がゆっくり歩いて40分程で終了した。
道路に面したその敷地には凡そ50台の車が停められそうな未舗装の駐車場が広がり、その奥にその建物は建っていた。もう少し古びていれば史跡といえそうな石造りを思わす3階建ての大きい建物。一見、西洋の神殿を思い起こさせるような石柱が建物の周囲をぐるりと囲み、その頭上を屋根瓦で覆うといった和洋折衷の建物。
玄関は低めの段差と奥行きの長い5段の階段を上った先にあり、吾妻達はその階段を1歩1歩ゆっくりと上った。そして全面ガラスの玄関口までやってくると、両引き戸の自動ドアがゆっくりと開き始めた。
音も無くスーッと開かれた自動ドアを通って中へと入ると、そこから10メートルほど離れた正面の上部に「受付」と書かれたブースが吾妻の目に留まった。
横幅約5メートルといった素っ気無いそのブースには、制服と思しき明るいグレーのブラウスに濃いグレーのリボンタイといった装いの2人の女性が座っていた。
2人の女性は玄関口の吾妻達に気付くと、座ったままの姿勢で吾妻達に向かって軽く頭を下げた。それを見た吾妻達もすぐに軽く頭を下げ、2人の女性が座る受付へとまっすぐに向かった。
受付前までやってきた吾妻達に対し、2人の女性は「いらっしゃいませ」等と声をかけるでもなく、ほんの少し口角をあげた表情で以って吾妻達を迎えた。
「あの、終末通知の葉書をもらったのですが」
吾妻は少し小声ぎみにそう言って、ジャケットの内側ポケットから終末通知の葉書を取り出し受付に座る女性に提示した。
「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」
受付に座る女性はそう言ってどこかに電話をかけ始めた。吾妻は終末通知の葉書をジャケットの内側ポケットにしまうと、終末ケアセンターの建物内を手持無沙汰にぼんやりと眺め始めた。栄子は吾妻の後ろを1歩下がった位置で俯き加減に床を見つめていた。被っていた麦わら帽子を手に持つ栄子の表情には疲れが見えていた。
数分後、吾妻と同年代と思しきスーツ姿の1人の男性が2人の目の前に現れた。
白髪混じりの短髪に少しお腹も出ている小太りの中年男性。男性は吾妻の1メートル手前まで来て立ち止まると恭しく頭を下げた。そしてスーツの内側に手を入れて2枚の名刺を取り出すと、吾妻と栄子それぞれに向って両手で差出した。
「初めまして。私、神林一郎と言います」
神林は終末通知の件で来た人を担当する終末ケアセンターの職員である事、職務としてはカウンセラーのような立場であると吾妻達に説明した。
簡単な自己紹介を言えた神林は「では、こちらへどうぞ」と、吾妻達を先導するように受付横の廊下を歩き始め、吾妻と栄子もそれに続いた。
そして神林は、部屋に入った正面が広大な庭を望む全面透明ガラス、残り3面の入口扉を含む壁全面が曇りガラスという、秘匿性も遮音性も感じない10畳程の広さの中に、銀色に鈍く輝くステンレスで出来た長方形のテーブルと、そのテーブルを挟んで3つづつの計6つのステンレス製の椅子が置いてあるという、質素で簡素な打合せルームへと吾妻と栄子を案内した。
2人が部屋に入った直後、吾妻は正面の大きいガラス越しの庭に目を留めて「海が近いはずではあるが一切見えないな」と何の気なしに思った。ガラス越しの向こう側には、綺麗に整備された一面芝生の庭が広がり、3階にも届きそうな高い木が奥も見通せない程に沢山生えていた。そして一面芝生の地面には、多くのベンチとイスがテーブルとセットで置いてあった。
ぼんやりと庭に目を取られていた吾妻に「そちらにお座りください」と、神林が声を掛けつつ向かいの椅子を手で指し示すと、吾妻と栄子はそれに従い神林の向かいの椅子へと腰掛け、それを見届けた神林も椅子に腰かけた。
「では最初に顔写真付きの身分証明書となる物と、終末通知の葉書をご確認させて頂いて宜しいでしょうか? 万が一にも別人の方と言う事が無いように、確認が必須となっておりますので」
神林の言葉に吾妻は、ジャケットの内側ポケットから終末通知と財布を取り出し、財布の中から免許証を取り出すと、テーブルの上、神林の目の前へと差し出した。
差し出された終末通知の葉書と免許証を前に、神林が「拝見させて頂きます」と一言いって手に取り目視で確認すると、持参していたタブレット端末のカメラで、終末通知の葉書の見開いたページの中に記載されているバーコードを読み取った。
そして「確認致しました。有難う御座います。それではこちらの施設他について説明させて頂きます」と、笑顔でそう言って、終末通知の葉書と免許証を吾妻に返した。
「確認致しました。有難う御座います。それではこちらの施設他について説明させて頂きます」
神林は笑顔でそう言って、終末通知の葉書と免許証を吾妻に返すと、タブレット端末を吾妻達に見えるように傾けた。そのダブレットの画面上にはグラフデータが表示されていた。
「この終末通知を受け取った方の中で、実に2割近くが悲観して飛び降り等の自殺をしてしまうようです。1割位の方は自暴自棄になり事件を起こすという事例もあるようです。又1割近くの方はこの葉書が届かないか見ていないかのようです。
それ以外の方の多くが、とりあえず終末ケアセンターにお越し頂いて、私達職員とお話させて頂いております。お話をさせて頂いた内訳では、40代位までの方で奥様や小さいお子様がいらっしゃる方は、終末日近くまでご夫婦で過ごし、直近にこちらの施設にきて安楽死を望まれる方が多いですね。ご高齢のご夫婦の方ですと、ご自宅で最期を迎えたいと仰る方が多いですね。
単身者の男性の場合、年齢関係無く、早急に安楽死を選択する方が多いですね。女性の場合ですと、ぎりぎりまで旅行や食事等を経験した後に安楽死をするという傾向でしょうか。それ以外で言えば、経済的に厳しい方は早めに安楽死なさる傾向にありますかね」
吾妻と栄子は神林の滑舌の良い淡々とした説明を黙って聞いていた。
「終末通知を受領されている段階で、クレジットカード等の信用取引は出来なくなっておりますのでご注意ください。今後は現金取引のみとなります。口座引き落としのカードでしたらご利用なれます」
「そうですか……。まあ事前にそうなるという状況が分かっていれば色々と手続きが楽ですね。早速、諸々の契約を妻名義に変更しておきます」
「ですね。一応申し上げておきますと、特定の個人様が契約するような携帯電話なんかをクレジットカード払いしてある場合でも、終末日までは無料でご利用可能になるというルールになっていますので」
「へえ、そうなんですか。色々と気遣いがあるもんですね」
「はい、福祉の一貫ですので。それほど生活に影響は出ないと思いますよ」
「分かりました。それで、あの、安楽死というのは、どのような方法なんでしょうか?」
「一言で言ってしまえば、服毒ですね」
真顔で「毒」という言葉を口にする神林を、吾妻は見開いた目で見つめた。
「毒を服用すると言ってもマンガみたいなドクロマークのついた瓶の毒を飲んで苦しみもがいて亡くなるという事ではありません。苦しんでしまうようでは安楽死とは言えませんからね。では少々お待ち頂けますか?」
神林はそう言って席を立ち、1人部屋を出ていくと建物の奥の方に消えていった。
数分後、片手でも持てそうな程の大きさの木箱を手に、神林が打合せルームへと戻って来た。神林は木箱をテーブルの上に置きつつ椅子に座ると、吾妻と栄子に対して木箱の中が見えるよう傾け「こちらは終末ワインと呼ばれる物です」と言って見せた。
神林が持って来た木箱は高級そうではあるものの、使い古された感じの残る長さ30センチ程の蓋の無い木箱。その箱の中には、中身が入っていない事が傍目で分かる、薄茶色で細長い凝った意匠のある瓶が、青いサテン生地のクッションの中で横になって入れられていた。
それを見せられた吾妻は「ワイン? ですか?」と、訝しげに神林に訪ねた。
「はい、こちらが安楽死の為の飲料です。終末通知を受け取った方が、自ら終末を迎える為に用意された劇薬です。厳重に管理が必要なため、終末ケアセンターでしか提供が出来ません。承諾書に吾妻様の自筆による署名を頂いた後、当ケアセンター内、且つ職員立会いの下で服用頂けます。といってもこれ自体はサンプルですけどね。本物は本番に時に提供させて頂きます」
「それを飲めば楽に死ねる。という理解で宜しいんですかね?」
「仰るとおりです。安楽死が目的でありますので一切苦しむ事無く、お亡くなりになる事が出来ます。服用直後から強烈な睡魔が襲ってきます。そのまま眠りにおち、徐々に呼吸数が落ち、長くても30分以内に呼吸が完全停止します。こちらを飲まれた方のほとんどが、良いお顔で亡くなっていかれました。ただ解毒剤も無く、即効性がある物ですので、何人かの方が口にした瞬間に気が変って足掻いたという事がありまして、その方達については、良いお顔では無かったという事も過去に何件かありましたが」
「安楽死ですか……。まあ、自殺には変わりないか……」
「う~ん。これを提供している我々からすれば、安楽死を自殺という言い方は適当では無いかと思います。最後に苦しむ必要は無い、という概念ですからね」
吾妻はふと思い出す。伊豆見に対して「自殺なんて真似をするな」と言った自分が「安楽死」という自殺とも言える方法を提供されている。神林の言葉にも一定の理解は示すものの、それでも違和感が残る。
その後吾妻と栄子は、当然匿名ではあるものの、自分達以外の終末通知を受け取った人達の話を神林から聞かされた。というより一方的に神林が話し続けた。
「何か質問等あれば何でも聞いてください」と、ひとしきり話を終えた神林が笑顔で言ったその言葉に「あなたにする話では無いとは思うんですが……」と、吾妻は申し訳なさそうな顔をしながら神林の顔を上目づかいにチラリと見やった。
「何でも構いませんよ。ここはそういう場でもあるとご理解下さい」
「そうですか。……実は先日、とある病院で高校時代の同級生に会いましてね、そいつはどうやら自殺を図ったらしいんです。幸いにも直ぐに発見され、救急車で病院へと搬送された後の救命治療の甲斐もあって、なんとか一命を取り留めはしたんですが……。そいつからすれば、覚悟を決めて決行した自殺なのに、死んでしまう前に見つかり、尚且つ病院に運ばれ助かってしまったという事で、それは迷惑な事だと言っていました。まあ、自殺に失敗したと言う事なので、その言も理解出来ないとは言わないですが、そもそも自殺したいっていう、そのロジックが理解出来ないんです。私は『今後は自殺なんて事はするなよ』と言ってその場を後にしたのですが、私が間違っているんでしょうか? そいつからすれば、自殺を尊重しろって感じでした」
「なるほど、そういう話ですか。日本では毎年2万人程度の自殺者が居ると言いますね。健康や経済的な理由が筆頭らしいですが。ちなみに、その方が自殺したい理由は、どういった理由なんですか?」
「あまり詳しい話は聞けなかったんですが、そいつなりに頑張って働いていたようなんですが、40代辺りで心が折れて、生きる意味も、働く意味も分からなくなったみたいな事でした。その時はまだ、そいつの親が存命だったらしく、親の存命中は親不幸な真似だけはと思ってアルバイト等でなんとか生計を立てていたらしいんですが、両親が鬼籍に入ったから何の未練もなく実行した。という話でしたね」
「そうですか。ではあくまでも私の主観として述べさせて頂きます。若い頃は多少の不遇があっても勢いでいけてしまったりするのでその方の様に考える人も多くはないですが、50代近くになると人生の残り時間というのが現実的に見えてきて、健康や経済状況が順風満帆で無い、もしくは生き甲斐が無いという事で諦めるというか、もう終わりで良い、辛い思いまでして寿命まで生きたいとは思わないという人が多い印象はありますね」
神林は柔和な顔でやんわりと答えた。
「それが理解出来ないんですよ。別に『金が無いなら働けよ』と短絡的に言っているつもりも無いです。なぜ死を選択するんだ、なぜ諦めるんだって言いたいだけで。上手い言い方では無いかもしれませんが、自分で生き甲斐を見つける事が楽しいんだと思うんです。旅行とか何かしらの趣味とかでも良いです。確かに健康問題はどうにも出来ない事もあるとは思いますが、経済的な問題だけならそれこそ仕事を探せば良いわけだし。なんなら自治体の福祉だったり、NPOだったりと色々な支援も世の中にはある訳じゃないですか? 生き甲斐を見つけ、その為に仕事を見つけて働いて金を稼ぐ。勿論、仕事が生き甲斐でも良いですが。それが生き方という物ではないんですかね? なんで死が選択肢に入るんですかね?」
神林の返答に発奮したのか、吾妻は先程までは比較的静かに会話していたのが嘘のように、少し興奮気味に神林に言った。
「それはそれで正しいとも思います。しかし、日本の国民性なんですかね? それとも滅びの美学ってやつなんですかね? そうでない人もいるというのを理解する事も大事なのではないかとも思います。グローバル社会と言われても、競争社会に慣れない人もいるでしょうしね」
「それじゃあ、あなたは自殺容認派という事ですか?」
「『容認派』という事もないですが、生きる事を無理強いをするつもりはありませんね」
