22.父の想いと娘の我儘
なんとか4月中にもう1話! と思ったら、平成最後になってしまいました……
コンコンコン、とノックの音が響いた。
「アリス、話がしたい。入っても?」
「……父上? ど、どうぞ……」
ファウストが授業を終えて帰ってから、アリスは初めての授業だったから少し疲れたと建前半分本音半分ですぐに自室に引き籠っていた。
机に臥せっていたアリスは慌てて上体を起こし、僅かに乱れていた髪をささっと整える。
入ってきたアルバートは、アリスを見て眉を下げた。
「……泣いていたのかい?」
「え?」
何故父は悲しそうな顔をしているのだろうと疑問に思っていたアリスは、彼の言葉に驚く。
わたしが泣いてるの?
自覚のなかったアリスが放心気味にアルバートを見つめていると、彼はアリスに近寄り、親指で涙の跡をすいっと撫でた。
「ごめんね、アリス」
「……? 何がですか? 父上に謝ってもらうようなことは何もないです」
心当たりのないアリスは、ふるふると首を振った。
「第二王子殿下の婚約者候補の話、嫌だったんだろう? すぐに止めてあげれば良かった」
「……あ」
バレていたのかとアリスは口を引き結ぶ。
アリスが第二王子の婚約者候補として立候補できる資格があると判明してから、彼女の心はどんどん暗くなっていった。
どうしようもなく、前世の最期が想起されてしまうのだ。
ゲームのシナリオという強制力に振り回され、自分の無力さをまざまざと見せつけられたあの最期を。
悪気のないファウストと嬉しそうなキャシーに八つ当たりしたくなかったので無理矢理笑って悟られないようにしていたが、父には隠せていなかったようだ。
「アリスが望むなら、ファウストの言う通りすぐに届けを出して王族へ打診してもいい。ただ、私には第二王子殿下や王族と結婚したいというアリスの意志は見えなかったよ。アリスのことだから、王族との婚姻が我が家のためになると思って黙ってしまったのだろう?」
心を覗かれたかのように言い当てられる。
父上はエスパーか何か? それともわたしが顔に出やすいんだろうか。
「そんなことは気にしなくていいんだよ」
その一言が、アリスの胸に波紋のように広がって、温かなものが染み渡って行く。
アルバートはどこにも焦点の合っていないアリスを黙って見つめ、彼女の頭を撫で続ける。一人で溜め込まないで欲しいと願う彼の手つきはひどく優しく、じわじわとアリスの涙腺は緩んでいき、ぽたり、と一粒の涙が零れた。
「……ッ」
その一粒を追うように、溜めこんでいた涙がアリスの大きな瞳から溢れ出した。
この国は貴族女性が嫁に行くのは当然という価値観が浸透している。どれだけ姉妹が多かろうが、どこかしらに嫁がされ、平民を除いて女が働くと言う選択肢は基本的にはないので、王位も爵位も男子が継ぐ。
女子しか子どもがいない場合はその子に継がせることもでき、法律的には禁止されてはいないが、常識的には親戚から養子をもらうか、才能ある平民の子を養子に取って、男に家を継がせる場合がほとんどだ。
食べ物や生活用品などは、中世ヨーロッパ風の時代観に合わない都合の良いものが揃っているというのに、男性優位という価値観はしっかりと根付いているらしい。むしろ、中世ヨーロッパよりも男性優位かもしれない。この国には女王がいたことすらない。
ファウストは散々アリスに魔導師になれと勧めるが、貴族女性は妻として家で夫を支えるための教養を身につけるものなのだ。
前に参加したあのお茶会でも、どれだけ刺繍を美しく縫い上げることができるか、どれだけ表現豊かな詩を作ることができるか、どれだけ優雅で正確なダンスを踊ることができるかと、母親達は娘の出来を披露して競い合っていた。
他にも所作は勿論、絵、算術、読み書き、家庭の切り盛りなど、貴族女性に必要とされる能力はどこまでも妻としての役目を果たすものだ。
「私はね、アリス。おまえには自分のやりたいことをやって、なりたいものになって欲しいと思っているよ」
