8.前世⑤ 親友
全身ずぶ濡れになっていたヒロインは、案の定風邪を引いた。熱による頭痛と寒気に意識が朦朧とする。
早めに寝てしまおうとベッドに腰かけると、急いでいるような少し荒いノックが部屋に響いた。
寮母が来たのだろうと相手を確認せずにドアを開けると、深くフードをかぶり、体型が分からないほどブカブカなローブを来た人物が立っていた。
その風貌に驚いたヒロインが声を上げようとすると、その人物が慌てて彼女の口を塞ぐ。
「突然ごめんなさい! 私よ、あーちゃん」
するりと部屋に入り込み、フードを脱いだ下から現れたのは――ヒロインを詰っていた公爵令嬢だった。
「……えっ? ……えっと……りっちゃん??」
予想外の訪問客に、朦朧としていた意識が覚醒する。
えっ? なんで? どうしてこんなところに?
プチパニックになっているヒロインをよそに、懐かしい渾名を呼ばれた公爵令嬢は、感極まってヒロインに抱きついた。
「さっきはごめんなさい! 頬を思い切り叩いてしまって。治療は受けたと思うけど、痕が残ってしまわないように塗り薬を持ってきたわ……って、顔が真っ赤よ。……熱!? ああ、本当にごめんなさい! 全身水浸しになったせいよね。こっちの飲み薬なら熱冷ましの効果があるはずよ。あっ、でも氷嚢は持って来なかったわ。えっと、えっと……」
「落ち着け」
ヒロインは、早口で謝罪したり動揺したり忙しい公爵令嬢の背中をぽんぽんと叩いてやる。彼女の狼狽えっぷりに、ヒロインは逆に平静を取り戻した。
「うぅっ」
優しい手つきに、公爵令嬢が嗚咽を漏らす。
「うぇぇぇん! あーちゃぁあん!」
「よしよし。分かってるよ」
公爵令嬢様が子どものようにヒロインに縋りついて泣く姿を、一体誰が想像するだろうか。婚約者である王太子殿下だって、本当の彼女の姿なんて知らないだろう。
口調こそ役柄に染まっているようだが、中身は全然変わってないな、とヒロインは彼女の頭を撫でる。
「ひっ、ひっく、ぐす。あの、あの」
公爵令嬢がヒロインの肩に押しつけていた顔を上げる。綺麗な顔がグシャグシャだ。
「深呼吸して。落ち着いてからでいいよ。紅茶でも飲みながら話そう」
ヒロインは公爵令嬢を椅子に座らせると、火魔法を使って瞬時に水を沸騰させる。コンロの火力が弱く時間がかかるので、コツを掴んでからは魔法でお湯を沸かすようになった。
公爵令嬢になった彼女に飲ませるような上等な茶葉ではないが、気持ちを落ち着かせる程度には役立つだろう。カップにこぽこぽと紅茶を注ぎ、彼女に差し出す。
「……ありがとう」
公爵令嬢は、この世界が前世でプレイしていた乙女ゲームであることや、ヒロインと初めて目が合ったあとから身体に異変があったことを話した。ヒロインと同じで、彼女も言動不一致に陥っているようだ。
それならばなぜここに来れたのか、とヒロインは尋ねる。普段『ヒロイン』を嫌悪している『公爵令嬢』なら、絶対に部屋を訪ねることはしないはずだ。
公爵令嬢は彼女の疑問に頷くと、この時間でなければ、相変わらず思うようには動けないと応えた。つまり、
「……なるほど。深夜は、シナリオの範囲外ってこと。だから自由に動ける、と」
「ええ。ストーリーの中に深夜のシーンは無かったなって、私もつい最近気づいたの。何度か試して大丈夫そうだったから、思い切ってあーちゃんのところに来てみたのよ」
「そっか。ありがとう。時間帯で自由が利くようになる、って発想がなくて、試してみようとも思わなかったよ」
「多分、私の方がこの世界をゲームとして認識しているから、出てきた発想なんだと思うわ」
「あー……納得。じゃあ今度は私がりっちゃんのトコ行くね」
ヒロインと公爵令嬢は、一気に前世時代の距離感に戻っていた。
ヒロインは公爵令嬢に貰った熱冷ましの薬を飲むや否や、「温かくしないと駄目よ!」と毛布でぐるぐる巻きにされ、顔だけというか目だけが出ている状態。部屋に入って来たときの公爵令嬢に負けず劣らずの怪しい格好だ。
さすがにこの格好は息苦しいな、とヒロインがもぞもぞ動いていると、公爵令嬢がぎこちなく口を開いた。
「あの……あーちゃん、あのね……」
公爵令嬢が持っていた紅茶のカップを静かに置く。
不安そうな、怯えているような、そんな顔でヒロインを見つめる。
「ん?」
聞き取りづらいので毛布から頭を出す。
公爵令嬢は、俯いて口の中で何か呟いては、深呼吸を繰り返す。