吾妻は目を見開いた。伊豆見の言っている事が正しいと言われている思いで、目の前にいる男性に否定された様に思った。
「その同級生の方は、御両親が鬼籍に入るまでは頑張ったんですよね? 人に迷惑をかけたくない、親を悲しませたくない。そういった考えを評価するというのもありかなと。多かれ少なかれ、認識しているか否かは別として、人は生きている以上は誰かしらに迷惑を掛けている物ですがね」
「自殺するという事はそこで人生を終えてしまうという事ですよ? その人の未来もその人の培ってきた今までの人生全てを破棄してしまうんですよ? それが正しいんですか? どこの国家にも属さない無人島で暮らしているなんて場合でない限り、生きている以上は誰かと接する事でもありますし、お互いに助け助けられるという互助社会でもありますよね? そういった人達に対して何とも思わないんですかね? 親が鬼籍に入ったからなんて理由になりますかね?」
「でも、それが尊重するという事でもあるのかなと。生き方に具体的な正解があるなら教科書ってやつに書いてあるでしょう。しかし、そんな事はないですよね? 自分の価値観に合わないからと言って排除するというのは私には出来ないですかね。美徳が先行するというか、潔癖症とでも言えるかもしれませんが、そういう『こうするべき』という『べき論』が日本は特に多く感じますけど、実際のところ、そういうのは良くないと個人的には思っています」
「別に『こう生きるべき』なんて言うつもりも無いですけど……。まあ正解という物がある訳じゃ無いかもしれませんけど、じゃあ、あなたの親や兄弟、子供が自殺したら悲しくないとでも言うんですか?」
「誰であろうと人が亡くなるのは悲しい事です。ましてや、それが親や子供だったりしたら余計に悲しいです。でも親にしろ、子供にしろ、知人友人にしろ、その人の人生であり、その人が全てを決断していくものでもあると思います。自分で決断するからこそ、自己に責任が発生する訳です。他人が出来る事はその理由を聞いて、こういった方法もあるよ等、情報があるならそれを教えてあげられるだけなのでは? あなたはその同級生の方に対して具体的な答えと言える物があるのでしょうか?」
神林にそう言われ、吾妻には返す言葉が見つからない。具体的な解決策などあろうはずも無い。ひょっとして自分は単なる正義感や感情だけの上っ面で話していたのだろうかと頭を過る。かといって自殺を容認するというのは賛同出来ない。自ら死を選ぶという事に何の意味があるのか理解出来ない。百歩譲って食糧危機などで1口分しか食料が無く、それを食べないと死んでしまうという状況であれば、子供に食糧を渡し、結果的に自分は死ぬという事であれば理解も出来る。だが現代のこの国の於いてはそうそうある状況では無い。単に寿命まで働き続け、生き続ける事が面倒だから死ぬと言っているような物であり、それを尊重するという意味が理解出来ない。だが伊豆見に対して具体的な答えをと言われると言葉が見つからない。思いつく言葉は『良い事があるかもしれない、他に頑張っている人だっている、甘い、子供だ、努力しろ、ガンバレ、諦めるな』。
そもそも人に対して具体的な答えを言う必要も分らない。自分で行動し、色々な物を見聞きし思考し自分で決断していく。それが正しいのだと思う。自分でもそうして生きてきたつもりである。思考する為に必要な知識を勉強し、将来を描いて行動し、今に至る。人生とはそういう物では無いのだろうか。
吾妻はふと気付く。伊豆見は伊豆見なりに全てをやりきり、思考し、決断したという事なのかなと。だがその決断した答えが自殺であるというロジックが、やはり分からない。吾妻は神林に返答する言葉が見つからず、テーブルに目を伏せた。
「具体的な答えのある悩みでしたら直ぐに解決できますが、あなたの同級生の悩みに対して具体的な解決策があるとは私には思えません。それこそ自殺するというロジックを取り除こうという事ですよね? それを実行しようとしたら洗脳的な何かをしないと、なんて思ってしまいますが」
「洗脳って……」
「まあ流石に洗脳という言葉は不適当ですから、ここは『強制自己啓発』とでも言って置きますかね」
そう神林は笑みを浮かべて言った。吾妻はその言葉に「多少言い方を変えたとて意味は同じだ」と思ったものの、何ら返答出来ずに再び顔を伏せた。
3人の居る打合せルームには沈黙が流れていた。するとおもむろに吾妻が顔を上げた。
「あなたの意見は受け入れる事も出来かねますし、納得も出来ません。とはいっても明確な反論も現時点では思いつきません。とりあえず、こういった話が出来て良かったです。どうも有難うございました」
吾妻が憮然とした表情でそう言って席を立った。栄子は何の前触れも無く突然立ち上がった吾妻に一瞬驚きながらも、吾妻に合わせて即座に席を立ち、2人揃って神林に向って頭を下げた。神林も2人に合わせてすぐに席を立ち、頭を下げた。そしてそのまま吾妻と栄子は部屋を出て、玄関口へと向かった。神林も2人の後を追うようにして、吾妻と栄子を玄関の外まで見送った。
「それでは吾妻様。私はこれにて失礼いたします。尚、こちらで行う安楽死に於きましては、終末を迎えるにあたっての一つの選択肢でしかありませんので、より最善の最後を選択の上、ゆるりとお過ごしください」
吾妻達を背後で見送る神林にそんな事を言われ吾妻はハッとした。伊豆見の自殺の話で熱くなって忘れていたが、そもそも自分が死ぬという話でここまでやってきた事を思い出した。
時刻は午後5時を過ぎ、陽は傾いてはいるものの外はまだまだ明るかった。終末ケアセンターを後にした吾妻達は札幌へと帰る為、室蘭駅へと徒歩で向かっていた。が、札幌までの電車はまだあるものの、わざわざ室蘭まで来たという事もあり、更には着替えも持ってきていたという事もあって、2人は室蘭に一泊する事にした。残り時間は限られているが、急いで自宅に戻って何をするでもなく、しなければいけない事も無い。知人友人に最後の挨拶をという事も考えたが、「これから私は死にます」とでも言う様な挨拶をされる側としては迷惑な話であろうと想像し、すぐに頭の中で却下した。
吾妻が室蘭駅近くのホテルに携帯電話で以って予約を済ませると、2人は駅近くの繁華街にあるチェーン店の定食屋で夕食をとった。その食事中も栄子は黙ったままだった。吾妻は何度も「そんな事は気にしなくても良い。栄子のせいじゃない」と、栄子に言い聞かせはしたが、栄子はずっと自分を責めていた。
殆ど会話らしい会話も無いままに食事を終えた2人がホテルへと向かう道中、1軒のスナックの看板に吾妻の目に留まった。白地に赤い文字で『ムロランルージュ』と書かれたその看板。それを見た吾妻は「ムロランルージュ? ムーランルージュのダジャレかよ」と、思わず独り言を口にし、そんな自分に少し笑ってしまった。
このままホテルに行っても寝ること以外にする事もない。かといって寝るには未だ早く、吾妻は少し飲みたい気分でもあったので、栄子にスナックで軽く飲んで行こうと提案し、栄子はその提案に軽く頷いた。
「いらっしゃいませ。カウンターか、テーブル席、お好きな席にお座り下さい」
スナックのドアを開けると、カウンターの中にいる若い女性が元気よく、吾妻達の方を見ながら声を掛けてきた。漆黒のボブカットにだらりとした大きめの水色のTシャツといった女性の容姿に「スナックで働く女性にしては随分と控え目な容姿の若い女の子だな」と吾妻は思った。スナックで働く女性というのは、艶のない茶色い長い髪の中高年女性が派手目なスーツといった装いという勝手な印象を吾妻は持っていた。
10席程のカウンター席には2人の高齢と思しき男女が並んで座っていた。見るからに常連客という感じであり、吾妻達が来る前までカウンター内の女性と楽しくおしゃべりしていたようだった。その女性以外に従業員らしき者はみあたらず、吾妻は「ひょっとしてその若い女性が店主なのだろうか」とふと思った。
吾妻は誰も居ないテーブル席へと向かった。4人掛けが5席あるうちの一番奥のテーブル席に吾妻達が着くなり、カウンター内から女性が出てきて吾妻達に熱々のおしぼりを手渡しながら「何飲みます?」と笑顔で尋ねてきた。吾妻は即座に「ハイボール」と言うと、続けて栄子が「私も同じ物を」と小声で言った。
女性の手によりお通しの枝豆と共にすぐにハイボールのジョッキ2つが吾妻達のテーブルに運ばれてきた。吾妻がジョッキを手に取り栄子に向かって「じゃあ乾杯」と、少しおどけて見せたが、栄子はそんな事に反応を示さなかった。吾妻も少しふざけ過ぎたと即座に反省し、1人で先にハイボールを口にした。
吾妻も栄子も、ちびちびとハイボールを飲んではいるが会話は無い。途中、発した言葉と言えば「ハイボールおかわり」と、おつまみの注文くらいだった。
そんな時間を過ごしている内に、カウンター席に居た先客の2人はいつのまにか居なくなっていた。カウンター内の女性も片づけをしているだけで、時折、キッチンの水道の音が聞こえるくらいしか店の中には音が聞こえなかった。すると店のドアが開いて1人の中年男性が入ってきた。
中年男性は店に入るなり「ミクちゃん、いつもの頂戴」と席に着く前からそんな事を口にし、「よっこいしょ」といった掛け声とともにカウンター席へと座った。
「はいはい。いつものね。しかし毎日毎日よく飲みますねぇ。体は大丈夫なの? まあ店としては死ぬほど飲んでくれた方が有り難いけどさあ」
「これが独身中年のささやかな楽しみなんだよ? まあミクちゃんにはオジサンの気持ちなんて分からないだろうなあ。ははは」
そんな中年男性を吾妻が横目でチラリと見てふと気付いた。その中年男性は先ほど終末ケアセンターで自分達を応対してくれた職員だった。そんな吾妻の視線に気づいたのか、中年男性は自分の後ろにあるテーブル席に座る吾妻達の方をチラリと見やった。そして中年男性もすぐに気付いたのか「あれ?」と言葉を発した。
「あなた達は先ほどセンターにいらした方達じゃないですか? ええと……吾妻さん?」
「ええ、そうです。先ほどはどうも」
「偶然ですね。でも確か札幌の方にお住いだったような?」
「ええ、まあ帰る事も出来たんですが、わざわざ室蘭まで来たので一泊しようかなと」
吾妻は男性の名前を思い出せずにいたが、ふと終末ケアセンターで貰った職員の名刺に『神林一郎』という名前が書いてあった事を思い出した。
「そうだったんですか。そうはいっても室蘭に何があるって訳でもないでしょう? それに電車で2時間程度の距離ですし、そうそう変わらんでしょ」
その神林の言葉に「いやいや神林さん。札幌と室蘭じゃ全然違うでしょ? 札幌は大都会ですよ」と、ミクが会話に割って入ってきた。しかしミクは即座に思い至った。終末ケアセンターの職員である神林と先ほど会ったという事は、終末通知の件での間柄という事であり、テーブル席に座る2人の内のどちらかが、終末通知を受け取った人なのかもしれないと。
「札幌と室蘭じゃあ……。そうか、まあミクちゃんの言う通りかもねぇ」
「はは、そうですね。東京と比べたら札幌なんてあれですけど、室蘭と比べたら都会と言えますかね。でも札幌市内には室蘭のような景色もあまりありませんから、たまにはこういう景色の場所も良いですよね」
「そんな物ですかね。ははは」
「ところで……あの……神林さん。もう就業時間は過ぎているのだとは思いますが、少しお話をして良いでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。とはいえちょっと飲んでしまったので、オフレコという事で了承して頂けるのならば、ですけど」
「はい、オフレコで構いませんので」
神林はカウンターに置いてあった自分のジョッキとお通しの枝豆を手に吾妻達のテーブル席へと移動すると、テーブル席に栄子と向かい合って座っていた吾妻は栄子の隣へと席を移し、その対面に神林は座った。
「先程の神林さんの話が間違っているとは言いませんが、やはり飲み込めないと言うか……、その受け入れられないというか……」
「でしょうね。特に吾妻さんにしてみれば、終末通知を受け取った御本人でいらっしゃる訳ですしね」
「別に終末通知を受け取って僻んでいるという訳ではありませんよ?」
「勿論それは理解しています。生きていく上でどんなに都合が悪い事があったとしても、自殺なんて事を考えずに、辛くとも一所懸命に仕事を探し、こなし、生きている人の方がマジョリティである事は間違いないと思います。年間の自殺者が2万人で推移しているとはいっても、日本の人口で言えば圧倒的にマイノリティであるとも言えますしね」
「だったら」
「しかしマイノリティであるからといって間違っている、その思考や意見を排除しても良いとは言えませんよね? 民主主義ではマジョリティが是である事は重々承知しておりますし、日本は殆どの場面で集団行動というマジョリティが是とされますけど、マイノリティは存在しますよね?」
吾妻はフラストレーションが溜まって行く。神林の言いたい事は分かる。分かるが受け入れられない。かといって明確な反論も難しい。
