7.前世④ 急転
「あなた、殿下達に付き纏ってご迷惑になると思わないの!?」
ヒロインは全身ずぶ濡れで廊下に座り込んでいた。
目の前の令嬢達に呼び出されたと思ったら、いきなりバケツの水を頭からかけられたのだ。
肌寒い季節にこの状態はだいぶ厳しい。張り付く服がどんどん体温を奪っていく。
「身の程知らずも良いところですわ!!」
こうやって集団で呼び出され、次々と責め立てられるのは何度目だろうか。
男爵令嬢のヒロインが、爵位もスペックも高い攻略対象者達と親しげに話すのが気に入らないらしい。
ヒロインは思う。
自分だって、身体が勝手に動かなければ、忠告通り彼らに近づいたりしないのに、と。
王太子殿下と出会って以来、ヒロインは攻略対象者達と頻繁に接触するようになった。
同時に、こうして令嬢達に囲まれる回数も増えた。
言葉での忠告だけでなく、私物を盗まれたり壊されたりすることもある。
いわゆる虐めだ。
人数が多すぎて誰がやっているのか把握できてはいないが――指示している人間は予測がついている。
仲良くなった友達が心配して庇おうとしてくれることもあったが、巻き込みたくないので今は少し距離を置いている。
何度も会ううちに、次第に悩み事や本音を話してくれるようになった攻略対象者達には申し訳ない気もしたが、ヒロインは余計ないざこざを避けたかったので、徐々に彼らから離れるつもりだった。
が、その意志に反して、どうやっても彼らと関わる状況に陥る。
この前は、受けたこともない授業の教師になぜか用事を言いつけられ、上級生の教室に行くことになった。
嫌な予感がして断ろうとしたが、口から出てきた言葉は「分かりました。先生」である。
本音と建前の建前が口をついたわけでもなく、教師が威圧的に頼んできたわけでもない。
今、勝手に口が動いた……?
よろしくね、と手を振る教師に頷きながらも、ヒロインは内心動揺していた。
耳鳴りのするような焦燥感と、激しく混乱する思考の中で弾き出したのは、一つの仮説。
『強制的なイベント発生』
キャラクターの意志に関係なく、ゲームのシナリオが進行している可能性がある。
上級生との関わりなど校内ではほぼないはずなのに、やたらと同級生以外の攻略対象者と会うのはそのせいかもしれない。
現に、上級生の教室というのは、攻略対象者の一人である先輩がいるクラスだったはずだ。
その仮説に行き当たってから、身体の自由が利かなくなる現象が顕著になった。
今回だって、近づいて来た令嬢達に気づかないふりをして、声を掛けられる前に何気なく逃げることも出来た。
だというのに、『ヒロイン』は言われるがままについて行ったのである。
「そうですわよね! ○○様っ!」
ヒロインが回想に耽っている間も、令嬢達はひたすら罵倒していたらしく、少し息が上がっている。
言いたいことは言い切ったのか、少し離れた位置に立っていた公爵令嬢に同意を求めた。
「ええ。本当に」
公爵令嬢が、口元を扇で隠しながら忌々しそうに同意する。
「あなたのような生徒がいると、学園の者としての品位が疑われますの。慎みなさい」
「でも……っ! 殿下達は身分など気にすることはないと仰ってくださいます!」
――この馬鹿『ヒロイン』! また……!
勝手に話し出す口に、ヒロインが苦々しい気持ちになるのに対して、『ヒロイン』の手は胸の前で組まれ、じわりと涙が浮かんでくる。
「あなたっ……!」
公爵令嬢が持っていた扇を閉じ、バチンッ! と、思い切りヒロインの頬を打った。
令嬢のか弱い力でも、ヒロインの柔らかい頬にくっきりと赤い痣ができるくらいには威力があった。
ついでに口も切ったらしい。微かに鉄の味がする。
ヒロインが頬を押さえ、寒さと痛さで震えていると、
「何をしている!」
諌める声が廊下に反響した。
「でっ、殿下……」
「これは」
令嬢達が瞬時に青ざめる。
死角になっているのによく見つけたな、とヒロインが他人事のように思っていると、王太子殿下が彼女の手を取り、ふわりと優しく立たせた。
彼は濡れ鼠になっているヒロインに脱いだ上着を掛け、慈しむような目で「もう大丈夫だ」と微笑む。
『ヒロイン』は頬を赤らめて「はいっ」と安心したように笑みを浮かべ、羽織った彼の上着を大事そうに掴んだ。
「さて」
ヒロインへの態度とは打って変わり、王太子殿下は令嬢達を睥睨した。
そのプレッシャーに、令嬢達の息が詰まる。
「一人に対して集団で責め立てるのは、品位を貶める行為ではないのかな?」
静かだが、確実に非難する声色で、自らの婚約者に問いかける。
「……わたくし達は、彼女に貴族としてのマナーを教えて差し上げただけですわ!」
「マナーを教えたいだけなら、暴力を振るう必要はないだろう? 他者を慈しむ心のない人間は、王妃に相応しくない。君はいずれ自らの行いを後悔するだろう」
「……ッ、殿下っ! わたくしはっ」
「私はこれで失礼する。彼女を養護室へつれて行かなければ」
王太子殿下は、これ以上言葉を交わす気はないと公爵令嬢の言葉をぴしゃりと遮った。
ヒロインを横抱きに抱え上げ、歩き出す。
立ち尽くす婚約者を置き去りにして。
*****
長い廊下を、少し早足で進んで行く。
「私の婚約者がすまない。君をこんな目に遭わせるなんて……」
ミミズ腫れになったヒロインの頬が痛ましい。
「いいえ。私が未熟者であるせいなのです」
「……辛いのは君なのに、相手を庇おうとするのだな」
王太子殿下は感動したように目を細めると、ヒロインを抱く腕の力を強める。
「……」
ヒロインは公爵令嬢の姿を思い浮かべ、心の中で王太子殿下に語りかける。
王太子殿下。私はそんなに殊勝な心の持ち主じゃありません。
彼女だけが悪いなら、身体が動かないなりに脳内で罵詈雑言を浴びせるくらいしますよ。
それをしないのは、彼女も私と同じ状況にあるのだという確信があるからです。
責めるなんて、出来るわけがない――