なかなか言葉にできない彼女を急かすことなく、ヒロインはじっと待った。
「……あ、あーちゃんの……その……虐めを……虐め、を…………」
公爵令嬢は拳を固く握り、苦しそうに息を吐く。
「――……指、示、して、るの……私、なの、よ……」
何とか絞り出した、というようなか細い声だった。
相当覚悟がいったのだろう。
ヒロインは、爪の跡が残りそうなほど強く握りしめている拳をほどいてやる。
「――――知ってる」
「!」
公爵令嬢は、弾かれたように顔を上げる。
ヒロインは微笑んでいた。
「ヒロインのライバル――悪役令嬢って役柄で呼ばれてたっけ。りっちゃん、その人だよね?」
「……ええ」
公爵令嬢は今にも泣き出しそうだ。綺麗な顔が歪む。
「『悪役令嬢』がやっていたことなんでしょ? りっちゃんがやりたくてやってるわけじゃないのは分かってるよ」
「……ッ、あ、っちゃ……」
公爵令嬢は、ぼろぼろと大粒の涙を溢れさせた。頬を伝って彼女のドレスに雫が落ちていく。
「りっちゃんは相変わらず泣き虫だねぇ」
意志に反して親友を虐めなければならない状況の、精神的な苦痛は計り知れない。
逆の立場だったら、とっくに心が壊れてしまったのではないかとヒロインは思う。
「りっちゃんとまた会えて嬉しいよ」
それでも彼女は何とかならないかと、折れずにもがいて、もがいて、ここまで来てくれたのだ。感謝しかない。
「……ええ! 私もっ、あーちゃんと会えてすごくすごく嬉しい!!」
公爵令嬢が、やっと笑顔を見せてくれた。
向日葵のような、明るい笑顔を。
*****
身体を取り戻せる時間になると、ヒロインと公爵令嬢は交互にそれぞれの部屋へ行くようになった。
状況報告をしたり、他愛のないお喋りをしたり、時にはこっそり寮を抜け出して闇夜の町へ繰り出したりすることもあった。
「あそこの雑貨屋さん知ってる? 可愛いアクセサリーがあるんだ」
「ううん。知らないわ。私、あまり平民の町には行かせてもらえないの」
「よーし。あそこの店員さんと仲良いから、夜にこっそり開けてもらえないか訊いてみるよ」
「本当!? 楽しみだわ!!」
前世のような親友との時間を過ごす一方、昼間に行われるヒロインへの虐めは過熱した。
『公爵令嬢』の取り巻きに、階段から突き落とされたのだ。
とっさに発動させようとした風魔法は不発に終わり、身体を庇うことも出来ずそのまま階段を転げ落ちた。
強制力はここでも適用されるのかと、足が折れた痛みに歯を食いしばっていると、攻略対象者の一人が通りかかり、ヒロインの足を応急処置してくれた。
それもイベントの一つよ、と心苦しそうに公爵令嬢が話す。
イベントについては覚えている限りヒロインに話したが、正確な日付までは分からなかったのだ。
りっちゃんのせいじゃないのだから自分に何があっても謝らなくていい、とヒロインに釘を刺されている彼女は、謝罪こそ口にしなくなったが、やるせない気持ちでいっぱいだった。
「しっかし、治療魔法ってすごいんだね。その場で折れてたの治ったよ」
暗くなっている空気を変えようと、ヒロインは何でもないように軽く言う。
「……さすがに、普通は治らないわ。『ヒロイン』だからじゃないかしら」
「えっ。なにそれ。妖怪の血でも入ってんの『ヒロイン』って」
「……ふふっ。……よ、妖怪って……っ」
「おお? ツボに入った?」
完全に折れた足は、治癒魔法を使おうと早くて数日はかかるものなのだそうだ。いやほんと、『ヒロイン』って妖怪なんじゃない? それとも魔力量が関係しているのか。……前者かな。
ともかく、やるせない表情をしていた公爵令嬢が笑顔になったので、ヒロインはほっと内心で息をついた。
「――私が、ヒロインじゃなくて良かったわ」
笑い終わった公爵令嬢が、突然ぽつりと呟いた。
「え? りっちゃん、このゲームも大好きだったよね?」
「ええ。でも、やっぱり二次元と三次元って違うもの。『悪役令嬢』でラッキーって感じよ。虐められないし」
「あっ。こら。当事者に向かって何てこと言うんだ」
「うふふっ!」
可愛らしい声で笑う公爵令嬢。
虐めが酷くなろうと、親友との時間があるから耐えられる。この笑顔がずっと続くといい。
「そんなこと言うと、雑貨屋さん連れて行ってあげませーん」
「わわっ。ごめんなさいあーちゃん!」
「あははっ。素直でよろしい!」
ヒロインはまだ知らない。
このとき公爵令嬢が言った「ヒロインじゃなくて良かった」の本当の意味を。