「そもそも生き方や、命についてという話だと哲学になりますし、やはり答えは無く、あくまでも主観の問題かと思いますので、それは個々人が判断する物であり、それに対して他人であれ、肉親であれ『それは間違っている』というのは難しいのかなと」
「主観と言ってしまえば話は終わってしまいますね……。自分独りで生きているならば、その言い方も理解できます。しかし実際には、人は独りで生活出来たとしても、独りで生きていく事など不可能といってもいいですよね?」
「ん? どういう事でしょうか?」
「ちょっと屁理屈や言葉遊びと言われるかもしれませんが、生活、つまり独り暮らしは出来ても、生きていく事は出来ない。人が生きる為には、食べ物が必要です。食べ物を得るには、一応の話として金銭が必要になります。金銭を得る為には労働力等の何かしらを提供して、その対価として金銭を得る事になります」
「はい。そうですね」
「労働力を提供するというのは、仕事を得るという事です。しかし、仕事は降って湧いてくる物では無く、誰かが作ってくれている物です。その『誰かが作ってくれる仕事』を貰うという必要がある時点で、もう独りで生きていけてないですよね?」
「ああ。なるほど。そう言う事ですか」
「はい。誰かが作ってくれる仕事がある。その仕事をする事で対価として金銭を得る。その金銭で食べ物なりを購入する。購入するという事で、食べ物を作るという仕事が生まれる。物を売っての対価として金銭を得て、またその人達も何かを購入する事で、その先で仕事が生まれる。そういった循環こそが経済社会であり、今現在の形であると思います」
「確かにそうですね」
「その経済社会の中で生きる事を拒否する、その循環の中から、面倒だからとかの理由で抜ける。という思考が理解できない、と言う事です」
経済の話になってしまったが、吾妻としては本当はそう言いたい訳では無かった。自殺を選択するのは間違っていると言いたいが、それを論理的に説明が出来ず、結果として経済社会の一員なのだから抜けるという選択肢は無いのではというような、吾妻からしても不本意な説明になってしまった。
「う~ん。吾妻さんの仰りたい事は理解出来ますが、それでも本人の意思として、その経済社会から抜けるという事であるなら、吾妻さんの仰るその理屈では到底、納得頂く事は出来ないのでは無いでしょうか?」
吾妻は苦々しく思う。なんとなく分かってはいた事ではあるが、やはり自分の考えは間違ってはいない物の、正しいとは思われない様だった。ひょっとしたら、自分では気付いていない、若しくは気付いていない振りをしているだけで、自分が終末通知を貰った事で伊豆見の事を妬んでいるのだろうか? もう後が無いと宣告されている自分に対して、あっさりと命を捨てようとする伊豆見を苦々しく思っての屁理屈を言っているだけなのであろうかと、そんな思いが吾妻の脳裏を駆け巡る。
「昔から『なぜ働くのか、なぜ生きるのか』という話というか哲学はありますが答えは出ていませんし、正解は無いというのが現状です。答えについて近いといえるのは、宗教的な物でしょうかね? そうはいっても、自殺を罪とするカトリックを信仰している人であっても、自殺をする人はいるでしょうけどね」
小一時間、神林と吾妻はそんな話をした。答えの無い話をした。
「ここで御逢いしたのも何かのご縁です。仰りたい事は仰って頂いて結構ですよ? それが私の仕事とも言えますし」
「いや、充分に話をさせて頂きました。こういった話、今までの人生でした記憶も無いですしね」
「ご納得頂ける答えに辿り着きましたか?」
「どうでしょうね。理解は出来るが納得は出来ない、という所でしょうか」
「でしょうね。きっと正解は無いというのが、私の答えです」
「正解が無いのが正解、と言う事ですか? はは。面白いですね」
面白いと口にした吾妻の顔には苦笑いという笑みが浮かんでいた。そうして吾妻と栄子の2人はスナックを後にし、室蘭駅近くのホテルへと徒歩で向かった。
神林はもう少し1人で飲んでいくと言う事でカウンター席に戻った。結局、栄子は神林と吾妻の会話には参加せず、ずっと黙ったままであった。
吾妻達と別れ、カウンター席で1人飲んでいた神林はふとある事を思い出す。少し前、厚生労働省終末管理局の人間が、神林の在籍する終末ケアセンターを視察に訪れた際、オフレコとしてある話を神林は聞かされた。
「自殺者が後を絶たないんだよね」
「は?」
「いやね、局内ではさ、潜在的に自殺志願の人が多いのではないかって議論が内々にだけどあってさ、立法とまではいかずとも委員会審議の場で有識者とか、そういった専門家の人達の間で議論してもらいたいという思いで、ひとつの案の作成に着手してんだよね」
「へえ。そうなんですか? どんな案か聞いていいんですかね? っていうか、そこまで言われちゃ聞かない訳にはいかないですけどね」
「ええ、だからオフレコですよ? センター内の人にも言わないで下さいよ? 神林さんだから教えてあげるんですから」
「言いませんよぉ」
「任意の安楽死ってのを認めるって案なんですけどね。一応、満30歳を迎えた成人のみを対象として、自分の意思がはっきりと示せる状態である事、そして罪を犯している可能性の無い人、借金などを抱えていないというのを条件に、法的に認知されたカウンセラーの元でのヒアリングの後に、安楽死を希望する者は、安楽死を可能としようってのが大筋ですね」
神林は一瞬理解出来なかった。聞き違いでなければ、単なる自殺を手伝うというように聞こえた。
「それって……。自殺ほう助と言われても仕方が無いと言える物ではないんですか?」
「ええ。仰る通りです。でも、実際の自殺者の人数を鑑みるに、ニーズが相当数あるというのも否定出来ないでしょ?」
「そりゃそうかもしれませんが……」
「ここで言うカウンセラーは、神林さんの様な終末ケアセンターの人が担当し、安楽死も終末ケアセンターで実施するという感じですかね。まあ、まさしく、自殺ほう助と言われても仕方が無いと言える案ではありますが、私を含めて、管理局の誰もが立法まで行くはずが無いという思いもあり、これをアドバルーンとして、国民の意識や有識者の議論を聞いてみたいというのが本音って感じですかね」
神林からすれば、随分と突拍子もない事を言っているとしか思えない話であった。
「いやいや、そんなの、例え内々の話だとしても、マスコミや世間にバレた段階で、相当叩かれやしませんか? ただでさえ終末管理法って世界からは良い目で見られてないんでしょ?」
「はは、仰る通りです。でも神林さん。自殺って無くなると思います?」
「う~ん。無くなるって事は無いでしょうね」
「まあ恋愛が失敗したとか、受験に落ちたとかっていう理由は論外として、自殺のニーズが無くなるって事は無いですよね? 主な理由としては健康問題と経済的な理由ですが、いくら福祉を充実させたとして無くなると思いますか? 健康問題は技術の進化で年々解決できる事も多くなるでしょうし、それらを含めた福祉を過剰とも言えるほどやれば、それが原因の自殺は減るかもしれませんけど、そんなの続く訳が無い。国家が死んでしまいますよ。北欧で福祉が充実している所もあるんでしょうが、日本人との国民性の違いもあるし、国そのものの違いもあるから日本と単純に比較するのも難しいし、それなりの重税あるし、同じ意識のコニュニティだからこそ成せる業であり、平均寿命がグッと上がったり、移民がドッと増えたりしたら、一気に状況が変わっちゃいますよ」
「そりゃそうかもしれないが……」
「そもそも現在の終末管理法自体、否定する意見が多いという事もありますし、ぎりぎり賛成が上回っている状況でもありますけど、実際の所、終末通知とは関係なしに、行政で安楽死をして欲しいという意見も少なからずあるという現状を踏まえての案ではありますね。所構わず、辛く苦しい思いで自殺なんてするのでは無く、終末ワインみたいに最後だけは笑えるようにという思いもありますしね」
厚生労働省終末管理局の人間から聞かされたのはそんな話だった。聞いた時には荒唐無稽の案であると神林は思ったが、先程の吾妻の話に出てきた同級生であれば、きっと飛びつく内容なのだろうと思った。その事からも管理局の人間が言った様に一定のニーズがある事は間違いないのだろうと神林も否定は出来なかった。
吾妻に対しては自殺も尊重するという趣旨の発言を神林自身がしてはいたが、任意の安楽死という法が万が一にも施行されたら、神林がそれを手伝うという事である。さすがに躊躇せざるを得ないというのが神林の本音であった。
神林は脳裏に巡る「任意の安楽死」という言葉を振り払うかのように、ジョッキをあおった。
「ねえ神林さん。さっきの人達って、終末通知を貰った人達なの?」
吾妻達が飲んでいたテーブルを片しながら、ミクが神林にそんな質問をしてきた。
「いやミクちゃん。そういうのは個人情報だしね。何も答えられないよ」
「じゃあ……。男の人が言っていた同級生の話なら大丈夫?」
「う~ん……。難しいな。っていうか盗み聞きは感心しないな」
「こんな小さな店の中で話してたら聞こえちゃうよ」
「まあそうだけど、あまり他人のそういった話はねぇ」
「だからさ、あの人個人の話で無く、あの人の話に出てきた、見ず知らずの人の話って事で」
「なんだか屁理屈のような気もするけど……。で、何が聞きたいの?」
「私はまだ25歳だから分からないけど、50歳位になると『もう人生は充分だ』って考えるのかなって。そう言う物なのかなって」
「ひとそれぞれとしか言いようが無いかなあ。何も持たない人なら思う人は多いかもな。反対に現役バリバリで働いているとか、色々な物を持っていて生活に困らないなんて人は思わないんじゃないかな。因みにミクちゃんは『死にたい』って思う時はある?」
「う~ん。中高生の時には冗談半分に『もう死にたいー!』とか、『誰か殺してー!』とか言うときはあるけど、真面目に思った時は無いかなあ。お母さんが死んじゃった時も悲しかったけど、自分も死にたいとは思わなかったかなあ」
安永ミク。ミクの父親はミクが小さい頃に交通事故で亡くなっている。そして母親は数か月前に亡くなっていた。それも終末通知を貰っての死去であり、もともとミクの働くスナック『ムロランルージュ』は母親の店で有り、父親が亡くなった後、手に職も無かった母親がこのスナックに勤め始め、ミクが成人し働きだした時点で、スナックのオーナーから安く譲ってもらった物だった。その母親が亡くなった後にミクが店を継いでいた。母親が終末通知を貰い、終末ケアセンターを訪れた際に担当した職員が神林であり、母親が安楽死を実行した際に立ち会ったのも神林であり、最期のその場にはミクもいた。物言わぬ母親の身体を抱きしめ泣きじゃくるミクの姿が、今でも神林の脳裏に焼き付いている。
それから暫くの後、たまたま神林が立ち寄ったスナックがここ『ムロランルージュ』であり、期せずしてミクと再会を果たして以来、神林はこの店に来るようになった。
「まあ、これからの人生で何かを期待しているつもりもないけど、わざわざ自殺する理由が見つからないって感じかなあ」
「う~ん。そうだねえ。案外、ミクちゃんと同じような考えの人って多いのかもねぇ」
「海外とかだと『人生を楽しむ』って、よく聞くじゃん? 日本人ってそういう考え方をする人って少ないのかもね。そういう風に考える事が出来れば、結構自殺なんて考えをする人は少なくなるのかもしれないね」
「人生を楽しむ、か。よくは聞くけど、正直『どういう事?』って感じだけどね」
「きっと、考え過ぎ。って事なんじゃないのかな。ケセラセラだっけ?」
「なるほどね。まあ国の違いって事もあるかもしれないね。日本だと、世間体とか、親族や周囲の目を気にしながら生きて、一度落ちると這い上がれないって気持ちも分かるし。だからギリギリまで頑張る。結果、心が折れる。という事なのかな。日本では、ただ生きるというのは、ひょっとしたら難しいのかもしれないね。特に真面目すぎる人であればあるほどさ。それと周囲の環境ってのもあったのかもね」
「周囲の環境? っていうと?」
「ミクちゃんは、ここのお店を始める前は会社勤めだったんだよね? 1社だけ?」
「そう。高校卒業してから入社した1社だけ」
「それだとあまり実感が湧かないかもしれないけど、企業ってのはさ、それぞれ企業文化みたいのがそれぞれあってさ、一つ一つのやり方にしろ、考え方が違ったり、部署毎の空気感だったり、色々と違ったりするもんなんだよね」
「ああ。まあ部署によっては違うなあっていうのは分かるかな」
「うん。で、その周囲の環境が、良くも悪くも影響するんだよね」
「そうかな?」
「まあ絶対とは言わないけどね。シンパシーというか相乗効果と言うか。自分よりも出来る人達だらけの環境だったりすると、その人達に追いつこうとか、その人達の真似をしてスキルを上げようとかね。まあそれが悪い方に影響すると、自分とは世界の違う人達だって感じで落ち込んだりして、居づらくなったり、居場所が無いとか思ったり、心が折れたりとかね。逆に全体的にだらけている環境だと、それに染まってしまったりする。その場合、良い方向に影響するならば、その環境から抜け出そうとするって感じかな。抜け出すのも楽では無いだろうけどね。良い方向に前向きな人達の集まりだったら、その同級生の人も良い影響を受けて、常に前向きな感じになったのかなあって。まあ、その人がどんな仕事でどんな職場にいたのかは全然分からないけどね」