そんな価値観で染まり切っている国で、娘に対してやりたいことをやれと言うアルバート。貴族としては少々異端ともとれる言動は、娘を思えば何ら憚られるものではなく、本心だった。
撫でてくる温かい手と慈しむような瞳から、アリスも父が自分をその場凌ぎで宥めるために、上辺だけで言っているわけはないと感じ取っていた。
父上は、いつだってわたしがどう思っているか、どうしたいのか、まずわたしの意見を聞こうと耳を傾けてくれる。
マナーや勉強は厳しいことを言われることもあるけれど、大切にしてくれているって実感できる。
――ああ、幸せだなぁ。
わたし、アルバート・ナイトレイの娘に生まれて来れてよかったなぁ。
「……父上ぇぇっ!」
感極まったアリスはぐすぐすと鼻を啜りながら、アルバートに力いっぱい抱きついた。いつもは十代後半の精神年齢が邪魔をして、自分から甘えに行くことがなかったアリスだったが、涙腺は崩壊してるし胸はいっぱいだしで、抱きつかずにはいられなかった。
アルバートは、ぎゅうぎゅうとしがみついてくる娘を「ふふ。珍しいね。嬉しいなぁ」と、顔を綻ばせながら柔らかく受け止め、彼女の小さい背中を赤子を落ち着かせるときのような愛しさを込めた手で撫でる。
「ファウストとキャシーを怒らないでやっておくれ」
「っ、ぐすっ……も、勿論ですっ」
怒るわけがない。あの二人がアリスのためを思って言ってくれたのは分かっていた。格上どころか王族との結婚となれば、貴族令嬢にとってこれ以上にない誉れである。普通なら舞い上がって喜ぶだろう。この国の価値観としてはアリスが特殊なのだ。
「魔力鑑定結果の届けは保留にしておこう。ほら、涙を拭きなさい」
「はい。我儘言ってごめんなさい」
アルバートが綺麗な白いハンカチを取り出して、アリスの目元を拭ってやる。
「何を言ってるんだ。我儘なんかじゃないよ。こちらとしてはもっとアリスに我儘を言って欲しいくらいだ」
アルバートの優しさに、また泣きそうになる。目も鼻も赤いだろうし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃで汚いし、これ以上酷い顔になりたくないのに。せっかく父と母から貰い受けた美少女顔がこれ以上台無しになるのは避けたい。
「アリスはやってみたいことや、なりたいものはあるかい?」
「やってみたいこと、なりたいもの……」
アルバートに尋ねられ、アリスはファウストが帰る前にしたやり取りを思い返す。
『お嬢、王族との婚姻はひっじょーーに魅力的でしょうが、ちょっとでも魔導師になりたいとか、魔導師団に入団したいとか、俺と戦いたいとか、ありません? どうです?』
『おまえの願望だろ。少し黙っていろ』
アルバートがファウストに沈黙の魔法をかけて黙らせたが、ファウストは声が消えても懲りずに口をパクパクと動かし続けていたので、アルバートはうるさいとばかりにファウストに拳骨を食らわした。
キャシーは呆れた表情で溜息を吐き、アリスはブレない人だな~と苦笑しながら名残惜しそうにするファウストを見送った。
ファウストに言われたからというわけではなく、もともと魔導師に興味はある。すごくある。前世でも魔法はかなり得意だったのだ。生かしてみたい。現実的には、この国の価値観じゃ女性が魔導師として高い地位に就けることはまずないが、その価値観を取り払ったらかなり良い地位まで行けるのではないかとさえ思う。
ただ、アリスがやりたいことは魔導師ではないのだ。
この世界で何よりも成し遂げたいと願うただ一つのこと。
それを叶えるには。
「で、では、お願いがあります。父上」
アリスは背筋をスッと伸ばし、真剣な表情でアルバートを見つめた。
父の言葉をありがたく受け取った結果、頼む気になったお願い。
とはいえ、常識的にはありえないことなので緊張と不安で鼓動が激しく、ドッドッドッと胸ではなく耳元で鳴っているかのような大きな心音が聞こえる。
――お茶会のとき、これとこれは習い事として一切話題に上がらなかったな。当然だけど。
アリスはこくりと唾を飲み込むと、意を決して口を開いた。
「わたし……“乗馬”と“剣”を習いたいです」




