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35.狭間



「アリス」


優しい女性の声が、アリスを呼ぶ。


「アリス、起きて」


声に応えるように、アリスの意識がゆっくりと浮上し始める。

目蓋の下で眼球がピクリと少し動いた。


そして、ゆっくりと持ち上がる目蓋。

遊色の翠が露になる。


「……」


余程意識が深いところに落ちていたのか、アリスは目を開けても起き上がることなく、ぼうっと目の前の空間を眺めている。


「お寝坊さんねぇ」


女性がくすくすと笑う。


アリスは身体が重いようで、のろのろと目線だけを声の元に向ける。

その姿を確認したアリスは、目を真ん丸にして見開いた。


「…………母上?」

「まぁ大正解よ! 嬉しい! 覚えていてくれたのね!」


女性――アリスの母クラリスは、アリスによく似た顔(いや、アリスが似ているのだが)をパッと輝かせ、嬉しそうに両手を頬にあてた。可憐な少女のような仕草で、子どもを生んだとは思えないほど可愛らしく、似合っている。


アリスが「覚えているに決まってます」と顔を綻ばせると、「ふぁぁ、わたしの娘が可愛すぎて辛~い!」と悶絶した。アルバートに負けず劣らずの親馬鹿具合だ。


「起きられる?」

「……もう、少し、かかりそうです……」

「魔力が完全に空になったものねぇ。うふふ、ならわたしが抱っこしてあげるわね!」


クラリスは、動けずに寝そべっているアリスを愛おしそうに抱き上げ、膝に乗せる。そのままアリスの髪を撫でたり、頬を撫でたり、ぷにぷにと突ついたり、久しぶりの愛娘を思う存分堪能している。


「あぁ、なんて可愛いのかしら、わたしの娘は。天使? 天使なのかしら?」


嬉しさ全開、親馬鹿全開。そんな言葉がぴったりのクラリス。


クラリスがキャシーと一緒になって、あーでもないこーでもないとアリスのドレスやら靴やらアクセサリーやらをとことん厳選している。どこかの大規模なパーティーでもないのに、表情は真剣そのものだ。

そして、やっと決まった全身コーディネートを屋敷中の皆にお披露目するファッションショーが始まり、皆がお世辞なしに本気で褒めちぎる。

娘を最大限に可愛く着飾って得意げなクラリスと、ちょっと疲れた顔をしながらも可愛い格好にテンションが上がっているアリスを見て、アルバートが「私の妻と娘は世界一可愛いなぁ」と恥ずかしげもなく惚気る。


――そんな光景がふいに浮かんできた。


母が生きていたときに、あった日常。


「……母上」


アリスは、母の温もりを泣きそうなほど嬉しく感じている自分に気づいた。


正直、四歳のときに亡くなった母の記憶は年々薄れてきていた。父やキャシー達のおかげで家族愛に飢えることはなかったし、親友を護ると決めた日からは多忙な日々を送っていて、母を思う時間はほぼ無かったと言っていい。


しかし、領地の子ども達が母親と手を繋いでいたり、お母さんの手伝いをしなきゃと家に帰っていく友達を見たりして感じていた何かは、寂しさだったのだ。


精神年齢的に、母親にべったりする年頃でもなかったので、気づかなかった。

いや、気づかないふりをしていただけかもしれない。


「……母上。……母上、母上、母上っ!!」


母は母であり、誰も代わりにならないのだと痛感する。


「ふふっ。母上はここにいるわよ?」


アリスは年齢のことなど忘れ、思いっきり母に甘える。クラリスはそんな愛娘を愛おしそうに見つめ、きゅっとまた抱き締めた。


「ねぇアリス」

「はい」


クラリスの呼び掛けにアリスが顔を上げると、もじもじと何かを言いたそうにしているクラリス。


「母上じゃなくて……その、ママ、って呼んで欲しいわ」

「えっ。ま、ママですか」


突然の要求に面食らうアリス。


母上そんな言葉知ってたんだ? というか、前々世の小さい頃だって自分の親をそんな風に呼んだことないと思う。記憶が薄れてきてるけど、たしかわたしのお母さんはママって雰囲気じゃなかった。どっちかっていうと「母ちゃん」みたいな感じたったはず。


「ええ。……母上って言うのも素敵なんだけど……ね?」

「えっ、でも……」


何だか恥ずかしい。前々世で余所のお母さんは「○○ちゃんママ」とか呼べたけど、自分の親となると途端に気恥ずかしい。それにこの世界に馴染んだ今のわたしは、貴族の令嬢はママとか言わないよなぁなんて対外的な理由もちょっぴりある。あ、わたしが貴族らしい令嬢かどうかは置いといてください。


「アリス……だめ?」

「ぐっ」


美人はズルいな!? 我が母ながらこんなに綺麗で可愛くていいのか!?

うるうるした瞳で見るのは止めてくれませんかね?

くぉぉ……魔性やで……魔性の女がここにおる……!


「……ママ?」

「きゃあ~~~! 可愛い~~~!!」

「ぐえっ! は、母上っ、じゃないや、ママ! ママ! タンマタンマ! 苦しっ、死ぬっ」


痛いほどに抱き締められて、危うく窒息しそうになった。


二人が暫くそんな他愛ない母娘のやり取りをしていると、やっとアリスは自分の身体を支えられるくらいに回復した。

このままの体勢は悪いと思ったのと、ちょっと恥ずかしくなってきたのとで離れようとしたが、「いやよ。このまま可愛いわたしのアリスを抱っこするの。わたしの至福の時間を奪わないで」と、クラリスがぷんぷん拗ねたので、そのまま膝の上のアリスは継続中だ。


「ところで、ここは天国ですか?」


亡くなったはずのクラリスと、二人以外何もない白い空間。

殺風景であるのに、とても暖かで居心地の良いこの場所を、アリスが天国と思うのも自然なことだった。


「いいえ。わたしの魔力で作った異空間よ。魂だけが居られる特殊な場所」

「ママの魔力で……」


アリスは、母の魔力で作ったからここはこんなにも気持ちが良いのかと納得した。


(きた)るべき日に備えて、アリスにまた会えるようにね。ほら、これを“鍵”にしておいたの」

「あ、これ……」


クラリスの手に載っていたのは、花の髪飾りだった。アリスが前世の記憶を取り戻した五歳の誕生日に、アルバートから譲り受けたクラリスの形見。

あの日から、アリスはこれを御守りとして肌身離さず持っていたのだ。今日は男装していたので、ポケットに入れて持って来ていた。


「ところで、(きた)るべき日って何ですか?」


アリスは首を傾げてクラリスを見上げ、驚く。


クラリスが慈愛に満ちた母の顔ではなく、こちらを見定めようとする人間の顔をしていたからだ。


「今、この時。あなたが、自分の命を掛けて誰かを救おうとしたときに、わたしとあなたが再び逢えるように」


アリスと同じ色の瞳が、こちらを射貫くように見つめる。



「アリス・ナイトレイ。あなたは、聖属性を受け継ぐ覚悟はある?」


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