「う~ん。分かるような、分からないような」
「まあ、企業だけでなく、人の集まるコニュティとか全般に言える事だけどね。周りの人がみんな株をやっているから自分も株を始めたとか。まあ、それを理由にすると、全て人のせいにしてるみたいに聞こえちゃうかもしれないけど」
「影響を受けるか……。だったらさ、TVとか見てるとさ、災害にあったり、障害を持つ人だったりが頑張っている姿って放送されてる事があるじゃない? その人はそう言うのを見て影響を受けたり、共感とかしないのかな?」
「う~ん。どうなんだろうねえ。ただ単に対岸の火事と捉えるかもしれないね」
「なるほど。まあ、私も『凄いなあ』位にしか感じないか……」
「ミクちゃんは、この先の事って考えているの?」
「この先? 将来って事? う~ん。どうだろ。先の事は正直、そんなに考えてないけどね。この店も勢いで始めたっていうのもあるし。やりたい事とか、行きたい場所が見つかったら、この店を畳むのもありかなあって。それか誰かに譲るとか。でも、お母さん怒るかな?」
「怒るどころか、前向きに生きるミクちゃんを応援してくれるんじゃないかな? まだ若いんだし、1つの事や、1つの場所に固執されることなく、縛られることなく、色々な経験をして、自由に生きて欲しいって思うんじゃないかなって、僕は思うけどね。
別に1つの事や、1つの場所に拘るのが悪いって言っているんじゃないよ? それはそれで良いと思うし、どちらかと言えば、日本はそういう方が美徳とされている考え方も多いし、後継ぎって期待される事もあるだろうしね。でも、可能性は無限なんだと思う。年齢を重ねる毎にその可能性は絞られてくるからね。だからこそ若いうちに色々な事を見て聞いて経験してさ、自分の道ってのを探せば良いんじゃないかな? 格好良く言えば、それが人生って感じかな?」
「人生ねえ。じゃあ、その同級生の人も、色々と探して経験しながら年齢を重ねて、そして今、可能性が見えなくなったって事なのかな?」
吾妻の同級生については、先ほど聞いただけでなので神林は全く知らない。あくまでほんの少しだけ聞いた中での印象ではあるが、神林はその同級生を想像してみた。
きっとその同級生は真面目過ぎだけなのかもしれない。真面目である事は良い事であるが、実際の社会からみれば、言い方は悪いが要領が悪いとも言える。良い意味で手を抜くという事が出来ない。良い意味でのズル賢さという物を持ち合わせていないのだろう。
保守的。真面目すぎる。考えすぎる。周囲に気を遣いすぎる。周囲を気にし過ぎる。未来を心配し過ぎるが故に悲観する。
孤独を好んでいたのかもしれない。そうであれば、その孤独を好むというのは悲観的な考え方に陥りやすい。それらが要因となってバイタリティを失っていったのかもしれない。
言い方は適当ではないかもしれないが、自発的に悪事を働く人の方がそういう意味ではバイタリティが溢れているのかもしれない。悪い事をしてでも楽しく生きようと、そういう事なのかもしれない。なぜ働くのか、なぜ生きるのかという疑問自体がナンセンスなのかもしれない。若しくは、野心的なまでの向上心があれば、吾妻の同級生のような考えは起こらないのだろう。
きっと吾妻の同級生もそれなりに努力をしたんだろう。努力が無意味とは言わない。しかし、努力が褒められるのはいいとこ中学生の時までで、それ以降は結果を求められる。社会に出れば努力に対して給与が支払われるのでは無く、結果に対して支払われる。若いうちは勢いで働けるが、年齢を重ねると勢いだけでの仕事の結果というのも限界が来る。若い人と大差ない結果しか提供できないのであれば、雇う側としては支払う賃金が少ない若い人の方に需要が多くなるのも当然と言える。
努力する姿が美徳とされる事もあるが、現実問題として結果が出ていなければ努力だけで生きていくのは厳しい。とはいえ、稀にではあるが努力する姿が評価されて何かしらの恩恵を受けるという事もあるので絶対とは言えないが。
そして、生きる努力というのは多才なスキルを身につけていくと言う事なのだろう。目の前にある仕事を頑張るという努力では無く、その先を見据えた物を身につける事が必要であり、それが生きる努力という事なのだろう。
神林はそんな事を考えていた。そして自分が何か将来に対する努力をしているかなと頭を巡らせるも、今の仕事以外に何をしている訳でもないなと1人ほくそ笑んだ。
「そうかもね。その同級生の人が、今迄生きてきた中でどれくらい見て聞いて経験してきたのかは分からないけどね。その同級生の人は視野狭窄となって『死ぬ』という事だけしか見えなくなってしまっただけかもしれないね。独りで考えすぎている事でネガティブになっている、未来の可能性を否定しているだけなのかもしれないけどね。何だってやってみないと分らない物だと思うし。それか単に自信が無いとかね」
「自信か……。よく聞くよね、その言葉。自信を持てとかね」
「そうだね。まあ実績を積んでいくと培っていく物だとも思うけど。僕も以前に思った事なんだけど、とんでもなく頭が良く、一流と言われるような企業に就職した人が、あっさりと会社を辞めちゃう事があるんだけど、そういう人達って自分に自信があるって事なんだろうね。僕なんかだと一流の会社に入ったのに勿体ないなんて思っちゃうけど、そういう人達からすると、そんなのに価値を見出さずにやりたい事をやろうって感じでさ。自分なら出来るって自信があるって感じだよね。自信と言うより何も心配しないって感じかな? そういうのはちょっと真似できないなあって思ったな。まさにケセラセラだね」
「私も自信ってのは無いなあ。勢いで生きてる感じがする」
「若ければ自信が無くても勢いでいけるだろうね。でも、自信が育たないまま年齢を重ねると、より保守的になっちゃうのかもね。僕なんかも若い時、日本語しか話せないけど取りあえず海外で働こうかななんて思ったりした事もあるけど、今だと英語をしっかり勉強してマスターしてから行こうとか思うよね。はは」
「ふ~ん。とりあえず、その同級生の人と神林さんみたいな人が話せば、自殺なんて考えは無くなるかもしれないのかな?」
「さあどうだろうね。さっきの僕達の話を聞いていたなら分かると思うけど、僕は自殺を止めようというスタンスでも無いんだよね。話をする気があるなら聞いて、具体的な解決策があれば提示する事は可能だけど、それが無いなら何も出来ないね。それはともかくとして、独りで考え込むよりは、誰かと会って話すって事は良い事だとは思うよ? 実際、飛び降り自殺とかをしようとしている人を、説得して思い留まらせるなんて場面もたまにニュースでもやっているしね。とはいえ、僕にそういう人たちの支援をする気があるかと問われたら正直無いかな。今は仕事としてセンターで働いているというだけでね」
「いっそそういう人達を支援するような制度にはならないのかな?」
「まあNPOとかで、自殺を図った人をケアするってのもあるけどね。そうはいっても、当の本人が話を聞くって気持ちが無いとね。話を聞けって強制する事は出来ないしね。それに日本人は相談っていうのが苦手な印象もあるし」
「相談が苦手? そうかな?」
「うん。どうせ話した所で言われる事は分かっている、とかさ。きっと相談って言うのは答えを求める事って思う人が多いしね。でもって、相談しても返ってくる返事は『頑張れ、甘えるな』っていう事だけって場合もあるみたいだしね。実際、自殺しようとしている人達にかけてあげる言葉なんて、根性論か感情論しか思いつかないしね。それはともかく、話す事それ自体に委縮するとか鬱陶しいと思う人って多いのかもしれないなと個人的には思うけどね」
「話す事に委縮?」
「うん。何か自分の意見を言うと反論でなく批判される。知らないなら言うな、とかね。まあ『沈黙は美徳』なんて言葉もあるし、出る杭は打たれるとも言うし。そんな風に言われたら、全てを知った上で無いと何も言ってはいけないんだと思ったり、自分の意見や考えや思いを口にする事に対して、萎縮する切っ掛けにもなるんじゃないかと思う時があるよね。まあ知る事は大切だと思うけど、例え無知だとしても何でも言っていいと。そこからがスタートな訳だしさ。それに対して反論されて、改めて知るという事もあって良いと思うけどね。反論された時の言葉に付加される形で『無知だ、馬鹿だ、そんな事も知らないのか、知らないくせいに言うな』なんて言われたら萎縮する人もいるよね。反論をされても委縮せず、そこから反論するとか、それは知らなかったと言えば終わる話だったりする訳だし。……まあ無知にも限界はあるだろうけど」
「ふ~ん。難しいね。しかし話をするのが億劫とか鬱陶しいとか思う人だと話しあうのは難しいね。たまに、うちの店でも上司に無理やり連れられてきたって感じの人が来るけど、話すのが面倒臭いって感じで、ずっと黙ったままで話さない人いたしね。見てると所在無さげって感じでさ。人間関係すらも鬱陶しいみたいな」
「そうだね。まあ同級生の人については、聞いた限りでは論理だけで解決する話でも無さそうだから難しそうだね。話す事が鬱陶しい、人間関係も鬱陶しいなんて思っているかもしれないね。相談できる人ってのは、ある意味で前向きな人なのかもしれないね」
きっと今後も吾妻の同級生の様に考える人に対する具体的な解決策などは見つからないのだろうと神林は思うと同時に、ジョッキに残った酒を一気に煽った。
「そういえば神林さんって、ずっと室蘭なの?」
「ずっとでは無いよ。高校までは室蘭で、札幌の大学を卒業してから厚生労働省に入って東京で暮らしてたけど、今から10年位前にケアセンターが出来たときに、こっちに戻ってきたんだ」
「へえ。官僚ってやつ? エリートだったんだ」
「まあ、そこまで言う程ではなかったけどね」
「東京にいれば、もっと出世できたんじゃないの? ……あれ? ひょっとして室蘭に飛ばされちゃったの? 私、地雷踏んだ?」
「いやいや、飛ばされたわけじゃないよ。そもそも本省で出世出来る程、最初から出世コースにいた訳でもないしね。そういう人達はもう、次元の違う頭の良さって人達だから」
「ふ~ん。どちらにしても私には縁の無い世界の話だな。まあどちらにしても、人が亡くなるのは悲しいね」
「そうだね。良い事とは言えないね」
「あれ? ジョッキが空だよ?」
「ああ。良い感じに酔ってきたから、そろそろ帰るよ」
神林がそう言ってスーツの内側ポケットから財布を取り出すと「あれ? 10杯位おかわりしてくれないの?」と、ミクはわざとらしい程の可愛い仕草をしながら言った。
神林はそんな帰り際のいつもの会話に「いやいやミクちゃん。人が亡くなるのは悲しいって話をしていたのに、その言葉は殺意を感じるよ」と、笑い飛ばすと同時に席を立った。そして神林は会計を済ませると、ほろ酔い気分で店を後にした。
翌日、ホテルを後にした吾妻達は特に観光もせず、早々に室蘭駅からの特急電車に乗って札幌へと帰って行った。
「札幌に帰ったら、伊豆見の病院に行ってくるよ」
電車の車内、窓の外をぼんやりと見つめる吾妻が独り言のようにボソッと言うと、向かいに座る栄子はか細い声で「はい」と短く返事をした。
栄子は『伊豆見』というのが誰の事か分からなかったが、ふと思い出した。
そう言えば夫が知人の入院している病院を見舞った際、偶然出会った高校の同級生の話を終末ケアセンターに向かう道中で話していた気がする。伊豆見という名前を聞いたのは初めての気がするが、自殺を図った同級生に会ったと話していた気がする。とはいえ、残り少ない時間を割いてでもその同級生にわざわざ会いに行くという気持ちが理解出来ない。
初めて聞いた伊豆見という人物。高校の同級生とはいっても、さほど仲が良いという関係にも思えない。一言で良いから愚痴や嫌味を言いたいという事なのだろうか。流石にその伊豆見なる人に対して逆恨み的に危害を加えるという事は無いとは思うが理由が分からない。
栄子は、最後は出来るだけ好きなようにさせてあげたいという思いもある中で、見ず知らずの『伊豆見』という名の人物に対して憤りを感じた。何も悪い事をしていない吾妻が死を宣告され、片や自ら死を選択する人間がいる。口にはしなかったが「夫の代わりとして死んで欲しい。そして夫には生き続けて欲しい」という言葉が脳裏を過った。自分がこんな事を思う人間だと言う事に、栄子自身が内心驚いた。
聞くのが何故か怖い。そう栄子は思い、吾妻に何も聞く事は出来なかった。
札幌近郊の病院に入院していた伊豆見は退院準備をしていた。伊豆見の首には、自殺を図った際に付いた痣が今もくっきりと残っていた。発見が早かった事から首の痣以外に後遺症等の異常も見られず、早めに退院出来る事になった。退院準備と言っても何がある訳でも無く、そもそも身一つで自殺に臨み、その状態で救急車で運ばれただけであり、持ち物も自殺を図った当時に来ていた洋服と、小銭が少し入っている財布だけである。
