37.一難去って…
「あっ、アリス様……? だい、大丈夫なのですか……?」
目の前には心配と戸惑いを浮かべた顔のキャシーがいた。
「……どれくらい寝てた?」
気怠いが、自力で起き上がれたアリスが掠れた声で尋ねる。
「一瞬です。一瞬意識を失って、わたしが抱き起こした今、すぐにお目覚めになられました」
「……そう」
母とはそれなりに時間を過ごした気がしたが、やはりあそこは普通の時間軸から外れた特殊な場所であったのだと実感する。
「心配掛けてごめんね。大丈夫だよ。クリスを助けよう」
顔色がほとんど戻っていないアリスがそう言うので、キャシーは何を馬鹿なことをと憤る。
「なっ、何を言っているんですか!? たしかにほ~んの少し魔力は回復しているようですが、上級魔法を使えるほどの量じゃないですよ!? それにっ」
「ごめんなさい。それでももう決めたから」
アリスは謝りつつもキャシーの言葉を遮って、目の前で横たわるクリスに手をかざす。
クリスの切り傷からは、闇魔法を纏ったおどろおどろしい古代文字の羅列が、顔や手先にまでじわじわと広がっている。
アリスは死の淵にいる彼を呼び戻すべく、受け継いだばかりの聖魔法を発動した。
「……っ」
光魔法とも土魔法とも違う何かが、アリスの身体を巡る。未知の感覚だったが、これが寿命を使ったときの感覚だとすぐに理解した。痛みは感じないものの、"減った"感じがする。
「クリス。帰ってきて」
アリスの呼びかけに応じるように、すぐ変化が表れた。クリスの全身に広がり続けていた術式の動きが鈍り、急速に薄まっていったのだ。あれだけ光魔法で魔力を注ぎ込んでもどうにもできなかった呪いが、目に見えて力を失っている。
「……上手く、いったよね」
呪いの術式は完全に消え、闇魔法の気配も綺麗さっぱり無くなった。クリスの呼吸も安定し、顔に血色が戻ってきた。もう、大丈夫だろう。
助けられた。
助けられたんだ……!
目は覚ましていないが、規則正しい寝息を立てているクリスの頬に手を当て、アリスは涙ぐんだ。伝わってくる体温は温かい。
生きてる。
「……アリス様。今のは……?」
奇跡とも呼べる蘇生劇を目の当たりにしたキャシーは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。説明してやりたいが時間が無いし、確実に怒られそうだ。寿命を使って治したなんて。
「あとでね。それよりフレッド達のところに行かなくちゃ。キャシー、クリスのこと背負える?」
子どもの自分が背負うよりも、キャシーの方が安定するだろう。アリスはぐいっと涙を手の甲で拭い、クリスを優しく抱き起こしてキャシーに頼む。
「ええ。もちろんです」
「お願いね」
さて、窃盗団と戦っているときに感知したあれ。さっきよりも格段に近づいてしまった。せっかくクリスを救えたのに、ゆっくりしている暇は無い。
騎士団は何をやってんの……!?
「アリス様。何故そんなに急いでいるのですか? フレデリック様達が騎士団と合流できたから、この少年はこちらに来たのでは?」
「うん。それはそう思う。だけど、急がないとまずい。厄介なワイバーンがフレッド達のところにどんどん近づいてる」
アリスは全速力で走り出す。足にだけでも身体強化魔法を纏いたいところだが、もうほぼ空なので、次こそぶっ倒れて目覚められなくなる。
「ワイバーンが? 騎士団が討伐しているのでは?」
「うん。騎士が王都に入る前に食い止めてる。でも一匹、取り逃がしたのがここに来たみたい。現に、キャシーも感じてないでしょ?」
「はい……どれくらい近くにいるんですか? さすがのわたしも、集中すれば微かに感じ取れるはずなんですが……」
「すぐそこ。それこそ、フレッド達が逃げていった方向に」
「えぇっ!?」
魔力量が少ないワイバーンだから後回しにしたわけではないはずだ。ワイバーンという魔物自体が民にとっては脅威なのだから。大勢のワイバーンの魔力に紛れたせいで、一体一体の魔力を感じ取るのは至難の業だが、王都に侵入するほど近づいたら肉眼で見える。それにも関わらず、こんな中心地にまで侵入されている。
「騎士を欺いてこんな場所まで入り込めるような、ハァ、ハァ、厄介なワイバーンってことだよ」
ステルスみたいな能力を持ってんのかな。何にせよ変異種の可能性大なんだけど……
魔力切れ寸前の状態で走ってきたアリスは息切れしており、言わずもがなワイバーンと戦う余力は全くない。キャシーも、今ワイバーンを相手するのはさすがに厳しい。
うん、ワイバーン討伐は騎士にまるっと任せて、トンズラするのが最善の道だよね。
「あ、くそ。もう接触してたっ……!」
前方に集まる魔力の集団の動きから察するに、騎士団とワイバーンはすでに交戦中だ。
ワイバーンの魔力がどんなものか知っているから、アリスは感じ分けられるが、普通の個体に比べてかなり魔力量が少ない。一般的な人間の量と変わらないかもしれない。騎士が感知できなかった原因はここにあったようだ。
「アリス様っ! 見えました! あれですね!?」
「うん!」
苦戦してる……?
騎士は部隊が編成できるほどの人数がいて、あの大きさと魔力量のワイバーンなら戦力としては十分に見える。
何故と思ったアリスだったが、騎士団まで数十メートルのところでそれに気づき、急停止する。
「キャシー。私達の分もお願い」
「お安い御用です。アリス様、絶対にもうこれ以上魔法使わないでくださいね!?」
キャシーは、なけなしの魔力を使わず他人に頼んできたアリスに少し成長を感じながらも、きっちりと釘を刺した。
「わ、分かってます……ありがとう」
キャシーに防御魔法を掛けてもらったアリスは、腰を低くしながら礼を言い、また走り出す。
「アリス様の言う、厄介なワイバーンの意味が分かりました」
「ステルス能力か何かだと思ったけど、それに上乗せしてくるとは思わなかったよ……!」
この場所で立ち止まった理由。それは、ここに毒ガスが漂っているからだ。キャシーのおかげで吸い込まずに済んだが、魔法を解けばすぐに毒が回る。動けなくなるか、最悪死ぬ。
通常のワイバーンは牙や爪に強力な毒を持つが、そこを避ければ毒を受ける心配はない。しかし、騎士達と交戦しているワイバーンは、どうやら吐息にも毒が含まれている――変異種だ。ここ一帯の毒ガスは奴が撒き散らしたと見て間違いない。住宅街から少し離れた場所だったのは幸いだが、戦況はかなり不利だ。
現に、近づくにつれはっきり見えてくる騎士の何人かは、動きが悪い。動けている者も今は防御魔法を纏っているようだが、すでに毒ガスを吸い込んでいるかもしれない。
予想以上に最悪の状況。
後方支援をしているはずの衛生兵の姿は見えない。おそらく、中心地までワイバーンの侵入を許すことは無いと考え、王都の入り口で戦闘中の部隊に人員を割いたのだろう。
「ちっ!」
苛立ちと焦りで、アリスからご令嬢らしくない舌打ちが飛び出す。
ここの騎士の中に土属性を持つ者がいても、治癒魔法まで使える者がいるかは分からないし、アリスも、もう魔法は使えない。
――聖魔法以外は。
『幸せにならなきゃ、怒るわよ?』
アリスはギリリと奥歯を噛み締め、フレデリック達の元へ走った。