病院服から自分の洋服に着替えを済ませた伊豆見は、同室の他の患者達には何の挨拶もせず、無言のまま早々に病室を後にした。他の患者達は自殺を図った伊豆見に「お元気で」という挨拶もそぐわず、皆が俯いたままに無言で伊豆見を見送った。そもそも自殺が原因での入院という伊豆見を、患者達は少なからず疎んでいた。伊豆見がいる事で病室内の雰囲気はぎこちなかった。伊豆見とはほぼ会話もしなかった。患者達は伊豆見の退院に胸を撫で下ろした。
病室を後にした伊豆見は病院ロビーにある会計へと向かった。会計に向かった所で何が出来る訳でも無い。国民健康保険はまだ有効ではあるが、それでも入院費用など持ち合わせてもいない。クレジットカードも無い。ただただ、今回の件で自分に掛かった費用を聞くだけしか出来ない。黙って病院を後にするという事もありだなと一瞬頭を過ったが、自分は自殺を図ったものの犯罪者ではないという気持もある。会計窓口に於いて「払う金は無い」と言ったら警察を呼ばれるのだろうかという不安もあったが、どちらにしても今の伊豆見にはどうする事も出来ない。
「すでにお支払は完了しております」
会計窓口に座る若い女性は笑顔で伊豆見に言った。伊豆見は状況が理解できなかった。会計窓口の女性が誰かと勘違いしているのかと思った。それならそれで病院をそのまま後にしても良かったが、正直に対応した方が良いだろうと考え、伊豆見は問いただす事にした。
「誰かと間違っていませんか? 払ってませんし、そもそも私には払うあてが無いというか……」
「確かに先ほどお支払を完了頂いておりますので、そのままご帰宅頂けます。では、お大事に」
会計窓口の女性は笑顔で言った。伊豆見には状況がさっぱり分からなかった。ひょっとして「自殺」という事で行政が何か対応したのだろうかと思ったが、そんな事があるのだろうかと首を傾げた。
誰かと間違えている。それとも誰かが間違って払ったのだろうか。でもそんな事があるのだろうかと思ったものの、病院の会計から支払済みである言われてしまえば、伊豆見にはそれ以上どうする事も出来ない。伊豆見は困惑し、後ろ髪が引かれる思いはあったものの、その場を後にし病院の玄関口へと向かった。
「よう。元気そうだな」
玄関を出た直後、伊豆見の後ろからそんな声がした。伊豆見がその言葉に後ろを振り返ると、玄関脇の壁際にもたれかかる吾妻真一の姿が目に留まった。
「……吾妻。こんな所で何してんだ? どこか具合でも悪いのか?」
「いや、現時点では至って健康そのものだよ。伊豆見は病院食ばかりだったんだろ? ちょっと飯でも食べないか?」
「そんな金ねーよ」
「高いもの食べようという訳でもない。牛丼とかそんなもので良ければ奢るよ」
吾妻は自身が所有する車で来ていた。ピカピカに磨かれた白い外国製の高級セダン。病院の駐車場に停めてあるその車の助手席に伊豆見を座らせると、吾妻は早々に車を発進させ病院を後にした。
伊豆見は車には詳しくないが、その車が外国製である事位の知識はあった。そしてその車の正確な値段までは知らないものの、そんな外国製の車を所有している吾妻の経済状況を垣間見た気がした。
助手席に座る伊豆見は車窓を横目に無言で眺めていた。吾妻も何を話すでもなく、車内はずっと無言の状態が続いていた。その状態のままに車が暫く走っていると、1件の牛丼チェーン店の看板が吾妻の目に留まり、吾妻は何も言わずにその店の併設されている駐車場へと車を入れた。吾妻はまばらに車が停まっている駐車場の中、店に近い一角へと車を停車させた。停車した車から先に吾妻が降り、次いで伊豆見がおもむろに降車した。そして2人ともが無言のままに、吾妻を先頭に2人は店の中へと入って行った。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
吾妻と伊豆見の2人は店奥のテーブル席へと向かい合わせに座った。「好きな物頼めよ」と吾妻がメニューを見ながら正面に座る伊豆見に言った。吾妻にそう言われたものの、伊豆見としてはチェーン店とはいえ奢られる立場という事もあり、吾妻より先に注文する事は憚れるなという思いでメニューを見続けていた。
すると「ご注文はお決まりですか?」と、2人の元に店員が笑顔と共にやってきた。吾妻が「じゃあ、牛丼並とごぼうサラダと味噌汁」と頼んだのを聞いて、伊豆見は「同じものを」と、結局2人は同じ物を頼んだ。しばらくの間、ちゃんとした物を食べていなかった伊豆見としては、本心では大盛りを頼みたいところではあったが、奢られる立場の自分が奢ってくれる人より高い物を頼むわけにはいかないと、並盛を頼まざるを得なかった。
注文してから1分も経たず、牛丼がトレイに乗せられ2人の元へと運ばれてきた。2人は早速牛丼のどんぶりを黙って手に取り食べ始めた。直後、伊豆見はハッとするように食べる手を止め、見開いた眼で正面に座る吾妻の顔を見た。
「ひょっとして俺の入院費用を払ったのは吾妻か?」
「何だよ。今頃気づいたのかよ? 病院の玄関で会った時点で気付きそうな物だろ?」
「いや、お前が払う理由なんて無いんだから、そんな事思わねえよ。てっきり誰かが間違って払ったのかと思ってたよ」
「そんな奴いるかよ」
「それを言うなら他人の入院費用を払う吾妻だって似たような物だろ?」
「はは。まあ、そう言われると、そうかもな」
「まあ、金なんて無いから、どうやって病院の会計を済ますか分からなかったから、あの場は助かったが……。かといって、返済するあてなんて俺には無いぞ? どういうつもりだ?」
「ん? まあ良いじゃないか。金の話はよ」
「良くは無いだろ? 千円、2千円の話じゃないだろ?」
「まあそうだが。とりあえず飯食えよ。俺も牛丼なんて久しぶりに食べたけど、やっぱり旨いもんだな」
伊豆見は入院費用を餌に自分に何かをさせようという魂胆なのだろうかとも勘ぐったが、何も持たない、何も無い自分は何も出来ないのだし、それは思い過しなのだろうと黙々と牛丼を食べ続けた。
金も無く、食べるにも事欠くような生活が暫く続いていた。ここ数日間でいえば味の薄い病院食だった。そんな状態の中で久しぶりに食べる牛丼の美味しさに、伊豆見は軽い感動を覚えていた。
伊豆見は牛丼を一粒残らず綺麗に食べ終えた。吾妻は丼に数粒を残して食べ終えた。そして吾妻が「じゃあ、行くか」と言って席を立ち、伊豆見もそれに続いて席を立つと、2人は吾妻を先頭に店を出た。勿論、代金は吾妻が支払った。
店から出て早々「一応言っておく。ご馳走様」と吾妻の1歩後ろから伊豆見が言った。
「ああ。気にするな。俺が勝手に支払っただけだしな。それより、さっき車のナビで見つけたんだけど、近くに公園があるらしいから行ってみないか?」
「公園? ひょっとして面倒な話か? だったら遠慮したいんだけどな」
「まあそう言うなって。時間は取らせないからさ」
そう言って吾妻は歩き出し、伊豆見は訝しみながらも吾妻の後を付いて行った。公園までの徒歩での道中、吾妻は自動販売機で缶コーヒーを2本買うと、その内の1本を伊豆見に手渡した。
5分程歩いて公園に到着すると、吾妻は目に留まった4,5人が座れそうな木製のベンチへ向かい、2人は1人分のスペースを空けて横並びに座った。
「で、何なんだよ」
「ん? 何が?」
「こんな所に中年のオヤジが2人並んで座るなんて。傍から見たら結構異様な光景で、下手すりゃ不審者って事で通報されかねないぞ?」
「はは。かもな」
伊豆見は思った。一昨日会った時と何か吾妻の雰囲気が異なる気がする。一昨日よりも柔らかくなったというか、寂しそうというか、老けたというか、何かが異なる。
「それで伊豆見。まだ自殺したいって気持ちに変わりはないのか?」
「やっぱ、その話かよ……。一昨日も話したろ? いくら高校の同級生だからってお前には関係ない。お前は自分の人生と家族の事だけ考えてりゃ良いんだよ。他人の人生に深入りするなよ。そもそも高校の時だって仲が良かったとか、一緒に遊ぶような仲でも無かっただろ?」
「はは。まあ、そうだな。一緒に遊んだ記憶はないな。少し会話した事がある位の思い出しか無い」
「じゃあ何で入院費用を肩代わりしたり、飯までおごったりするんだよ? 意味わかんねえよ」
「う~ん。そうだな。やっぱり、自殺するって事に納得が行かない。だから話がしたい。その対価が入院費用という事でどうだ?」
「はあ? 何だそりゃ? 今のお前が吐いて棄てる程に金持ちだって言うなら多少の理解は出来るが、俺と話す事にそんな価値がある訳ねえだろ? 本当の理由は何なんだよ? 飯を奢って貰って言うのはなんだが、はっきりいって気持ち悪いぞ?」
吾妻は「う~ん。確かに、それもそうだな」と言ってジャケットの内ポケットから1枚の紙を取り出し、無言のままに伊豆見に差し出した。
伊豆見は「何だそれ?」と、吾妻に差し出されたそれを片手で受け取り、訝しみながらも紙に目をやった。吾妻から受け取ったその紙は、宛先に『吾妻真一様』と書かれた1枚の葉書。その宛先の左横には目を引く赤字で『終末通知』と書いてあった。
「おい……。これって、まさか……」
伊豆見が横に座る吾妻の顔に目をやると、吾妻は何も言わずに遠くを見つめていた。伊豆見は葉書に目を戻し、2つ折りのその葉書の中を開いた。
『あなたの終末は 20XX年 8月 6日 です』
伊豆見の目に飛び込んで来たのは大きな文字で記載されたそんな文言で、今日が8月4日なので吾妻の終末日、吾妻の命が消える日迄、残り3日を意味する事が記されていた。
「ちょ、お前、これ明後日じゃねえか。こんな所で何してんだよ? 奥さんとか子供いるんだろ? こんな所で俺と話なんてしてる暇無いだろ? 家族と一緒にいてやれよ」
「話が終わったらすぐに帰るよ。今夜は家族3人で外食する予定だしな」
「今すぐ帰れよ。残された時間なんて後少ししか無いんだろ?」
「分かってるって。だから、さっきの答えを聞かせろって。まだ自殺したいのか?」
吾妻からの質問は終末通知という葉書の存在によって俄然重い内容になった。『自殺したいのか?』という質問が明後日死ぬ運命にある吾妻の口から出てきた。
伊豆見は瞬間的に気持ちが揺らいだ。とはいえ、この先も生き続けるモチベーションが上がったかと言われればそれは無かった。あくまでも生きたいというモチベーションのある吾妻が死を宣告され、そんな人間に対する負い目とも言えるような、背徳感とも言えるような気持ちで揺らいだ。
死にたい自分が生き残り、生きたい人間が死を賜る。不条理とも言える状況に気持ちが揺らいだ。かといって、この先も生き続けるなんて口には出せない。
「こんな葉書を貰ったお前に言うのは気が引けるが……。やはり終わりにしたい」
「そうか……。こんな言い方もなんだが、自殺なんてする動物、人間位だぞ?」
「だから何だよ? 動物には住所も無用だろ? 税金とか面倒な事なんて無いだろ? 学歴も無く本当に弱肉強食なだけだろ? 多少のコミュニケーション能力があればいけるだろ?」
伊豆見は少し不貞腐れた様子で答えた。
「その弱肉強食が大変だろ? ほんとに食われちゃうんだから」
「何が言いたいんだよ。俺が豚より劣るとでも言いたいのか? まあ別にそれでも良いけどな。今の俺より豚の方がましだろうし。なんせ、豚ならカツ丼やトンカツとして人に喜ばれるからな。今の俺には豚の価値もねーよ。居ても居なくても世界には一切関係無いだろうし」
「そういう言い方は傲慢だぞ? 自分が居ても居なくても世界に関係ないとか」
吾妻は少し呆れた様子で言った。
「何でだよ? 俺のどこが傲慢だってんだ?」
「お前は自分がこの世に居る事で世界に影響を与えたいとでも言うのか?」
「そんな事言ってないだろ?」
「言ってるのと同じだよ。その考えは傲慢だ」
「だーかーらー、俺は今、無職なんだよ。本当に何もしていない。だが世間は何事も無いように回っている。それは俺が居なくても良いという事でもある。俺は不要で無用であると言えるって言ってるんだよ」
「やっぱりお前の望みは社会に影響のある人間になりたいと言う事なんじゃないか。お前が居なくなったら社会が混乱する様な人間になりたいとしか聞こえないぞ? それは傲慢じゃないのか? 俺を含めて殆どの人の変わりは存在するんだぞ? 影響力が絶大の総理大臣であっても変わりは居るんだぞ? 小さい歯車でも、それらが沢山ある事で社会が回っているんだぞ? それをお前は大きな歯車でありたいと言っているのと同じじゃないか。それになれないから自殺するっ言ってる様にしか聞こえないぞ?」
「そう言う事を言っているんじゃない。だったら教えてくれ。俺がこれ以上生きる意味は何だ? 精一杯働いた。そして今まで生きた。それで充分だ。それの何が悪い。最後は苦しんで死ねとでもいうのか?」
「苦しんで死ねとか、なぜ死ぬ事ばかりを先に考えるんだよ。先人達だって寿命の尽きる瞬間まで生きてきた。そういった人達が居るからこそ今があるって思わないのか? 先人達がお前の様に充分生きたって理由で死んでいったとしたら、きっと今の様な社会は成り立っていないぞ?」
「俺にとって死ぬべき時は今なんだよ。諸々含めて納得してこの世を去る。これのどこが駄目なんだ? 何が悪い? 年を取って行くこれからの人生で頑張って生きる意味は何だ? 何の為だ? 満たされて死んでいく。これを否定するなんて出来るのか? 辛い思いをしなければならない理由は何だ? 誰が得をするんだ? 誰の為に生きるんだ? 自分の為だとでも言うつもりか? 自分の為であるなら、自分で死ぬタイミングを決めさせてくれ」
吾妻は伊豆見に対して『独りで生きているつもりか? 周囲の人達への感謝は無いのか?』と言いかけた言葉を飲み込んだ。伊豆見は感謝という気持ちが分からないのだろうと。それを言葉で言っても伊豆見は理解しないだろうと。
「じゃあ伊豆見はこの世に一切の未練は無いというのか?」
「未練が無いと言えば嘘になるかな。まあ未練と言っても小さい事だけどな。ただしその未練ってのは、今後も働き続けて生き続けるというモチベーションを保ち続けるには足りないな。うん。やっぱり、そこまでして生き続ける程の未練は無い、という言い方のが正しいな」
「ちなみに未練ってのは何だ?」
「まあ、あれが食べたいとかそんなもんだ。さっき奢って貰った牛丼もうまかったよ。今は睡眠欲と食欲しか無い。他には何も無い。その2つを以って生きるモチベーションにはならない」
「ふ~ん。それはそうと、お前が自殺しようとした時って、苦しくじゃなかったのか?」
「ん? そりゃ肉体的にって事か? まあ覚悟はそれなりに必要だったけど、苦しいってのは無かった気がするな。こう云っちゃなんだが死ぬのも大変なんだぜ? ってのはさ、俺は出来る限り迷惑にならない様に実行したつもりだったんだ。親が存命中に実行したら親に迷惑が掛かる。親の世間体もあるし気を病んでしまうかもしれない。場所だって考えたんだ。実家で、といっても市営アパートだがな。そこで実行したら親は勿論、そのアパートに住む人達にも迷惑が掛かるだろうからそれは出来ない。俺が借りていたアパートでってのも当然同じ理由で却下だ。
だから俺は住んでいたアパートの大家には引っ越すって事で出ていく振りをして全ての荷物を処分し出て行った。まあ両親の位牌だけは棄てる訳にも行かないから、近くの寺にこっそりと置いてきたけどな。それに役所には転出届を郵送した。勿論、転出先は無いけどな。
死ぬと決めてから全てを処分して、人気の無い森を探してさ、そこまでしてようやく実行したと思ったら……。全くツイてない……」
「なるほどな。なあ、伊豆見。こんな事を聞くのは変だけどさ……。何で自殺するのに、そんなに気を遣うんだ?」
「ん? どういう意味だ?」
「いや、変な言い方だけどさ、自殺したいなら車道に飛び込むとか、電車に飛び込むとか、ビルから落ちるとか色々あるだろ? なのに何故お前は、人気の無い森だとかを探したり、わざわざ転出届なんて物を郵送したり、気を遣いすぎじゃねえのかなと思ってな」
「ああ。そういう事か……。そうだな。ソース元は覚えていないけど、自殺するのにもタイプがあるらしい」
「タイプ?」
「ああ。何か恨みだとか、訴えたい事があるような人が自殺する場合、人目につく様な場所で自殺するらしい。逃げたいとか、俺みたいな人間の場合、見つからないように自殺するらしい。突発的、衝動的な自殺は当てはまらないけどな。ま、どこまで本当かは分からないけどな」
「ふ~ん。なるほどな」
吾妻は妙に得心した。目の前の伊豆見でいえば、確かに社会に恨みがある訳でもなく、訴えたい事がある訳でも無いようだった。どちらかといえば逃げたいという事なのだろうから、誰にも見つからない様に手はずを整え、人気の無い森で独り静かに終わろうとしていた事にも納得がいく。
「ニュースとかでも稀にあるだろ? 死刑になりたいから無差別殺人を犯すとか。俺はそういう気持ちは一切ないけど、死刑になりたい、死にたいという気持ちだけなら、少しは理解出来るな」
「理解は出来ないだろ? 死にたいから人を殺すなんて。迷惑千万、言語道断だし、短絡的すぎる。どうしたら、そんな考えに及ぶんだよ」
「確かに短絡的過ぎると思う。恐らく、ただの逆恨みなんだけど、社会だったり自分の置かれている境遇や何かしらに不満や恨みがあるって事なんじゃないかな? そして、もう死にたいと考えるが、ただの自殺は怖いとか悔しいとかで出来ない。でもって、誰かに自分を殺して欲しいと考える。それがそんな形で表れたって事なんじゃないかな」
吾妻には全く理解出来ない話だった。そもそも不満があるなら言葉でちゃんと話し合い、法的問題であるのならば関係機関に言葉で訴えるのが筋だと思う。そこで何故に死を選択する方向に考えが及ぶのか全く理解出来ない。口にはしなかったが『そんな人間は社会に迷惑掛けずに1人で勝手に死んでくれ』という思いがよぎった。
「そういう事もあるというのを踏まえると、俺のとった行動はベターな方法と言えないか? まあ、俺は社会に不満がある訳ではないからこそ、独り森の中でって考えた訳なんだけどな」
そういう論理で話されると伊豆見の手法自体に文句は付けられないと吾妻は思った。人や社会に極力迷惑を掛けないようにという手法は、自ら死を選択するという枠の中で話せばベターとも言えるが、そうはいっても自ら死を選択するという事は否定したい。
「こんな言い方はなんだが、伊豆見は一度死んだような物だろ? だったら死ぬ気で何かをしてみようという気持ちにはならないのか? お前は周りを気にし過ぎって気もするしな」
「死ぬ気があるなら何でも出来るは正しくない。何もする気が無いから死にたい、という言い方が俺の場合には正しいかな」
そんな伊豆見の言葉に吾妻は思う。生きる気力が無い人間に対して、かける言葉なんて、やはり無いのかもしれない。
「なあ吾妻。よく言うだろ? 人生100年時代とか。サラリーマンとして働いている時にはあまり考えていなかったが、人一人は年に300万位は使うそうだ。月々いえば25万って所か。10年で3000万。30年で9000万だぞ? もう1億だ。それはあくまでも贅沢をしない数字だ。すげえ金額だよな? ずっと働き続けないとやっていけねーよ。まあ、今更やる気も無い訳だが。今後も生きていくなら、そういう金額を要するという事だ」
「まあ、そうだな。生きていくというか、人一人が生活するってのは、実は結構な金額が必要になるな。だから若いうちから俺は投資とか色々やってはいたし、周りの連中も株とか不動産とかの投資とか色々勉強しながらやっている連中が多かったな。そういう連中が周りにいたから俺も影響を受けての事かも知れないが。でも、それは今更しょうがない事だろ? お前が将来を計画的に考えて生きていなかったというだけなんだから。それに、そういう刹那的な生き方をしている人も多いだろうし。それでも皆、頑張ってるじゃないか」
「はは。別に文句を言っている訳じゃねーよ。刹那的な生き方も後悔してねーよ。俺は俺なりに楽しく生きたつもりだ。それを俺の意思で終わらそうとしただけだ。それの何が悪いのかって話だ。悪いみたいに言われるのが理解出来ないと言っているだけなんだけどな」
「それはともかくとして、当面の生活を何とかしたいというなら生活保護って選択肢だってあるだろ?」
「当面の生活をなんとかしたいなら既に申請してるって。そんなのは望んでないんだよ。俺ももう50歳だしな。さっき言ったように、生きていく上で必要な金を得る仕事探すのもな。よほど必要とされる何かを持っているなら別だけどよ。世の中、人手不足って聞く事もあるけど、それならホームレスなんてそんなに居ないはずだろ? 要は条件のアンマッチなだけで不足は無いわけだ。安く使える丈夫な人間、安く使える有能な人間が欲しいというだけで」
「何が言いたいんだ? 人を採用する企業側が悪いっていう話か? その為に皆、頑張ってスキルアップをするんだろ? 自腹で講義を受けたり勉強したりとかさ」
「そうじゃねーよ。なんだかんだ言っても競争社会だ。人件費ってのが企業にとっては負担だというのも分かる。安く人を採用するとか、有能な人間を採用するってのも必要だろう。高校から選抜が始まり、大学、社会と競争の中に放り込まれる。競争する事自体が出来ないなら、それなりの待遇だ。まあ競争に負けても、それなりの待遇ではあるだろうが。
しかしよ、なんでこんなに競争しなけりゃいけないんだろうな? どうして、そうまでして生きていかなきゃならないんだろうな?」
「社会主義や共産主義の国家では無いからだろ?」
「まあ、それはそうなんだが。つまりさ、競争するという事は勝者がいて敗者がいる。そしてそれは是とされる。……なあ吾妻、本当に日本人の多くが競争社会を望んでいるのかな?」
「望む望まないに関わらずその社会で生きている、としか言えないな。どうしても嫌というなら、そういった主義の国へ行く自由はあるだろうし。まあ、そうは言っても現実には純粋な社会主義とかの国なんてもう無いだろうから、どこに居ても仕事を探すのは大変なんだろうけどな」
「まあ、そうだな」
「同じ賃金を払うなら、能力の高い方を採用する。出来るだけ安く使う。若しくは高い能力を持つ人を高給で雇って会社に高い利益を還元させる。そうする事で儲けを増やしたり、結果的に製品とかを安く提供出来たリする訳だしな。物々交換の時代ならいざしらず、世界は通貨という物で成り立っている。その金に意味があるんだから、今は正しいと言えるだろ?」
「じゃあ競争社会は必然って事か。それはそれで理解出来るけどな」
吾妻は考える。お互いに50歳。伊豆見が言ったように、その年齢の人間では余程の何かを持っていないと需要というのはあまり無いのかも知れない。50歳を過ぎると生産効率は無いに等しいという話も聞いた事がある。そうだとしても伊豆見と同様、若しくは伊豆見より厳しく辛い境遇であっても頑張って働いている人がいるというのも事実である。その差は何なんだろうかと。これほどになる前に伊豆見は誰かに相談したのだろうか。相談すれば解決出来る訳では無いが、それでも自分の状況を話せる人とかが伊豆見の近くには居なかったのだろうか。居れば状況は変わっていたのではないだろうか。自分の余命が少なくなければ伊豆見の相談相手になれたのではないだろうか。
だが今、これほど伊豆見の話を真剣に聞いている自分はあくまでも終末通知を貰った自分であり、もしも終末通知を貰っていない自分が伊豆見と話していたら今とは異なり、『そんな下らない事を考えていないで仕事探せよ。働けよ。考えが甘い』と、突き放していたかもしれない。突き放すとまではいかずとも、何か出来たとも思えない。実際、伊豆見を説得する事は出来ていないのだし。
「さっきも言ったが、お前は周囲に気を遣い過ぎなんじゃないのか? もっと楽に生きようとすれば生きられるだろ? そうすれば自殺なんて考えは無くなるんじゃないか? そりゃ言動や行動に対して責任を負う必要はあるが、自分1人でどうにかできる事などあまりない。おれだって人を巻き込みながら仕事しているし、そういう物だろ?」
吾妻の言葉に対して伊豆見は明確に返事をしなかった。だが、伊豆見には吾妻の言葉に思う所もあった。きっとそういう道もあるんだろうと、ただただ自分が選べなかった道なのだろうと。
「しかし吾妻、考えてみると生物とは矛盾な存在だよな」
「はあ? 今度は何の話だよ?」
「考えても見ろよ。限られた時間の為に生まれる。滅びるって分かっているのに生まれる。そんな生まれた生物が技術を進化させる。科学の行きつく先なんて、どう考えても人類の要らない世界じゃね?」
「だから何の話だよ。仮に進化したところで、人類の要らない世界なんて100年以上先の世界だろ」
いきなりの話の内容は、伊豆見が現実から逃げていると吾妻には思えた。
「なあ伊豆見。社会ってのはきっと大樹の様な物で、俺達1人1人は葉っぱの存在なんだ。大樹は葉っぱの1枚が落ちたくらいではどうって事無い。俺もそうだしお前もそうだ。それでも、その1枚1枚の葉っぱが大樹を支えている事には変わりないだろ?」
「秋になって葉っぱが全て枯れても大樹そのものが枯れる事は無く、春になったら別の葉が咲き始めるけどな」
伊豆見の返しに、吾妻は例え話が失敗したと思った。
伊豆見は「なあ吾妻、お前に言うのは気が引けるが……」と、言いづらそうに俯き地面を見つめた。
「ん? 何だよ」
「正直な気持ちを言わせて貰えば、俺は終末通知を貰ったおまえが羨ましい。なんせ安楽死なんて選択が出来るんだからな……。俺には森の中で首を括るしか選択肢は無かったしな……」
伊豆見からすれば安楽死という選択ができる吾妻が羨ましいというのは本音であった。だが流石に、今の吾妻に対して言うのは人としてどうかと伊豆見自身も思い、目を合わせないようにして言うのが精一杯であった。
「……そうか。じゃあ折角だから俺も正直に言うよ。生きたいと願い、将来を考え生きている俺が死んで、お前が生き残るというこの状況に不条理を感じるよ。正直、不快な思いはあるよ。だがそれは仕方ない事だ。泣いても、騒いでも、喚いても何の意味も無いのと同じでね」
「吾妻が死にたくないってのは、不老不死になりたいという事なのか?」
「いや不老不死になりたい訳じゃないよ。そうだな。寿命自体は受け入れる。ただし、平均寿命ってやつ位までは生きていたい、ってところだな」
「平均寿命以降は死んでもいいのか? その差は何だ?」
「まあ長生きしすぎてもな、今度は周りの人が死んでいくんじゃ嫌というか。妻の最後を看取りたくない、子供が自分より先に死んで欲しく無い。かといって50歳の今死ぬのは……早すぎる」
「はは。随分と都合がいい話だな」
「はは。まあそうだな」
吾妻は思う。もう充分に話をした。もう何も言う事は無い。
「そろそろ帰るよ。送るけどどうする? つうか家無いんだっけ?」
「ああ、俺の事は気にしないでくれ。吾妻はとっとと家族の元へ帰れよ」
「……そうか。分かった。あ、そうだ、これ」
そういって吾妻は財布の中から1万円札を取り出し伊豆見に差し出した。
「ん? 何だよこれ?」
「餞別だ」
「餞別って……。どちらかと言えば、俺が吾妻に渡すほうかなと思うんだが。そうはいっても何も渡せるものは無いけどな」
「まあ、あっても困らねーだろ? この後、伊豆見が何をどうするのかは知らないが、何にしても何も無いんじゃ何も出来ないだろ? まあ、この一万円は出来ればネガティブな方向に使うんでは無く、アクティブな方向で使って欲しいけどな」
伊豆見は数秒間、吾妻が差し出した1万円札をジッと見つめた後に、おもむろにその1万円札を無言で受け取った。
吾妻はベンチから立ち上がり「じゃあな、伊豆見。元気でな」と、その場から静かに去っていった。伊豆見は去っていく吾妻の背中を、何を思うでもなく見つめていた。その後、伊豆見と吾妻の2人は2度と会う事は無かった。
伊豆見と別れた吾妻は自身の車で自宅マンションへと帰宅した後、マンションから2キロ程離れた札幌市内のとあるレストランで、妻の栄子と娘の由香里との家族3人で食事に出かけた。
吾妻と栄子は終末通知の話を由香里にはしていない。吾妻は伊豆見に対して色々言ってしまった後という事もあり、由香里に対して正直に話さない自分は逃げているという事なのだろうかと自問するも、少なくとも今日は、家族3人揃っての最後の食事の可能性もあるが故に、全てを忘れて楽しく食事をしようと決めた。
吾妻の命は今日を含めて残り3日。安楽死を望むのであれば、翌日の午後5時までに終末ケアセンターに行かなければならない。札幌から室蘭のセンターまでの道程を考えると、明日の午前中までには終末ケアセンターで安楽死をするか否かを決断しなければならない。
実際、家族3人で取る食事はこれが最後となるが、吾妻も栄子も努めていつもと変わらぬように明るく振る舞った。
由香里は今、吾妻達とは離れて暮らしている。とはいえ、吾妻達の住むマンション近くのワンルームマンションで一人暮らしをしているのですぐに会いに行ける距離には居る。今日のように家族3人で食事をする機会も多々あったため、今日も特に何の気なしに吾妻達と食事をしていた。食事中の会話にも特段違和感を感じず、いつもの食事の風景としか思わなかった。
家族3人での食事中、吾妻は驚愕に値する話を由香里から聞かされた。栄子は既に知っていたが、吾妻と由香里との何気ない会話の中、由香里には付き合っている男性が居るという事を初めて聞かされた。それも双方が結婚を意識しているという事だった。吾妻は初めて聞いたそんな話に内心はドキッとしたが、父親の威厳を見せるべく普段通りを装った。
「だったら明日にでもその男を家に連れてこないか? 会ってみたいし」
吾妻はさりげなく由香里にそう言ってはみたものの、その相手の男性が今は出張中で日本には居ないらしく、機会があったら紹介するとの事だった。その言葉を以って、吾妻がその男性と会う機会は2度と無い事が確定した。
吾妻が終末通知の件を由香里に話せば、その男性は出張を切り上げて無理にでも会いに来てくれる可能性はあったが、それでも吾妻は由香里に話す事は憚られた。そんな話をして由香里が悲しむ姿を見たくないという気持もあった。吾妻が思う程には由香里は悲しまないのかもしれないが、それでも吾妻は言う気にはなれなかった。吾妻は由香里に対し「何でも相談しろ」と言い聞かせながら育ててはきたが、いざ自分のそんな話をするとなると言う気にはなれず、そんな事を口にしていた自分に「何でも話せは言いすぎだったな」と自嘲した。
吾妻は由香里の話を聞いて、来る事の無い自分の未来を想像した。
明後日に自分が死ぬ運命というのさえなければ、世の中でよく言われる娘を持つ父親のように「娘と付き合う男の顔など見たくも無い!」などと思ったのかもしれない。しかし自分は明後日にはこの世から消える身である。是非に会ってみたい。いずれは義理の息子になるかもしれないその男性に会って「娘の事をよろしくお願いします」と伝えたい。そんな男性と由香里との間にいずれは子が生まれるのかもしれない。自分にとっての孫という存在が生まれるのかもしれない。
吾妻の脳裏には、栄子と由香里と未だ見ぬ義理の息子に囲まれながら、未だ見ぬ孫を抱く自分の姿が一瞬浮かんだ。そんな決して見る事が出来ない未来図が浮かんだ。浮かぶと同時に目頭が熱くなった気がした。こんな所で涙を流しでもしたら由香里に勘ぐられる恐れもあると思い、吾妻は必死で涙を堪えていた。
吾妻達3人は1時間程の食事を終えるとレストランを後にした。由香里はこの後に友人と約束があると言う事でレストランの前で吾妻達と別れた。もう2度と会えないかもしれない状況での別れであったが、由香里は吾妻の事情を知らないままにその場を去って行った。吾妻は「ばいば~い」と、手を振りながら明るく元気に去って行く1人娘のその姿を、潤んだその目に焼き付けた。
その後、吾妻と栄子は徒歩で自宅マンションへと戻った。吾妻は帰宅早々バスルームへと向かった。湯には浸からずシャワーだけを浴び終えると、髪も乾かないままにベッドの中へと潜り込んだ。残り時間を考えれば、栄子とゆっくりと話でもしながら過ごしたいというのが吾妻の本心ではあったが、今となっては栄子と2人きりの会話に気が重くなるばかりであり、逃げるようにベッドの中へと潜り込んだ。
吾妻は明日決断を迫られる。期限は明日の正午まで。吾妻はベッドの中、うつらうつらしながら最後の決断をする。
翌日、吾妻は正午前に目を覚ました。昨晩は目覚ましをセットせずに寝ていた。今迄正午の時間まで寝ていた記憶はないほどにぐっすりと寝ていた。すっかり日も昇っており、カーテン越しの太陽が熱く感じた。そんな正午近くまで寝ている吾妻を栄子もあえて起こすことはしなかった。
吾妻はおもむろにベッドから上半身を起こす。寝すぎで体がだるく感じ、頭に痛みすら感じた。吾妻はパジャマ姿のまま、昨夜は乾かさずに寝てしまった為にかなり目立つ寝癖もそのままに、寝室を後にリビングダイニングへと向かった。
20畳程の広さのリビングダイニングに吾妻が入ると、「おはよう」とキッチンに立つ栄子の声をかけられた。吾妻は眠い目をこすりながら軽い笑みを浮かべつつ「おはよう」と答えた。
吾妻がダイニングテーブルの椅子へ腰掛けると同時に、栄子は湯気の立つ白いコーヒーカップをダイニングテーブルの上、吾妻の目の前にスッと置いた。
吾妻は何も言わずにテーブルの上に置かれたコーヒーカップを手に取ると早速一口啜った。そして独り言の様に「栄子には迷惑を掛ける事は重々承知の上なんだけどさ」と話し始めると、栄子はキッチンで背中越しに吾妻の言葉を黙って聞いていた。
「安楽死はしない」
吾妻は手に持ったコーヒーカップを見つめながらそんな事を言った。吾妻のその言葉に、栄子は吾妻に聞こえるか聞こえないかという小さい声で「はい」と返事をした。その言葉が賛成だったのか反対だったのかは吾妻には分からなかったが、吾妻は何も言わなかった。
吾妻は伊豆見に対して『自殺は良くない』と言い切った。吾妻はそんな自分が安楽死を選択する訳にはいかないと思った。
安楽死と自殺とでは全く性質が異なる物であるのは分かってはいたし、自分と伊豆見とでは全く事情が異なるのは分かってはいるが、最後まで伊豆見に対して自殺を思い留まるように努めた。そんな自分が安楽死を選択してしまったら伊豆見に対して会わす顔が無い。自分は明日には死んでしまうのだから、会わす顔などそもそも無いと言う事も分かってはいるが、それでも選択する訳にはいかない。つまらないプライドかもしれない。くだらない矜持かもしれない。それでも最後は意地を通すと決めた。
吾妻はふと思う。栄子や由香里が終末通知を貰ったとしたら「安楽死なんて駄目だ」と言えるかと。不安と絶望を抱えたままに最後の日を過して死ぬのが正しいと言えるのだろうかと。いずれにしても見送るその状態に正しい正しくないという答えは出せない。
安楽死を選択しなければ終末日というその日に亡くなる。それは未明かもしれないし昼間かもしれない。夕方かもしれないし夜かもしれない。何日に亡くなる事までは分かっていても、何時に亡くなるとまでは分からないと終末ケアセンターで教えられていた。
その際には悶え苦しんで逝くのかもしれないし、一切苦しまずに逝けるかもしれないという、いわば運だと聞いた。賭けであると聞いた。出来れば苦しまずに逝きたい。苦しむ姿を栄子には見せたくない。
吾妻は栄子に対して「安楽死をしない」と、宣言にも似た事を口にしてしまったものの、栄子に苦しむ姿を見せる可能性があるのであれば安楽死を選択しなかったのは間違いだったのだろうかと、ふとそんな事が脳裏を過った。
吾妻の描いていた未来では、近いうちに会社を退職し、フリーで企業コンサルティングでも始め、働くペースを落とし、月に2度位は妻と旅行にでも行くというような生活スタイルを描いていたが、終末通知が届いた事で全てはご破算となった。
そんな吾妻にも1つ安心している事があった。現在の吾妻はセレブとまでは言えないものの、貧困というには程遠い生活スタイルで日々を過ごしていた。終末通知を貰いさえしなければ、今すぐ無職になったとしてもそれなりに質の高い生活を送れる程の貯蓄や債権等の資産を有していた。その為、余程の散財をしなければ、栄子や由香里は経済的に余裕のある生活が出来るといえ、今後、栄子や由香里が生活に支障をきたす事は無いはずであった。
自分なりにガムシャラに働き、自分や家族の為に投資や貯蓄をしてきた訳であり、家族の為に残せるものがあって良かった。でも、こんな事になるのが分かっていたら、もっとゆったり、のんびりとした人生を過ごしても良かったかもしれない。いや、それでは駄目だっただろう。そうしていなければ、家族に対して残せる物も残せず、残す家族の事が憂いとなり、死ぬに死に切れなかったかもしれない。だから自分の今迄の生き方はきっと間違っていなかったのだろう。
時計の針は正午を過ぎていた。吾妻と栄子の2人はリビングのソファにだらりと座っていた。2人きりの穏やかな時間が流れていく。その2人の目線の先には大きいテレビがあった。そのテレビにはワイドショー番組が映っていたが、2人はテレビを見ているというより、ただただ眺めていた。番組の内容も全く頭に入ってこない。ただただ、BGMとしてテレビは点いていた。
楽しい会話をする訳でも無く、至極平凡といえる時間が流れていく。至福といえる時間が過ぎていく。そして消えていく。
そうした時間を吾妻と栄子が過ごしている内に時計の針は午後2時を過ぎ、その時点で吾妻が終末ケアセンターに於いて安楽死を迎える事は不可能になった。
リビングの時計を見つめながら吾妻は改めて思う。
自分はいつ死ぬのだろうか。明日と言っても未明なのかもしれない。寝ている間に息を引き取るのだろうか。明日の朝を迎えられないのかもしれない。苦しいのだろうか。苦しみで悶えながら息を引き取るのだろうか。不安は募る。
だとしても、栄子に対して申し訳ないという気持ちはあるが、今のこの穏やかな時間を過ごす事を選択した事に後悔はない。
時刻は夕刻も過ぎ、吾妻と栄子は自宅ダイニングのテーブルを囲んで質素な夕食を取った。豪華な食事を並べるのはこの場にはそぐわず、日常のいつもの食事を並べるという栄子の配慮であった。
食事を終えた後、2人はソファに並んで座りワインを酌み交わしていた。すると、栄子が少し申し訳無さそうに口を開いた。
「昨日、伊豆見って人に会いに行ったんでしょ? 何しに行ったのか聞いていい?」
「伊豆見の事? 別に良いけど楽しい話じゃないぞ?」
それでも良いと言う栄子に促され、吾妻は要約して伊豆見との会話を話した。
「伊豆見がこれからどうするのかは分からないけど、あの様子だと説得は出来なかったと思う。ひとそれぞれとは言っても、伊豆見は五体満足の不治の病でも何でも無いのに、なぜそんな簡単に諦めるんだろうな。世の中には知らない事ばかりでさ、探せばいくらでもやりたい事なんて見つかるだろうに。俺には理解出来ないな。まあ伊豆見からしたら、簡単に諦めた訳では無いという事らしいけどね。はは」
いつの間にか時計の針は午前零時を過ぎ、日付が変わっていた。いよいよ吾妻の人生最後の日を迎えた。吾妻と栄子の2人はそれぞれのベッドに潜り、吾妻の最後の夜を静かに迎えた。
ベッドに横たわった吾妻はふと伊豆見の事を思い出す。
伊豆見と別れる際に1万円を餞別と言って手渡した。特に意味があった訳では無いが、願わくばそのお金を旅費にして何処でもいい、いっそ東京にでも行って、例えホームレスとしてでも生きると考え直したりはしてはくれない物だろうか。独りで考え込むのでは無く、そこで誰か話せる人を見つけ、何も恥ずかしがらずに相談してみて欲しい。その際、出来れば悪意のある人間に相談する事が無い事を望みたい。
自分から話す事で相手も話してくれる。そういった事を繰り返し、そこから何かを見つけ、これからを生きて行って欲しい。
あまり考えずに、まずは行動してみてはどうだと。死ぬ事は何時だって出来るが生き続ける事は出来ない。生きてさえいれば良い事があるなんて言えないし、何も見つからないかもしれない。だとしても、生きているという事、それだけで素晴らしい事なのだと信じたい。
今更ではあるが、そんな風に、もっと伊豆見に対して言える事は沢山あったのではないだろうか。
ベッドの中、そんな事を考えている内、吾妻は襲ってくる睡魔に身を委ねた。
翌朝、栄子は目を覚ますと同時に寝返るように横を向き、隣のベッドに眠る吾妻へと視線を送った。吾妻はまだ寝ていた。そう見えた。
栄子はベッドから起き上がり、吾妻が眠るベッド脇に立つと、ジッと吾妻の顔を見つめた。朝とはいえカーテンの閉まった寝室は薄暗く、そんな中でも吾妻の顔から血色が失われている事がすぐに見て取れた。
栄子は体中の力が抜けたかのように、その場に音を立てるようにして膝から崩れ落ちた。そして溢れ出る涙とともに大声で泣き叫んだ。
すでに息絶え、血色の失われた吾妻の顔には笑みが零れていた。その表情は「幸せだった」と語っていた。
伊豆見と吾妻が別れてから既に3日が経過していた。その間、伊豆見は公園で野宿していた。夜は多少冷えるが今が8月という事もあり野宿で過ごす事ができた。とはいえ北海道ではホームレスに対する警察の目が厳しい為、伊豆見は公園の樹木に隠れるようにして眠った。眠ったとはいえダンボールを引いた地面で寝ると体のあちこちが痛む。そんな状況では何度も目が覚めては眠るを繰り返し、充分な睡眠を採る事も叶わなかった。
伊豆見は吾妻と別れた後、すぐにでも目星を付けていた山へと向かい、自ら終末を迎えよう思ってはいたが実行しなかった。
伊豆見が吾妻に見せて貰った終末通知の中に記載されていた終末日は昨日だった。偶然出会った旧友に少なからず世話になった。そのせいもあり、その旧友が終末を迎える前に自分が終末を迎えるという事は、伊豆見の心情として憚られたという理由であった。
この期に及んでそんな事を気にする必要も無いと、そう伊豆見の脳裏を過りはしたものの、これが今の伊豆見にとっての吾妻に対する礼儀と考えた。
本当であれば、自ら終末を迎える等という考えを改める事こそが、吾妻に対しての礼儀という事も分かってはいたが、それはまた別の話と伊豆見は頭の中で切り捨てた。
今現在、吾妻はこの世を去っているはずであったが、吾妻がどのようにして亡くなったかを伊豆見が知る術は無い。
安楽死により亡くなったのか、それとも自然死だったのか。伊豆見は携帯電話を持っていない。そもそも吾妻の電話番号や住所といった連絡先も知らない。終末通知を見せて貰った時、宛先の住所をチラりと見たが、札幌市に住んでいるという事位しか覚えていなかった。
伊豆見は地面から起き上がるとズボンのポケットに手を入れ財布を取り出した。財布の中には千円札が9枚と小銭が少し入っていた。一昨日に吾妻に貰った1万円を使ってコンビニでおにぎり2つを購入した。その残りのお金が財布に入っていた。
今の伊豆見がコンビニで買い物をするには勇気を必要とした。ボサボサの髪と2週間近く剃っていない不精髭、入院時に病院から支給されたタオルで以って体を拭きはしたものの、2週間近くも風呂に入っていなかった。その為、自分では気付かない体臭も発していたであろう事も相まって、入店時にはコンビニの店員からはあからさまに嫌な顔をされた。
伊豆見は入店拒否をされなかっただけでも有難いと思いつつそのまま店に入り、吾妻から貰ったそのお金でおにぎり2つを購入した。その際、1万円札でおにぎり2個だけを購入した事から、更に店員からは嫌な顔をされた。
吾妻から貰った1万円を使う事に伊豆見は躊躇したが、お金を棄てる選択肢がある訳でもなく、伊豆見は申し訳ないという気持ちで使用した。
購入した2個のおにぎりの内、1個は昨日食べた。そして残りの1個はまだ地面に置いてあるコンビニのビニール袋の中に入っていた。
伊豆見はビニール袋から残りの1個のおにぎりを取り出し、包んであったラップを剥がすと直ぐに噛り付いた。時間が経っていたのか少しコメがパサついていたものの、伊豆見は気にする事無く黙々とおにぎりを食べた。そしておにぎりを食べ終えると、体の節々に痛みを感じつつも、今いる公園から数キロ離れた最寄りの電車の駅へと向かって歩きだした。
伊豆見は駅へと向かう途中に見つけた小さめのホームセンターに入った。その店で麻縄とハサミを購入した。そしてそのホームセンターのロゴの入ったビニール袋に入れられた麻縄を手に持ち、再び駅へと向かって歩き出した。
1時間ほど歩いた後、ようやく駅に到着した伊豆見は、到着早々にホームへと滑りこんできた電車に乗り込んだ。
数本の電車に揺られる事約2時間、伊豆見が目的とした駅に電車が到着すると、伊豆見はホームに降り立ち周囲を見渡した。その駅で降りた人は伊豆見1人だけだった。もともと伊豆見が乗った電車にも殆ど人は乗っていなかった。
伊豆見は無人の改札を通り抜け、駅前の古びた自動販売機でペットボトルの水を購入すると、どこへともなく歩きだした。そんな伊豆見の姿を目に留める物は誰もいない。
正午になろうかという時刻、伊豆見は暫く片側1車線の車道沿いを1人黙々と歩いていた。その車道の両脇には人家は1軒も見当たらず、耕作放棄地とも言えそうな雑草生い茂る土地が延々と広がっていた。そんな中、伊豆見はふと畦道とも言える脇道へと逸れた。逸れた脇道の先には小高い欝蒼とした森があった。
駅からここまでの道中、伊豆見は数台の車とはすれ違ったものの、人とは遭遇していない。
水色の綿のシャツにブルーのジーンズと白かったであろう薄汚れたスニーカー。ビニール袋1つだけを片手に持ち、ボサボサの頭に不精髭という伊豆見のその容姿に、そこから数キロ圏内には何にも無いという場所を1人で歩く伊豆見のその姿に、すれ違った車の運転手は異様な物を見る目で一瞬だけ見つめては通り過ぎ、誰もそんな伊豆見に注意を払う物はいなかった。
そして伊豆見は生い茂る雑草の中を進むかのように、畦道を森へと進んで行った。
人気の無い町の人気の無い森。伊豆見は前回もそういった条件で最後の場所を探し、自殺を決行した。だが幸か不幸か、そこに偶然にも人が歩いていたという事で早々に見つかり失敗した。今回はそれを踏まえての場所であり、以前に調べておいた場所ではあったが、場所が遠かったために前回は見送った場所だった。
畦道をまっすぐに進んで到着した鬱蒼としたその森は、農地も無く、人家も無く、人の手の入っていない森、人が来る理由の無い森。
伊豆見は道無き森の道を進み、一切歩みを止める事無く森の奥へ奥へと進んで行く。そして伊豆見の想定通り、森へ入っていく伊豆見の姿を見た人は誰もおらず、森を歩いている人も伊豆見の他には誰もいなかった。
暫く伊豆見が森の中を歩いていると、太い幹に太い枝という理想的な1本の立派な木が目に留まった。伊豆見が歩いてきたその場所は、車道からもかなりの距離が開いており、車道を人が歩いていたとしても全く見つからない場所だった。
伊豆見は早速、手に持っていたビニール袋の中から購入したばかりの20メートルという長さの麻縄を取り出し、その麻縄の片方の端を手に握り、残りの塊状態の麻縄を約3メートルといった高さにある木の枝の向こう側へと思いっきり投げた。投げられた麻縄の塊は楕円を描くようにして枝の向こうへと通り地面に落ちた。
伊豆見は麻縄の両方の端が自分の腰辺りの来るように長さを調整し、余分な長さの麻縄を先ほど購入したばかりのハサミで切り落した。枝に通した麻縄のそれぞれの端を合わせ、紐を2重にした状態で「引き解け結び」という結び方で輪っかを作った。その結び方は紐を引っ張る事で輪っかの大きさが変えられるという結び方で、伊豆見が自身の自殺に備えて調べておいた結び方だった。かなり強い力で引っ張ると結びが解けてしまうという結び方ではあるが、麻縄で以って1人の人間を吊るくらいであればそうそうに解ける心配も無く、簡単な結び方という事で伊豆見が密かに覚えておいた結び方だった。
伊豆見は枝に掛けた麻縄の輪っかに自分の首を通した。そしてゆっくりと腰を下ろすように体重をかけつつ力を抜いてゆく。すると引き解け結びで結ばれた輪っかが徐々に伊豆見の首を締め始める。伊豆見は痛みや苦しみは感じないものの、顔の内側から圧迫されるような感覚を覚えると共に、徐々に視野が狭まり、耳が聞こえなくなっていく。
ようやく終わる約50年の人生。今となっては幸せだとか、不幸だとかはどうでもいい。幸せな事を考えよう。そして幸せな気持ちのまま逝きたい。
伊豆見は自分が木材加工所で順風満帆に働いていた時に『あの頃に戻れたらなあ』と、飲み会の席で同僚が言っていた事をふと思い出した。考えてみれば不思議な話で、単に昔に戻っただけならば今と同じ現在に辿りつく事になるはずなのに、何故あの時は聞き流したんだろうかと。考えてみるに、あの言葉は今の経験と知識を持ったまま戻りたいという、いわゆるチート的な考えなんだなと。
伊豆見はそんな話を思い出し、誰も居ない森の中、今際の際で一人笑った。
伊豆見は薄れ行く意識の中で最後に想う。吾妻はどんな表情で亡くなったのだろうかと、笑っていけただろうかと。そして今、自分はどんな表情だろうかと。笑っているだろうかと。
◇
20XX年『終末管理法』制定。
制定されると同時に、厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は、当局の管理監督の下で、個人に対して、個人の終末日、つまり亡くなる日を通知する、というのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に、本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は、健康体の人物を対象とした、福祉の一貫として位置づけられている。
個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に、厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は、即刻、郵便として全国へと発送される。対象期間は、月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。
また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は、通知葉書を受領した人達へのカウンセリング、そして安楽死の実施という、2つが主な役割とされた。
安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して、飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。
財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か、現金決済のみとされた。
終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し、生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。
遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には、自治体により火葬、埋葬まで行われる。その際は、自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人と同様の扱いである。
終末を通知された人が、自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して、破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで、過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは、終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると、終末日まで拘束される事になる。それ程の強権を発動する事に対して、賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという、福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。
終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。
そして、安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。
2019年09月11日 4版 一部改稿
2019年08月30日 3版 一部改稿
2019年08月23日 2版 諸々改稿
2019年02月28日 初版